追悼・市川崑監督  映画つれづれ

市川崑監督が、亡くなられた、との報にただただ、驚愕!

享年92歳とのこと。もちろん御高齢だから、こういう日が来ることはあるとは思っていたが、90歳を超えてなお現場で指揮を取られていたので、にわかにし信じがたい。

市川監督と言えば、もちろん本編も素晴らしいが、僕は「市川崑劇場」と銘打っていたテレビドラマ「木枯らし紋次郎」が大好きだった。

小学高学年のころ、テレビで昼間に再放送をしていて、すっかりはまった僕は何日か親に風邪をひいた、とウソをついて学校を休んでしまい、盗み見るようにして見て、興奮したことが忘れられない。

大人になってビデオを見たが、その興奮は色あせなかった。

印象的なカット割、明朝文字のタイトル…本当にカッコよかった。

映画では、ベストは「細雪」だろうか。映像美に圧倒された。

リメイク版「ビルマの竪琴」は劇場で泣いた。

世評的には今一つだったが、個人的には田中絹代の生涯を描いた「映画女優」やSFに挑戦した「火の鳥」「竹取物語」も大好きだった。

「犬神家の一族」では、本家版もリメイク版も劇場で楽しませて頂いた。

幼いころから親しんできた監督さんがまた一人、亡くなってしまった…。

最愛の奥様にして、作品づくりのパートナー、和田夏十さんのところに、旅立たれたのだろうな、と思う。

ご冥福を、心よりお祈り致します。

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アポカリプト  DVD・ビデオレビュー

見た日/2月某日 ★★★★

メル・ギブソン、やるな、お主、という感じである。

公開時、マヤ文明の徹底した再現ということで話題になったし、その表現が史実と違う、いや違わない、という論争もあったので、真面目な映画と思ったらトンデモナイ!

この映画、とてつもなく凄まじい、グロもアリの、超弩級の肉体酷使アクションの大傑作だった。こんなにも画面に引き込まれ、胃がキリキリしながら見たアクション映画は久し振りである。

「痛み」というのは、実はアクション映画の大切な要素だったりする。

実生活もそうだが、飛んだり跳ねたりすれば、肉体に必ず何らかの負荷はかかる。

その「負荷」を、如何に「映画」として見せるか、そこがアクション映画の妙である。そしてその「負荷」が極まったときの「痛み」、これこそがアクション映画の醍醐味でもある。

華麗な蹴りを食らったときの悪役の「痛み」、そして「リアクション」、凄まじいまでのアクションを繰り出したときの男の「悲しみ」…古くはバート・レイノルズ、スティーブ・マックイーン、そしてブルース・リーからジャッキー・チェンに至るまで、そんな興奮を、何度スクリーンから味わったことか。

ジャッキーのように、ケガも当然、という姿勢で肉体の限界に挑む映画群は究極だが、そこまでは行かないにしても、そんな生身の「負荷」の妙を見せてくれるのがアクションの楽しみなのだが、最近はCGばかりで味気ないのも事実だ。

それが、この映画は、恐らくCGも使ってはいるだろうが、全員裸でジャングルをただただ駆け巡るリアルさ、凄まじさに唖然で、マヤ語をしゃべるこだわりも含め、見応えがあった。

メル・ギブソンの監督作「ブレイブハート」「パッション」はいずれも好きな作品だが、前作で描いた「痛み」のリアルさを、今作ではもっと突き詰めた感がある。

劇場公開時は賛否両論ありで、近くの劇場で上映してなかったこともあって見逃したのだが、これまた劇場で鑑賞できなかったことを後悔させる作品だった。


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ラッシュアワー3  DVD・ビデオレビュー

見た日/2月某日 ★★★

僕は、もし、履歴書(んなものは書くことも今後、終世ないだろうが)に尊敬する人物の欄があれば、迷わず「ジャッキー・チェン」と書くほど、成龍様をお慕い申し上げている。

その、映画に対する情熱、愛情、アクションにかける気持ち、そして技術は世界一だ。

CGなどに頼らず、肉体の動きを駆使し、信じられないようなアクションの妙をスクリーンに叩きつける姿は、正に映画黎明期に「肉体の動き」で勝負したハロルド・キートンやチャーリー・チャップリンとも通じるものがある、と思う。

香港まで行って、「酔拳2」を満員の劇場で鑑賞した思い出は、僕の映画人生の中でも感慨深いものがある。英語と広東語両方の字幕、ゲラゲラ笑い、大声を上げながら映画を楽しむ香港の人たち…あれはエキサイティングな体験だった。

そんな大好きなジャッキーだが、年齢を重ねたせいかアクションを抑え、物語性に新たな地平を見出そうとした「奇蹟(ミラクル)」が観客に不評を買って以来、再びアクション一辺倒になって、ファンとしては少々心配した。

