奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/9/28

青森旅行3日目その1  
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 朝一番の6時半に朝食を摂って、奥入瀬の道がまだ混まないうちにと、朝霧がまだ残る十和田湖畔を出発しました。
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 奥入瀬渓流の流れは十和田湖の水で、この水門によって十和田湖からの流出量が調節されているのを、最近ブラタモリで知ったところです。
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 奥入瀬の流れで一番大きい銚子大滝。
すぐ近くの道に車を停めて、ゆっくり眺めることが出来ました。
まだ8時頃で、人も少なめです。
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 支流から流れ込んでいる雲井大滝。
奥入瀬渓流っていつからこんなに有名になったのですかね?、カレンダーの写真でよく見るようになったのはいつ頃でしたかね?
オイラセはこんな字を書くのかと、私が知ったのはつい最近の気がしています。
 山奥から始まった谷川の水ではなく、大きな十和田湖から流れ出た水なら、琵琶湖から流れ出た水の瀬田川も奥入瀬も、変わらないのかなあと思ってしまいました。
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 ところどころの道端に車を停める余裕はまだあるので、途中の大きな石ヶ戸(イシケド)休憩所に車を停めて、歩いたりバスに乗って帰ったりする予定をやめて、ちょこちょこ車を道端に停めて、ほんのちょっと歩いて見学する方法に変えました。
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 シャッタースピードを変えたりして撮ろうと試みるも、やり方解からなくなり、雪でもない紅葉でもない、普通の奥入瀬渓流の風景写真です。
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 阿修羅の流れと言う名の奥入瀬名物の流れは、極彩色モードで撮ってみました。
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 そろそろ車の流れも増えてきて、連休の奥入瀬渓流になってきたようですが、まだまだ渋滞したり、停める場所がないほどでもなく、予定より早く奥入瀬渓流は終了。

      返事
花水木さん1:やっぱり和井内貞行の記憶は教科書なんですね。
花水木さん2:今の日本人バックダンサーは、
    前で歌う歌手より綺麗で脚長いですね。
    スクールメッツ時代と大違いです。

2018/9/26

青森旅行2日目  
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 鯵ヶ沢の宿から車で小一時間、弘前城前の駐車場に車を停めて、弘前城観光から2日目開始。
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 本当は5月連休の桜の弘前城に来れれば良かったのですが、ここの桜は管理が良いのか、この季節の葉が密集してる姿もすごかったです。
京都円山公園の有名な枝垂れ桜の葉が私の髪としたら、こっちの桜はマープ増毛したぐらい葉がありました。  
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 江戸時代に一度天守は焼失し、その再建を隅櫓として江戸幕府に申請してだましたせいか、弘前城の天守閣は堀のそばの石垣の上に建っています。
丁度今は石垣補修工事の為、天守閣はそのまま70ⅿ水平移動していました。
写真の移動された天守閣は、なんかレゴで出来てるような姿に見えませんか。
バックの岩木山は、ここから見ると山の字の形です。
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 たまたま近くにおられた案内人が、「ここから見たら鶴ですよ」と教えてくれて、ほんまに目の白い鶴そっくりの「鶴の松」でしたが、向かいの「亀の石」は少々無理がありました。
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 弘前にはレトロな建物が沢山残ってるそうですが、駐車場近くのミニチュア建造物の庭を巡って、済ますことにしました。
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 その中の本物、旧東奥義塾外人教師館内のサロンド・カフェ・アンジュでランチしましたが、右のりんごのスープが美味しい!
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 この日は十和田湖畔のホテルに泊まったのですが、弘前観光をはしょったので、午後からは十和田湖周囲を観光出来ました。
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 私にとって十和田湖と言えば、高村光太郎のこの乙女の像。
60年以上前に作られた乙女は、子供を2〜3人産んだ40代女性の様に見えました。
乙女のイメージも時代と共に変わってきたんですね。
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 私にとって十和田湖と言えばワイナイサダユキ。
苦労して十和田湖のヒメマス養殖に成功した偉人ですが、ここには和井内神社もありましたし、何故かカタカナのイメージで憶えていたワイナイサダユキは、和井内貞行と書くことも知りました。
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 ホテル夕食のデザートは、やっぱり林檎のタルトで、美味しくいただきました。
露天風呂だけのホテルの温泉も珍しく、良いお湯でした。

