奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/10/30

72-3白河天皇皇子覚行法親王  天皇陵巡り
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 白河天皇の第1皇子は夭折、第3皇子は堀河天皇に成りました。
今回の覚行法親王(カクギョウホッシンノウ)(1075〜1105)は、白河天皇の第2皇子ですが、母親は藤原経平(ツネヒラ)の娘経子(ケイシ・ツネコ)です。
  写真は丹波にある九品寺(クホンジ・クヒンジ)(京都府南丹市園部町船阪大門)です
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 覚行法親王の外祖父になる藤原経平(1014〜1091)は、藤原忠平の長男でしたが藤原北家氏長者にはなれなかった実頼(サネヨリ)を祖とする小野宮流(オノノミヤリュウ)の5代目の一員です。
母経子の姉睦子が産んだ苡子(イシ・シゲコ)は、第74代鳥羽天皇の生母になっているので、経平は死んでいましたが天皇の曾祖父にはなれました。
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 覚行法親王(元は覚念)は8歳で仁和寺に入り、仁和寺第2世門跡の第67代三条天皇第4皇子性信入道親王(ショウシンニュウドウシンノウ)(1005〜1085)の下で10歳で出家し、最初の法親王に成り、真言宗仁和寺の第3世門跡となりました。
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 その後は、810年に空海が創建し、白河天皇が大きくした同じ真言宗の、京都府園部にある九品寺に入寺しています。
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 福知山方向やゴルフに行く時に私も降りる、京都縦貫自動車道丹波ICを降りて少し走った田舎にある九品寺ですが、昔は大伽藍の大きなお寺だったようですが、今はこの重要文化財の大門の立派さだけが目立ちます。
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 31歳で亡くなった覚行法親王の墓はここにあって、宮内庁治定陵墓になっているので行ってきましたが、今後もこの程度の沢山の皇子・皇女墓も巡っていたらきりがありません。
行けたら(でも行くのも楽しみです)にしていこうと思っています。
 何もない所でしたがさすがに宮内庁、こんな田舎の墓も綺麗に掃除されています。
九品寺が下請けしてるのかもしれませんが。

        返事
和さん:富江の恐竜の松?は、
    全体が撮れたのにです。
     私は寄付ではなく、投資のつもりで勝馬投票券を買っています。
    いつか倍返し来るのを祈りながら。

2020/10/28

天高い秋  
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 先週の旅行は快晴後雨、今週の仕事帰りの御陵巡りは小雨、金曜日は休みなのに雨、秋の空は変わりやすいです。
土曜日は二人で西国33カ所の第20番札所善峯寺(ヨシミネデラ)(500円)に、地下鉄→阪急→阪急バスと乗り継いで出かけました。
家からは1時間ぐらいです。
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 境内にある樹齢600年以上の有名な「遊龍の松」、全長37ⅿ日本一の松らしいですが、長すぎて全体像は入りませんので空ばかり。
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 紅葉にはまだ少し早すぎましたが、パラパラと観光客は来ていました。
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 京都の西南の山の上にある善峯寺、京都市内がほぼ全部ぐらい一望できました。
ずわっと、やや小さくではありますが、こんなに京都市内が沢山見える場所とは知りませんでした。
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 善峯寺に行ったのは、秋の京都観光が目的ではなく、やっぱり真の目的は、天皇の皇子さん達が眠る法親王墓巡りです。
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 翌日曜日も快晴、家の裏の宝ヶ池球技場で京都高校ラグビー予選の準々決勝をやってるので観に行ったら、なんと無観客試合で入れてもらえません。
裏の柵の間から、近所の洛北高校がボロ勝ちしてる試合をほんの少しだけ観て帰りました。
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 帰ったら、孫V-1・V-2を連れて寄ってくれた娘と5人で、近所の植物園を散歩。
私は70歳以上で、娘たちは子育て支援で植物園は無料、家内だけが入園料を払って入園。
孫V-1は往復も園内も、よく歩いてくれました。
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 園内菊花展の菊は満開ですが、帰って観た菊花賞。
1着近所に住む福永さんのコントレイルと3着いつもの池添さんのヴェルトライゼンデの1着3着固定三連単を少し買いましたが、直線のたたき合いばかりに目が釘付けになって、3着なんて目に入らずに、馬券も入らず。
今年は本当に競馬が当たりませんよ!! 助けて下さい!
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 秋の空!
ずっとこんな季節でも良いですね!

