奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/8/30

70-1後冷泉天皇  天皇陵巡り
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 天皇陵巡りもなんとか70代まで行きついて、半分以上は過ぎました。
巡った陵の貯金も、夏の暑さで少なくなりつつあるので、秋になったら又ちょこちょこ陵墓巡りをしていく予定です。
 先代第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)がまだ皇太子の頃に、藤原道長(966〜1028)6女嬉子との間に産まれた第1皇子が、親仁親王(チカヒトシンノウ)ですが、母嬉子はお産直後に10代で亡くなっています。
  龍安寺の裏山の陵を巡った後、下りてくると、龍安寺の裏に三つ並んだ鳥居の有る陵がありますが、真ん中が圓教寺陵です
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 親仁親王は父の後朱雀天皇が即位したので、1037年には立太子し、父の譲位に伴い21歳で即位し、第70代後冷泉天皇(ゴレイゼイ)(1025〜1068)(在位1045〜1068)と成りました。
 祖父道長はもう亡くなっていましたが、その長男頼通(ヨリミチ)(992〜1074)が権力を握っていて、「天皇は全てにおいて宇治殿(頼通)の言うがままであった」と伝えられています。
 後冷泉天皇は、蹴鞠や歌合せなど宮廷の優雅な生活に溺れて、政治にはあまり関心を示さなかったようです。
  向かって左に異母弟の後三条天皇、右には父の後朱雀天皇が眠っています
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 後冷泉天皇の治世の時代は、丁度末法に入った1052年頃であり、高校日本史で学んでる時も理解できなかった、陸奥の豪族安部氏を河内源氏の源頼義・義家が滅ぼした「前九年の役」(1051〜1062)の頃です。
  右の鳥居は父の陵、三つの陵それぞれが寺なんですかね?
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 伯父である後一条天皇第1皇女で、母は道長4女威子(イシ)である章子内親王(ショウシ・アキコ)(1027〜1105)が1038年に12歳で入内してますが、子は生れませんでした。
 関白頼通の長女寛子(カンシ・ヒロコ)(1036〜1127)も期待を背に1050年に入内しましたが子に恵まれませんでした。
 頼通の同母弟教通(ノリミチ)三女歓子(カンシ)(1021〜1102)はその前1047年に入内していて、皇子を産みましたが死産です。
 この3人が正妃になるという異例のこともありましたが、いずれにもお世継ぎは生れませんでした。
  少し高い所にある陵なので、はっきり見えそうで見えなかった陵です
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 唯一後冷泉天皇には、1051年皇子が産まれていますが、あまりにも母親の身分が低いために養子に出されています(高階為行)。
 こうして後冷泉天皇には世継ぎが無く、とうとうここで第61代朱雀天皇から続いた母親が藤原北家の娘である天皇は終わり、それと共に時代は摂関政治から院政に移って行きます。
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 後冷泉天皇は、父と異母弟と一緒になった陵ですが名前は別々の、圓教寺陵(エンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られていますが、火葬塚は別のもっと市内の千本北大路交差点の正に北東角にあります。
この辺りの火葬塚と同じく制札はパソコン文字でした。

       返事
大雪男さん:Go To Travel効果とはあまり関係ないと思いますが、
    9月の連休に高齢者の旅行する気がどのくらいになってるか・・・。
     焼き魚が何だったか、すみません判りません。
     プロ野球が面白くないスポーツになってきています。
花水木さん:城好きな人は沢山います。
     新型コロナも半年以上、
    なんか気分が萎えているのは、年のせいだけでもないようですが、
    若いこれからの人は、孫も含めて大変です。
     女の人にとって、上げ膳据え膳が、
    旅の一番の喜びのようですね。

2020/8/27

金沢からの帰り  
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 金沢まで行って美術館を観るだけなら、日帰りでも行けないこともないのですが、だんだん歳を取って、車の運転も無理しないようになり、しかもGo To Travelで宿泊費もかなり安くなるので、金沢の奥座敷で開湯1400年の辰口温泉で泊まることにしました。
 小さな料亭風の旅館なので、部屋から風呂場までも10ⅿ程、5回温泉に入りましたが、5回とも私一人の独占で、良い湯でした。
 