   返事
花水木さん1:私の縄文時代のイメージは、
    静岡の登呂遺跡でしたが、登呂は弥生時代でしたね。
     私も自分の尻は自分で最後まで拭きたいですが、
    今はもうすでに、ウオッシュレットに拭いてもらっていますね。
花水木さん2:いいえ、堅穴式ではなく竪穴式ですよ。
    再確認してそれもまた間違う、
    私もよくするようになってるので、
    ますます花水木さんに親近感をおぼえますよ!
    お互いどんどん歳をとっていきましょう!
     私はA型ですが、ちゃらんぽらんです。

2018/9/23

青森旅行1日目その2  
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 青森県立美術館からは歩いても5分ぐらいの(レンタカーで移動しましたが)特別史跡三内丸山遺跡にも寄りました。
佐賀県の弥生時代の吉野ヶ里遺跡と違って、ここは無料です。
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 たまたまボランティアガイドの案内人に声をかけたのと、案内時間も丁度良かったので、1時間ぐらい案内してもらい、詳しく説明を聞けて有意義でした。
 青森県にはプロ野球試合が出来るような野球場がなかったので、この場所に作ろうと観客席も少し出来た時点で、この遺跡がすごいことが判って、今に至ってるようです。
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 ここから出土した大型板状土偶のレプリカですが、薄い板状にもかかわらず、口から肛門と思われる方向に、内部に穴が開いてるのが多いそうです。
 この三内丸山は縄文時代前期中期末(約5500年前〜4000年前)の大集落跡で、100棟ぐらいの住居に500人ほどが暮らしていたようです。
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 一番有名な大型掘立柱建物(オオガタホッタテバシラタテモノ)、これが出土したからここが残されたようです。
でも、見つかったのは6個の穴と土中の栗の木の柱わずかだけです。
それを元に、穴のわずかな傾斜や、底の土の固さ具合から、底にかかった加重を計算して作られた建物です。
見た人の想像力を刺激するように、わざと屋根は作ってないようです。
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 掘立柱建物と思われる建物群も見つかってます。
地面が踏みつけられて固くなっていないので、竪穴式の建物ではなく、高床式の建物であったろうと考えたわけです。
 どの柱の間も35pの倍数できちっと出来ているので、尺と同じような長さの感覚を、縄文人はもう持っていたようです。
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 大型竪穴建物(オオガタタテアナタテモノ)も、ほんまかいなと思うぐらい立派です。
たてあな式はなんとなく立穴式と書くと思ってましたが、竪穴式と書くんですね。
竪と言う字は縦と同じ意味でした。
しかも私は竪を堅いと思ってましたが、下は土でなく立でした。
本当におバカさんですね!
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 これで三内丸山見学は終わりますが、ここはコインロッカーも無料で、さすが雪国、長靴の無料貸し出しまでありました。
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 続いて西の方に車で小一時間、太宰治の父津島源右衛門が建てた「斜陽館」にも寄りました。
私の若いころは、旅館「斜陽館」でしたが、今は地元金木町が買い取って、太宰治記念館として一般公開されています。(斜陽館はてっきり弘前にあると思っていましたが)
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 太宰治の生家は大金持ちです。
源右衛門の11人の子のうち10番目として生まれた太宰治は、薬中毒やたくさんの女性と浮名を流し、最後は玉川上水で愛人と心中した人ですが、才能があったんですかね、若い女性に人気ありますね。
私はわずか1ヶ月弱の違いで、太宰と同じ空気を吸えずに産まれていたことを知りました。
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 立派な仏壇や、洋風な部分もある斜陽館、入館料は500円です。
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 青森県のシンボル岩木山を北の方向から眺めながら、今夜の宿鯵ヶ沢を目指します。
岩木山は北から見ると、かなり尖った山頂を持つ山でした。
 道路沿いには、吹雪除けかいろんな型の折り畳み式柵が建っていましたが、全て道の片側だけです。
冬の吹雪の方向は一定してるんか、まさか他の施設?
 道路沿いの家も直角形が多く、瓦屋根の家はほとんどありませんでした。

