奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/3/30

今年の桜2  
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 先週の夕方、施設の死亡確認に呼ばれた帰りに、寄り道して木屋町に。
先週迄の京都は、東京・大阪程はコロナ規制が厳しくなかったです。
高瀬川沿いの桜は満開近しですが、それでも平日でもあるのか、人出は例年ほど多くは有りませんでした。
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 金曜日、今年は冬用タイヤの活躍場がほぼ無いまま、車のタイヤをノーマルに戻してもらいました。
 その足で、滋賀県朽木辺りをドライブ(昨日の「麒麟がくる」では、光秀と足利将軍の向井理さんが、この朽木で会っていましたね)、まだ山中の桜は蕾です。
そのまま高島に抜けて、坂本の西教寺へ向かいました。
西教寺参道の桜並木は、少し赤っぽいぐらいでした。
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 小雨もふっていたので、西教寺境内はほぼ誰も参詣者いません。
境内の光秀展も、新型コロナで中止中なので、拝観料は500円のみ。
誰もいないので、心配なく観て廻れますが、境内の桜はまだチラホラ咲き。
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 明智光秀とその妻煕子(ヒロコ)の位牌に焼香できました。
位牌を撮るのは止めましたが、この奥に仲良く並んであります。
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 明智一族と光秀妻煕子さんの墓も、この西教寺境内に建っていました。
煕子さんは本能寺の変の7年前に、42歳で亡くなっていますが、あの細川ガラシャ夫人のお母さんになります。
(「麒麟がくる」では木村文乃さんが煕子を演じるそうで、次回ぐらいから出てくるようです)
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 土曜日は、結婚のお祝いを持って挨拶に行くため、久しぶりのスーツに黒靴姿に変身。
帰って、いつもの服に着替えて奈良の大和郡山城までドライブ。
不要不急で外出ばかりですが、少しですがお金を回さなくてはと、それでも安心そうな所ばかりを狙ってる、姑息さが目立つ私です。
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 幻の天守台が石垣だけ再建されていましたが、土曜日なのに花見客はまばらです。
まあ天気が悪かったせいもあるし、桜もまだ満開ではなかったですが、宴会は厳禁の貼紙ばかりが目立ちます。
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 お城も無料で、駐車場も無料でガラガラ、これでは大和郡山になんの貢献もしないことに成るので、城の前の新しい郡山ホールで、ランチにデザートと美味しいコーヒーも付けてもらいました。
 でもこの季節で、食堂も空いていたので、商売する人皆さんなかなか大変でしょうね。
貢献するつもり?の出歩きも、街や人の多い所は避けるようになりました。
京都も大学生の感染が発表され、甘かった規制が厳しくなるかもしれません。
京都市中でも感染の確率は上がってきたようなので、自粛してその確率を下げるべく、私もしばらく麻雀やめようと、友達に連絡しました。
経済は回したいし、リスクは避けたいし、なんかどっちつかずになってきた私です。
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2020/3/28