       返事
Toitennさん:クオッカのいる島は、
    山の上より寂しい所ではないのですか?
花水木さん:情緒不安定って、
    花水木さんはそんな風に見えませんが(読めませんが)。
    私も70歳過ぎて、結構気力は衰えていますし、やや不安定ですが。
    毎日、ここでやめたら、もうお終いだとばかり思って生きています。

2020/10/26

72-2白河天皇皇后賢子  天皇陵巡り
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 実父は村上源氏の源顕房(アキフサ)ですが、太政大臣藤原師実(モロザネ)(頼通の6男ですが藤原北家氏長者)の養女となった藤原賢子(フジワラノケンシ・カタイコ)(1057〜1084)は、14歳で18歳の貞仁親王(サダヒト)に入内し、貞仁親王が第71代白河天皇(1053〜1129)(在位1073〜1087)に成ったので、女御にも成りました。
  難関の上醍醐陵にやっとたどり着きました
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 中宮にも成った賢子は、第1皇子敦文親王(アツフミ)を産みましたが2歳で夭折。
その他にも第3皇子、第1・3・4皇女を産みました。
この第3皇子善仁親王(タルヒト)(1079〜1107)が後に第73代堀河天皇に成りました。
  ここに二人の娘と一緒に賢子さんは眠ってますが、何故か12歳で亡くなったひ孫の内親王の墓でもあります
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 賢子は白河天皇に非常に愛され(と言うか、白河天皇は誰でも深く愛する人)、28歳で賢子が亡くなった時には、白河天皇は穢れに触れてはいけないと言う近臣の言葉を振り切って、死体にとりすがって号泣したそうです。
  陵近くの展望台から、山科の街並みが眺められました
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 賢子の眠る上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)(伏見区醍醐醍醐山上醍醐持内)は難関の御陵の一つで、醍醐寺の奥山に有ります。
真夏に行くとまた熱中症になりかねないので、9月の声を聞いてから、家内にも付き合ってもらって登りました。
地下鉄醍醐駅から往復2時間ぐらいの予定でしたが、往復4時間ちょっとかかってしまい、二人とも疲れ切って帰る羽目になりました。
しかも西国33カ所第11番札所でもあるので、入山料600円を払っています。
 愛した人をこんな山の上に葬って、白河天皇はここまで墓参りしたんでしょうかね、したとは思えませんよ。
私は愛する人と二人で登りましたがね。
 淳和天皇大原野西嶺上陵とこの上醍醐陵は、二度と登りたくないしんどい御陵でした。
  写真の、ここから登山?が始まります