「奇蹟」はフランク・カプラの「ポケット一杯の幸福」のリメイクで、ジャッキーが映画に対してどれだけ愛情が深いか、またクラシックの名作もよく勉強し、深く理解していることも伺える作品で、「プロジェクトA」「ポリス・ストーリー」と並ぶ、ジャッキーの傑作だと思う。

さて、そんな「年齢も重ねてちょっと無理している感」が強かったジャッキーが、「レッド・ブロンクス」のアメリカでのヒットを受け、ハリウッドの映画人に請われて進出したのが、この「ラッシュアワー」の第1作だった。

ただ、これでハリウッド第1作、と聞くと、僕らファンにとってはジャッキーのハリウッド進出作として話題になった「バトル・クリーク・ブロー」や「キャノンボール」シリーズは何だったの?と思うのだが、これらは日本やアジアのファン向けで当時、ハリウッド本流はほとんど相手にしてなかったのね、ということがこのときようやく分かる訳だ。

でも、正直、この「ラッシュアワー」シリーズは、長年のジャッキーファンから見ると、少々物足りない。

これは、ハリウッドの目から見れば、だが、往年のジャッキー映画はアクションは凄まじいものの、物語性は少々弱いと思える作品(あくまでハリウッドの目から見れば。でも前述の「奇蹟」「プロジェクトA」などは物語もスバラシイ!)が多いので、ブレット・ラトナー監督は、恐らく「ジャッキーのアクションとハリウッドのコメディセンス、物語性がプラスすれば面白い映画ができる」と考えたのだ。

この着目点はいい、と思う。僕たちもハリウッドの大作の中で暴れまわるジャッキーの映画が見たい。でも、ユニオンが強く、現場での制約が強いハリウッドでは、ジャッキーの個性を生かすことは、正直、難しかったのだ。

そういう意味ではこのシリーズは、1、2ともコメディ・アクションとしてはそこそこの出来ではあるものの、ジャッキーの魅力を十分に引き出したとは言えないものになってしまった。ジャッキーのアクションも腹8分目、というていどだ。

作品は大ヒットし、ジャッキーはこのあともハリウッド作品に続々と主演するが、どれもジャッキー・アクションの魅力を生かしたとは言えない作品ばかりで、中にはCGを使った作品もあったりして、「おいおい」という感じのものもある。

その不満はジャッキー自身も感じていたのだろう。ハリウッド作品に出演しながら、この間、地元香港に戻り、自身の過激アクションの原点とも言える「ポリス・ストーリー」のセルフ・リメイクとも言え、演技的にも深いものに挑戦した、ある意味ではジャッキー映画の集大成でもある「香港国際警察」を製作した。

これはハリウッドでは絶対できない過激アクションのオンパレードで、ストーリー的にはいい意味でハリウッドでの経験も生きているように思えた。僕たちもこの稀有な大傑作を見ることができたのだから、ジャッキーのハリウッド挑戦も無駄ではなかった、という気がする。

さて、前置きが長くなった。この「3」だが、物語的にはギャグも滑りまくり、物語展開も全くひねりも何にもなく、シリーズで一番出来が悪い。が、しかし、アクション的には相変わらずジャッキーとしては腹8分目だが、敵役の真田広之の好演もあって、シリーズで最もいい出来になっている。

真田広之と言えば、かつて千葉真一の一番弟子であり、日本では最高の若手アクション俳優だったのだ。「柳生一族の陰謀」での「お城屋根裏和風ハードル競走」や香港映画「龍の忍者」でのアクションなど、そりゃあ、ジャッキーもビックリ、というほどのスゴイアクションを見せていた。

それが「麻雀放浪記」「道頓堀川」辺りから実にいい演技派となり、アクションはしばらく封印していたのが、「たそがれ清兵衛」でこりゃまた素晴らしい殺陣を見せ、「ラストサムライ」でハリウッドに進出して、いろいろな作品でも顔を見るようになって「すごいなあ」と思っていたら、この作品で往年の切れのいいアクションを見せてくれたので大満足。

「龍の忍者」のとき、ジャッキーと共演してほしいなあ、と思っていた僕の夢が、思わぬ形で実現して驚いた。

で、映画としては星2つなのだが、ジャッキーと真田さんに敬意を表して星1つおまけ。

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母べえ  新作レビュー

見た日/2月某日 ★★★★

「母べえ」というタイトルから、ほのぼのした母物の人情物かとも思う。でも、この映画は違う。叙情性の中に隠れて、山田洋次監督の怒りと情熱がほとばしった、人間ドラマである。

いわゆる「行間」にメッセージやテーマがたくさん詰まっているので、この映画を観終わったとき「これはいろいろな批判もあるだろうな」と思ったが、僕自身は、深く胸の底を突かれた。