59-1宇多天皇  天皇陵巡り
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 光孝天皇が亡くなる前の慌ただしい時期、次の天皇に誰が成るのかは、結局権力者基経の手に委ねられましたが、ここで基経は臣籍降下していた光孝天皇の皇子源定省(ミナモトノサダミ)を再び親王にして、立太子させ、速やかに次の天皇にしました。
こうして即位したのが、第59代宇多天皇(ウダ)(867〜931)(在位887〜897)です。
 前回の光孝天皇の真陵かとも言われてる、仁和寺裏手の御室陵墓参考地から更に山道を(自動車道)を登っていくと、昔参道であった急な石段に到りました。
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 その石段を登った所から、本当の山道の参道になります。
 光孝天皇の長男でもない定省を基経が選んだのは、定省が基経のこちらは仲が良かった妹淑子(トシコ)の猶子になっていたことがありました。
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 仁和寺の裏山にある御室八十八カ所は、私の小学校の担任の先生の家が御室にあったので、級友と遊びに行った時に皆で廻りましたし、大人になってからハイキングに行ったこともあります。
今回宇多天皇陵を目指して仁和寺裏山の大内山を登りましたが、なんとなくこの辺の土と言うか岩と言うか、懐かしい気がしながら登って行ったので、しんどいと聞いていた宇多天皇陵も意外と楽に到達できました。
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 山の上から少し下がったような所に、御陵が見えてきました。
基経によって成れたような天皇の地位ですので、宇多天皇は基経にそれなりに気をつかっていたと思いますが、基経はせっかく自分が選んだ天皇なのに、なんかいちゃもんをつけたり権力を誇示するような性格の悪さから、阿衡の紛議(アコウノフンギ)と言う一件を起こしています。
(詳しくは調べて下さい、入試を日本史でとった私ですが、このことを知りませんでした)
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 定省が宇多天皇になる前からの多くの妃の中で、藤原胤子(インシ)が産んだ敦仁親王(アツギミ・アツヒト)が次の第60代醍醐天皇になりました。
 天皇になってから888年には基経の娘温子(オンシ)を更衣に迎えていますが、幸か不幸か二人の間には内親王しか産まれませんでした。(宇多が避けた?)
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 基経が891年に亡くなり、その後藤原北家を継いだのは基経長男の時平(871〜909)でしたが、まだ若いこともあって、宇多天皇は藤原北家とはやや距離を置くようになり、菅原道真などを重要地位に置く布陣を構えています。
 宇多天皇は比較的早めに譲位し、以後899年には出家し、仁和寺に入って法皇となり、熊野三山にしばしば参詣するなど、政治からは身を引いていきました。
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 それでも901年昌泰の変(ショウタイノヘン)、いわゆる菅原道真が時平などの勢力によって太宰府へ左遷された時は、あわてて内裏にかけつけたそうですが、時すでに遅かった。
 宇多天皇は火葬後そのまま土で覆われ、そこが陵になっていたそうですが、こんな山の上に江戸時代になってから治定されたのが、この大内山陵(オオウチヤマノミササギ)(右京区鳴滝宇多野谷)です。

     返事
花水木さん:花粉症の人は、
    今のご時世、電車などに乗りにくいですね。
前々回の花水木さん:まだ満開ではないですが、
    混みそうでない場所の花見に出かけてはいます。

2020/3/25

番外58-2光孝天皇女御皇太后班子女王  天皇陵巡り番外
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 京都福王寺の五叉路ぐらいのバス道ですが、高雄や嵐山や金閣寺などに行く丁度別れ道になりますので、行楽の季節には昔からかなり混む交叉点です。
 この丁度角の一段高い所に建つのが福王寺神社(フクオウジジンジャ)です。
近くには文徳・光孝・宇多・村上・円融の御陵もあり、私が産まれ、大学時代も一人で過ごした鳴滝にも近いので、懐かしい場所でもあります。
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 この福王寺神社の祭神が、光孝天皇女御皇太后班子女王(ハンシ・ナカコジョオウ)(833〜900)で、福王寺神社由来のこの木の額には、この地が一説には班子女王の陵墓かとも伝えられている、と書いてありました。
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 第50代桓武天皇の皇子仲野親王は、あまり有名な人でもないのに、ここからまあ近い同じ嵐電沿線の帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅近くの、大きく立派な高畠墓(タカバタケノハカ)に葬られています。(昨年8月のブログ参照)
 この仲野親王の17人の子の一人が班子女王です。
光孝天皇がまだ時康親王時代にその妃になった班子女王ですが、家系的には従兄(仁明天皇)の息子と結婚したことに成ります。
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 夫の時康親王も気さくな人柄だったようですし、班子女王自身も至極お気楽な正確だったようです、知らんけど!
 時康親王(光孝天皇)自身の子供も40人ほどいるようですが、二人の間にも源元長(ミナモトノモトナガ)・是忠親王(コレタダ)・是貞親王(コレサダ)・定省親王(サダミ)の4皇子と4人の女の子、計8人の子をなしています。
その内綏子内親王(スイシ)は、第57代陽成天皇の妃になって、前々回のブログで陽成が贈った小倉百人一首の歌の相手方だったようです。
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 夫の時康親王が55歳で思いもかけずに第58代光孝天皇に成ったので、班子女王の子供も含めてすべての子を臣籍降下させましたが、最後に息子定省親王が復活して、光孝の死後第59代宇多天皇になったので、班子女王も皇太后を贈られています。
 息子宇多天皇の10年の在位をずっと見届け、息子の開いた仁和寺近くで、夫光孝や息子宇多の御陵近くのここに葬られたのなら、まあこの地が班子女王の陵であったとの説も納得できました。

