2020/5/31
6月は変わるのかな?

5月終わりますが、まだアベノマスクも給付金申請書も我が家には届いていません。
緊急事態宣言は解除されたので、6月からの出勤の許可が出た病院もありますし、麻雀も出来そうですが、なまった体になったので、仕事増えるの心配ですし、遊びに行く習慣までなくなってきそうです。
まあそれでも海を見に、少し他府県に入りましたが、週末はドライブしました。

途中の道の駅の食堂も開いていましたが、座席は向かい合わず、1席づつ離れて座ります。
海鮮ラーメンは、離れていても美味しかったです。

岸壁の母で有名な、舞鶴引揚記念館(400円)にも初めて行きました。
ソ連や満州からの引揚は、昭和33年まで続いていたようで、もう10歳になっていたのに、私には記憶がありません。
私の父も南洋のブーゲンビルで終戦を迎え、捕虜になっていたようですが、1歳上の姉が昭和22年生まれなので、終戦後1年以内には日本に帰還してるはずです。

第87回日本ダービーは無観客試合で、平原綾香さんの国家独唱も武豊の騎手挨拶も、無人のスタンド前でした。
1着単勝1.4倍の5番コントレイル・2着2番人気の12番サリオスで固かったですが、写真左端で粘ってくれた10番人気の池添騎手の6番ヴェルトライゼンデが3着に滑り込みました。
私はだいたい池添さんを買ってるので、今回は5番・6番の軸2頭流しで6通り買いましたので、買った中では一番安いですが、5・6・12の三連複を久しぶりに獲りました。
流した中でブービー人気の7番ブラックホークも買っていて、5・6・7のコ・ロ・ナなら今年にぴったりで、大金持ちに成れるはずでしたが、それは無理。
でも、5番6番とサリオスが入ったので、5・6(7)・サリオス→コ・ロ(ナ)去り(オス)で、今日も全部の収支はマイナスですが、まあ満足ですかね。
返事
花水木さん:最近のキラキラネームも読めませんが、
昔の名前も読めませんし、変換しにくいですし、
覚えられないので、何回も読みを書いています。

2020/5/29
63-5冷泉天皇皇子敦道親王 天皇陵巡り

第63代冷泉天皇が譲位した後ですが、第4皇子として生まれたのが敦道親王(アツミチシンノウ)(981〜1007)です。
母は藤原兼家の娘超子なので、第67代三条天皇の同母弟になりますし、第65代花山天皇の異母弟でもあります。

敦道親王の最初の妃は、母超子の同母兄関白道隆(953〜995)の三女でしたが、道隆の死後は別れています。
その後藤原忠平の五男師尹(モロタカ)の次男藤原済時(ナリトキ)(941〜995)の娘(兄の三条天皇皇后娍子(セイシ)の妹)が、正妃になりました。
宇治陵はこの総拝所以外に36号の陵があるためか、宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 宇治部事務所の小屋もあり、常駐されているようです。

同母兄である為尊親王(タメタカ)(977〜1002)の死後約1年で、死んだ兄の恋人だった和泉式部と恋愛関係になったので、その正妃も怒って離婚されています。
やや軽薄な正確だったようですが、外祖父兼家には愛されたようで、若くして亡くなりましたが、その為かこの宇治陵に葬られ、制札最後から2番目に冷泉天皇皇子敦道親王墓と記されていました。

和泉式部との間に男の子を一人もうけていますが、こちらも恋多き女性和泉式部、他の父親(橘道貞(タチバナノミチサダ))との間の娘、とんちで勝ったこの歌の小式部内侍の方が有名ですね。

2020/5/27
63-4冷泉天皇女御贈皇太后超子 天皇陵巡り

藤原師輔(モロスケ)の三男兼家(929〜990)は藤原道綱母(936?〜995)との間に、当たり前ですが次男道綱(955〜1020)をもうけています。
小倉百人一首では、右大将道綱母で、日本三大美人の一人です。

藤原兼家は正室としては、藤原中正(ナカマサ)の娘藤原時姫(トキヒメ)(〜980)との間に、長男道隆(ミチタカ)(953〜995)・三男道兼(ミチカネ)(961〜995)・五男道長(966〜1028)をもうけたほか、天皇に嫁いだ超子・詮子(センシ)(962〜1002)も産まれています。
長男道隆に嫁いだ高階貴子(タカシナタカコ)(〜996)は伊周(コレチカ)(974〜1010)や一条天皇の皇后になった定子(テイシ)(977〜1001)等三男四女を産み、息子伊周の役職をとって、小倉百人一首では儀同三司母と名乗って、右大将道綱母の次54番目にあがってます。