 朝食もゆっくりと、品数多数の和食です。
最後にロビーでコーヒーも飲めたので、和食で充分です。
 Go To Travelで安くなりましたが、果たしてこんな税金の使い方でいいのかは疑問です。
新型コロナ対策で、もっともっと必要にしてる人や場所があると思うので、余裕のある年寄り旅行者に、こんな税金の使い方をするのではなく、もっともっと有効な税金の使い道は有ると思うのですがね。
と言いながら、10万円の給付金も貰っていますし、安い間に旅行も行きたいと思ってる、自分勝手な年寄りです。
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 ブラブラ帰ろうと、先ずは御鎮座二千百年を数える加賀国一ノ宮白山比ㇿ羊神社(シラヤマヒメジンジャ)、白山さん(シラヤマサン)へ。
ここは全国に3千以上あって、神社の数では一番多い、白山神社の総本宮らしいです。
でもそれほど大きくはないのは、御神体が霊峰白山自体だからですかね。
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 以前も家族で行ってますし、北陸自動車道から見える毎に「丸岡城や丸岡城や」と言ってる丸岡城(450円)にも寄りました。
天守の瓦が石瓦なのは、この城だけです。
 築城時の姿を保ってる天守を持つ城は、「現存12天守」と言って、全国に12しか有りません。
昨年念願の弘前城に行ったので、あと登ってない天守は12のうち二城で、何故か多分登ってない高知城と松山城だけです。
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 現存してる天守の階段はどこも皆急なので、早くあと二城行かないと、登れなくなりそうな私ですが、上まで登るとこんな小さい天守でも景色は良いです。
敦賀から金沢に行く道すがら、あちこちで北陸新幹線の延長工事現場が見られますが、この天守からも、大分出来つつある高架線路が見えています。
敦賀から北陸新幹線に乗れるまでは生きていそうです。

       返事
花水木さん:ブログ書きかけで誤送信してしまいました。
    途中までしか見ておられませんよ!
     雌は優秀な子供を残さなければならないので。
    イケメンを選ぶんですよ。
    雄はできるなら、基本誰でもいいんですよ。
大雪男さん:力のある選手をうまく使うのが、
    監督の能力だと思います。
     阪神は巨人に負けて、他ではそこそこなので、最低ですよ!
    変に他チームに勝つな!と言いたいです。
    残り試合巨人にだけ勝て!

2020/8/24

鴨居玲展  
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 お盆も過ぎて京都はまだまだ暑いですが、少しだけ涼しい感じで、クーラーも以前より効きだした気もします。
新型コロナの第2波も、確かにピークが終わったような気もしますが、3〜6カ月後には第3波が来るでしょうね。
寒さと共にか、インフルエンザと共にか、外国人と共にか。
 まだ出歩くのは早いかもしれませんが、先週末は久しぶりに遠出で、金沢まで行ってきました。
   写真は石川県立美術館入り口
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 金沢市内の金沢城や兼六園のある辺りは、金沢21世紀美術館などの文化施設も集まっていて、以前もこの辺りを紹介しましたが、今回は2度目の石川県立美術館の紹介です。
 ここには野々村仁清の国宝色絵雉香炉が常設展示されていますが、何故か対の雌の方の色絵雌雉香炉の方は重文止まりです。
男女平等でないのを、家内は以前も怒っていましたが、確かに雉は雄が綺麗ですが、この香炉作品は、雌の方の色合いやポーズ共に、国宝の雄より良いような気がしますので、国宝と重文を入れ替えても良いと思っています。
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目的は「没後35年鴨居玲展-静止した刻-」です。(65歳以上で二人とも800円)
今春京都でも開催予定でしたが、新型コロナで中止になりました。
 以前長崎県美術館で鴨井玲(1928〜1985)の作品をたまたま観て、(鴨居の本籍は長崎県)少しだけ私の琴線に触れました。
昔々、鴨井玲のお姉さん鴨井羊子が下着デザイナーで有名になって、平凡パンチかなんかで知ったのか、「下着」や「スキャンティー」と言う活字だけで、私は鴨井羊子さんの名を憶えていました。
長崎で初めて、あの鴨井羊子の弟が鴨井玲と知ったぐらいです。
 私より20歳年上の鴨井玲の絵は、昭和40年代ぐらいの作品が良かったですが、最後の方の新しい作風の作品はもひとつで、又以前の作風に戻っても、なかなか本人は満足できなかったのでしょうね、創作するものが無くなったのでしょうか、死を選んでいます。
 創造する人は大変です、外科医のような修繕屋を仕事に選んで、本当に良かったと思います(ちっとも創造力が無かった凡人で私は幸せですが、スキャンティーなどからの想像力は凡人以上にあります)
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 美術館内の有名なル・ミュゼ・ドゥ・アッシュで今回もケーキを食べました。
朝早く家を出て、途中のサービスエリアで早い昼食(遅い朝食)を食べたので、この日の昼食はこれだけです。
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 美術館隣に、前回は気づかなかった いしかわ赤レンガミュージアム(500円)にも寄ってみました。
旧金沢陸軍の兵器庫跡を歴史博物館などにしたもので、立派な建物ですし、この辰巳用水噴水モニュメントも涼しそうですが、やっぱり金沢も外は暑いので、兼六園や金沢城はパスしました。
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 それでも車で迷っても30分ほどの、加賀藩主前田家墓所には行きました。
これがまあ、一人一人の墓が天皇陵かと思うぐらい大きくて、熊が出没するという警告立札がある山の中を、グルグル汗びっしょりになって廻るのも大変でした。
携帯で音楽を大きく流しながら、少しびくびくしながら回ったのも、この墓所の中に宮内庁治定のお姫様の墓があるからで、ちゃっかり天皇陵巡りの一つも消化してきました。