2020/3/23

今年の桜1  
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 三連休、不要不急の外出ばかりしてます。
金曜日は徳島に、土曜日は滋賀県に、そして日曜日は近所の散歩。
 近くの家の立派な桜、危ないのでだいぶ切られましたが、花が咲きだしています。
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 宝ヶ池まで散歩ですが、桜はまだ蕾が多いです。
ミヤマツツジは満開。
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 場所によっては、蕾ばかりのミヤマツツジも有りますので、春までもう少し。
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 コブシは満開。
春の陽気で、気分は明るくなりますが、新型コロナ、イタリアであんなに死者が多いと、分からなくなってきました。
違う病気なのかなと思うぐらいです。
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 椿はまだたくさん蕾が有りました。
五島の椿は今頃はもう散っていたはずですが、京都の春の方が遅いのか。
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 所々に、咲き始めた桜も有りますが、大きい桜はまだ3分咲きぐらいが多いか。
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 深泥池を廻って帰りましたが、池の中に綺麗な鷺。
新聞買って帰っても、競馬は入らず。
不要不急の外出で、新聞買ったぐらいでは、なんの役にもたってない老人ですね。
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 月曜日、出町近くの診療所に出勤前に寄った、近くの本満寺の枝垂れ桜。
枝垂れにしては早く、もう満開ですが、今年は外人の姿が、さすがに見あたりません。
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 この桜樹齢90年、円山公園の有名な祇園枝垂桜の姉妹らしいですが、こちらの方が元気そう。
最近外国人の間で有名になって、わたしも京都に戻ってから知った桜です。
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 午後から行ってる岩倉の病院の桜です。
ソメイヨシノではないようなので早いのか、満開でした。

2020/3/21

58-光孝天皇  天皇陵巡り
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 陽成天皇が譲位したのは(させられたのは)まだ16歳の時です。
時の権力者基経は、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)を次期天皇にすると、また妹高子が国母になるので嫌がったようですし、自分の娘佳珠子(カズコ)が産んだ陽成の異母弟貞辰親王(サダトキ)(7歳)を擁立するのは、いかにも我田引水見え見えなので嫌がったのか。
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 第53代淳和天皇皇子で承和の変(842年)で一度は廃太子されて、その後出家して大覚寺を開創した、恒貞親王(ツネサダ)(昨年12月21日ブログ参照)に白羽の矢を立てました。
基経の祖父にあたる冬嗣に廃太子されてるので意地もあったのか、もう60歳で出家してることもあったのか、恒貞親王は基経の要請は固辞しました。
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 そこで基経が選んだのは、第54代仁明天皇第3皇子時康親王(トキヤスシンノウ)(この時55歳)です。
時康親王の母沢子(タクシ・サワコ)(1月29日ブログ参照)と、基経の母乙春(オトハル)は姉妹であったことや、時康親王があまり政治に関心が無いようで、自分が政務を独占できるとの思いが、基経が選んだ理由と言われています。
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 こうして時康親王は即位して、第58代光孝天皇(コウコウ)(830〜887)(在位884〜887)と成りました。
最近になって第125代平成天皇(今の上皇)の55歳、今回の第126代今上天皇(令和天皇)の59歳の即位で抜かれるまでは、桓武天皇の父第49代光仁天皇の60歳に次いで2番目の高齢即位であった光孝天皇ですが、あっという間に高齢即位4番目に落ちました。
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 こうしてせっかく藤原北家からの娘が産んだ文徳・清和・陽成と続いた皇統は、藤原北家の長者基経自身によって途切れてしまいました。
 光孝天皇と基経との関係は良好で、光孝自身も自分の子を全て(40人以上いました)臣籍降下させて、その次は基経の家系からの天皇に戻せるようにも計らっていました。
しかし最後、再び基経の意向で、自分の子で臣籍降下もしていた源定省(ミナモトノサダミ)を親王に復活させてもらい、喜んでその日に亡くなりました。
 嵐電御室駅を降りてすぐ、写真の仁和寺二王門に至る道の途中にある後田邑陵(ノチノタムラノミササギ)(右京区宇多野)に葬られています。
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 この光孝天皇のように、皇統が移動する時は、天武系から天智系に戻った時の第49代光仁天皇、今回の第58代光孝天皇、そして江戸時代に別の皇統に別れた第119代光格天皇と、なるべくしてなった天皇ではない天皇の名に「光」が付いてることに気づきましたが、何故なのか?
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 光孝天皇陵、実はこの後田邑陵と仁和寺をはさんで反対側、700ⅿほど離れた山側の仁和寺裏手にある御室陵墓参考地(右京区御室大内)の方が、真陵ではないかと言われています。
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 丁度仁和寺の裏に建つ京都府立聾学校の北側に、なんとかこの御室陵墓参考地への入り口を見つけました。
場所的にも雰囲気的にも、こちらの方が正しい陵の気はしてます。