   返事
花水木さん:ピンクなら出るものも出ないかもしれませんが、
    白は大丈夫でした
     ナラミチさんと、ついつい読んでしまいますね。
    読みやすい名前の人だけ、
    偉人になってほしいですね。
     沼津は小学校修学旅行日帰りですか!
    新幹線もまだなかったと思いますが、
    行って帰るだけですね。

2018/9/20

青森旅行1日目その1  
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 先週の3連休(私は4連休ですが)は、まだ行ったことがない青森県に。
これで行ったことがない県は、沖縄県と茨城県になりました。
 伊丹空港から青森空港まで、懐かしのプロペラ機ボンバルディア(福江に行くのよりやや大きめですが)で1時間40分。
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 まだ飛行機が怖かった若いころ、YS−11で秋田まで飛んだことがあります。
日本海に沿って長い長い時間と、研究会で勉強しに行くのとで、辛く長い飛行時間でした。
その時と同じように、佐渡島の上を通りましたが、島の生活でもう飛行機にも慣れましたし、今回は遊びの旅ですので、快適です。
 青森市街の上を廻り込んで、青森空港には昼前に到着。
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 先ずは青森市街の端にある青森県立美術館に、レンタカーで向かいました。
土地は無限にあるのか、無料のだだっ広い駐車場に、充分にスペースを取った白い建物が建っています。
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 広い四角形のエントランスホールに、なんとシャガールが描いたバレエ「アレコ」の舞台背景画4枚が、大迫力で飾ってあり、びっくりしました!
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 おおらかにもこの部屋だけは写真撮影OKです。
青森県が1994年に収集したとだけ書いてありましたが、どうしてシャガールの絵が手に入ったんでしょうかね。
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 青森県の美術館だけあって、青森ゆかりの人々のコーナーがあります。
説明するまでもない棟方志功さん、見たらだれもが知ってる猫の絵の馬場のぼるさん、ベトナム家族が川を渡ってる写真で有名なベトナム戦争などの報道写真家澤田教一さん、ウルトラマンの生みの親成田亨さん、そして私も好きな奈良美智(ナラヨシトモ)さんの作品もたくさん有りました。
これらは写真撮影禁止なので、窓の外から一枚だけ奈良さんの作品をパチリ。
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 8.5ⅿもあって、この美術館のために作られた奈良美智さんの「あおもり犬」、屋外展示で、空は晴。
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 全体はレンガの壁を白く塗った、四角形の組み合わさった青森県立美術館、そのトイレの中もまぶしいぐらいの白一色でした。
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 昼は併設されてるカフェ「4匹の猫」で、早速りんごカレーを食べましたが、普通でした。

     返事
花水木さん:ガロのひげと帽子の人、
    私は似てると言われてました。
     明治神宮はいいとして。
    伊勢神宮も行ってないのは珍しくないですか。
    静岡の小学生は修学旅行でどこに行くのですか?

2018/9/18

近江神宮  天皇陵巡り番外
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 日本書紀では神宮は、伊勢神宮・石上神宮・出雲大神宮だけだったようですが、明治政府は、天皇などを祭神とする神社を神宮に改めたり作ったりしました。
戦後は、神社に対する国家管理も無くなったので、神社にしようが神宮にしようが、基本神社側の勝手になったようです。
 それでも私の頭の中には、神宮→天皇を祀ってる、とのパターンが出来てしまっています。
    38−1天智天皇を祀る近江神宮にも行ってきました。
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 私がよく行く西大津のイオン近く、京都から滋賀へ抜ける山中越えを降りた所に、近江神宮はあります。
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 京都から大津へは近いのでたびたび行きます。
 昔クイズ問題で、「県庁所在地同士が接してる県と市はどこ?」の答えは、京都府の京都市と滋賀県の大津市だけだったのですが、今は平成の大合併で、宮城県の仙台市と山形県の山形市、福岡県の福岡市と佐賀県の佐賀市も、山の中で接しているそうです。
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 天智天皇と言えば時刻を政治に取り入れた人、水時計の漏刻の模型の噴水も境内にありました。
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 又、小倉百人一首の第1番は天智天皇の「秋の田の・・・・・・」ですので、お正月のニュースでよく、ここ近江神宮で行われてる全国競技カルタ大会の名人戦やクイーン戦の模様が流れます。
 一応ここは、カルタの聖地にもなっているようです。
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 最近は漫画の映画化で、広瀬すずや真剣佑さんの映画「ちはやふる」でも有名になったのが、この地で開催される全国高等学校かるた選手権です。
このため、袴レンタル1時間千円の安さもあって、袴姿の若い女性が境内をたくさん歩いていました。
近江神宮は若者に大人気のようですが、このことを天智天皇は知らないでしょうね。