長い前振りになりましたが、この兼家と時姫の長女が超子(チョウシ・トオコ)(954?〜982)です。
968年に第63代冷泉天皇(950〜1011)(在位967〜969)の後宮に入り女御になりましたが、子供が産まれたのは冷泉天皇が譲位してからです。

超子は3歳で死んだ内親王を産んだ後に、居貞親王(オキサダ)(976〜1017)(後の三条天皇)を産み、その後も為尊親王(タメタカ)(977〜1002)・敦道親王(アツミチ)(981〜1007)を産みました。

30歳にならずして、徹夜の行事の明け方に、脇息に寄りかかったまま亡くなりました。
亡くなってからですが、息子居貞親王が第67代三条天皇になったので、制札9番目に三条天皇御母贈皇太后超子と書かれてる宇治陵に葬られています。
返事
花水木さん:五島弁で一番有名なのが
=みじょか=です。
整形顔がくずれはじめると、怖いですね。
toitenlabeeさん:実は宇治陵の写真は
1年前の今頃です。

2020/5/25
63-3冷泉天皇女御贈皇太后懐子 天皇陵巡り

第62代村上天皇皇后安子の兄藤原伊尹(コレタダ・コレマサ)(924〜972)を父に、第60代醍醐天皇第3皇子代明親王(ヨシアキラ)の娘恵子女王(ケイシ)(925〜975)を母に持つのが、今回の藤原懐子(フジワラノカイシ・チカコ)(945〜992)です。
父伊尹は「後撰和歌集」の編纂に関与し、死後は謙徳公をおくられ、小倉百人一首にも選ばれています。

又懐子の同母弟に藤原挙賢(タカカタ)・義孝(ヨシタカ)(双子かも?)兄弟もいますが、二人とも美男子だったようですが、21歳で朝に兄挙賢が、夕に義孝が天然痘で死んでいます。
また義孝の息子(懐子の甥になります)に三蹟の一人藤原行成(ユキナリ・コウゼイ)がいます。
義孝の歌は小倉百人一首の50番目の歌ですが、絵札の顔はそれほどのイケメンでもなさそうでした。

懐子は憲平親王に入内し、内親王二人を産んだ後に、その憲平親王が第63代冷泉天皇(在位967〜969)になったので、更衣・女御になり、968年第1皇子師貞親王(モロサダ)(968〜1008)(後の花山天皇)を産んでいます。

我が子が天皇になったのを知らずに、懐子は30歳で亡くなって、この宇治陵のどこかに葬られたようですが、総拝所の制札6番目に、冷泉天皇女御ではなく、花山天皇御母贈皇太后懐子と書いてありました。
返事
和さん:ビッツンナカの言葉の中に、
なかなかブスは想像できませんでした。
桜・新緑共に、今年は近場ばかりで終わりました。
もう宝ヶ池周辺も暑くなってきてます。
大雪男さん:ビッツミジョカって良いですが、
例に挙げた人が・・・・。
中学時代に、同級生に弘田三枝子ファンがいましたが、
子供心にも、なんでやねんと思っていました。
私は山ではなく、6月からは麻雀できそうです。
旧知の人(私の場合は60年以上の旧知)と
高くないレート(レート下がってます)なら、
賭け麻雀は罪になりませんと、法務省も答弁してくれたので、
安心して出来るようになりました。

2020/5/22
63-2冷泉天皇皇后昌子内親王 天皇陵巡り

京都市左京区岩倉には、最近は「床もみじ」「床みどり」でよけい有名になった岩倉実相院があります。

私はこの近くの病院の入院患者のちょっとした外科処置を頼まれて、週2回ほど仕事をさせてもらっています。(新型コロナでこの1ヶ月は、出勤停止中ですが)
近くの関連施設からも時々呼ばれて、この磐座神社(イワクラジンジャ)の左側の石段を登って行ってます。

この施設の3階から、畏れ多くも御陵が見下ろせます。
秋の紅葉はなかなかのものです。

第61代朱雀天皇が譲位した4年後、姪でもある女御の煕子女王(キシ)(朱雀の兄保明親王の娘)に産ませた唯一の娘が、この御陵の主 昌子内親王(マサコナイシンノウ)(950〜1000)です。