     返事
花水木さん:私はストレスに弱いです。
     世界のニュースを見てると、心配ですが、
    日本のニュースを見てると、
    なんかたいしたこともなく終わりそうな気もしてます。
大雪男さん:3連休中の世間は、
    京都・滋賀・大阪・兵庫・徳島ですが、
    桜も咲きだして、車も混みだして、
    人も出はじめてる気はしてますが、
    プロ野球がまだなのは寂しい限りです。
    (その分気は楽ですが)

2020/3/16

57-1陽成天皇  天皇陵巡り
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 父第56代清和天皇(18歳)、母藤原高子(27歳)の第1皇子として生まれた貞明親王(サダアキラシンノウ)は、3カ月足らずで父清和天皇の皇太子となりました。
 9歳で天皇に成った父清和天皇は、27歳の若さでもう譲位し、以後4年の余生を山中の仏道修行に捧げましたので、まだ9歳だったこの第1皇子貞明親王が即位し、第57代陽成天皇(ヨウゼイ)(868〜949)(在位876〜884)になり、母高子の同母兄であり伯父でもある藤原基経が摂政に就きました。
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 同母兄基経の権力保持の道具には成りたくなかった母高子と、兄のいうことを聞かないわがままな同母妹高子を許せなかった、やや病的な感じもする基経との間には、徐々に決定的な溝が出来たようです。
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 陽成天皇は「病気の為に譲位したい」、と言ったかどうかあやしいですが、16歳にして譲位しました(させられました)。
そして次の天皇には、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)の名があがりましたが、それでは又妹高子が国母としていばってしまうし、基経の娘との間の陽成の異母弟である清和天皇第7皇子貞辰親王(サダトキ)では、あまりにも基経にとって露骨すぎるとの思いから、かなり皇統を戻したような光孝天皇が選ばれました。(基経の独断)
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 譲位の理由が健康と言うことでしたが、陽成天皇は82歳という長命で、光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上と続く歴代天皇の治世の間上皇歴65年を続けました。
 最後に出家してすぐに崩御し、この吉田山の裏の神楽岡東陵(カグラガオカノヒガシノミササギ)(左京区浄土寺)に葬られています。
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 宮中内の乱暴な事件にも絡んだり、宮中で馬を乗りまわすなど、若気の至りのような事件を起こしていることも、譲位の原因になったかもしれませんが、小倉百人一首13番に
   筑波嶺の 峯よりおつる みなの川
      恋ぞつもりて 淵となりぬる
というような優しい歌も作っていますし、陽成の皇子元良親王(モトヨシ)の歌も小倉百人一首の中にあるので、噂されるよりずっと優しかった可能性大です。
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 文徳ー清和ー陽成と続いた皇統が途切れたので、母高子さんの密通疑惑と同様、滅びた人にはより厳しい説話が残っているというのが世の常かもしれません。
昔々、第25代武烈天皇の皇統が途切れたので、武烈の悪行が日本書紀にまできっちり書かれているのと同じかもです。
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 陽成天皇、平たく言えば、幼くして社長に担ぎあげられ、自分の母親の兄でもある大番頭と母の仲が悪くなったので、これから社長業をしっかりやろうと思っていた矢先に、社長を辞めさせられ、次期社長はなんと万年窓際の平課長で自分の祖父の弟が成り、以後は5代の社長時代を外野から見続けていた。
と言う、不幸と言えば不幸なんですが、でものんびりストレスなく好きな歌や恋をしながら長生きしたので、幸せな人生だったかもしれません。

