奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2019/5/24

48-1称徳天皇  天皇陵巡り
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 光明皇太后が亡くなり、藤原仲麻呂はますます自分だけへの権力集中をはかった結果、孝謙上皇や藤原氏の他の家の人々からも反感を買い、焦った仲麻呂は764年に恵美押勝の乱をおこし、予想外にあっけなく敗れ、琵琶湖の西の高島で斬殺されました。
 (いくら準皇親化した藤原氏であっても、しょせんは臣下、皇権にとって替わろうとしたら滅びることを、藤原一族は身を持って経験し、以後良き教訓としたようですね。)
 こうして恵美押勝の乱を平定した孝謙上皇は、第47代淳仁天皇を廃して、自分は重祚(チョウソ)して第48代称徳天皇(ショウトク)(718〜770)(在位764〜770)となりました。
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 日本で2回天皇の位についたのは(重祚)、皇極・斉明と孝謙・称徳の2人だけで、いずれも女帝です。
皇極・斉明の陵もそうでしたが、陵の制札や陵印にはいずれも後の方の名称(斉明と称徳)の名前しかありませんでした。
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 称徳天皇の治世において、なんといっても有名なのは、独身であった称徳女帝の病気を治してくれた、しかも私が羨ましく思うような一物を持っていた道鏡との仲です。
政敵の実力者をどんどん潰していった持統天皇から藤原仲麻呂までの為、政界の実力者不足もあってか、道鏡はどんどんその地位を上げて行ってます。
後ろ盾になっていた父や母(聖武天皇と光明皇后)が死に、支えてくれていた藤原一族の頭の反乱もあって、一人女で天皇の地位を守って行く道は、結局男道鏡に頼ることしか出来なかったのか・・・。
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 最後、「道鏡が王位につけば天下が泰平になる」という神託までもらえたのは、二人の周りに群がった人々の忖度の結果かもしれません。
 しかし、この証明に派遣された和気清麻呂(ワケノキヨマロ)が、宇佐八幡宮から「臣下を君主には出来ない、皇統の人をたてよ」という反対の神託を貰ってきたので、道鏡が皇位につく野望は潰えました。
 清麻呂が宇佐八幡宮に行く道中を猪が助けたので、亥年の今年は初詣でにぎわい、私も本殿には行けなかった京都護王神社の境内に立つ清麻呂です。
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 こうして、第40代天武天皇から始まった皇親政治は、第41代持統天皇が息子や直系の孫を天皇位につけようと、ライバルである皇統を次々と葬り、その分藤原一族が準皇親化し力が強くなりましたが、第45代聖武天皇が男の子に恵まれなかったために、天武系はこの第48代称徳女帝で途絶えてしまうという結果になりました。
 孝謙・称徳と2回天皇位についた未婚の女帝は、770年に亡くなり、この高野陵(タカノノミササギ)(奈良市山陵町)に葬られています。
 昔NHKのドラマで、この女帝を石原さとみがやったと思うので、書いてる時になんか石原さとみのコマーシャルが浮かんで困りました。

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