2017/8/30
萬亀楼 京都から

ちょっと敷居が高く、払った値段もイタリア料理店よりもちょびっと高い、京都の老舗萬亀楼で食事する機会がありました。
萬亀楼はいつもは往診で走ってる西陣の狭い道沿いにある店で、式包丁で有名ですが、今回は家族で食事のみ。

京都の町中ですが、立派な庭がたくさんあって、それぞれが夏の庭にしつらえてありました。

奥の部屋に通される途中の広間の床の間の壁は、全てすだれがかかっていたのも珍しかったです。
軸は池田遙邨です。

その場の庭で焼いてくれた鮎・いろいろな鱧料理・松茸・ウニご飯と、久しぶりの本格京料理は美味しくて、写真を撮るのも忘れていました。

一つだけ、蓮の葉と花弁に盛られた料理は、綺麗で珍しかったので、これだけは写真に撮らせてもらいました。
たまには贅沢も良いものですね。
返事
花水木さん:コメント無しの文字、やけに太くなって、
嫌味たらしいですね、すみません。
コメントは本文書くより労力がいるのに、いつもありがとうございます。
花水木さんのコメントが楽しみで書いていますので、天皇陵巡りに飽きず、
末永くよろしくお願いいたします。

2017/8/27
15−4応神天皇皇子菟道稚郎子 天皇陵巡り

第15代応神天皇が京都の宇治市木幡(コハタ)で、みめ麗しい乙女のミヤヌシヤバハエヒメと出会い、早速合体して産まれたのが、古事記では宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、日本書紀では菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)です。

しかし、前回書いた異母兄大山守命の反乱は、策略で打ち負かしましたが、天皇の位を異母兄大鷦鷯命(仁徳天皇)と譲り合っている間に夭折してしまったそうです。

日本書紀では、大鷦鷯命と位を譲りあって、天下に空位時代が3年続いたので、これを憂慮して自らが命を絶って、大鷦鷯命(仁徳天皇)に位を譲ったそうです。

宇治川のほとりにあるこの宇治墓は、宇治橋の下流の京阪電車宇治線の三室戸駅から歩いてすぐにあり、隣には太閤さんが築いた太閤堤の跡もありました。

宇治墓参道の横に、私の叔父叔母の隠居した家があるので、一時期ゴルフのお迎えに行ったものですが、この前行くと、道が広げられたためか参道も広く綺麗に整備されていました。
返事はコメント無いためなし

タグ: 天皇陵
2017/8/24
15−3応神天皇皇子大山守命 天皇陵巡り

第15代応神天皇の最初の妻、また従姉妹の3姉妹の長女であった高城入姫命(タカギノイリヒメノミコト)は5人の子をもうけています。
5人の内の一人が、今回の大山守命(オホヤマモリノミコト)です。

応神天皇は沢山の妻達との間に26〜28人の子供がいますが、長子相続制度なら一応大山守命が一番の世継ぎになります。
しかし父の応神天皇は、たくさんの子供の内年下のウジノワキイラツコを愛していたので、大山守命と大鷦鷯命(オホササギノミコト)の二人に「子供の内年上の子と年下の子どちらが可愛い?」と尋ねたことがありました。
大山守命は「年上の子の方が可愛い」と、父の気持ちを忖度せずに答えたため、3番目ぐらいの位しか与えられませんで、ウジノワキイラツコが次の天皇になるレールが敷かれたようです。

父応神天皇が亡くなってから、大山守命は父の命に背いてなんとか天下を獲ろうと、ウジノワキイラツコに対して挙兵しましたが、逆に計略にはまって宇治川に落とされ、その下流で殺されてしまいました。

この大山守命の亡骸は奈良山に葬られたそうで、京都府の南、奈良県の一番北の住宅地にある丘に那羅山墓(ナラヤマハカ)を見つけました。
返事
花水木さん:赤ん坊や老人の性別は判りにくいですが、
最近は立派な体格の女性も多いいので、
若い人の性別も迷うときがありますね。

