崖の上のポニョ その1  新作レビュー

見た日/7月某日 ★★★★★

※「崖の上のポニョ」のレビューではありますが、この際、宮崎駿監督について以前から感じていたこと、思っていたことを書いてみました。なので、かなり長くなりましたし、「ポニョ」だけのレビューになっていません。どうもすみません。

宮崎駿監督の作品は、随分前から見ているが、「ミヤザキハヤオ」という名前を最初に明確に意識して見た最初の作品は、「未来少年コナン」だろう。

1978年にNHKで放映されたこのテレビアニメは、確かに傑作で、原作小説も読んだが、原作は暗いお話で、世界観もストーリーもアニメとは全然違っていて、ビックリした覚えがある。

原作はあるものの、アニメは宮崎監督のオリジナルとも言え、そのアニメならではの動きの凄さや、ワクワクするストーリー展開など、ひとつの娯楽作品として当時の他のアニメと比べて群を抜いていた。

それで、そのころ、実は「ルパン三世」第1シリーズの後半は宮崎監督が演出していたこと、かねてからそのレベルの高さに驚いていた「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」の場面設定は宮崎監督が手がけていたこと、さらにさかのぼって、小学生のころに夢中になっていた東映まんが祭りの長編アニメ「太陽の王子ホルスの大冒険」や「長靴をはいた猫」「空飛ぶゆうれい船」は、宮崎監督が主要スタッフとして関わっていたことなどを知って、僕はすっかり「宮崎駿」に入れ込んでいった。

共通するのは、“活劇”の面白さ。宮崎監督が関与した場面は、全て生き生きとしていて、本来のアニメの面白さを感じさせてくれた。

そして翌年、1979年の「ルパン三世 カリオストロの城」、通称「カリ城」である。これは今までの宮崎技術の集大成のような作品で、活劇、ストーリーテリング、どれを持っても極上の娯楽作品だった。

中学3年生だった僕はすっかりこの映画にはまってしまい、映画の上映期間中、お小遣いが続く限り毎週、映画館に通い、時間が許す限り1日に何度も見た。同時上映の「MrBOO!」が面白くなくて、1回目の「カリ城」を見たあと、かなりの苦痛に耐えて再び見る「カリ城」は幸せなひとときだった。最後には、セリフ、音楽全てを覚えてしまい、宴会芸として「ひとりカリオストロの城」ができるまでになってしまった。

そんな僕だからこそ、その後の“宮崎アニメ”の変遷、そして国民的映画への歩みは、ある種感慨と、切なさのようなものがある。「カリ城」で活劇の真骨頂を見せた宮崎監督は、そののち、雑誌「アニメージュ」に漫画を連載する。それが「風の谷のナウシカ」だった。これがまた傑作で、早速コミックスを買ったが、連載途中でアニメ映画となった。

その後は皆さんご存じの通り「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」と来て「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」、そして今回の「崖の上のポニョ」と続く。

「千と千尋の神隠し」は興行収入300億円というから、とてつもない。この作品は、米アカデミー賞も受賞しているのだから、宮崎監督はある意味、黒澤明監督と並び称される、アニメというジャンルを超えた、日本映画界の巨匠になってしまった。

宮崎監督が監督した劇場用長編アニメは、実はわずか10本。正直、「もののけ姫」以降は、それまでの作品とは肌ざわりがかなり異なる。僕は、ほとんどの作品を恐らく初日に劇場で見ているが、ずーっと宮崎アニメを見ていて、僕も大人になったのか、ひねくれたのか、あれだけ大好きだった(はずの)過去の宮崎アニメに、ちょっとした“違和感”を感じるようになった。

それは、「風の谷のナウシカ」における、終末思想と相反する自然への畏敬の念は良しとして、人々の“共同体”への憧れ、そして何より、自分の身体を犠牲にして巨大な虫=自然の暴走を止める、少女の自己犠牲の精神には違和感を感じた。

これは、「ラピュタ」も同様で、パズーとシータがラピュタを守るため、犠牲になろうとするシーンは見直すたびに違和感を覚えてしまう。また、「カリオストロの城」で、かつて過去に命を助けてもらったとは言え、なぜルパンがあそこまで身体を張ってクラリスを助けるのか、見直すたびにその動機が見つからず、戸惑ってしまった。

つまりは、中学、高校、大学、社会人と成長していくなかで、僕自身の思想や歴史感が確立される過程において、宮崎アニメに対する“感性”が変化していったのだ。でも、それは、宮崎監督も同様だったのかもしれない。かつて「活劇」の面白さに満ち満ちていた宮崎アニメは、「千と千尋…」から大きく変わっていく。

宮崎監督は、「もののけ姫」が興行的にも成功したからなのか、ハリウッド的な起承転結を語ることを、「千と千尋…」から、あえて辞めてしまった。アニメ的な動きの面白さを追求する「活劇」も、極力抑える傾向になっていった。

そして、活劇の陰に必ず見えていた終末思想や共同体への憧れが、「千と千尋…」から明らかに変化した。自然に対する畏敬の念だけではなく、現代文明に侵されて人も自然も風土も病んでしまい、古来から日本の精神世界を支えてきた神様たちさえ病んでいる中、人間はどう希望を持てばいいのか。どう「自己」を確立するべきなのか。決して答えは明らかにせず、模索しているかのような「物語」がそこには渦巻いていた。

その2に続く・・・・

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