2020/10/23

72-1白河天皇  天皇陵巡り
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 第70代後三条天皇(1034〜1073)(在位1068〜1073)の第1皇子である貞仁親王(サダヒトシンノウ)は、父後三条天皇がその長い33年にも及ぶ皇太子時代に、母である藤原能信(ヨシノブ)の養女即位前妃贈皇太后茂子(モシ)(?〜1062)との間に産まれました。
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 父後三条天皇が1068年に即位したので、1069年には貞仁親王は立太子し、1071年には関白藤原師実(モロザネ)(頼通の6男)の養女賢子(ケンシ・カタイコ)(1057〜1084)が入内しました。
後三条天皇がわずか4年で退位し、譲位された貞仁親王は即位し第71代白河天皇(シラカワ)(1053〜1129)(在位1073〜1086)に成りました。
  写真の奥に映る白河天皇陵は、京都の南、高速道路の通る南ICの近くです
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 白河天皇即位と共に、父後三条天皇は藤原北家御堂流を外戚の地位から外したい為か、白河天皇の異母弟でわずか2歳の実仁親王(サネヒト)を皇太子に立て、実仁親王が15才で亡くなると、約束されていたその弟輔仁親王(スケヒト)が皇太子に立つ予定でした。
 これを嫌った白河天皇は、父後三条天皇も亡くなっていたので、中宮賢子所生の善仁親王(タルヒト)(1074〜1107)(後の堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位してしまいました。
これには、亡くなった非常に愛してた賢子を悼む気持ちと、自らの直系に依る皇位継承を目指す気持ちがあったようです。
  写真では静かそうですが、前をひっきりなしに車が通ります
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 第73代堀河天皇(在位1086〜1107)はまだ8歳であり、摂政となった師実は完全な外戚ではない(賢子は養女)ので、実権は白河天皇が握り、ここに院政が開始されました。
 次いで孫を5歳ですが第74代鳥羽天皇として即位させ、続いてひ孫も5歳で即位させて第75代崇徳天皇にして、結局白河天皇は堀河・鳥羽・崇徳と三代にわたって「治天の君」として院政を敷いたことになります。
  制札の如く、成菩提院陵(ジョウボダイインノミササギ)(伏見区竹田浄菩提院町)です
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 白河天皇は院政の間の長い権力保持によって、政権の独断や人事のえこひいき、浄土教への傾斜による多数の寺院の建立など、弊害も多かったようです。
このようなわがままな行動でもままならぬものとして、「賀茂の水・双六の賽・叡山の山法師」の「天下三不如意」の話は有名です。
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 噂された、白河天皇ご寵愛の待賢門院璋子(ショウシ)(1101〜1145)を孫の鳥羽天皇の皇后にして産まれた崇徳天皇は、実は鳥羽の子ではなく曾祖父白河の子であるらしいという話は、ゴシップ好きの私には嬉しい話です。
崇徳が産まれた時、父鳥羽は16歳、曾祖父白河は66歳、どちらの生殖能力も上限下限で可能ですよね!
  陵から振り返り、私が島に行ってる間に完成した京都高速道路仰ぎ見ます
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 白河天皇火葬塚は、陵からは離れた金閣寺近くの金閣小学校の裏側、北区衣笠西馬場町の判りにくい路地の裏側にありました。
金閣小学校校門前の後朱雀天皇火葬塚を捜してる時に見つけた物で、京都市の西北にも火葬塚は集まっています。

       返事
花水木さん:静岡県の施設の対策は厳しいですね!
     GoToトラベルもGoToイートもなんか不公平感一杯ですね!
    こんなことに何兆円も使うなら、
    消費税を1〜2年なくす方が、皆に公平で、
    購買欲も高まりますし、店もうるおい、全てが良くまわるような気がしますがね。

2020/10/21

湯郷温泉に行くふりして治定陵墓に  
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 Go Toトラベル第5弾で、湯郷温泉に行きました。
行はブラブラと、青野原病院時代を懐かしがって、秋の播州路を走ります。
 丹波篠山は丁度黒豆の収穫時期で、道のあちこちで採れたばかりの枝豆を売ってました。
 朝早く出たので、かろうじて開いたところの篠山の店で、猪に見下ろされながら、コーヒーと黒豆ケーキの朝食を食べました。
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 柳田国男が「故郷70年」で「私の家は日本一小さい家だ」と書いていた、福崎にある柳田国男の生家ですが、8人の男兄弟の6番目で育った国男さんには狭かったかもしれませんが、私の今の家はこれより狭く部屋数も少ないですよ。
兄弟は政治家や歌人や日本画家など、民俗学の大家で有名になった国男ほどではないですが、皆そこそこ偉くなっています。
父親は病弱だったそうですが、8人も子供を作るから病弱になったのかもしれませんよね。
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 生家の横にある神崎郡歴史民俗資料館は、神崎郡役所として使われていた建物です。
この辺りの施設は全て無料で、おまけにこの日は秋晴れ!!
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 生家の前にある辻川山公園は、以前(約10年前)来た時はこんなオブジェはなにもなかったですが、今はいろんな妖怪像で有名になっています。
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 公園の池には、いつもは水中に居て、時間と共に出現する河次郎(ガジロウ)と言う動く妖怪も住んでいました。
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 最近は有名になって、TVでもち麦のカップ麺のCMも見ることありますが、このもち麦は福崎の特産品らしく、前回はお土産に買っただけでしたが、今回は新しくなっていた「もちむぎのやかた」で昼ご飯を食べました。
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 腹ごなしに、ガジロウと将棋を指して出発です。
後で考えたら、マスクをしてない奴と、ちょっと密になってましたね。
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 その日は、860年にこの慈覚大師が温泉を発見した、美作三湯の一つ湯郷温泉に泊まりました。
今回のGoToトラベルは、45%の割引のほかに15%の地域共通クーポン付くようになったので、実質半額以下で泊まれるようになりました。
でもこんな大盤振る舞いで、日本経済は今後良いんでしょうかね?
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 次の日は高梁市の備中松山城に登るつもりでしたが、前日とうって変わって雨。
さすが秋の空ですね、これで2回連続雨で松山城行は断念。
 色々寄り道しても本来の目的は、結局のところ御陵巡り。
備中まで流されてこの地で亡くなった後鳥羽天皇皇子の墓には、小雨の中行けました。
墓近くにあるゆかりの地、日本第一熊野神社はその名に恥じず立派な社殿も持ち、こんな大きな三重塔までありました。
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 降り続く雨の中、寄る所もないので、帰り道は牛窓の気にいってるホテルに寄って、美味しいランチを食べて帰りました。