母の煕子女王は出産で亡くなり、父朱雀上皇も亡くなったので、昌子内親王は叔父第62代村上天皇の手厚い庇護の下に育ちました。
季節は変わっても、やはり施設から見下ろした写真です。

14歳同士で、叔父村上天皇の皇太子憲平親王(ノリヒラ)(950〜1011)に入内しましたが、子供には恵まれませんでした。
憲平親王が第63代冷泉天皇となり、昌子内親王は皇后になりましたが、男子を産んだ藤原家の他の女御、懐子(カイシ)・超子(チョウシ)に遠慮して、内親王ではありましたがつつましく過ごされたそうです。(奇行の多い夫冷泉天皇を避けた説もあります)

和泉式部は昌子内親王に仕えていたと言われてますが、有名なのは紫式部と一緒に彰子(ショウシ)に仕えていた方ですよね。

御陵近くにある看板ですが、昌子内親王は仏教を篤く信仰し、ここ岩倉に観音院・大雲寺を創建されたので、この寺に土葬されたようです。
岩倉陵(イワクラノミササギ)(左京区岩倉)は観音院跡に、明治17年に治定されたものです。
返事
花水木さん:人を見たら感染者だと思え、
っていう世界は嫌ですね。
これでは当分祭りやスポーツはダメですね。
大雪男さん:人と人とが接触しない、
以外の方法で、新型コロナと共存したいですね。
和さん:ビッツンナカの意味は判りません。
シフォンさんやコーヒーブレイクさんの五島の写真には、
私もいつも癒されています。

2020/5/20
植物園

懐かしの富江病院情報誌=みじょか=、毎月1回発行で、私の在職中から発行されたので、もう5年以上第64号になっていました。
巻末には不肖私が連載しだした-富江探訪-、これももう第60回と続いていますので、今でも律儀に毎月我が家まで届けてくれます。
私がたぶん=みじょか=(可愛い女の子の意)の、一番遠い所の読者になってると思います。
小原院長!まだ貝集めてますか〜、外来・病棟・事務所・食堂・リハビリ・検査・レントゲンや警備室の皆さん・そして退職した人も、お元気ですか〜。
一人ぐらいは読んでくれてると思うので、よろしく!
五島列島は、まだ感染者ゼロのようですが、やっぱり三密は避けてるんですね。

京都は今日にでも解除されそうですが、私の今日の出勤はまだ許可されていないので、再開した植物園まで朝の散歩です。
京都府立植物園には、老人証明書で無料で入れますが、やっぱりおでこの熱を測られました。
朝一番でしたが、暑くもなく寒くもなく、風もさわやかな一日です。
後ろに写る温室だけは、まだ解放されていませんでした。

植物園の桜は、ほぼ人に観られることなく、今年は葉桜になりました。
園内のバラ園は満開です。
今日は平日で観れますが、土日は混みそうなので、バラ園だけは人を入れないそうです。
そんなことをしたら、周りに人があふれて、余計に密になりそうですよ。
三密の味は、蜜の味!

やはり薔薇は、真っ赤なバラが薔薇らしいですね!

真っ赤なばあらあ〜が

花の周りには、ここも年寄りの写真マニアが多いです。
同じ年寄りとして、私も芸術的に撮ってみましたが、狙いが感じられなく、もひとつでした。

園内のベンチも、真ん中に紐がかけられて、座れないのかと思ったら、「離れてお座りください」の貼紙。
左右に座ってみましたが、我々年寄りのアベックには、丁度良い距離かも。
恋人同士なら、ちょっと離れすぎで、いやでしょうが、初デートなら、この距離もなかなか良いと思いますよ。
それから徐々に距離が縮まって、愛し合えるようになる、と妄想に耽りながら、植物園のベンチに、家内の「行くよ」の声まで座っていました。
返事
花水木さん:TVの取材を受けてる小学生は、
「学校に行って勉強したい」とか「友達に会いたい」とか、
我が孫よりしっかりと言ってましたよ。
フランス人まで皆マスクをしてますね。
誰がマスクは絶対なんてことを言いだしたんでしょうね。
大雪男さん:山まで自粛って、
何か不可解ですね。
もう汗やつばが飛び交うスポーツは無理なんでしょうか・・・。

