佐々部監督を偲んで  佐々部監督の世界



「映画の伝道師になれ」

これは、2009年、僕が山口朝日放送の映画情報番組「シネキング」MCに決まった時、佐々部監督から言われた言葉です。

監督からは「大橋はどうしようもない映画馬鹿だな」とよく言われてましたが、それがメチャクチャ嬉しかったです。監督とは映画談義もよくしました。


クリックすると元のサイズで表示します
(C)大綱引の恋製作委員会


「お前あの映画どう思う?」と聞かれ、感想を言うと大抵否定されてましたが(笑)その映画談義がとても楽しく、この映画ブログにもたびたびコメントを頂いていました。

出会ったきっかけは、2003年「チルソクの夏」の山口県東部での上映活動をお手伝いした時でした。

「下関だけでなく、山口県東部でも盛り上げたい」と、佐々部監督と監督の豊浦高校の先輩で、この映画実現に努力された下関のイベント会社社長、故・松本敬一郎さんが徳山の毎日興業本社を訪れた時が、初めての出会いでした。

松本さんは「チルソクの夏」の劇中で大人になった安君」を演じられた方でもあります。

山口県東部でのキャンペーンなど、いろいろと企画させてもらったのですが、これがのちのち会社を辞めて「映画と向き合う」きっかけになりました。

この時、製作委員会の一翼を担っていた山口放送さんともグッと近くなり、のちのち県内のメディアでお仕事をさせて頂くきっかけにもなったのでした。



初めてお会いした時も、いろいろな映画の話をさせて頂いたことを覚えています。「映画をよく観てますね」と年下の僕に、監督が敬語で話してくださったことが嬉しかったです。

そしてこのすぐあと、「チルソクの夏」の応援を通して知り合った同じ周南地域の仲間たちと「佐々部監督周南応援団」を結成しました。

「カーテンコール」の時は前売り券の販売に全力で取り組み、みんなで協力して数千枚は売ったと思います。

試写会やイベントも企画・開催しました。「四日間の奇蹟」では映画に登場するサヴァン症候群の天才ピアニスト少女の演出の参考にして頂ければと思い、光市在住で、全盲で知的障害を持つ天才ピアニストの方を紹介させて頂きました。



「出口のない海」の時は、仕事そっちのけでお手伝いに夢中になってしまい、なかなか仕事も立ち行かなくなって、思い切って会社を辞めました。その時ちょうど40歳でした。

この時の忘れられない思い出がいくつかあります。

「出口のない海」が映画会社から佐々部監督と市川海老蔵さん主演で製作する、と発表された直後だったと思います。監督を周南市大津島の回天記念館にお連れしたあと、ファミレスで2人で食事した時、監督が「実はまだ監督を引き受けるかどうか悩んでる」と言われました。

「え?どうしてですか?」と尋ねると、監督は何も言わずにカバンから脚本を取り出して、僕に「読んでみろ」と手渡しました。

僕は緊張しながら読み始めましたが、2時間ほどの映画脚本を読むのには結構時間もかかります。その間、監督は黙ってコーヒーをお代わりして飲んでましたが、監督の沈黙がメチャクチャ怖かったことを覚えています。

そして読み終わったことを告げると、監督は「どう思う?」と聞いてきて、僕は素直に感想を言うかどうか本当に悩んだのですが、正直に「ダメだと思います」と答えました。

僕は原作も既読でしたが、脚本は原作の時系列を崩し、原作で主に描いていた現代パートや野球の要素を極力抑え、人間魚雷「回天」の操縦法やどんな風に訓練が行われたのか、に焦点を当てたものでした。他の方が監督すれば面白いものになるかもですが、正直、佐々部監督のヒューマニズムあふれる作風とは少し違う、と感じました。

