2014/7/29
奈留島百人一首98 奈留島百人一首

98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮は
みそぎぞ夏の しるしなりける
従二位家隆(ジュウニイイエタカ)(1158〜1237)
「楢の葉に風がそよげば、この(ならの小川)夕暮はもう秋を思わせる涼しさですが、川のほとりで行われている六月ばらえ(ミナツキバラエ)は、まだ今は夏だというしるしですよ」
(ならの小川)は、私特有の思い込みで、奈良県にある小川と思っていたので、高校生の時のデートで上賀茂神社に行った時に、そこに流れている小川が(ならの小川)であることを文学部志望の彼女に言われて、少々慌てて体裁を取り繕ったことを思い出します。
家隆は定家と並ぶ新古今時代の代表歌人、97番定家・98番家隆と並べたのは、3番柿本人麻呂・4番山部赤人の二歌仙と対応するように、生意気にも並べたとも言われています。

98. 風そよぐ 奈留の祭りの 夕暮は
花火ぞ夏の しるしなりける
風そよぐ・な・の・の・夕暮は・ぞ・夏の・しるしなりける 24字 同じ
8月14日は奈留町の夏祭り、この頃はお盆の帰省客も多く、若者や見知らぬ人も増えて、奈留島もにぎやかになっていますし、手作り屋台や演芸などでそれなりに盛り上がる1日です。
今年は恒例のペーロン大会が中止と聞いてますので、やや気がかりですが。

夏祭りの最後を飾るのは、やっぱり花火!
まだまだ夏ですが、花火が終わるとなんとなく夏が終わったような気がして・・・。
花火は夏のしるしではなく、夏の終わりのしるしなのかもしれません。
返事
さんまさん:短い時間であわただしくてすみませんでした。
不動産関係にしては、優しそうな感じなので良かったです。
花水木さん:「こがれつつ」を「こげれつつ」と替えたのは、
なかなかと自画自賛していたのですが、すみません。
和みさん:写真も1月のことの話で、夏は五島でも牡蠣はありません、
季節外れの歌になって、すみません。
大雪男さん:山に入る大雪男さんは、船が苦手でもないですよね。
すみません、あと二つですので、お付き合いください。
2014/7/23
奈留島百人一首97 奈留島百人一首

97. 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家(ゴンチュウナゴンサダイエ)(1162〜1241)
「約束しているのに訪ねてこない恋人をずっと待っている私は、淡路島の北の端の海岸松帆の浦で焼いている藻塩のように、身もこがれる思いでいるのですよ。」
(藻塩焼き)は昔の製塩法なんだそうで、今まで藻塩のことを知らなかった私は、(焼くやも塩の)と「藻」を単なる助動詞の「も」として詠んでいた愚か者でした。
いよいよ小倉百人一首を編んだ藤原定家(普通はテイカと呼んでいましたが)本人の出番となりましたが、他にもいい歌があるのに本人が選んだこの歌、私にはそんなに心に残りませんので、やっぱり選び方になんか裏があるのでしょうね。
「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮」
有名なこれを選んでくれたなら、私の替え歌ももっと奈留島にふさわしい歌に替えられたのに・・・。

97. 焼く人が 上手くできない 炭の火に
焼くやも牡蠣の 身もこげれつつ
人・に・焼くやも・の・身もこ・れつつ 14字 同じ
五島では冬には「かき小屋」が出来て、外でも食べることも出来ますが、家でも買った牡蠣をガスの火で焼いて食べることもありますし、このように病院の皆さんとドラム缶の中の炭火で焼いて食べる時もあるので、牡蠣の殻をこじ開ける道具も家にはそろっています。
ただ、この替え歌自体はもひとつ心にも残らない出来栄えで、定家さんも炭火のように怒ってるでしょうね。
返事
大雪男さん:怖くて山の奥の方へ入って行った為なのですかね。
船に乗れなかったら、そもそも五島を目指さなかったと思いますが。
花水木さん:まさに十年前五十年前に予想もしなかった人生をおくってるんでしょうね。
大学入学・結婚・奈留島赴任が私の人生の転換点だと思いますが、いずれもよき転換点だったと思ってますので、
花水木さんも今回のことがよき転換点なんですよ。
曽良は壱岐で死んでますが、芭蕉は大阪より西には行ってないと思いますよ。
和さん:後の祭り、露店がないとはちょっと寂しい気がしますね。
2014/7/19
八坂神社 富江

子供からのメールや家内からの電話で、京都では祇園祭の真っ最中であることを思い出しましたが、祇園祭も10年観てないと、もうはるか昔の話の様な感じで実感がわきません。
京都の祇園祭、確か私の高校の頃に後の祭りが組み込まれて統一の巡行になってしまいましたが、今年からまた後の祭りの巡行が分離されるようで、7月24日?巡行?、私の家の町内は後の祭りの鉾に近いのと、先の巡行が丁度1学期の期末試験に重なったこともあって、少しマイナーですが後の祭りの方がゆっくり見られた記憶があります。
そんな話も50年前の話になってしまいましたが、富江にも祇園さんかどうかは知りませんが、八坂神社がありました。