2020/10/18

パフェ  
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 8月猛暑が終わって9月になってから、そろそろ仕事帰りなどに京都市内の天皇陵を巡っています。
 京都祇園花見小路の歌舞練場や場外馬券売り場の裏に、御廟が一つあります。
そこを巡った帰り、祇園には沢山の抹茶パフェ屋さんが有りますが、あの有名な「辻利」に入るには京都人として抵抗がありましたので、その近くで入った、特選抹茶パフェ。
ちょっとお高く1220円、金箔ものっていて、もちろん底にコーンフレークも入っていませんが、ややしつこかったです。
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 往復4時間夫婦で歩いて、疲れ切って下界へ降りた上醍醐陵巡り。
昼はこれしか食べる元気はなかった、キナコとゴマのパフェ、それなりです。
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 天気の良い土曜日に、自転車で京都の北西部の御陵や火葬塚を巡った帰り、尻が痛くなって休んだ喫茶店の、ちょっと小さめですがキャラメルシロップのパフェ。
これはこれで、なかなか良いお味でした。
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 今週の旅(もちろん遠い倉敷近くの御陵巡り目的もありました)で、兵庫県作用の辺りの国道沿いで、たまたま入った喫茶店。
これが当たりで、ワッフルで有名な店でしたが、ワッフルは家内に任せて、私はこのチョコレートパフェ。
底にはコーンフレークスではなく、フルーツ(缶詰?)が敷いてあって、珍しかったです。
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  おまけ1
 10月のある晴れた日に、滋賀県マキノに栗を買いに行った時。
昔マキノは小学校のスキー遠足で行きましたが、現在のマキノはメタセコイア並木で有名になってます。
メタセコイアを逆にしたら、パフェの容器になりますね。
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  おまけ2
 買い物ついでにちょっと豪華なランチを食べた9月の有る日。
そのデザートもついでに掲載、お腹いっぱいになっていても、これとコーヒーは入ります。

