2019/12/26
18.古印最中 菓子たくさん

息子の幼稚園の時にママ友になってから40年、家族で信州や蔵王にスキーに行ったりもしていた友人一家の奥さんの実家は栃木県の足利です。
私の好物であるお菓子やかんぴょうのお土産を貰うことがよくあります。

その足利にある、
一途にもなか 一途に足利の
香雲堂本店の古印最中
1個は150円ぐらいです。
貰いものをこう言うのもなんですが、手ごろな値段で非常に美味しいです!

古印模様の皮は、餡を最初から包んでいるのにカラッとしていて、サクサク感が残ってるにもかかわらずパリパリ感は有りませんし、上顎にほんの少しへばりつく感じも、丁度良い気持ちです。
なんせ一個が大きい!
私でも3個続けて食べるのに、少し勇気が必要です。

餡もぎっしり詰まっていますが、甘くて甘くて困るという味ではありませんので、この手の最中の中では最高位ですね。
古印最中、足利でしか売ってないようですが、一度機会があれば食べて下さい!

2019/12/25
17.おいり 菓子たくさん

四国ではお嫁さんのお菓子というものがあるようで、家内の実家徳島でも花嫁さんが近所に挨拶しながら歩き、近所の人々に「花嫁菓子」を手渡します。
この「およめさんのお菓子」、徳島ではふわふわの軽い煎餅です。

香川県丸亀にも、「おいり」と言う花嫁菓子が有りました。
香川県の物産展で売っていたのを買ってみました。
300円もしなかったと思います。

衛生ボーロよりも小さく軽い、サクサクのお菓子です。
「あられ」と言うことなんですが、私がいつも食べてる「あられ」とはちょっと違います。
それほど味があるわけではないですし、喉につめない限りなんぼでも食べられるぐらい軽いですが、特に止められない止まらないという味ではありません。
返事
花水木さん:時は流れ、来年は6回目の年男です。
私のフットワークもやや衰えをみせていますが、
来年の御題の中心は、やはり人気の無い天皇陵巡りです。
すみませんがもう少しお付き合い下さい。

タグ: 丸亀
2019/12/21
53-3淳和天皇皇子恒貞親王 天皇陵巡り

前回のブログはお母さんの正子内親王、前々回のブログはお父さんの第53代淳和天皇、すなわち第50代桓武天皇の女孫と皇子にあたる両親から生まれたのが、今回の淳和天皇皇子恒貞親王(ツネサダシンノウ)(825〜884)です。

前回の母親の正子内親王の円山陵墓参考地が北嵯峨高等学校のグランドの裏側、大覚寺寄りにあったのに比べて、恒貞親王の入道塚陵墓参考地(右京区嵯峨)は対角線上の北嵯峨高等学校正門横にあるということでした。

高校の石垣の塀の角がその入り口ですが、この奥に墓がありそうには思えませんし、正門前におられた高校の先生らしき人に尋ねて、やっと行きつくことが出来ました。
北嵯峨高等学校はこの親子の墓を避けるようにして建設されたようですね。
正式名は入道塚古墳です。

高校の石垣と田んぼの間に、その塚と言うか墓が見えてきました。
恒貞親王は従兄にあたる第54代仁明天皇の皇太子に立ちましたが、仁明天皇の女御になった藤原冬嗣の娘で良房の同母姉でもある藤原順子(フジワラノノブコ)が道康親王(ミチヤスシンノウ)(後の第55代文徳天皇)を産んだので、その地位は微妙なものになりました。

他戸親王・早良親王・伊予親王・高丘親王・恒世親王と、この50年ぐらいの間に、次期天皇の有力候補であった親王が、皇太子を廃されたり、殺されたり、潰されたりしているので、父の淳和上皇も恒貞親王本人も、たびたび皇太子の辞退を申し入れては、其の度毎に慰留されていました。
しかし最後は結局、淳和上皇・嵯峨上皇が次々と崩御するとすぐに、承和の変(842年)で廃太子されてしまいました。

藤原冬嗣と橘嘉智子の首謀した承和の変ですが、恒貞親王は命を取られることはなく、母正子内親王と共に間もなく出家し、恒寂入道親王(コウジャクニュウドウ)として写真の大覚寺を開創しています。

母正子内親王が亡くなって5年後の884年に60歳で亡くなったのですが、その直前第57代陽成天皇が退位する時には、次の天皇への即位要請の話があったようですが、意地もあったのかこれを拒絶して静かに亡くなられたようです。
返事
花水木さん:肉親はなかなか許してくれませんね。
年賀状は書き終わりましたが、
もうあと10日ほどでお正月ですね。
良いお年を!
来年も楽しいコメントお願いいたします。