前回紹介の歴代富江藩主墓所の山の裏側に鳥居があって、急な石段なので年とったフークはおいておいて登ると又鳥居、その上に小さな社がありました。
もちろんきれいに草は刈られていました。

古い写真では、鳥居の柱の横に芭蕉の句碑が写ってましたが、それがありません。
いつの間にか?、石段の横に移動させられたようですね。

また横になっています
6代運龍(ユキタツ)は、江戸でも広い人脈を持ち、文人でもあったなかなか賢い殿様だったようで、この句碑は運龍公の書による芭蕉の句碑、
春もやや けしきととのふ 月と梅
何が書いてあるか全然読めませんが、こんなところにも古い句碑があるとは、一部の人とは思いますが、富江の文化レベルもなかなかのものだし、江戸時代から芭蕉はスーパースターだったんですね。

八坂神社の鳥居の前に座って、しばしフークと休憩。
眼前には田んぼが広がり、ここにいる不思議さをかみしめています。
それとは別に、やっぱり福江島は奈留島とは違って農業ですね。
返事
さんまさん:台風はまだ大丈夫のようです、帰りが少し心配。
大雪男さん:八坂神社の山の向こうが繁敷だと思います。
なるほど、隠れてひっそり暮らすには、農業より漁業の方がむいていますね。
花水木さん:お医者さんという感じでもないですし、身近でもないですが、
ブログの縁もなかなか強力だと思いますので、よろしく。
2014/7/15
瑞雲寺 富江

富江には以前紹介したバプテスト教会以外、キリスト教系の教会は山の中にある繁敷教会のみ、その代わりにお寺はたくさん有ります。
中学校の向こうの畑の中をフークと散歩していくと、山の麓に曹洞宗の禅寺瑞雲寺があります。

曹洞宗なのになぜか五島霊場88ヶ所の第75番札所です。
この本堂の洞明山の額は、徳川一門の津山10万石松平家から養子に迎えられた7代藩主盛貫(モリツラ)の書らしいです。

本堂の左手奥には、富江藩の歴代藩主の墓所があります。

いろいろあって五島藩から分離独立した富江藩の初代藩主の墓が中央に大きくあります。
これが五島22代盛利公の三男である、初代富江藩主五島盛清(モリキヨ)(1628〜1679・在位1661〜1674)と側室の墓です。

前回の陣屋石倉などを作って、富江藩中興の祖と言われた運龍(ユキタツ)(1780〜1844・在位1789〜1844)墓はこれです。
富江藩主7代までは江戸で死亡して、東京駒込の吉祥寺に葬られているので、遺体の入った墓は8代目からです。

この墓のどちらなのか看板の絵と違うので判別できませんが、どちらかが10代聡千代(キクチヨ)(1882〜1969)の墓です。。
88歳で昭和44年に亡くなっていますが、富江町の町長をしていて富江町名誉町民第1号でもありました。
なんといっても町立病院として富江病院を1953年(昭和28年)4月20日に創設した人ですので、ちゃんとお参りをしておきました。
返事
大雪男さん:用水路を見に行く人ほどは危険な所まで行っていません。
和みさん:一昨年は奈留島でもスズメバチの巣退治をたくさんしたそうですが、
意外と台風は来ませんでした。
私が五島にいる間は、台風は来ないのかもしれません。
花水木さん:私で役に立つ質問があるならメールしてください。
和さん:竜巻は別として、日本の家は昔と違って風には強くなったようですね。
子供の時、京都でも、トタンが空高く飛んでいるのをよく見ていましたよ。
2014/7/12
台風8号 富江

8日火曜日、大型の台風8号が五島列島直撃の予報なので、富江湾の船も台風つなぎになっていましたが、まだ静か。

富江病院も台風の準備に入りました。
西側の病室窓には西日が差し込むために日よけが下がっていますが、それも今は撤去され、なんかすっきりした外観の富江病院です。

9日水曜日、昼に官舎に帰ってフークを庭に出しましたが、風が少し強くなってきてます。
フークはまだ台風を感じてないのか、ボーとたたずんでいるだけ。

職員も早めに帰宅の指示も出ましたが、夕方うれしそうにも車で海辺を見物に、さすがに波は高くなって道路にも波が上がってきています。
こんなことをして素人がけがをして新聞ネタにでもなったらと、怖さもあったので帰りました。

10日木曜日、朝のニュースでは波は7m、昨日の予報は10mだったので、夜中の間に進路もそれて、勢力も落ちたようですが、毎週木曜日の奈留島外来手伝いは欠航により中止。

午後には日差しも出て、奈留島にも行けるぐらいか、病室窓からの海も波はなくなっていました。

11日金曜日、来なかった新聞が、水・木・金と3日分まとめて入って、台風8号はそれほど被害はなく(奈留医療センターの外科外来が休診のみ)五島列島を通過したようです。
返事
大雪男さん:文句を言われそうなぐらい、陣屋石倉入り口は分かりにくいですよ。
和さん:富江中学も45年間で十分の一ですか!
2014/7/8
陣屋石倉 富江