タグ: 天皇陵
2017/8/21
15-2応神天皇皇后仲姫命 天皇陵巡り

第15代応神天皇には10人の妻がいましたが、その皇后であった仲姫命(ナカツヒメノミコト)の墓は、前回紹介した夫の応神天皇陵から歩いてすぐの、かなり近くにありました。
それでも応神天皇陵は大阪府羽曳野市ですが、こちらは民家が近くに迫る藤井寺市になります。

第12代景行天皇の孫である品陀真若王(ホムダノマワカノミコ)の王女であった仲姫命は、同母姉の高城入姫命(タカギノイリヒメノミコト)と同母妹の弟姫命(オトヒメノミコト)と3人そろって、応神天皇に嫁いでいるので、また従妹同士の結婚になります。

仲姫命は夫の応神天皇との間に、荒田皇女(アラタ)・根鳥皇子(ネトリ)と大雀命(オホサザキノミコト)⦅書紀では大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト)⦆、すなわち後の第16代仁徳天皇をもうけました。

この仲姫命の墓、仲津山陵(ナカツヤマノミササギ)は世継ぎを産んだ母の陵と言うことで立派です。
全長290ⅿ高さ26.2ⅿ、全国で9番目の大きな前方後円墳で、5世紀前半の築造で、正式には藤井寺市の仲ツ山古墳と言うことです。

今は空濠となった周濠すぐ近くまで民家が迫ってるのが、大阪の陵の特徴ですかね。
返事
花水木さん:後ろ姿は夫婦ではなく、当日のお客さん、
娘の嫁ぎ先の祖母と母の親子です。

タグ: 天皇陵
2017/8/18
五山の送り火 京都から

我が家は五山の送り火の「妙」の目の前にあります。
昨年島から帰って久しぶりの送り火は、大雨で妙の火も付きが悪かったです。
今年も雨かなと思ってましたが、絶好の天候になりました。

妙は綺麗に点火しました!
町内の人たちも皆安心されたと思います。
我が家は松ケ崎では新参者ですので、火床には行けません。

ロフトの窓から、お客さんにも観てもらいました。
ゆっくり座って、涼しく観ることが出来るので、毎年好評です。
阪神岩貞のカレンダーだけが、夏の終わり感をただよわせ、ややむなしいですが、復活してもらいたい!

居間からは、船形も綺麗に見えます。

ギリギリ妙と船形が1枚の写真に収まりました。
大文字(この呼び方の方がなれています)が終わって、まだセミは鳴き続けてますが、トンボが飛びまわりだしました。
関東と違って、京都はまだまだ暑いです。
返事
花水木さん:私も仕事から帰って、途中からになりました。
懐かしいですが、TVとしてはもひとつ感ぬぐえません。

2017/8/14
15−1応神天皇 天皇陵巡り

大阪府内などの陵墓を管理しているのは、大阪府羽曳野市にある、この宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所です。
ここで管理されている天皇陵の陵印は、ここでもらえますので、駐車場もある事務所前に車を停めさせてもらい、陵印を押しました(15年前に来た時より親切な対応です)。
そして、目の前の応神天皇陵や、近くの皇后陵などにも参拝しました。

第15代応神天皇(オウジン)は第14代仲哀天皇の第4子として、母神功皇后との間に産まれました。
でも、父仲哀天皇が急死してからだいぶ経って、妊娠期間を無理矢理延ばした感じで、九州筑紫の蚊田(カタ)で、ちょっと不自然な形で産まれた品陀和気命(ホムダワケノミコト)、書紀では誉田別尊(ホムタワケノミコト)は、応神ではなく別名胎中天皇とも呼ばれています。
その後、母神功皇后と共に、腹違いの兄達を打ち負かし、母の長い(69年)摂政の後、軽島豊明宮(カルシマノトヨアキラノミヤ)⦅奈良県橿原市⦆で即位し、応神天皇となりました。