そのことを素直に言うと、監督は「だろ?だから悩んでるんだ」と言われました。監督的には前半は野球に賭ける青年たちの青春を、後半は過酷な訓練に挑む姿を描き、和製「フルメタル・ジャケット」のような作品したいと言われ、怒られることを覚悟で、この脚本に大胆に手を加えることを山田洋次監督(脚本は山田洋次監督と冨川元文さんの共作)に正直に言ってみる、それがダメなら降りるかも、と仰っていました。

その後、山田洋次監督からは実際に怒られたそうですが(笑)脚本の本筋は崩さず、主人公の1人が回天記念館を訪れる現代パートと、主人公の遺書に監督が記念館で感動した兵士の生の「言葉」を加えることで納得して頂いたそうで、映画は無事完成しました。

DVDの特典映像で、山田監督が「佐々部君に監督してもらったお陰で、凡庸な戦争映画にならず良かった」と褒めているのを観てホッとしたのを覚えています。

僕は、監督から準備段階にも関わらず脚本を読ませて頂いたこと、そして感想を求められたことが何より嬉しかったです。



「出口のない海」では主にロケ地選びをお手伝いし、昭和18年の設定の野球場を見つけさせて頂いたほか、撮影に入るとエキストラの手配・管理や現地での炊き出し・現地調整などをやってました。

撮影が始まって、監督は僕が会社を辞めたことをしばらく知りませんでした。ある日、撮影機材をトラックに運び込んでいたら「お前会社は?」と聞かれ「辞めました」と答えると絶句されてました。

その後、山口県内での撮影もラストに近づいた頃、僕は映画会社の方に呼ばれました。車の中でした。その時、封筒を手渡され、中身を見ると30万円が入っていました。驚く僕に「少ないですが、製作スタッフの一カ月分の給料です。是非受け取ってください」と言われました。正直、妻と子ども3人(プラスお腹の中にもう1人)いるのに次の仕事のあても無かった僕としては大変有り難かったです。

数年後、ある方から「大橋の耳に絶対に入れるな」と監督から言われたという、ある事実を知らされました。それは監督が「出口のない海」製作時、映画会社に「俺のギャラを削っていいから、大橋に50万円払ってやってくれ」と頼み込んだ、ということでした。

僕は「20万円どこ行った?」と思いながら(映画会社は監督のギャラは削らずに、50万円と言われてもそこまで出せないから僕に30万円用意してくれたのだとは思いますが、今となっては真相は判りません(笑))監督の心遣いに男泣きしました。

2009年に周南「絆」映画祭を立ち上げる時も、監督にご尽力を頂き、開催にこぎつけることができました。第1回で「チルソクの夏」「出口のない海」を上映した時は感無量でした。この時監督から「この映画祭はだれもお金儲けしてないのがいい。10回は続よう」とエールを頂きました。

監督には昨年の第10回まで通算5回もゲストとして来てくださいました。監督が「10回は続けよう」と仰ってくださらなかったら、映画祭は終了していたと思います。実は存続が難しくなった決定的なことが何度かありました。

それでも続けられたのは佐々部監督のお陰だと思っています。



しかしこの間、監督と僕との間で決定的な出来事が起こりました。

それは、僕が映画「恋」でプロデューサーを務めさせて頂くことになり、周南「絆」映画祭で、脚本賞・松田優作賞を設立して、その最優秀賞受賞作「百円の恋」の映画化が実現した頃のことです。

僕は「恋」製作にあたって、佐々部監督のパートナーであるプロデューサーUさんに相談しました。Uさんは「たくさんの佐々部作品で手伝ってくれたお礼だよ」と快く手伝ってくださり、佐々部組のスタッフを派遣してくださっただけでなく、撮影現場でもいろいろと支えてくださいました。

この時、僕は監督に正面から断りとご挨拶を入れることを怠ってしまいました。それは、監督には何も言わなくてもわかってくれるだろう、という僕の甘えだったと思います。

そして「百円の恋」が進行する過程でも、松田優作賞を設立し、膨大な脚本を読まなければならなくなった時には監督にいろいろとアドバイスを頂いていたにも関わらず、映画化が進み、山口ロケの準備をしていた時も、ちょうど「恋」の製作時期と重なったこともあって、気まずい感じがして監督に何の報告もしないまま、日々が過ぎて行きました。