2019/12/18
53-2淳和天皇皇后正子内親王 天皇陵巡り

大覚寺の南、嵯峨野の畑や田んぼの中に、京都府立北嵯峨高等学校は建っています。
私の青年時代には、まだこの高校は出来ていませんでした。
正子内親王(マサコナイシンノウ)(810〜879)の父は第52代嵯峨天皇で母は皇后橘嘉智子で、後に第54代仁明天皇となる正良親王マサラシンノウ)と双子だったと考えられています。

北嵯峨高等学校の北西のグランドの端に、この正子内親王の円山陵墓参考地があるというので捜しましたが、こんな目立たない狭い入り口の向こうに、なんとか制札らしきものが見えたので、たどり着けました。
天皇に成ったばかりで叔父でもある第53代淳和天皇に入内、恒貞親王(ツネサダ)(825〜884)・基貞親王(モトサダ)(827〜869)・恒統親王(ツネムネ)(829〜842)を産んで、皇后ともなっています。

夫の淳和天皇が譲位し、正子内親王の双子の片割れの同母兄正良親王が第54代仁明天皇として即位し、息子の恒貞親王がその皇太子に成りましたが、夫の淳和・父の嵯峨も亡くなった後、承和の変(842年)で息子恒貞親王が廃太子されたために、この陰謀を藤原冬嗣と共に首謀した自分の母親嘉智子を激しく恨んだと言われています。

別に柵もないので、そのまま少し陵を廻ってみましたが、丁度掃除に来ていた宮内庁の職員らしき人に、「あまり入らないでください」と言われたので、外に廻り住宅の方から眺めるだけにしておきました。
正子内親王は承和の変後出家し、父嵯峨が過ごしていた嵯峨院を大覚寺と改めたり、仏の世界に身を置いて30年以上過ごし、70歳で亡くなりました。

このため、正子内親王の御陵とされる円山陵墓参考地(大覚寺円山古墳)(右京区嵯峨)は、大覚寺の目と鼻の先のここにあるのです。

2019/12/14
52-1淳和天皇 天皇陵巡り

今年の8月の暑い土曜日、天皇陵巡りで一番きついと書かれている淳和天皇の大原野西嶺上陵(オオハラノニシノミネノエノミササギ)(京都市西京区大原町小塩山山頂)に、そろそろ行く順番が廻ってきたと考えて、行ってきました。
バスで近くまで行ってから、この地図の赤色の現在地から、左のくねくね道を登って、左青字で書かれた御陵を目指します。
今回12月になってやっと順番が淳和天皇まで廻ってきて書いているので、こんな暑い日に行くことは全くなかった気がします。
えらい目に遭いました!

このくねくねした小塩山山頂に到る道を、車で登れたらどうと言うことはないのですが、何故か麓で道は通行止めになっていました。
山頂まで6kmの車道の登り、往復すると約12Km、それにバス停までの往復4Kmを合わせて16Km、6時間ぐらいかかった徒歩の旅でしたので、多分軽い熱中症になっていましたね!
馬鹿でした!

この道、途中は時々視界が開けて、京都南部が見渡せますが、夏の暑い日と言っても、ほとんどはなにも見えない木陰の道です。
それでも35℃ぐらいあった暑い夏の日、ふらふらとぼとぼと登って行きました。

途中一カ所だけ清水の流れてる水場があって、おもいきり冷たい水をやかんからかぶりました。
帰りには持って来てた水も切れたので、かぶる以外にその水も飲まずにおれませんでした。
この日は地域の人が軽トラで上がってきていて、道路の清掃をされていたので、まあ熊は出ないだろうと、それだけは安心でしたが、「上に行くなら荷台に乗って行くか」との声はかけられませんでした。

やっとこの参道入り口に到着です。
大伴親王(オオトモシンノウ)は、786年に桓武天皇と藤原式家の百川(モモカワ)の娘旅子(タビコ)との間に産まれた第7皇子ですが、母の旅子は大伴の2歳の時にはもう亡くなりました。

大伴親王は異母妹(母は乙牟漏)である高志内親王(コシナイシンノウ)(789〜809)を妃に迎え、恒世親王(ツネヨシンノウ)(805〜826)と3人の皇女をもうけています。
ここでも、この恒世親王は母親の身分が高いので、皇位継承権も高位となり、このため父親の大伴親王の皇位継承まで認めなければならない事体になりました。

異母兄第52代嵯峨天皇が即位してすぐの810年薬子の変が起こり、廃太子された第51代平城天皇皇子高丘親王に替わって大伴親王が皇太子にたてたのは、恒世親王が産まれてたことがあったと考えられます。
しかし、恒世親王は22歳の若さで亡くなってしまいました。

823年には嵯峨天皇は譲位して上皇となったので、皇太子であった大伴親王は第53代淳和天皇(ジュンナ)(786〜840)(在位823〜833)に成り、嵯峨上皇の息子正良親王(マサラシンノウ)を皇太子にたてました。

