実家を出て11年になった。
今年で10年だと思っていたが、よくよく数えたら11年経っていた。
実家の植木屋を何となく手伝いながら音楽活動を続けていたが、仕事でぎっくり腰を繰り返しているうちにとうとうヘルニアになってしまったことや、もっとライブ活動を充実したいという思いが募って実家を出る決意をした。田舎の閉鎖的な空気に嫌気がさしていたというのもある。
フォークリフトの資格を取り、倉庫の仕事が多い船橋あたりの部屋をネットで探し、快速が停まらない駅の周辺の部屋なら安いだろうという理由で東船橋のアパートに決めた。
少しずつ荷物を運び、仕事も決めないまま引っ越したのが2006年の12月30日。すぐに仕事を決めなくてはと思いつつ、1人暮らしが楽しくてついつい後回しにしてしまい、結局決まったのは3週間後。
最初の倉庫は、西船橋から送迎バスが出ている倉庫にパート社員として入社。フォークの教習所ではカウンターフォークしか乗っていなかったのに初日からリーチフォークに乗らされてあたふた。でも、それで乗り方はかなり覚えた。そこは残業バリバリの現場で、稼ぎたい人にとっては良い現場なのだろうが、自分は仕事よりも音楽活動を充実させたかったのでだんだんと疲労が溜まり、これはいかんと思って9ヶ月で辞めた。入った時は、どんなに辛くても1年は辞めないと心に誓っていたのだが。
次の倉庫は派遣社員として入った。自転車通勤で、時給はそれほどでもなかったが、給料から引かれるのは所得税だけで年金などを無視出来たのがありがたかった。そこは気に入っていて辞めるつもりはなかったが先方の都合により8ヶ月で契約終了。
次の倉庫は派遣会社の紹介で市川塩浜の倉庫。入ってはみたものの、思ったより腰に負担のかかる作業が多く、ヘルニア持ちには怖い現場だったので1ヶ月で辞めた。
長期の予定で入った現場を1ヶ月で辞めてしまい、また同じ派遣会社の世話になるのは申し訳なかったので別の派遣会社に登録し、次に入ったのは衣料品を扱う倉庫。そこはきつい人間(主に女性)が多くて4日目に辞めたくなったのだが我慢して1年働いた(ここで嶋田陽平と数ヶ月一緒に働く)。
その次はなかなか決まらず、あちこちの派遣会社に登録してやっと決まったのが夜勤の印刷工場。そこもきつい人間が多かったのと、シフトの話で入ったのに曜日固定でなければ困ると言われ、それでは自分も困るので2ヶ月で辞めた。この現場に決まるまでが大変だったので辞めるのが怖かったりもしたのだが、世話になっているライブハウスのマスター(KnockのG克さん)に、「デメリットの多い現場にいても意味はない」と言われ辞めることを決意。
そこからまた少しブランクがあり、スポットの軽作業の派遣社員として1日だけ働いたり、スポットのフォークマンとして3日とか1週間とか働いたりもしたが、結局自分で探して2010年の3月にまたパート社員として今の倉庫に入った。
それから、「まあいいか」で7年半以上も同じ倉庫で働いている。辞める予定はない。休みは曜日固定だが、有給は好きに使えるので音楽活動に対する支障はあまりない。
そんな11年だった。
音楽活動の幅は広げられたが、状況はあまり変わらない。思ったほどの出来事もなかった。それでも実家を出て良かったと思う。帰るつもりはない。
11年前、仕事が決まっていない状況で曇りの東船橋の街を自転車で散策していた時の不安と自由な気持ちが入り混じっていた感覚は一生忘れないだろう。