何年か前からか、俗な言い方だが、いわゆる右傾化された言論に社会全体がアレルギーをあまり感じなくなった。

それに対して、僕はいい、悪いなどとは言えず、その議論その議論で色々と思うところはあるが、右寄りの論理も、左寄りの論理も「なるほど」と思う部分がある。

でも時折、戦争擁護につながるような論調を新聞やテレビなどで見て「ドキっ」とすることもある。

そんな時代だからこそ、リベラルな考え方で知られる山田洋次監督は、恐らくこの数年感じていたであろう「怒り」の気持ちを、「映画」という形で表現したのが、この「母べえ」はないだろうか。

「日本が軍事国家を形成した」時代に、ただひたすらに、しかしながら、実はしたたかに生き抜いた、市井の人々を描くことで、山田監督はその「怒り」を、静かに、しかし、深く燃え上がらせているように思えた。

だからこそ、様々な情報が交錯し、あらゆる人たちの思想信条もあいまいになっている今、「現代」というフィルターをかけてこの映画を見ると、表面的に漂う純粋なピュアさが少々浮いている、と感じる向きはあるかもしれない。

「浮いている」と感じると「自分に合わない」と思うもの。全体感で嫌になると、いくら中身で親子の愛情が描かれようとも、乗れなくなってしまう人もいるだろう。

また、かつての戦争を描いた作品の影響からか、観客の側に戦争下の庶民生活にひとつのイメージが定着してしまっていて、この映画で描かれる主人公たちの暮らしのディティールに「違和感」を感じる人もいるようだ。

だが、恐らく山田監督はそんなことは百も承知で、表面は静かで穏やかでいて、その実は物凄く挑戦的な映画を発表してきた、と思った。

ネットなどでこの映画のレビューを見ると、先ほどの「違和感」から、こんな批判がある。

「夫が思想犯で逮捕されているのに妻や家族がなぜ近所から批判されないのか」
「夫の留守中に若い男性が出入りしていて周囲は変に思わないのか」
「郵便受けがローマ字なのは戦下なのに変ではないか」などなど。

これに関しても、恐らく山田監督は百も承知だ。

この作品はそもそも実話が元であり、僕は原作は未読だが、原作者のインタビューなどを読むと、恐らくほとんどが実話のようだ。

山田監督は、かなり巧妙な演出をしている。この映画、ピュアなようでいて実はそうではないのだ。そして、説明過ぎているように見えて、説明過ぎてもいない。

実は、今の僕らの思想信条が曖昧なように、どんなに言論を統制されていても、今も昔も、人々の気持ちはそんなに単純なものではなかったはずで、実は現代とそう変わりなかったりする。

「母べえ」が近隣のつきあいに奔走したり、国民学校の代用教員として真面目に勤務する描写を入れることで、母べえが生きるために本音と建前を使い分けながら努力していることが伺える。

確かに若い男性が出入りしていれば陰口のひとつぐらい叩かれたかもしれないが、それはこの映画の本筋ではなく、この家には様々な人が出入りしていて、若い男性の山ちゃんが気を使っている様子も伺える。

主人公の母べえは、ある面したたかでたくましい。夫を愛しながらも、山ちゃんに素直に頼り、自分に愛情を寄せられいると知ると、照れながらも素直にうれしいとも感じる。

でも、それが人間なのだ。「人間は単純じゃない」のだ。いつの時代も、人は怒り、喜び、悲しみ、様々な複雑な感情を日夜持ちながら暮らすものなのである。

これが他の女優が演じたら、もっとその“人間臭さ”が鼻についたのかもしれないが、吉永小百合という、ある意味生身の人を超絶した“映画女優”が演じるからこそ、重みの中にファンタジー的な要素が加わり、ある意味矛盾のある女性像を納得できる存在感のあるものにしていると思う。

父べえも、実はバリバリの左翼主義者という訳ではないようである。自分の信条に照らし合わせて中国との戦争に疑問を持っているだけなのだが、彼は優しいというか無骨なのか、思想転向の上申書は書けても、どうしても言葉の表現などで自分を偽ることはできない。

山田監督の視線は、そんな、普通の暮らしを営もうとする人々を苦しめようとするものには容赦がない。例えば「ぜいたくは敵だ」と街かどで叫ぶ婦人たちの描写は映画全体を見ればオーバーすぎるぐらいカリカチュアされて描かれている。

権力は、一瞬にして人の命を奪う力を持っている。その恐ろしさは、いつの時代にでも、どこの国にでも起こり得ると思う。その中で、人が自分の身を守るように普通の幸せや人との絆を求め、生きていく様を丁寧に描くことで、山田監督は現代に警鐘を鳴らすつもりもあったのだろう。その辺りはストレートに描いている。

そして、ラスト近い現代の部分。恐らくここが山田監督が最も描きたかったところだろう。いきなりの展開で、戸惑う人も多いかもしれないが、母べえの最後の想いこそが、この映画全体を貫くテーマであると思う。

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