     返事
花水木さん:私が感染したら、
    バイト先5〜6カ所にかなり迷惑をかけると思うので、
    大丈夫でも今は罹りたくないですが、
    早く感染した人も嫌がられない状況にはなってほしいです。
大雪男さん:今までは混んでいたら、
    うっとおしいと思ってましたが、
    こうどこも空いてくると、心配です。

2020/3/14

不要不急で外出  
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 新型コロナウイルスの感染者も増えてきたので、市中でも感染する可能性は高くなってきた、とは思いますが、まあその分、感染してても元気な人が街を歩いているということなので、感染しても大丈夫かなあと、相変わらず大事な用もないのに、マスクはせずに出歩いている私ですが、今の所まだ元気です。
 近所の知ってる洋食屋さんにも行ってみましたが、歓送迎会のキャンセルが続いてると、危機感有り。
息子の友人の高級料理屋も、東京からの金持ち団体客や外人観光客からも、予約取り消しが続いて大変です、と言うことで行ってみましたが、その日の客は私たちだけでした。
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 瀬戸内の海でも見に行こうと、泊まった牛窓のホテルの大浴場に入ってるのは私だけ。
おまけに次の日は雨で、行きたかった備中高梁城はパスしました。
でもここのホテルの朝食は、バイキングでもないし最高です。
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 学校が休みになって体をもてあましてる孫を連れて、遊園地に行こうと思いましたが、どこの遊園地も閉鎖中、子供たちもあまり外出しないように、と言われてるのを良いことに、ゲームばかりなので、せめて自宅で食卓テーブルテニス。
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 「私も調べたら陽性でした」と、笑って言えるぐらいに感染が広がって、命の危険が少ない普通の感染症にならないと、先に経済の方が破たんしそうです。
 無駄に外出して、お金を使わないといけないと、長浜のレストランでのランチは、写真を食べてから思いだしたので、デザートのみアップ。
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 競馬をPCで買って、TVで観てる分にはなんの変わりもないので、うれしい限りですが、プロ野球の開幕延期も決まってるので、まさか競馬にまで飛び火しないことを祈ってます。
 先週は仲間と雀荘で麻雀しましたが、客は我々1組だけでした。
カーブスも閉鎖してるので、雀荘も感染者が出たら全国的に閉められそうで、心配です。
 河津桜?3月8日湖北でもう満開でした。
 
 新型コロナ新型コロナウイルスと、
TVからは毎日流れてるので、
    「新型コロナならカローラか!」
と、TVに突っ込んでる脳天気な私です。

      返事
和さん:以前から長浜浪漫パスポートはあったのですね。
      観光客は減ってましたが、
     人気親子丼店の外は、相変わらず、行列が出来てましたよ。
花水木さん:馬酔木盆栽の花は可憐です。
      盆梅の手入れ法も聞きましたので、
     「梅切らぬバカ」にならないよう、
     花が終わったら、バッサリ枝切ってみます。
toibnlabecさん:長い名前にすな!と言ったのに。
      梅3000円でした、それが1500円!
     安売りに弱い私は、1500拾った感覚です。