      返事
大雪男さん:先週の猛暑に比べて、
    今週は33℃ぐらいになったので、涼しく秋が来たかなあと思ってしまう、
    自分が恐ろしいですね。
     阪神あんなに巨人に弱いと、他チームにも申し訳たたず、
    もう応援する気になれませんよ!
    矢野は今季限りですね。
    岡田がなってくれないかなあ、と思ってます。

2020/8/22

69-4後朱雀天皇准后生子  天皇陵巡り
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 道長5男の藤原教通(ノリミチ)(996〜1075)と藤原公任(キントウ)の娘との間に、長女として産まれたのが藤原生子(フジワラノセイコ・ナリコ)(1014〜1068)です。
 父教通は最後は関白ですし、母方祖父公任は写真に又だしてます大納言公任で、三舟の才もある歌人です。
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 父教通は、最初は16歳の生子を第68代後一条天皇に入内させようとしましたが、自分の母倫子や同母兄の関白頼通の反対にあい、あきらめました。
 しかしその次の第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)には、これも反対がありましたが、26歳と年増になっていた生子を、強引に入内させ女御と成りました。
  宇治陵総拝所の前をJR奈良線が走っています。
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 意外と生子と後朱雀天皇との仲は良かったのですが、子供はできませんでした。
後朱雀天皇自身が生子を皇后に推した時には、伯父である関白頼通は、同母弟の娘であるにもかかわらず、生子には皇子も無く、生子が執柄(シッペイ)(摂政関白の別名・政治権力を握ること)の娘ではないと、拒否したそうです。
  宇治陵総拝所前に立つ藤原氏塋域の碑には、頼通の名はありますが、もちろん教通はありません。
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 1045年後朱雀天皇の譲位と共に、生子は内裏を去り、10年後には出家。
太皇太后・皇太后・皇后に準じた処遇である准后を与えられていたために、宇治陵総拝所制札の最後に、准后藤原生子墓と書かれていました。

      返事
花水木さん:当時の夏休みの記録に、
    30℃以上の日ってあまりなかったと思いますよね。
     冷やしたスイカではなく、冷やした桃やトマトを、田舎で食べてましたが、
    たぶん今の桃やトマトほどは美味くなかったと思います。
toitenlabeeさん:夏もあと1週間ぐらいで、
   35℃以上は終わってほしいですね。

2020/8/19

69-3後朱雀天皇即位前妃贈皇太后嬉子  天皇陵巡り
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 藤原嬉子(フジワラノキシ・ヨシコ)(1007〜1025)は、藤原道長(966〜1028)と倫子(964〜1053)の6女ですので、栄光の同母兄弟姉妹の長女彰子・長男頼通・次女妍子・5男教通・4女威子の最後になります。
  写真は、宇治陵総拝所とその前に立つ藤原家塋域の石碑です。
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 嬉子は敦良親王(アツヨシ)(1009〜1045)の東宮妃として14歳で入内し、敦良親王が1036年に即位して第69代後朱雀天皇になる前に、1025年に親仁親王(チカヒト)(後の第70代後冷泉天皇)を産みましたが、その2日後には、末っ子ですが兄弟姉妹の中で一番早く10代で亡くなってしまいました。
 藤原北家一族が眠る宇治木幡の宇治陵総拝所制札には、後冷泉天皇御母贈皇太后嬉子と名が載っています。