     返事
花水木さん:子連れ狼・ゴルゴ13・同棲時代や
    雑誌ガロは、ちょうど私の大学時代です。
    漫画は読みましたが、子連れ狼のTVシリーズはほぼ観てません。
     帆立貝の殻と同じ形の古墳なので、
    中身の貝はなしですよ。
    連休に青森に行きましたので、帆立の中身はたくさん食べました。
タグ: 天皇陵巡り

2018/9/12

38−2天智天皇皇后倭姫王  天皇陵巡り
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 そもそも蘇我家の血が入ってない第34代舒明天皇が天皇に成れたのは、蘇我蝦夷の妹法提郎媛と結婚していて、古人大兄皇子という第1皇子が二人の間にいたためのようです。
蘇我一族はこの古人大兄皇子を次の天皇に出来ると思ったので、舒明天皇を天皇にしたようです。
 滋賀県大津市北部の坂本にある、滋賀県を中心に多数の店舗を持つスーパー平和堂に車を停めて、積んでる自転車で、坂本の丘の上にある住宅地を目指しました。
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 しかしながら舒明天皇の皇后になったのは皇族の宝皇女で、二人の間には第2皇子として中大兄皇子(天智天皇)も産まれ、宝皇女自身も舒明天皇死後第35代皇極天皇になりました。
 そうしてる間に、乙巳の変で後見人である蘇我入鹿を目の前で殺された古人大兄皇子は、次の天皇になる道も閉ざされたと思い、出家してしまいました。
 木の岡丘陵のてっぺん近くに、やっと下坂本陵墓参考地(シモサカモトリョウボサンコウチ)の石柱を見つけました。
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 政権の中枢を牛耳った第2皇子の中大兄皇子は、出家してもやっぱり怖かったのか、謀反の疑いで、異母兄の第1皇子古人大兄皇子と一族を皆殺しにしますが、この時唯一幼い古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)は生かされました。
  そもそも倭姫王の墓ははっきりしません、宮内庁がこの陵墓参考地がそうだと言ってるだけで、木の岡古墳群の中の一番高い所にある丸山古墳、帆立貝式古墳がそれです。
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 そして何故か、倭姫王は自分の実家を滅ぼした叔父にあたる第38代天智天皇の皇后になりますが、子供は出来ていません。
 あまり整備されていない細い道を少し行って、やっと下坂本陵墓参考地の前に出てきましたが、あの有名な天智天皇の皇后の墓としては、ややみすぼらしかったです。
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 夫の天智天皇が娶った唯一の皇族出身者は、この倭姫王のみで、残る8人は皆臣下の娘であるのも不思議ですし、ここにも天智天皇と同母妹の間人皇女との禁断の恋が影を落としていた、と考えるのは思いすぎですかね。
 倭姫王との間に子がなかったのは、皇后であっても肉体関係はなく、倭姫王は巫女的な存在として皇后になり、それ故に天智天皇死後、次の第39代は弘文天皇ではなく、倭姫王が即位したという説が産まれてるのかもしれません。
  周囲には下坂本陵墓参考地の飛地として、宮内庁管理の円墳状の丘が何個かありました。
帰りは自転車で坂をかけ下り、平和堂での買い物が終わった家内と合流しました。