この正良親王と双子だったと思われる正子内親王(810〜879)を、淳和天皇は皇后として迎え、恒貞親王(ツネサダシンノウ)(825〜884)など3人の皇子」をもうけています。
嵯峨・淳和兄弟の治世は、仲良く安定した治世だったと言われていますが、これは淳和天皇の謙虚で温和な性格がもたらしたのかもしれません。
まあその裏では、藤原冬嗣(775〜826)の台頭と藤原北家の一人勝ちのスタートが切られていたようです。

833年には譲位して、甥の正良親王が第54代仁明天皇に成りましたし、息子の恒貞親王はその皇太子にも成れましたが、権力争いに巻き込まれることを恐れて、息子の立太子には辞退をし続けていたようです。
(実際淳和・嵯峨の死後に、ほぼ藤原冬嗣陰謀に依る承和の変が起こりました)

淳和天皇は薄葬を望まれ、天皇としては異例の散骨という形でこの山の上から骨を撒かれたようで、それでこんな苦しい思いをして登らなければならない小塩山頂上に、後日御陵が出来たようです。

あまりのしんどさと、熱中症で運ばれるギリギリで地上に生還し、なんとか地下鉄駅までたどり着いたので、お祝いにパフェを食べて御陵巡りを終わりました。

淳和天皇の火葬塚は麓の平たい所で、少しは迷いましたが以前簡単にたどり着けた、向日市物集女(モヅメ)の畑と住宅地が混ざり合った所にありました。

散骨されたために苦労して苦労してたどり着いた淳和陵、淳和天皇が散骨を願ったのは、自分の治世中に地震がたびたび起こり、地震を起こすもののけは桓武天皇や高志内親王の陵墓から現れているようで、「自分の遺体が墓に残ってると、それにもののけが付いて祟りを起こすので、自分の骨は砕き粉にして山の中にまき散らせ」と言っていたためだそうです。

2019/12/11
嵯峨天皇皇子源融 天皇陵巡り番外

八瀬大原を抜けて、途中峠を越えて、滋賀県までよく車で行きますが、滋賀に入ってすぐの伊香立(イカダチ)の道路沿いに融神社の看板があって、「なんでここに融神社があるんだろう?」といつも思いながら走っていました。
この辺は融公の荘園があったからでした。

やっと今回この融神社にお参り出来ましたが、綺麗に整備されています。
融公を祀る全国唯一の神社だそうです(滋賀県大津市伊香立)。
源融(ミナモトノトオル)(822〜895)は第52代嵯峨天皇と女宮の大原全子(オオハラノゼンシ)との間に産まれた皇子ですが、なんせ嵯峨天皇には50人ほどの子供がいたので、源氏の姓を賜り臣籍に降下しています。

周りの公家が亡くなったり、応天門の変(866年)などで失脚したので、急速に昇進し、左大臣まで上がっています。
三代下になる第57代陽成天皇譲位の時には、自分も次期天皇に成る資格があるとも言ったかどうか、これは藤原基経(モトツネ)に、源氏に降下した後に即位した例はないと阻止されています。

源融の宇治の別邸は、後に藤原氏により平等院になりましたし、鴨川河原近くにあった六条河原院は、みちのく宮城の塩釜を摸した庭園があって、今も枳殻邸(キコクテイ)として残っています。
このため融公は、正一位河原左大臣と呼ばれていたそうで、小倉百人一首の14番に和歌が残っています。

又山荘であった栖霞観(セイカカン)は、この嵯峨釈迦堂清凉寺(右京区嵯峨釈迦堂)の境内にありましたし、

この境内に同じくある、以前は御陵とされていた嵯峨天皇・檀林皇后宝塔の横には、源融の墓がありました。

この宝塔が墓所のようです。
嵯峨天皇の子供50人のうち、一番贅沢に生きたようで、「源氏物語」の光源氏のモデルであるとも言われてるのがこの融公です。
返事
花水木さん:傾城(女郎)やまくらの字だけで、
色っぽいと感じた私ですが、句の意味はもひとつ解かってないと思いますよ。
まあ、紅葉を通り越して冬に入った私の姿より、
紅葉の方が良いのは当たり前ですね。

2019/12/7
52-3嵯峨天皇皇女有智子内親王 天皇陵巡り

島から戻って最初の元旦、嵯峨野を二人でブラブラした時の写真です、左に御陵らしき森と鳥居、右に見える藁ぶき屋根が落柿舎(ラクシシャ)です。
長崎生まれで芭蕉の弟子、蕉門十哲の一人向井去来(ムカイキョライ)の別荘が、この落柿舎です。
(庵周囲の柿が、一夜にして全て落ちたので、この名があります)