2020/3/11

第69回長浜盆梅展  
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 不要不急の用以外は外出しないようにと言われても、休日家に居るのはもったいないので、そろそろ会期が終わる第69回長浜盆梅展に出かけました。
 高速は土曜日と言うのに空いています。
今回は秀吉が初めて一国一城の城主になった秀吉出世城の長浜城にも、多分初めてと思いますが登ってみました。(長浜浪漫パスポート1000円、9月まで有効を買いまいた)
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 長浜黒壁スクエアには、少しは観光客も出ていました。
長浜の大きいお寺、真宗大谷派長浜別院大通寺にもパスポートで入れるので、これも多分初めて堂内に入ります。
京都の本願寺を少し小さくしたぐらいですが、立派なお寺です。
井伊直弼のお姫さん砂千代が輿入れしてるぐらいの、格式ある寺です。
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 丁度堂内では馬酔木展(これも鉢植えばかり)も開催されていて、野外に咲く馬酔木よりは小さな可憐な花を付けて、匂いも控えめな馬酔木でした。
 堂内には二条城内かと思う、武家造りのような部屋もありました。
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 少なめの近江牛のランチ後、肝心の盆梅展開催中の慶雲館へ。
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 いつもの年より遅めに行ったせいか、コロナのせいか、やっぱり客は少なめです。
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 それでも梅は満開です。
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 人が少ない分、ゆっくりのんびり観て回れました。
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 梅は満開より、枝にチラホラ咲いてるぐらいの方が梅らしいですかね。
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 出口で盆梅を売ってましたが、もう会期終わりかけなので半額にしますと声をかけられ、安売りに弱い私達は思わず一鉢買ってしまいました。
来年は家で盆梅鑑賞をするつもりです。

      返事
大雪男さん:そうですね、
    平安美人は私の好みではないので、考え直します。
花水木さん:まあいろんな人がいますね。
    自分自身が親に躾けられたほどは、
    自分の子供を躾けてないので、やや心配はしてます。
タグ: 長浜 大通寺 長浜城

2020/3/8

番外56-2清和天皇女御藤原高子  天皇陵巡り番外
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 私がこの天皇陵巡りを書いていて、いつも参考にさせてもらってるのは、ブログ「倭は国のまほろば・・・」と「邪馬台国大研究の天皇陵巡り」です。
 特に「倭は国の・・・」さんは、天皇・皇后陵を丹念にしかも年代順にきちっと廻られていて、写真もたくさん掲載されているので、分かり難い陵の場所を探すのに非常に役に立ってます。
以前の文徳天皇皇后明子の墓と伝えられてる姫見塚は、山梨県にあるそうで、私はパスしてますが、奈良の方なのに、ここもきっちり足を運ばれています。
今回の清和天皇女御藤原高子の後深草陵の場所は全く不明なのに、真宗院(シンシュウイン)の円空上人廟のある丘陵地だということで、そこも訪問されていました。
 治定されてないし、山梨県までは遠いので行けませんが、真宗院なら特養で朝働いた後、歩いて訪ねられるので、行ってきました。
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 藤原高子(フジワラノコウシ・タカイコ)(842〜910)は、藤原北家の長男長良(ナガラ)の娘で、後に父長良の弟でありより実力のある良房(ヨシフサ)の養子になって、藤原北家をより強力にした基経(モトツネ)の同母妹にもなります。
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 この高子さん、美人でしたので、次期天皇の妃にすべく、同母兄基経に育てられましたが、あろうことか天下のプレイボーイ在原業平と駆け落ちする、という事件を起こしてしまいました。
 そのほとぼりも冷めた頃、年増になった25歳で入内(ジュダイ)し、9歳年下の清和天皇の女御になりました。
 清和天皇との間には、年上の好リードもあってか、27歳で貞明親王(サダアキラシンノウ)(後の第57代陽成天皇)に続いて、貞保親王(サダヤス)と敦子内親王(アツコ・トンシ)を産んでいます。
 この円空上人廟のある丘が高子の後深草陵?
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 しかしながら、高子と時の権力者同母兄基経との仲は、まったく良くなかったようです。
長男貞明親王は陽成天皇になり、基経は摂政になりましたが、天皇の母として君臨する同母妹高子のことが気に入らなかったのか、基経は陽成天皇を早めに譲位させ、弟の貞保親王でもなく、あろうことかあまり姻戚関係のない年寄りの光孝天皇を指名しています。
 写真はこの丘の廟から深草の方を眺めています。
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 896年、もう未亡人になっていた55歳の頃に、高子さんは自分が建てた寺の座主善祐と密通したとして皇太后を廃されています(後に復権してますが)。
 少し病的な時の権力者同母兄基経に逆らい、熟女としてもなかなか頑張った高子さん、美人でもあるので、ちょっと逢ってみたかった女の人ですね。
 藤原北家のエースとして、跡継ぎの天皇もちゃんと産んでるのに、陵もはっきりしないとは、よほど基経さんに嫌われたのか、明治政府に嫌われたのか、まあその基経さんの墓もはっきりはしてませんがね。
 帰り道で、「しつけ教室」洋裁かなんかの教室?→いや子供の情操教育の教室?→単に犬のしつけ教室の広告でした。