     返事
花水木さん:この頃数代の天皇陵は八角形の八角墳、
    中国思想の影響らしいです。
     権力は長く続くと絶対に腐敗します。
全共闘世代私の座右の銘;権力の座にある者、
             時として己の非を忘れ、
             相手のみ礼を求むるは、
             失政の因をなす!
        漫画’子連れ狼’からですが。
     次期天皇、つなぎなら愛子さまでいいですが、
    その次は男系で繋がるために、悠仁さんということに成るでしょうね
タグ: 天皇陵

2018/9/8

38−1天智天皇  天皇陵巡り
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 夫婦共に天皇になった舒明と皇極・斉明天皇の息子葛城皇子(カズラキノミコ)(中大兄皇子の名の方が有名)は、異母兄で乙巳の変後出家していた古人大兄皇子一家を謀反のかどで皆殺しにし、その時に唯一年端のいかなかった古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)だけ生かし、後に皇后としましたが、二人の間に子供は生れていません。
  写真は東海道沿いに建ってる天智天皇陵への石柱です。
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 その頃は皇女に適当な人がいなかったのか、中大兄皇子は倭姫王以外は臣下の娘とばかり結婚しています。
 蘇我入鹿を倒した乙巳の変(大化の改新)を起こす為、蘇我家の中に仲間を作る為もあってか、蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘(オチノイラツメ)との間に建王(タケルノミコ)(夭折)・大田皇女(オオタノヒメミコ)(後の天武妃)・鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)(後の天武皇后で持統天皇に)をもうけ、同じく蘇我倉山田石川麻呂のもう一人の娘姪娘(メイノイラツメ)との間には御名部皇女(ミナベノヒメミコ)と阿閉皇女(アヘノヒメミコ)(後の元明天皇)をもうけています。
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 中大兄皇子はこの3人以外にも、他に6人の女性に11人の子をもうけていますが、めんどくさくややこしいので後に繋がる重要な2人だけを紹介すると、後に第39代弘文天皇になった大友皇子の母宅子娘(ヤカコノイラツメ)と言う采女で伊賀の田舎娘と、最後なんとか今の天皇家に繋がった志(施)貴皇子(シキノミコ)(第39代光仁天皇の父)の母で女官の道君伊羅都売(ミチノキミイラツメ)です。
 計16人(娘12人)の中大兄皇子の子供のうち、4人が何故か一応叔父にあたる天武天皇に嫁いでいます。
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 小学生の時に、少年向きの天智天皇の冒険小説仕立てを読んでますので、中大兄皇子は藤原鎌足と蹴鞠を通じて知り合い、専横をほしいままにしていた蘇我入鹿を大化の改新で倒して、その後は庚午年籍(コウゴネンジャク)(670年)を作成したり、唐と戦ったりした後近江宮を開き、日本の発展に尽くしたと信じていました。
しかし、意外と政敵をだまし討ちしたり、醜い面も見せた人物だったようですね。
   写真の山科陵の参道は、立派でかなり長いです。
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 参道の最後には門まで見えてきました。
夜には閉まるようです。
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 父第34代舒明天皇が亡くなった時は、中大兄皇子はまだ16歳でしたので、母が第35代皇極天皇となり、乙巳の変の時は20才で、叔父が第36代孝徳天皇に成りました。
その次はもう他に有力候補もいなかったので、中大兄皇子で当然だったようですが、何故か母がもう一度天皇になってしまい第37代斉明天皇です。
 皆で九州に遠征中に、その斉明天皇が亡くなったのにもかかわらず、すぐには天皇に成らず、称制と称して7年間を過ごした後、やっと近江宮(滋賀県大津市)で即位し第38代天智天皇(テンジ)(626〜671)(在位668〜671)と成りました。
  写真は知名度で言うとトップクラスの天皇にふさわしい拝所の手前、実際に水が出ている手水鉢もありました。
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 天智天皇は30年近く政治の中枢にいたのですが、実際天皇の名で働いたのは3年間程です。
その間に忠臣の鎌足にも死なれ、やっぱり最後は息子を天皇にしようとしたのか、やや弱気を見せつつ亡くなり、この山科陵(ヤマシナノミササギ)(京都市山科区)に葬られました。
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 奈良でもなく、近江宮からも少し離れたこの京都山科に何故天智天皇陵は有るのか(山科の山の中で命を落としたという説有り)不明ですが、この八角墳である御廟山古墳(ゴビョウヤマコフン)に天智天皇が葬られてることはまず間違いないようです。
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 京都の町中にあった私の小学校は山科に校外学舎を持っていて、ここにはよく遠足で行くため、天智天皇陵の横はよく通っていました。
小さい時からよく知っていた天智天皇陵には、大きな石の日時計があったはずなのですが、今回京都市営地下鉄東西線の御陵駅(ミササギエキ)から歩いて5分ほどの山科陵に行ったのですが、どこにも日時計を見つけられませんでした?。