その結果、監督から僕の姿勢をきつく咎められました。「お前は人に頼り過ぎている。ただの映画馬鹿であるお前が好きだったのに、今のお前は何だ」と。

それから、監督とは事実上、縁が切れてしまいました。正直「コンチクショウ」とも思いました。「俺も悪いけど、弟子の成長が素直に喜べないのかよ」と。

あとあと聞くと、監督は高校生の頃、「恋」主演の岡田奈々さんの大ファンで、ファンクラブにも入っていたらしく、盟友のUさんが奈々さんと現場でずっと一緒だったことも悔しかったらしいです(笑)そして、「百円の恋」も「名作」って仰ってくださっていたそうです。



その後、山口県で「八重子のハミング」を製作する、と聞きました。製作費を山口県内で調達し、監督自ら「命を賭けて」製作する、と。佐々部監督は地域で映画を創る時、地元での製作費をお願いすることを「皆さんに負担をかけるし、できればやりたくないよね」とよく仰っていたので、僕は「そこまでこの作品に賭けてるんだ」と驚きました。

「八重子のハミング」は原作者の陽信孝先生も佐々部応援団のお1人としてよく存じ上げていました。一度大手映画会社が某有名脚本家と某有名監督で映画化を企画しながら、頓挫したことも知ってました。

当時、監督はこのことを大変に嘆かれ、「陽先生に対し、映画会社からは一言のゴメンもなかった。企画が進まないことはあるけど、楽しみにしていた陽先生の心情を思うと、僕は同じ映画人として申し訳ない」と言われてました。

そこから映画化の目途も何もないのに、もちろんギャラが発生する訳でもないのに、佐々部監督は一気に脚本を書きあげられました。僕はその経緯や概要も伺っていましたが、それは映画化が決まった時よりも何年も前のことで、僕は監督がその間、ずっと映画化に執念を燃やしていたことを知って驚きました。

本来なら僕が県内でのお手伝いの役割の一部でも担わなければならなかったのでしょうが、その当時、僕はすでに「勘当」されてましたので、何もできませんでした。



あとで聞いたのですが、最初からの応援団の仲間であるAさんに、監督から直接電話がかかってきて、周南地域での応援を相談して来られた時に「大橋君に頼まないんですか?」と聞いたら「あいつとは今絶縁してるから」とはっきり仰ったそうです。

僕は何もできないまま、その様子を見守っていましたが、Aさんがものすごく頑張られて、周南地域で病院と葬儀の重要なシーンが実現しました。特に病院での撮影は、Aさんの努力の賜物で、僕が手伝っていたら絶対実現できなかったと思います。劇場の入りもAさんの頑張りで、他地域に比べても良かったようです。

この頃、佐々部応援団の仲間で、監督も娘のように可愛がっていたMさんに「大橋さんと佐々部監督は、私から見れば親子です。子は親に反発し、家出することもあれば言えないこともあるでしょ。親も子には時にきつく当たるものです。親子ゲンカはいつか治まります。2人の間柄はこんなことで壊れるものじゃないです」と言われましたが、当時の僕にはそんな言葉は全く信じられませんでした。

一昨年、周南「絆」映画祭で「八重子のハミング」を上映し、6年ぶりに佐々部監督を迎えることになりました。監督は映画祭に来れば実行委員長である僕と顔を合わせなければならないこと、トークショーの司会も僕がやることも承知したうえで来てくれました。僕は気まずく、メチャクチャ嫌でしたが(笑)