ブログを始めた頃に、島から訪れた長崎市内にある、坂本龍馬も遊んだ有名な料亭「花月」の入り口に、向井去来の句碑があって、この写真も掲載し紹介したことを思い出しました。
(10年以上前の若き?私の姿ですが、まだこのシャツやズボンを着てると思います)
いなずまや どの傾城の かりまくら
色っぽい俳句なんですかね

この左の陵墓が、嵯峨天皇第8皇女の有智子内親王(ウチコナイシンノウ)(807〜847)の墓(右京区嵯峨小倉山)で、母は交野女王(カタノノジョオウ)です。
なんでこんな墓が残ってるのかと言えば、

810年薬子の変の時に、「勝てば私の娘を賀茂大神に捧げる」と、嵯峨天皇は祈願したので、勝利後初代賀茂斎王(イツキノヒメミコ)として4歳の有智子を任命しました。
(現在の葵祭では一般人を斎王代として選んでいます)

また、嵯峨天皇の多数の皇子女の中で、有智子内親王は文才に恵まれ、数少ない女性漢詩人でしたので、墓が残るそれなりの理由はある内親王だったようです。
返事
花水木さん:「灯台下暗し」で、
思わず福江島の大瀬崎灯台を思い出してしまいました。

2019/12/4
紅葉狩り6 京都

昔から、やりたいことはなかなか始められず、やめなさいよと言われたらなかなか止めずに、過ごしてきましたので、紅葉狩りももう6になったのに、まだ続けています。
多分これで今年最後の紅葉狩り、近くの宝ヶ池を散策。
宝ヶ池と比叡山の秋というか初冬の朝です。(12月になりました)

日曜日朝、犬もいないし孫も連れてませんが、老夫婦が暇つぶしに朝の散歩。
近場の紅葉も捨てがたいですね、色々紅葉狩りに行きましたが、結局青い鳥は近くにいたのかもしれません。

まだけっこう紅葉も残っていました。
桜と違って、紅葉は2週間以上楽しめますね。

まだグラディエーションも楽しめます。

陽があたったら紅葉はより映えますね。
なかなか良い構図と思って撮っても、出来上がりはまあまあでした。

京都国際会議場近くまで廻りこんで、もう一度比叡山を写しました。
これで今年の紅葉は終わりです(たぶん)。
来年もまた、紅葉をいろんな所に見に行けるぐらい元気であることを祈ります。
返事
花水木さん:沼津でボー、が一番ですよ!
紅葉と楓、私もなるほどとは思いましたが、
他の区別の仕方もあるというか、元々区別できないものか分かりませんので、
あまり信用しないでください。

2019/12/1
紅葉狩り5 旅

紅葉狩り5は、もう一度遠出と言っても、車で2時間ほどの湖北を目指しました。
北陸自動車道木之本ICで降りる前のパーキングエリアから、1週間ほど前に初冠雪した伊吹山を望みます。
深田久弥の日本百名山に選ばれている伊吹山、近くで見ると大きな立派な山です。
私が登頂した百名山は、この伊吹山と乗鞍岳の2峰のみです。

島から帰ってから知った滋賀県の紅葉の名所、湖北に三つほど集まっていて、すごい人のようなので、11月27日で紅葉散策期間が終了したのを待って、朝早くから出かけました。
臨時駐車場には入れて(無料)、少し歩いてまずは與志漏神社(ヨシロウジンジャの紅葉。

少し上の観音堂まで登って、山の紅葉を鑑賞。
全体に紅葉のピークは過ぎていますが、それでも人はそれなりに来ています。

手の指以上に別れた葉っぱが落ちていました。
カエデとモミジの区別が、完全ではないですが分かりました。
葉の切れ込みが深いカエデをモミジと言い、
葉の切れ込みが浅いカエデをカエデと言うらしいです。
日本以外は、こんな区別は付けず、全て楓と言ってるようですよ、自信はないですが。

これは紅葉(モミジ)。

これは楓(カエデ)。

この地の紅葉狩りの目玉は、鶏足寺(ケイソクジ)参道石段の散紅葉。
このピークにはもっと赤く、木々にも赤紅葉が残ってるようなので、この写真よりもずっと綺麗な景色だったと思います。
こんな田舎にも、外国人旅行者がたくさん来てるので、驚きます。

人が多い散歩道を少し歩いて、石道寺(シャクドウジ)へ(全て無料)。
その後は脇道を廻って駐車場にたどり着きましたが、一歩脇道に入ると見物客はいません。
この日も早く出て、早く帰って競馬、そして日曜日は少し散歩しただけで、午後はラグビー・マラソン・アメフト・ゴルフを観ながら、また競馬ですが、土日共に一つも入らず終わりました。
たくさんのレースを買いたいので、買い目を絞りすぎと高配当を望みすぎの結果です。
返事
和さん:私が入れてもらったのは、
Spotifyという音楽配信のアプリです。