富江病院から道(国道)を挟んで向かいにある富江中学校、現在は1学年30名程ですが、その運動場はやっぱりかなり広いです。
富江藩は三千石で大名ではないので、城は持てません。
その代わりの陣屋の跡が、現在の富江中学校の運動場よりひとまわり大きい規模であったようです。
その跡で今も残るのは陣屋石倉(ジンヤイシグラ)で、この運動場の向こうに写ってるような写ってないような。

なんの案内看板もなく、家の陰にあって周りからもあまり見えず、町の中心の交差点にも近いのに、ひっそりと目立たなくあった陣屋石倉、フークとの散歩の圏内にあったのに、民家の間の狭い道を通って畦道の様な所を通って行くまで気が付きませんでした。

富江藩中興の祖と言われる6代藩主伊賀守運龍(イガノカミユキタツ)(1780〜1844・在位1789〜1844)が非常時に備えて作らせたと言われるこの陣屋石倉、インカの石組にも負けていません。

幅25m・長さ9m・高さ4mで、壁の厚さは1.15mの富江産玄武岩の切石で作られた立派な石の倉です。
天井は藁ぶき?だったのか、梁ももうなくなっていますが、200年以上経ってもびくともしない(一部壊れているのが写ってますが)ぐらいきれいにしっかり作られています。

正面に2か所の高さ2mの入り口から中に入ると、結構広い空間が広がり、裏面には3か所の高さ50p・幅85pの高窓があります。
もっと宣伝して、陣屋石倉の入り口を整備したら、立派な名所になるのにもったいないです。

玄武岩には小さな穴がたくさん開いていて細工しやすいのか、それで丈夫なのは不思議ですが、せっかく家を持っているカタツムリが、何故かその穴を家にしてへばりついていました。
現在のところ陣屋石倉を積極的に利用しているのはカタツムリだけでした。
返事
和みさん:なかなか天保をアマヤスとは読めませんよね。
和さん:特に3枚目の写真、畑の中に残る側壁、我ながらいいなあと思ってます。
大雪男さん:溶岩の玄武岩(火山礫)がまたいいんですよ。
和みさん:私より先輩でしたね、失礼していました。
管理人は、こうして女の人の歳がばれていくのを喜んでいるので、うれしい限りです。
花水木さん:1日早い誕生日おめでとうございます。
次のクレソン畑を楽しみに待っています。
2014/7/4
石の小屋 富江

富江をブラブラと自転車で散策すると、そもそもが富江のほとんどは溶岩流の上に出来た町なので、溶岩(火山礫)?を使った石垣がどこにでも見られました。
農家のちょっと古い立派な家は、マチュピチュかと思うぐらい、こんな立派な石垣を持っています。

石造りの納屋やかんころ棚も見られますし、今もなんとかこのように使われている物や、

畑の中に、石の小屋跡の三角形の側壁の片方だけがポツンと残っているのも、なんか絵になりますね。
使われている石は、どれも玄武岩?、あちこちに転がっている溶岩の石(火山礫)?ですが、富江に採石場があるのかどうかまだ知りません。

さんさん富江のキャンプ場には、移築再現されたのか立派な石の小屋が残されています。
屋根はさすがに石造りではありませんが、竹と木で編んだ屋根の梁に板か藁を敷いて使ってたのでしょうね。

トタンで覆って、現役の納屋として使用されている、立派な石の小屋も見かけました。

道端にあったこの小屋の三角形の側壁は「100人乗っても大丈夫!」の様に、整然と組まれています。
家の石垣や畑の石垣なども含めて、富江全体の石組の能力は、なかなか相当なものですね!
返事
和さん:詳細は不明ですが、七夕の頃に66歳になるおじいさんが書いていたのは見ました。
地元ネタですが、
天保はアマヤスと読むことを、丁度そこから来ている患者さんに教えてもらったところです。
タクシーの運ちゃんも知らないので、盈進小学校の辺りと教えるそうです。
調べると、天保年間に富江病院辺りの次男三男を移住させたので、こう書いてこう読ませるようですよ。
2014/7/2
七夕飾り 富江

7月になったらすぐに(誕生日ではなく)七夕です。
昔の富江病院の建物をそのまま利用した富江町社会福祉協議会の前を通って、毎日官舎から通勤していますが、その前庭の国旗掲揚ポールに3本の大きな七夕飾りが飾られていました。

富江病院の玄関ロビーにも、またまた大きな七夕飾りが飾られました。

ロビー天井は吹き抜けになっているのに、その天井に当たって曲がる10m以上の竹の七夕飾りはすごいですね!

看護婦詰所の窓口には、普通の大きさの小さな七夕飾りが飾られています。
富江病院周囲、七夕の準備は整いましたが、あいにく今日から雨、今週中はずっと雨のようです。
かわいそうにも、社会福祉協議会前の七夕飾りは、早くも無残な姿をさらしていました。
返事
花水木さん:静岡の海岸にも、昔々南の方から漂着した人がいるんでしょうね。
大雪男さん:ただし、港になりそうな場所が近くに見えないのが??・・・。
和さん:富江の遠足は勘次ヶ城、奈留の遠足は千畳敷が定番だったのですかね。