2020/5/18
63⁻1冷泉天皇 天皇陵巡り

また月曜日、自転車で鴨川を渡って出勤ですが、帰った午後は雨になりました。
新型コロナは夏に向かって一旦は終息しそうですね。
でも、緊急事態宣言は解除されてきましたが、新しい生活様式ででって、マスクも付けて、距離も保って、三密は避けて、なんか「人間は危ないので近寄らないように、あんたも危ない人間だから近寄らんといて」と、言われてるようで、生活変えろって言われても・・・。
なんか寂しい未来ですね。
新型コロナ自体には今の所負けてはいませんが、新型コロナの作る世界に負けそうなので、腰が痛い?です。
新しい生活様式の新人類には成れそうもないので、旧人類として滅びて行きそうですが、滅びる前に又天皇陵巡りです。
よろしく!

第62代村上天皇8(926〜967)と藤原安子(927〜964)が一緒になったのは、安子13歳の時です。
一人内親王が産まれましたが、皇子は10年後にやっと憲平親王(ノリヒラシンノウ)が産まれました。
哲学の道の向こうにわずかに陵が見える写真です。

第1皇子としては、ちょっと前に産まれた広平親王(ヒロヒラ)(950〜971)がいましたが、母親が大納言藤原元方(モトカタ)(南家)の娘で更衣の藤原祐姫(スケヒメ)でしたので、外祖父の力の差で、藤原師輔(モロスケ)の娘安子産の憲平親王が、生後すぐに立太子しています。

ちなみに、天皇の外戚になり損ねた元方は、気落ちして病死したのですが、冷泉天皇の精神の病、三条天皇の目の病は、この元方の怨霊のなせる業とも言われました。

憲平親王は父村上天皇が亡くなったので、18歳で即位第63代冷泉天皇(レイゼイ)(950〜1011)(在位967〜969)となりました。
実権は関白になった藤原実頼(サネヨリ)が握ったままでした。

冷泉天皇は子供の時から奇行が多く、父村上天皇への手紙に大きく陰茎を書いたり、一日中足から血が出るほど蹴鞠を続けていたとか、所かまわず大声で歌を歌った、とか書かれています。
まあ、子供はウ○チ・チ○ポとか好きですし、一日中ゲームしてる子もいるので、それ程の奇行ではないような気もします。
冷泉天皇の家系は後に途絶えているので、例によって歴史書は奇行などを、誇張して残したのかもしれません。

即位してすぐから、2歳年下で、父村上天皇が可愛がっていた同母弟為平親王(タメヒラ)(952〜1010)を、次期天皇にとする動きもあったようですが、為平親王の妃が第60代醍醐天皇第10皇子で臣籍降下した優秀な左大臣源高明(タカアキラ)(914〜983)であった為に、藤原北家の陰謀に依り、高明らは太宰府に流され、為平親王の目は潰されました。
これが969年の安和の変(アンナノヘン)です、今も昔も権力者は同じようなことをしますね。
写真は御陵の南西近くに別に有る火葬塚への入り口です。

安和の変後、冷泉天皇は譲位し、9歳年下の同母弟守平親王(モリヒラ)が第64代円融天皇になりました。
門が閉まっていたので裏に廻ろうと一周して帰って来たら、何故か鍵が開いていたので、そっと参道を進んでみました。
丁度掃除に来られていたようで、見つからないようにササッと写真を撮って戻りました。

冷泉天皇の皇后は昌子内親王(950〜999)ですが、子には恵まれませんでした。(避けたとも言われてます)
女御の藤原懐子(カイシ)から第65代花山天皇が、女御の超子(チョウシ)から第67代三条天皇が産まれています。
冷泉天皇火葬塚(左京区鹿ケ谷西寺ノ前町)

譲位後40年以上の上皇生活を過ごし、鹿ケ谷近くで火葬され、桜本陵(サクラモトノミササギ)(左京区鹿ケ谷法然院町)に葬られています。
この御陵は、25年後に死んだ道長の娘で後一条天皇皇后威子(イシ)の火葬塚でもあるので、天皇の墓を火葬場に使うのは違和感ありますので、威子の火葬塚を後に冷泉天皇陵としたのですかね?
返事
花水木さん:私の小学生の孫たちは、
学校に行かない方が楽しいと、
ちょっとドキッとするようなことを言ってます。
私は小学生の時に、危うく留年するぐらいの半年以上病欠してます。
その時もそれほど学校に行きたいとは思わなかったので、遺伝ですかね。

