立川談志の孫弟子(談志の弟子の弟子)の中で、兄弟子こしらと共に初めて真打ちになった立川志ら乃が初めて出した本。
立川流には、自分達で落語会を開き、それを自分の師匠に見てもらって真打ち昇進の判断をしてもらう真打ちトライアルというものがある。談志が落語協会を脱会してからはこれが立川流の通例となっている(本がよく書けていたから真打ちになってよし、という困った例外もあり)。志ら乃はこのトライアルに過去2回失敗している。3回目の挑戦は去年。同じ志らく一門の3人(こしら、志らら、らく朝)と共に半年掛けて全6回開催した合同トライアル。自分は6回中3回見ている。6回目で、落語をやり、客の投票と師匠の点数の合計を発表。そして、師匠との価値観共有テストなどを得て総評。そして、こしら、志ら乃の2人同時昇進が決まった。昇進の発表は、師匠志らくが、「2人を真打ちにします!」と、高らかに宣言したのではなく、「じゃ、2人共でいいよ・・・」みたいな感じでさらっと言ってしまったので、会場が一瞬戸惑っていたのを覚えている。自分は、こしらも志ら乃も好きなので、2人共昇進で良かったと思っていたが、舞台上の志ら乃は浮かない顔をしていた。
この本にはその時の心境、これからの自分、談志無き後のこれからの立川流について書かれている。
そして、談志が残した言葉、「落語は人間の業の肯定」、「伝統を現代に」、「江戸の風」、とは何なのか、志ら乃なりに分析している。
志らくとの対談の中で出て来た「人(にん)に合う」という感覚も興味深かった。
個人的には、兄弟子談笑との対談も良かった。今は人気者の談笑だが、二つ目時代は、その時はウケていても次の集客になかなかつながらなかったとのこと。その時の葛藤には共感するものがあった。
読み終えて、今後の落語界がどうなるかは分からないが、志ら乃を含め、活きの良い若手が何人もいる立川流は大丈夫だと確信した。
そして、一番感銘を受けたのが次の一文。
「家元(談志)はボランティアを嫌ったが、ボランティアという行為そのものよりも、その行為を他人に強要するところが気にくわなかったのだと思う。募金を募っている人に向かって「自分で働いて金をやればいいじゃないか」と言ったという。つまり「そういうものはこっそりやれ」というのだ。そういう行為をしていることに対しての「テレ」がないことが、嫌なのだ」
自分は、あの人にこんな良いことをしてあげたとか、こんな風に褒められたとかいうことを堂々と自慢したりブログに書いたりする人に違和感があったのだが、それに何だったのかがはっきりした。「テレ」、「恥じらい」がない。「みっともない」という感覚がない。自画自賛を恥と思わない人達だったのだ。
自分は、「テレ」を持って生きてゆこうと思う。
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「今日の銀シャリ」
朝
シーチキンとタマネギの冷製パスタ
コーヒー
昼
カップメン(ピリ辛ラー油ラーメン)
弁当(のり弁)
麦茶
夜
茹でキャベツのハーブビネガーかけ
スパゲティ
スパゲティは、茹でキャベツの残った汁に入れて食べる。