        返事
花水木さん:朝橘さんのことを書いて、
    怒られるか心配してましたが、安心しました。
     一度生も観たいです。
タグ: パフェ

2020/10/14

第9回桂南光独演会  趣味
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 2年前第7回は家内と二人で行きましたが、今回は定員が少ないのか1枚しか券が当たらなかったので、一人で行った第9回桂南光独演会(京都府立文化芸術会館4000円)。
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 新型コロナの影響で、まだ席は1席づつ空けて、そこにはプラスチックの衝立まで立っています。
それなので満員でしたが200人ほどの観客、採算はなかなか難しいでしょうね。
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 南光さん以外の3人は、全て知らない噺家でしたが、最初に出た桂りょうばさんが一番若いと思いましたが、パンフレットでは3人の中で一番上でした。
 上方落語の方が、やっぱり善人が多く、ほっとします。
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 ちょっと前にあった三遊亭朝橘(チョウキツ)さんの2回目の配信落語勉強会、Liveで観られなかったので、後日「提灯?」「さんま火事?」の2席は観れましたが、3席目は時間切れか配信終了してました。
花水木さん関係で大いに応援していて、面白い落語家さんの面白い落語なんですが、なんせ東京弁、固く不親切に聞こえてしまいます。
 でも発想は楽しく、文章は上手いです。
賢い人がいかに先天的に賢くない人を演じられるか、その辺が朝橘さんの越えるべきところと、偉そうに論じていますが、そんなことより三遊亭朝橘のホームページ?にアクセスいただき、一度観て下さい、めちゃくちゃ面白いこともやっておられますよ。
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 南光独演会の方は、2時間半ほどがおしっこを我慢することなく終わりましたが、ふと我に帰ると、もう皆さんの退席も終わっていました。
 そろそろ映画も観に行きたいです。

        返事
TOITENBさん:待ってますと言われたら、出さないですよ!
花水木さん:私も50歳過ぎてから、
    全く見知らぬ土地奈留島に行きました。
    でも昔の人とも繋がりたいこともあってブログ始めましたし、
    又煩わしいこともある京都に帰っています。
    人間関係はドロドロも面白いし、あっさりも良いものです。
    難しいですね!!!
     偉そうな落語家批評はお許しください。
    今回は500円しかNoteに入れてません(前回は1000円)

    

2020/10/11

藤原(北)家3.  天皇陵巡り番外
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 基経G(モトツネ)の長男時平(871〜909)は901年昌泰の変(ショウタイノヘン)で、写真の「飛梅」のある太宰府に菅原道真を左遷させ、学者門閥による権力奪取を阻止しましたが、道長の怨霊の崇りか早くに亡くなったので、基経の4男忠平H(880〜949)が藤原北家9代目の氏長者になりました。
忠平からが、本来の摂関政治の始まりと言われています。
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 忠平は外祖父にはなっていませんが、忠平次男の師輔I(モロスケ)(909〜960)は、第62代村上天皇の中宮になった長女安子(アンシ)のおかげで、第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の外祖父に成れ、忠平長男の実頼(サネヨリ)より上に立てました。
 969年の安和の変(アンナノヘン)で源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は終了しました。
 次いで北家の兄弟同士の争いに勝ったというか、長女超子(チョウシ・トオコ)が第67代三条天皇を、次女詮子(センシ)が第66代一条天皇を産んだことに依って、師輔3男の兼家J(929〜990)が圧倒的な権力者になれました。
  写真は、17人の藤原家出身の皇后などが眠る、何度も出してきた宇治陵総拝所です。
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 そしてたなぼた式ではありますが、兼家5男の道長K(966〜1028)が長男道隆系の中関白家(ナカノカンパクケ)に勝利し、天皇家と最高の身内的結合を完成させました。
 こうして12代約350年にわたる藤原(北)家の氏長者は、何故か長男ではなく次男以下が継ぐという結果になってしまい、道長の時代が藤原(北)家の最長点と思われますが、望月になった月はやっぱりかけ始めました。
  写真は、宇治木幡に道長が建てた大きなお寺浄妙寺跡ですが、今は小学校の前に建つこんな立柱だけです
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 道長の後を継いだのは、写真の平等院を完成させた長男の頼通L(ヨリミチ)(992〜1074)で、初の長男が氏長者になりました。
ただその後は、藤原北家の娘は入内はするが男子を産まない時代となり、大番頭(外祖父)が権力を握る藤原家の摂関政治から、会長(上皇・法皇)に早くなって息子の若社長(天皇)を操作するという、男系の院政の時代に移って行きました。
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 頼通以後の藤原北家氏長者は、頼通6男の師実M(モロザネ)(1042〜1101)に、次いで師実長男の師道N(モリミチ)(1062〜1099)、師道長男の忠実O(タダザネ)(1078〜1162)、忠実次男の忠通P(タダミチ)(1097〜1164)と続きます。
忠通は保元の乱(1156年)を勝ち抜き、百人一首の歌人としても法性寺入道前関白太政大臣として名を残していますが、道長以後道長以上の権力者は藤原北家からは出ませんでした。
それでも昭和天皇の皇后は藤原家からですし、他にも藤原家からの皇后や天皇の母は沢山出ています。
 高校生の頃、日本史を学んでいて、平安時代は面白くなかった理由が判りました。
汚い陰謀や子を産ませたもん勝ちの歴史が、若かった私には退屈で、実力で奪い取る武士の世の歴史の方が面白かったはずですよ。
でも年とってみると、ややこしい相関関係やだましあいの世界も、ゴシップ的で面白くなっています。
 8月の猛暑で、天皇陵巡りを見合わせていましたが、難関の上醍醐陵にもなんとか行けて、又いよいよ武士の世の中になっていく天皇陵巡り、それでも地味で退屈かもしれませんが、時々スイーツを入れながら続きますので、どうか見捨てないでよろしくお願いいたします!!