この時来て頂いたのは、Aさんの気持ちに監督が応えられたからですが、Aさんからは「大橋君、大丈夫だから。監督も本当に嫌だったら来ないよ」と仰って頂きました。

実は、Aさんもいろいろと僕のことについて陰で監督にフォローしてくださってました。やはり応援団の仲間で、監督が妹のように可愛がっていたKさんも必死にフォローしてくだっていました。仲間たちに配慮して頂いたことが本当に申し訳ありませんでしたが、映画祭期間中はゲストの数も多く、監督とは普通でありきたりのご挨拶と打ち合わせはしたものの、当時のことは一切話さず、あまり深く接しないまま、トークショーも無事終わって閉幕しました。

あるていどの事情を知る山口県のファンの皆さんは、僕と監督が舞台で楽しそうにトークをしていることにザワついてましたが、まあ、そこは2人とも大人ですから(笑)

そして昨年。監督が仰った「10回は続けよう」の目標を達成した周南「絆」映画祭。佐々部監督をお招きして「種まく旅人〜夢のつぎ木」と10回記念として第1回で上映した「チルソクの夏」を再上映しました。



「チルソクの夏」上映後のトークのあとだったと思います。休憩室に監督が入ってきました。

「お前、第1回のチルソク上映した時、2時間ずっと馬鹿みたいに泣いてたな。今日も泣いてただろ。相変わらずの映画馬鹿だな」

こんな風に「お前」って話してくれたのは、何年ぶりだったでしょうか。「映画馬鹿」と言われたのも。

それから、昔のように映画談義をしまくりました。次回作こともいろいろ喋ってくださって、気がついたら3時間ぐらい話してました。メチャクチャ楽しい時間でした。本当に、何もなかったかのように…。

監督は昔のまんまで接してくれました。これは、AさんやKさんの長年のフォローのお陰だったと思います。

そして映画祭最終日、再びいろいろお話した最後に、これまでのことを詫び、映画「くだまつの三姉妹」で脚本を書いたこと、その作品を観てほしい、ということをお願いしました。監督は笑顔で「いいよ」と仰ってくださり、少し肩の荷が降りた気がしました。

結局、初脚本作を観て頂けなかったので、とても残念です。



「くだまつの三姉妹」予告編はこちらからご覧ください↓
https://vimeo.com/332149977

この時会場にもいたMさんからは「だから親子って言ったでしょ」と言われました。

…でも、それが監督とお会いした最後になってしまいました…

監督が旅立たれた日、なぜか山口県内のマスコミから僕に問合せが殺到し、結果、関係各位と連携して、広報的な役割をさせて頂きました。いろいろあったのに、僕に問合せが来ることが不思議でしたが、これも御縁なのでしょう。

「どき生てれび」で、監督の追悼特集をすることになり、心に湧き上がるいろいろな想いを整理できず、この状態でテレビで喋れないと思い、佐々部組だったある方に電話をしました。するとその方はこう言われました。

「…佐々部ちゃんはね、俺のせいで大橋の人生を狂わしちゃったんじゃないか、てずっと言ってたよ。出口のときに、大橋君会社辞めたじゃない。それをずっと気にかけてたよ…」

「…大橋君が映画を作るって方向に行った時に、映画はそんな甘い世界じゃないって想いがあったんだよ。だからこその叱咤なんだよ。本当に心から心配してたんだよ…」

電話のあと、僕は泣きました。声をあげて。

本当にある意味「親父」だったんだな、と。今もこれを書きながら、思い出して泣いています。

監督が旅立たれたあと、妹さんから「あなたは裏切ってない」「大橋さんらしく進んでください。兄もきっと安心します」との言葉を頂きました。

不肖の「息子」でしたが、僕はこれからも「親父」が言ってくれた「映画の伝道師になれ」を命に刻んで「映画」と向き合いたい、と思います。

最後に「チルソクの夏」のテーマ曲の動画をアップさせて頂きます。作曲された加羽沢美濃さんが監督を偲び、想いを込めて演奏されています。監督はこの曲「チルソクの約束」が大好きでした。




佐々部清監督。

本当にお世話になりました。ごめんなさい。

そして、ありがとうこざいました。

こころから感謝しています。
31




AutoPage最新お知らせ