2020/5/15
62-2村上天皇皇后藤原安子 天皇陵巡り

今週から仕事がまた始まりました。
まだ来なくても良い、と言われてる病院もあるので、3日間しか行ってませんが、なんか疲れました。
休みに慣れると、これくらいのたいしたこともない仕事でもしんどいです。
今日は5月15日(金)、朝からすることないので、ブラブラ南の方まで散歩、本来なら今日は葵祭、でも下鴨神社周囲は、写真の如く静かです。
競馬の貯金を入れて、週末に備えますが、京都もまだ解除してくれないので、今日から3日間の休みはなにをするか・・・・・。
YouTubeの講談と朗読を勧められましたし、NOTEというのも知りましたが・・・・。
さて枕を終えて、本題の天皇陵巡りですが、「ア!席を立たないでくださいね」

藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927〜964)は、藤原忠平の次男師輔(モロスケ)の長女で、母親は藤原南家の藤原経邦(ツネクニ)の娘盛子(セイシ)(〜943)です。
宇治陵制札に沢山並んだ名前の3番目です。

師輔-盛子夫婦は安子以外にも、伊尹(コレタダ)(924〜972)(右大臣)・兼通(カネミチ)(925〜977)(関白太政大臣)・兼家(カネイエ)(929〜990)(摂政関白太政大臣)・忠君(タダキミ)・登子(トウシ)・怤子(フシ)と、計7人のそうそうたる子供をもうけています。
宇治陵総拝所です。

同母兄弟姉妹がそうそうたる人物になれたのは、940年に安子13歳で成明親王(後の村上天皇)と結婚し、
承子内親王(ショウシ)(948〜951)4歳で没
憲平親王(ノリヒラ)(950〜1011)後の冷泉天皇
為平親王(タメヒラ)(952〜1010)
輔子内親王(ホシ)(953〜992)伊勢斎王
資子内親王(シシ)(955〜1015)
守平親王(モリヒラ)(959〜991)後の円融天皇
選子内親王(センシ)(964〜1035)12歳から57年間賀茂斎院
を産んだからです。
写真は宇治陵4号へ通じる道、民家の間で分かり難い所ばかりに有ります。

安子は末娘選子内親王を産んですぐに、37歳で亡くなっていますが、藤原北家から来た先代の穏子と安子の二人が、高齢になるまで沢山の子供を産んだことが、藤原北家の男たちに外戚としての地位を授けて、繁栄させたと言えます。
丈夫で多産の娘を持った者が、偉くなって日本の政治を動かしていったという、平安時代の物語なんですね。
左京区吉田の狭い道を歩いていて、突然新しい門を見つけました。

この安子さん、嫉妬深い性格と言うか、気のきつい女の人だったようで、夫(天皇)が寵愛した藤原芳子(ヨシコ)があまりにも美人だったので、悔しくてかわらけを投げつけたり、それに立腹した天皇が、安子の兄弟たちを謹慎にすると(安子自身を怒るのは怖かったのですかね)、天皇に詰めよって、これを撤回までさせたそうです。
塀の左から、少し内部が見えました。

安子の陵は、やはり藤原北家の皇后たちが集まってる宇治陵(宇治市木幡)にまつられていますが、左京区吉田の橘井寮辺りで、他の陵墓を捜してる時に、かなり立派な塀に囲まれてる安子火葬塚(左京区吉田泉殿町)を見つけました。
隣が更地になっていたので、右側からは全部見えました。
村上天皇皇后安子火葬塚です。
返事
花水木さん:いつも替え歌を褒めてもらえるので、
単純で褒め言葉にめっぽう弱い私は、うれしいです。
NOTEを知りましたが、上手に登録できません。
もう少しお待ちください。

2020/5/11
62-1村上天皇 天皇陵巡り

外戚としての地位を、再び藤原北家に取り戻したのは、穏子(オンシ・ヤスコ)が頑張って、男の子を3人も産み続けたおかげのようです。
穏子は第60代醍醐天皇との間に、18歳で保明親王(ヤスアキラ)を産み、保明は皇太子までで死にましたが、38歳で寛明親王(ユタアキラ)(後の第61代朱雀天皇)を産み、最後成明親王(ナリアキラシンノウ)を産んだのは41歳の時です。
福王寺の五叉路から、息子の円融天皇陵の横を通って、宇多野小学校・妙光寺まで登って行くと、この参道入り口にたどり着きました。