      返事
花水木さん:又ややこしい話ですみませんです。
     立石電機の先先代?社長の奥さんは、
    私にも優しかった、しゃきっとしたおばさんさんでした。
     観るならアメフトかラグビーですよ。

2020/10/7

藤原(北)家2.  天皇陵巡り番外
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 807年第50代桓武天皇第3皇子伊予親王の謀反をでっちあげて、恵美押勝の乱(764年)後もなんとか残っていた藤原南家の残党を一掃した式家と北家ですが、810年薬子の変(クスコノヘン)で、藤原式家の仲成・薬子の兄妹を殺し、藤原四子体制は北家の一人勝ちになりました。
  写真は、私の働く伏見区の老人ホームから坂道を降りて行くと住宅街の一画にある、あまり有名ではないですが伊予親王巨幡墓(コハタノハカ)です
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 鎌足@から数えて6代目の藤原氏長者、北家冬嗣E(フユツグ)(775〜826)は第52代嵯峨天皇と強く結びつき、出世街道をまい進し、とうとう長女順子(ノブコ)を第54代仁明天皇に輿入れさせ、待望の孫第55代文徳天皇を産ませています。
  写真は、立石電機(オムロン)の社長さん旧宅。
私の産まれた家の真向かいに有ったので、今ほど大会社でもなかったからか、子供の時はこの家の庭で私のような庶民の子でも遊ばせてもらえました。
ここから私が1歳にして早くも行ってる、文徳天皇陵までは徒歩5分です。
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 冬嗣の次男良房F(ヨシフサ)(804〜872)は、842年承和の変で大伴氏・橘氏など他氏排斥を実行し、娘明子(メイシ・アキラケイコ)を文徳天皇に嫁がせ、産まれた第56代清和天皇の外祖父として、摂政の地位も得ました。
 良房は兄の長良(ナガラ)の三男基経G(モトツネ)(836〜891)を養子として、藤原氏長者を継がせています。
 866年応天門の変で大伴氏・紀氏を排斥した基経は、同母妹高子を清和天皇に嫁がせ、第57代陽成天皇を産ませますが、高子さんと基経は折り合いが悪く、陽成天皇で一旦天皇の外戚の地位は藤原北家から離れました。
しかし、政権はまだ藤原北家が握っていて、基経は何やかんやごねながら(887年の阿衡事件(アコウ))、実質上の関白にもなっています。
  写真は、基経の墓と言われてる許波多神社(コハタジンジャ)内に有る宇治陵36号です。 
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 基経は娘を第59代宇多天皇になんとか入れましたが、内親王しか産まれませんでした。
しかし、もう一人の娘穏子(オンシ・ヤスコ)を第60代醍醐天皇に入内させ、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇が産まれたので、ここに完全に北家が外戚の地位を握りました。
  写真は、宇治陵総拝所前に建つ藤原氏塋域の碑ですが、そうそうたる名が並んでいます