      返事
じょんのびかあさんさん:綾部は涼しそうな気もしますが、
    ダメですか。
     かかりつけ医って、正月に亡くなった同級生のY君ですか?
     ポジテイブに、夫婦でもう一度自転車日本一周はどうですか。

2020/8/17

五山送り火  京都
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 新型コロナの第2波がこんなに早く、暑い夏にやってくるとは思ってなかったヤブ医者で、冬のインフルエンザの時期に第2波が重なったら嫌だなあと、漠然と思っていたぐらいの私です。
第2波もなかなか終息せず、そんなわけで今年のお盆はなにをするでもなく、出かけるのも仕事だけで、暑すぎてクーラーも効かない自宅で、ボーと過ごしてしまいました。
唯一の幸いは、このお盆2週4回の土日競馬は、当たらない三連複を止めて馬連中心で買ったためか、ほんのちょっとの負けで済んだことです。
  写真は昨年の五山の送り火「船形」です。
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 これまた昨年の送り火「妙」、我が家は特等席です。
京都の三大祭は、秋の時代祭りも早々と中止になって、全滅です。
 スポーツ界も新型コロナ陽性者が増えてるので、今季のラグビーも心配です。
箱根駅伝も、道路上の見物人を排除して、無観客でやるのでしょうか。
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 昨日16日の京都五山送り火は、中止ではなく見物客が密集しないように、縮小と言うことで、最低限のことをすることになりました。
 それでも、近畿放送やNHKBSのTV中継はありました。
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 マンションが建って、我が家からは、「大」は一番上が見えるだけになってしまっています。
今年は「大」は6カ所だけしか点火しないのですが、元々一番上しか見えないので、今年の形式でも、我が家からはいつもの「大」と同じこれだけです。
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 「船形」も帆柱の上1カ所だけの点火です。
ちょっと寂しいですし、窓の外から例年は聞こえてくる、見物人のどよめきもありません。
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 我が家のメイン「妙」も、その日の昼に見てみると、中央に薪を積んでカバーされた白いものが見えました。
今年は山の草刈も、あまりなかったような気がします。
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 そこに点火です。
 
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 ズームしてみると、周りに人影も見え、お題目の声も聞こえてきました。
でも今年は、なんとなく寂しく送り火は終わりました。
我が家のお客さんも娘夫婦と孫の4人だけです。
 送り火は終わりましたが、秋の気配は今日も全くありません、暑い暑い!
自転車通勤も暑いです。

       返事
花水木さん:その当時の82歳ですので、
    今なら100歳以上の感じ、
    60代ではまだまだ老婆には程遠いですよ。
     「老婆は1日にしてならず」ですか、なるほど!
     老爺(ロージ)僕を誰が
         老爺 そんなにしたの
           老爺 悪い夢を忘れてしまおう〜
      私は「傷だらけの老爺(ロージジイ)」です。
タグ: 妙法

2020/8/14

69-2後朱雀天皇皇后禎子内親王  天皇陵巡り
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 藤原道長(966〜1028)がやや強引に、もう皇子もいる第67代三条天皇(976〜1017)に次女妍子(ケンシ)(994〜1027)を入内させ、皇后にもしましたが、二人の間には皇子は生れませんでした。
唯一産まれたのが、今回の禎子内親王(テイシナイシンノウ)(1013〜1094)です。
  龍安寺の裏山には沢山の陵が並んでいますので、龍安寺駐車場を少し行くと、こんな宮内庁製の案内板が有りました。(私は本当はここに降りて来たのですが)
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 父三条天皇の従兄弟第66代一条天皇と道長長女で伯母にあたる彰子との間に産まれた敦良親王(アツナガ)には、既に道長6女で叔母である嬉子(ヨシコ)が東宮妃に入り、第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025〜1068)(後の第70代後冷泉天皇)が産まれていますが、嬉子は産後すぐに亡くなっていました。
そこで、禎子内親王が14歳で1027年に入内し、東宮妃となりました。
  皇后陵ですが、久しぶりの内親王からの皇后のせいか立派です。
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 禎子内親王は良子内親王(ナカコ・リョウシ)(1030〜1077)・娟子内親王(ケンシ)(1032〜1103)を産んだ後に、1034年尊仁親王(タカヒト)(1034〜1073)(後の第71代後三条天皇)を産みました。
 その後夫の敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)になったので、中宮にも成れました。
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 しかしその頃には、祖父道長も父三条天皇も母藤原妍子も亡くなっていて、道長息子の頼通の世になっていたので、禎子内親王の地位も危ういものでした。
しかしその後、息子尊仁親王がなんとか異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子になれ、その後は第71代後三条天皇にも成ったので、禎子内親王は陽明門院と女院を宣下され、国母にまでなりました。
  火葬されたのは、藤原家からの皇后たちと同じ鳥戸野です。
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 禎子内親王は、孫の第72代白河天皇・曽孫の第73代堀河天皇の即位も見届け、82歳で亡くなり、この立派な龍安寺裏の圓乗寺東陵(エンジョウジノヒガシノミササギ)(右京区龍安寺御陵の下町)に葬られました。
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 右手前に少し石柵が見えてるのが禎子内親王の陵で、一人だけで独立していますが、左奥に写ってるのが夫後朱雀・義子後冷泉・実子後三条の三人の合わさったような陵です。
さすが内親王からの皇后で、力の有った老婆だったのですかね。