第14皇子成明親王が、同母兄朱雀天皇に代わって即位し、第62代村上天皇(ムラカミ)(926〜967)(在位946〜967)となりました。
参道の石段は幅広く、綺麗に整備されていました。

成人していたので、叔父の忠平(880〜949)が関白を務め、忠平死後は、村上天皇自身の親政とも言われていますが、実質は忠平長男の実頼(サネヨリ)(900〜970)と次男の師輔(モロスケ)(909〜960)が握っていたようです。
小高く立派な拝所が見えてきました。

同母兄朱雀天皇より精力家であったのか、10人以上の女御・更衣に20人以上の子供を産ませています。
第1皇子は大納言藤原元方(モトカタ)の娘祐姫(スケヒメ)が産んだ広平親王(ヒロヒラ)(950〜971)ですが、祖父元方が藤原南家でしたので、残念ながら皇太子にはなれませんでした。
結構高い所まで登ってきたので、振り返ると眺めは良いです。

村上天皇中宮藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927〜964)は右大臣師輔の娘であり、第2皇子憲平親王(ノリヒラ)(第63代冷泉天皇)・第7皇子守平親王(モリヒラ)(第64代円融天皇)など、9人もの皇子女をもうけており、憲平親王が皇太子に選ばれています。

村上天皇の治世は、比較的平和でありましたが、承平・天慶の乱後の地方の荒廃や、財政の困窮など、問題はあったようです。
村上天皇は42歳で崩御し、ここ村上陵(ムラカミノミササギ)(右京区鳴滝宇多野)の葬られています。
私はこの鳴滝で大学生時代を過ごしましたが、ここまで登ってきたのは初めてです。
返事
toitenlabeeさん:暑くなくてもマスクはうっとおしい。
私はひげがフィルターになってるので、
マスクは不用の人間なんですがね。

タグ: 天皇陵
2020/5/10
連休終わり

私にとって5月1日から始まった10日間のゴールデンウイーク、2回ほど入所者が亡くなられて臨時に呼び出されましたが、真ん中の木曜日に仕事に行っただけで、休日でした。
最後の日朝8時半、雨が降る前の散歩も行って、この3回開催で負け続けてる競馬も、4回目の正直と買い終わり、残りの時間有効?に何に使いましょう。

この10日間で出来たこと;
*再放送ばかりのTVや、新型コロナのニュースにも飽きました。
*YouTubeの利用の仕方を知ったのは、良かったです。(花水木さんに感謝)
*唯一Godfatherがゆっくり観れたのは収穫です、水曜日PartVも観れます。
*ドローンはこの通り上手になり、競馬を観ながらでも飛ばせるようになりました。
早く孫たちに自慢したいものです。
*競馬は沢山やれた分だけ、沢山負けました。
最後の今日のNHKマイルで、貯金はそこをつきました。
*毎日ぐらい近所の散歩は出来ましたが、早く他府県に行きたいです。
*こんな時の読書と思ってましたが、意外とこれは出来ませんでした。
*資料の整理は結構出来ましたが、外科関係の資料は大分破棄、
どんどん外科臨床医から離れて行ってます。

*ブログの整理もしてみました。
奈留島からの発信の頃は、半分以上がコメントの時も有ったので、
今はちょっと寂しいです。
あの頃よく万馬券もあったようですが、今はそれも夢。
*一度だけ自転車で天皇陵巡りした以外は、
仕事に車で出たのと、近所の買い物に出たのと、散歩だけの外出。
模範国民に近いぐらい・・・。

今さあ〜ら 人ごみに 出てわ〜 行けないわ
コロナに 決して 負けたりしないから
マスクわ〜 はずさして ほしいのよ

でもこの10日間で、自粛太り約2kg!
少しは生き方が変わったような気がしますが、まあノー天気なのは変えずに、余生を楽しみたいと思ってます。
変わらずの御贔屓を、どうかよろしくお願いいたします。
返事
toitenlabeeさん:私は自粛ボケになりそうです。
さんまさん:久しぶりにブログも更新されていましたね。
私は卓球は全く出来ていません。
富江の義兄さんは誰でしたかね?