      返事
大雪男さん:もう7年になるのですね!
    ありがとうございます!!
    確かインフルエンザに罹患してじっとしてる時に、
    私のブログをたまたま読んでもらってからですね。
    あの頃のブログの方が面白かった気はしますが、
    天皇陵巡りもよろしくお願いします!
花水木さん:私も子供の時に田舎で土葬をみてます。
    火葬の方がお金が(薪代)かかったのでしょうね。

2020/3/4

56-1のイ清和天皇火葬塚  天皇陵巡り
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 京都吉田山にある浄土宗の金戒光明寺(コンカイコウミョウジ)、幕末に会津藩主松平容保(カタモリ)が京都守護職会津本陣を置いたので、鳥羽伏見の戦いで亡くなった会津藩士の墓もあります。
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 アフロ大仏として近年人気スポットにもなってる五劫思惟阿弥陀仏(ゴコウシュイアミダブツ)です。
*一劫;大岩を3年に一度天女が羽衣でこすることに依って、
    岩が擦り切れて無くなるまでの間、
    ほぼ永遠に近い時間の単位。
ですから五劫なんてのは、無限大以上と言うことでしょうね。
落語の「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ・・・・」の五劫はこれです。納得!
 金戒光明寺にあるこのアフロ大仏を左に見て、お墓へ行く石段を登り、会津藩士墓の更に上に三重塔が有ります。
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 分かり難いですが、その三重塔の裏側に清和天皇火葬塚を見つけました。
前回の御陵のあった水尾にお寺を建立しようと思っていた時に、源融の嵯峨の別邸で発病し、この近くの円覚寺(今はない)で亡くなった清和天皇は、ここで火葬されたようです。
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 火葬後の遺骨は前回の清和天皇水尾山陵近くに埋葬されたようで、薄葬の遺詔があってか陵は築かれず、今の水尾の陵やこの火葬塚も後世のものです。
 天皇として最初に火葬されたのは持統天皇ですが、平安初期からしばらくは皇族や金持ちは火葬される風習も出てきたのですかね。
 火葬塚も紹介するので大変ですが、まあ分かった限りは本ブログで紹介して、数を稼ぎます。

      返事
花水木さん:普通の市民の私ですが、
    小さな小さな権力争いはしてますので、
    時々嫌になります。
大雪男さん:日本人は怖がりなのか、
    心配性なのか、右に習えが好きなのか、
    なんだかたいした民族ではない気もしてきてます。
    その点馬は、マスクもせず、観客がいなくても黙って走ってくれています。
    まあ私の思い通りの走りはしてくれませんが。


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