応神天皇は15代目ですが、ここから日本の天皇家の歴史が始まったと言ってもいいぐらいです。
(応神は以前の家系と繋がってないかも?です)
ここから数代は陵が、最近世界遺産候補地に選ばれた百舌鳥古市古墳群に集まっていますし、歴史学的にも、応神から河内王朝が始まったとして知られています。

応神天皇は10人の妻との間に26人(28人?)の子をもうけています。
最初は3姉妹皆と結婚し、長女との間に大山守命(オオヤマモリノカミ)など5人、次女との間に大雀命(オホサザキノミコト)など3人、3女との間にも4人の子をもうけています。
他にも、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)や、数代後の継体天皇につながる若沼毛二俣王(ワカヌケフタマタノミコ)の父親でもあります。

第15代応神天皇は130歳(書紀では110歳)で崩御し、河内のこの恵我藻伏岡陵(エガノモフシノオカノミササギ)⦅大阪府羽曳野市⦆に葬られましたが、ここは誉田御廟山古墳(コンダゴビョウヤマコフン)と言って、墳丘長425ⅿと日本第2位の大きさをほこる巨大前方後円墳です。

応神天皇は遺言として、お気に入りの若いウジノワキイラツコの擁立を望みましたが、兄弟同士の戦いや駆け引きがあって、第16代になったのはオオサザキノミコト、すなわち仁徳天皇でした。
返事
花水木さん1:百舌鳥古墳群と言うぐらいですから、
この鳥はモズでしょうね?仁徳天皇陵なので雀か鷦鷯(ミソサザイ)の可能性もありますが。
大雪男さん:マンホールの蓋も、巡ってる人いるんですね。
でも、私のようにゴミ箱を霊場にして巡ってる人はいないようなので、
それはプチ自慢です。
花水木さん2:先週の鬼岳草スキーは観ました。
16日も忘れず観ますが、期待外れに終わりそうです。

タグ: 天皇陵
2017/8/9
マンホールの蓋

先日、百舌鳥古市古墳群が世界遺産登録の推薦候補地に選ばれました。
私も今まさに、天皇陵巡りでこれら古墳群を巡っているところです。
7月の暑い日、堺市の仁徳天皇陵の周りを、頭を垂れてふらふらと歩いていたら、このマンホールの蓋が目にとまりました。
ボケた頭で、「ごりょう」と読んでしまい、さすがにこの辺りの町名は「御陵」かと、一人納得。

しばらく歩くと、写真では見にくいかもしれませんが、「おすい」の文字、なるほど上品な町名だなあと一人感心。

またまた今度の蓋には、「うすい」の文字、この辺でさすがの私もちょっと、町名ではなく「薄い」かもと思いました。

「おすい」「うすい」と並んであったマンホールの蓋を見て、今までの考え方を放棄せざるを得なくなりました。

「合流」の文字を見て、最初に「ごりょう」と読んだのは「ごうりゅう」の読み間違いであったことに、やっと気づいた次第です。
昔はもうちょっと賢かったと思いますが、今はこのていたらく。

「おすい」も「汚水」のことなんですね。
近くの公園で休憩していた市の職員らしき老人達に尋ねると、『家庭から出る下水は「おすい」を通り、雨の水などは「うすい」を通る、堺市は分流式下水道システムなんですよ。』と、上から目線で教えられました。

「うすい」は「薄い」ではなく「雨水」なんですね!、最初にマンホールの蓋の字に気づいてから30分以上たって、やっと理解しました。
京都のマンホールの蓋にそんなものが書いてあった気がしないので、調べてみました。
分流式下水道システムは昭和40年代以降に出来たシステムで、「汚水」も「雨水」も一緒くたにして流す古いシステムは、合流式下水道システム(大雨が降ったら汚水も川に流れてしまう)と言うそうです。
京都市は古い下水道システムなので、40%ぐらいしか分流式になっていないそうです。
ブログの為に調べるので、また一つ賢く成りましたが、これをいつまで憶えているかが問題です。
返事
花水木さん:自分の家系を偉く見せるために、古事記や日本書紀を編纂した割には、
ゲスな人もたくさんいたことを書き連ねた意図は、解かりにくいですね。
大雪男さん:ヤクルトに3連勝したのに、巨人には惨敗、
なかなか安心できません。