2020/8/12

69-1後朱雀天皇  天皇陵巡り
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 敦良親王(アツナガシンノウ)は第66代一条天皇の第3皇子で、母は藤原彰子です。
同母兄で第2皇子の第68代後一条天皇が即位した時は、第67代三条天皇の皇子で後一条より年上の敦明親王(アツアキラ)が皇太子に立ちましたが、道長の力の前には皇太子を自ら辞退せざるをえない羽目になって、替わって敦良親王が立太子しました。
  陵は龍安寺裏山にある円融天皇火葬塚から、一條・堀河天皇陵を通って龍安寺近くまで降りてくると、有りました。
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 同母兄後一条天皇の譲位・崩御に伴って、28歳で敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(ゴスザク)(1009〜1045)(在位1036〜1045)になりました。
 皇太子の時から東宮妃として道長6女で叔母にあたる嬉子(キシ)が入内していて、1025年には第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025〜1068)(後の第70代後冷泉天皇)も産まれていますが、嬉子は出産2日後に亡くなっています。
  三つ鳥居が並んだ陵の向かって右が後朱雀陵です。
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 叔母にあたる嬉子の死後、これまた叔母にあたる道長娘妍子を母にする三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013〜1094)も1027年に入内したので、これは従兄妹婚です。
禎子内親王との間には第2皇子尊仁親王(タカヒト)(1031〜1073)(後の第71代後三条天皇)が産まれました。
即位後は関白頼通などが次々と娘を後朱雀天皇に入内させましたが、皇子は生れることなく、このことが摂関政治が終わる始まりとなったようです。
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 後朱雀天皇は28歳から9年間、成人天皇として在位してましたが、政治の実権はまだまだ道長の息子関白頼通など藤原北家一族が握っていました。
 後朱雀天皇は息子後冷泉天皇に譲位しすぐ出家、そしてすぐに崩御し、圓乗寺陵(エンジョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュヤマ))に息子二人と並んで葬られています。
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 後朱雀天皇の火葬塚は、別に北区平野上柳町の金閣小学校校門前にあって、別の判りにくい狭い道から入っていくとありました。

       返事
花水木さん:もうすでに巡ってる陵が、
    10はありますので、今は休憩中ですよ。
     シガールって、筒状のお菓子ですね。
    お菓子も缶が少なくなっていますが。
    私も捨てられず、葉巻の缶・お菓子の缶まだ使ってますね。