      返事
花水木さん:20世紀は戦争の世紀、
    21世紀は天災の世紀と言うそうですが、
    もう死ぬ世代の私でも、なんか不安ですね。
     結局東海大地震だけが起こらなかった、
    になれば良いのですが。
タグ: 天皇陵

2018/9/4

37-1斉明天皇  天皇陵巡り
  風が強い台風が過ぎ去りましたが、仕事もなんとか行って帰れましたし、家も大丈夫です。
 2Kmぐらいしか離れてない息子の家は昼からずっと停電らしいですが。

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 弟の第36代孝徳天皇が、皇太子の中大兄皇子などの仲間に離反されて寂しく亡くなった時、有馬皇子という孝徳天皇の息子は対立候補としていましたが、もう年齢的にも30歳になり、誰が考えても次の天皇は中大兄皇子(天智天皇)だと思う状況でした。
しかしながら、噂の?道ならぬ同母兄妹恋を世間が許さなかったかどうかは別にして、次の天皇はあっと驚く、以前譲位した天皇がもう一度天皇位に返り咲くという重祚(チョウソ)と言う手を使って、前第35代皇極天皇が第37代斉明天皇(サイメイ)(在位655〜661)として飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位しました。
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 2回目の天皇時代、斉明天皇は石造りの大規模造営を好んだようで、運河を掘ったり、大きな石を運んだりして、写真の飛鳥の酒船石遺跡(サカフネイシイセキ)も作っています。
 有馬皇子にこのような事業を批判するように仕向けた蘇我赤兄(ソガノアカエ)でしたが、彼の裏切りに依って、孝徳天皇の息子悲劇の有馬皇子(アリマノミコ)の謀反は失敗に終わり、殺されました。  
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 660年百済が滅亡すると、わずかに残った臣下が日本に救援を求めてきたので、661年斉明天皇(その時61歳?68歳?)自らが指揮をとり、子や孫の中大兄皇子・大海人皇子・大田皇女・鸕野讃良皇女などと共に九州へ進軍しました。(女性も含めて一家中で進軍したのは、飛鳥に残ってるのも危険だったのでしょうか?)
 しかし斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)(福岡県朝倉市)で崩御してしまったので、全軍は引き上げ、斉明天皇は越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)(奈良県高取町)に、同母兄妹恋で苦しんだ?娘の間人皇女と、禁断の恋で産まれたのかもしれない?最愛の孫の建王と共に葬られました。(前回36−2間人皇女参照)
 重祚してるので、陵印はてっきり皇極天皇・斉明天皇と彫ってあると思っていましたが、よく見ると斉明天皇・孝徳天皇皇后(間人皇女)でした。
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 この御陵には途中大田皇女の墓もあって、石段200段以上登ってたどり着きました。
御陵は車木ケンノウ古墳と言う円墳ですが、1周ぐるっと石柵で囲まれていて、1周回れるはずですが、このビニールシートに阻まれてしまいました。
土木工事の好きな女帝の陵なので、早く治してあげて下さい。

    返事
花水木さん:私の若い時は、
    世間でのイギリスの地位はもっと高かったように思いますが。
     久本さんの福江島は観ました。
    五島の海や湧水とか、行ったところばかりなので、
    私は本当に懐かしかったですよ。
    日村さんの夕方の食番組も観ました。
    奈留からも良く食べに行った望月のステーキも懐かしかったですが、
    私はあんなに高いのを食べず、もっと安いのを食べていましたが。
タグ: 天皇陵


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