       返事 
花水木さん:ややこしいですよね。
    わかったつもりで書いていますが、すぐ忘れてしまうぐらいややこしいです。
     サッカーは単純な割に目が離せないし、あまりにもゴールが少ない。
    得点シーンだけ録画で見たらよいスポーツかもしれません。
     そろそろラグビーが始まりそうですが、
    昨年の興奮を皆さんが忘れていなければ良いのですが。

2020/10/4

藤原(北)家1.  天皇陵巡り番外
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 奈良時代から平安時代へと天皇陵巡りを続けながら、一緒に歴史の勉強もしてると、限りなく天皇家と藤原家は交じり合って、1000年頃の天皇は天皇家の人ではなく藤原家の人だと思ってしまいました。
 そもそも天皇家と藤原家の関わり合いは、藤原鎌足@(614〜669)が第38代天智天皇と蹴鞠で知り合い、奈良の多武峰にある談山神社の境内で、645年の大化の改新(乙巳の変)の談合をしてからです。
  写真は鎌足の長男で唐に渡っていた定慧和尚(ジョウエ)が建立した談山神社で、私がたまたま見れた蹴鞠の会です。
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 天智天皇の腹心の部下となった鎌足ですが、672年壬申の乱で政権が第40代天武天皇系に変わった時は、天智はもちろん鎌足ももう死んでおり、鎌足次男不比等A(659〜720)は13歳でした。
連座制で処罰を受けてもよい立場の不比等でしたが、不二山(富士山)のように比べることは出来ないような名前まで付いて、何故か天武→第41代持統天皇政権の中枢に入りこみ、養女宮子を第42代文武天皇に嫁がせ、出来た皇子第45代聖武天皇にも娘の光明子を嫁がせています。
以前の蘇我家と同じように藤原家がとってきた、娘を天皇に嫁がせる策の始まりです。
 そうして729年長屋王の変で、天武の望んだ皇親政治さえ終わらせたのは、不比等の4人の息子たち武智麻呂(南家)・房前B(フササキ)(681〜737)(北家)・宇合(ウマカイ)(式家)・麻呂(京家)の藤原四子体制です。
  写真は長屋王墓周囲にある長屋王公園です
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 写真の平城京を舞台に、藤原家と他の豪族や皇親との争いは続きましたが、宇合の式家は息子広嗣が738年広嗣の乱を起こし、五島列島宇久島まで逃げて捕まり、孫の種継(タネツグ)は長岡京遷都では貢献しましたが陰謀で射殺されています。
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 長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂(恵美押勝)(エミノオシカツ)が強大な権力と武力を握り、天皇に替わって政権を獲れそうなぐらいでしたが、764年恵美押勝の乱で予想外にもあっという間に敗れ、琵琶湖畔で敗死しました。
 麻呂の京家は、元々人材不足でそれほどは栄えていません。
  写真は滋賀県湖西の高島にある内湖の乙女ヶ池で、仲麻呂や一族がここで戦いに敗れ処刑された「勝野の鬼江(カツノノオニエ)」です。
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 次男房前Bの北家が何とか生き延び、藤原北家は恵美押勝の乱から学んだ、「なんぼ強くなっても社長(天皇)には成ろうとするな、社長に自分の娘を嫁がせ若社長(次期天皇)を産ませ、外祖父として大番頭(摂政関白)の地位を獲得して、そこで会社(日本)を実質我が物にする」と言う藤原家憲法で生きる道を選びました。
 房前の3男真楯C(マタテ)(715〜766)・真楯の次男内麻呂D(756〜812)・内麻呂の次男冬嗣E(フユツグ)(775〜826)達は、自分の娘が天皇の妃に成れなければ、弱い家の妃の息子が天皇に成るほうが得策だと、第50代桓武天皇の母親は渡来人でも良いとまでしています。
  写真は第49代光仁天皇夫人で第50代桓武天皇の母親になった渡来人の娘高野新笠の御陵です。

       返事
花水木さん:添臥を私も今回憶えましたが、
    もうこれを何と読むのか、確認しないと忘れていますよ。
     私の母は7人兄妹の末っ子で、父は4人兄妹の長男ですが、
    連れ合いも含めて、もう残ってるのは父方の叔母のみです。
    次は私の番がついに廻ってきてます。


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