2017/8/3
14−2仲哀天皇皇后 神功皇后 天皇陵巡り

息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)は第14代仲哀天皇の2番目の妻ですが、古事記では大后(オオキサキ)として特別扱いで、夫の仲哀天皇より長い記述がある、戦前の人なら誰でも知っている神功皇后(ジングウ)です。

さて、その神功皇后が夫の仲哀天皇と一緒に筑紫の香椎の宮にいる時、神懸かりとなって夫と意見の対立がありました。
その後、突然夫の仲哀天皇の死によって、自分の意見が通り(神の意志と言うことですかね)、朝鮮半島に攻め入ったそうです。
でもなんか、仲哀天皇の死の不自然さが、マクベス?リア王?の話のように、女王が重臣と謀って、王を暗殺したような感じがしてなりません。

神功皇后一行は三韓征伐しましたが、出発前には死んでいた夫仲哀の子供を身ごもっていたため、産まれそうだったお腹に石をくくりつけて出産を遅らせ、しばらくして生まれたのが第15代応神天皇です。
でも、これもうがった見方をしたら、夫が死んでからだいぶたってから生まれた子を、夫の子とするための策略で、実は夫の死後、重臣の愛人との間の子であったような気もします。
こんなことを書いたら、戦前なら不敬罪ですが、今なら「こんな人たち」ぐらいですみますかね。

三韓征伐後に、神功皇后と子の応神天皇は近畿へ帰りますが、その時に、先妻の子の香坂王(カゴサカ)と忍熊王(オシクマ)(応神天皇の兄にあたります)が反乱を起こします。(どちらかと言えば、神功皇后の方が反乱になるのでは?)
それを鎮圧した神功皇后は、日本書紀によると69年間摂政をしき、100歳まで生きて、夫や子供の陵がある大阪ではなく、ここ奈良市の狭城盾列池上陵(サキノタタナミノイケエノミササギ)に葬られました。

日本書紀が編さんされたのは、日本が朝鮮の白村江でボロボロに負けて、唐からの侵略の恐れもあった頃ですので、神功皇后の勇ましい三韓征伐の話などを作りあげて、昔は強かったんだと言おうとしたのか、又、神功皇后を卑弥呼となんとか結びつけようとしたのかもしれませんが、なんかここで、天皇家は今までの繋がりとは違った人に、とって代わられたような気もします。

仲哀天皇と、後日漢風諡号(カンフウシゴウ)を名付けた人は、偉大な日本武尊の子供として生まれたのに、皇后一派に殺されたかもしれず、あとを継いだ息子も、もしかしたら自分の子ではないかもしれない天皇だったので、「哀」なんていうなさけない字を入れて、仲哀天皇としたのかもしれませんね。

今回の神功皇后陵は奈良市の北の方、成務天皇陵などの近くにありましたので、入り口から参拝で陵に登っていく順番に写真を並べてみました。
この後は、近鉄平城駅まで歩いてすぐでしたが、この陵、正式には五社神古墳(ゴサシコフン)という、4世紀末ごろの前方後円墳で、そう大きく見えませんでしたが、第12番目の大きさです。
返事
花水木さん:昔の人名の漢字も読めなくて、憶えられなくて、
日本史で苦労しましたから、今の若い人を非難したくはないですが、
大人になってから、本人が苦労しそうな名前はやめてほしいです。
大雪男さん:阪神、ロードが終わったら、
4位になっていただけは勘弁して下さいよ!

タグ: 天皇陵