2020/8/9

68-2 後一条天皇皇后威子  天皇陵巡り
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 藤原威子(フジワラノイシ・タケコ)(1000〜1036)は、あの道長・倫子の4女です。
栄光の同母兄弟姉妹には、長女彰子・長男頼通(ヨリミチ)(992〜1074)・次女妍子・5男教通(ノリミチ)・6女嬉子がいます。
  細長い宇治陵総拝所(宇治市木幡)を、横の道から眺めています。
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 1018年、甥である第68代後一条天皇(1008〜1036)(在位1016〜1036)に入内、女御→中宮と成りましたが、小学3〜4年生の夫と高校3年〜大学1年生ぐらいの妻と言うことで、威子本人は恥ずかしがっていたようです。
 これで父道長の娘3人が、皇后(威子)・皇太后(妍子)・太皇太后(彰子)の三后となり、道長は偉業達成です。
  宇治陵制札の文字、威子の名前がこの時は一番濃く残っていました。
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 後宮に入ったのは威子一人だけで、当時としては珍しく一夫一婦制になったのは、皆が道長の権威を恐れて、娘を入内させる勇気が無かったことが一因でしょう。
二人の間には、残念ながら皇子は生れず、章子内親王(ショウシ)(1027〜1105)・馨子内親王(ケイシ)(1029〜1093)の女しか産まれなかったので、これは道長の満月が欠けだす兆候でもあったのですかね。
  この写真は、哲学の道近くにある第63代冷泉天皇の桜本陵(左京区鹿ケ谷)です。
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 後一条天皇が30前に亡くなって半年後、後を追うように威子も亡くなり、やっぱり藤原家ゆかりの宇治木幡の辺りに葬られたようです。
  桜本陵は威子の火葬塚でもありますが、制札に書かれてあるだけで、塚のようなものを、私は確認できていません。

      返事
花水木さん:私の子供時代、 
    泉屋クッキーの工場が近くにあったので、
    怪我した人を診たお礼に、欠けたり焼きすぎたりしたクッキーを、
    一斗缶に一杯、よく貰いました。
    それが私の最高のおやつでしたので、
    今でも綺麗な泉屋クッキーより、焦げたのの方が好きです。

2020/8/7

68-1後一条天皇  天皇陵巡り
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 敦成親王(アツヒラシンノウ)は第66代一条天皇(980〜1011)(在位986〜1011)の第2皇子で、母は道長(966〜1027)の娘彰子(988〜1074)ですので、外戚の地位を目指す道長にとっては待望の皇子で、産まれたのも道長邸宅の京極殿(キョウゴクドノ)ですし、摂関政治を掌握する為の希望の星でした。
  陵は山の斜面にあって、街中にしては立派です。
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 定子の子で一条天皇の第1皇子敦康親王(アツヤス)を差し置いて、敦成親王は4歳で第67代三条天皇の皇太子になり、三条天皇のほぼ強制的な譲位により9歳で即位し、第68代後一条天皇(ゴイチジョウ)(1008〜1036)(在位1016〜1036)となりました。
  拝所も広々としています。
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 皇太子には三条天皇の第1皇子敦明親王(アツアキラ)(994〜1051)が立ちましたが、天皇は9歳皇太子は23歳、父三條天皇もすぐに亡くなり、後ろ盾を失った敦明親王は1年ほどで、道長の前に屈して皇太子を辞退することになっています。
 その後、後一条天皇の皇太子に立ったのは、1歳年下の同母弟敦良親王(アツナガ)(後の第69代後朱雀天皇)です。
  後冷泉天皇の皇后になった娘の章子内親王と同じ陵です。
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 皇后には道長の三女威子(イシ)(1000〜1031)が20歳で入内、9歳年上女房ですが、この頃は珍しい唯一の皇后でした。
二人の間には皇子は生れず、二人の内親王が産まれただけでした。
  陵を一周すると、大きくて奥があることが判りました。
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 後一条天皇皇后にこの三女威子が成り、長女彰子が一条天皇・次女妍子が三条天皇の皇后になってますので、これで道長の娘三人が皇后になるという「一家三后」と成りました。
   この世をば 我が世とぞ思う 望月の
       欠けたることも なしと思えば
と、道長が歌ったのはこの頃ですが、満月になったら次は月は欠けるだけ、そろそろ藤原北家の時代にも秋風がたってきたようです。
  陵からは、送り火の大文字で有名な、東山如意ヶ岳がすぐそこに見えます。
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 1027年道長は死にましたが、長男頼通(ヨリミチ)は上手にその後を継いでいたので、後一条天皇は在位20年ありましたが、まだまだ自分が主導して国政をとるまでには至りませんでした。
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 1036年後一条天皇は突然の崩御の為、上位の儀式が間に合わず、喪を秘して同母弟後朱雀天皇への譲位儀式を行ったそうです。
 大文字の見える菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に娘の章子内親王(ショウシ)(1027〜1105)と共に葬られています。

        返事
花水木さん:50年以上前に初めて食べた、
    ミスタードーナツも衝撃でした。
    最近衝撃が無いのは、加齢で味音痴になったからですかね。


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