奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/10/21

湯郷温泉に行くふりして治定陵墓に  
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 Go Toトラベル第5弾で、湯郷温泉に行きました。
行はブラブラと、青野原病院時代を懐かしがって、秋の播州路を走ります。
 丹波篠山は丁度黒豆の収穫時期で、道のあちこちで採れたばかりの枝豆を売ってました。
 朝早く出たので、かろうじて開いたところの篠山の店で、猪に見下ろされながら、コーヒーと黒豆ケーキの朝食を食べました。
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 柳田国男が「故郷70年」で「私の家は日本一小さい家だ」と書いていた、福崎にある柳田国男の生家ですが、8人の男兄弟の6番目で育った国男さんには狭かったかもしれませんが、私の今の家はこれより狭く部屋数も少ないですよ。
兄弟は政治家や歌人や日本画家など、民俗学の大家で有名になった国男ほどではないですが、皆そこそこ偉くなっています。
父親は病弱だったそうですが、8人も子供を作るから病弱になったのかもしれませんよね。
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 生家の横にある神崎郡歴史民俗資料館は、神崎郡役所として使われていた建物です。
この辺りの施設は全て無料で、おまけにこの日は秋晴れ!!
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 生家の前にある辻川山公園は、以前(約10年前)来た時はこんなオブジェはなにもなかったですが、今はいろんな妖怪像で有名になっています。
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 公園の池には、いつもは水中に居て、時間と共に出現する河次郎(ガジロウ)と言う動く妖怪も住んでいました。
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 最近は有名になって、TVでもち麦のカップ麺のCMも見ることありますが、このもち麦は福崎の特産品らしく、前回はお土産に買っただけでしたが、今回は新しくなっていた「もちむぎのやかた」で昼ご飯を食べました。
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 腹ごなしに、ガジロウと将棋を指して出発です。
後で考えたら、マスクをしてない奴と、ちょっと密になってましたね。
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 その日は、860年にこの慈覚大師が温泉を発見した、美作三湯の一つ湯郷温泉に泊まりました。
今回のGoToトラベルは、45%の割引のほかに15%の地域共通クーポン付くようになったので、実質半額以下で泊まれるようになりました。
でもこんな大盤振る舞いで、日本経済は今後良いんでしょうかね?
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 次の日は高梁市の備中松山城に登るつもりでしたが、前日とうって変わって雨。
さすが秋の空ですね、これで2回連続雨で松山城行は断念。
 色々寄り道しても本来の目的は、結局のところ御陵巡り。
備中まで流されてこの地で亡くなった後鳥羽天皇皇子の墓には、小雨の中行けました。
墓近くにあるゆかりの地、日本第一熊野神社はその名に恥じず立派な社殿も持ち、こんな大きな三重塔までありました。
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 降り続く雨の中、寄る所もないので、帰り道は牛窓の気にいってるホテルに寄って、美味しいランチを食べて帰りました。

2020/10/18

パフェ  
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 8月猛暑が終わって9月になってから、そろそろ仕事帰りなどに京都市内の天皇陵を巡っています。
 京都祇園花見小路の歌舞練場や場外馬券売り場の裏に、御廟が一つあります。
そこを巡った帰り、祇園には沢山の抹茶パフェ屋さんが有りますが、あの有名な「辻利」に入るには京都人として抵抗がありましたので、その近くで入った、特選抹茶パフェ。
ちょっとお高く1220円、金箔ものっていて、もちろん底にコーンフレークも入っていませんが、ややしつこかったです。
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 往復4時間夫婦で歩いて、疲れ切って下界へ降りた上醍醐陵巡り。
昼はこれしか食べる元気はなかった、キナコとゴマのパフェ、それなりです。
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 天気の良い土曜日に、自転車で京都の北西部の御陵や火葬塚を巡った帰り、尻が痛くなって休んだ喫茶店の、ちょっと小さめですがキャラメルシロップのパフェ。
これはこれで、なかなか良いお味でした。
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 今週の旅(もちろん遠い倉敷近くの御陵巡り目的もありました)で、兵庫県作用の辺りの国道沿いで、たまたま入った喫茶店。
これが当たりで、ワッフルで有名な店でしたが、ワッフルは家内に任せて、私はこのチョコレートパフェ。
底にはコーンフレークスではなく、フルーツ(缶詰?)が敷いてあって、珍しかったです。
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  おまけ1
 10月のある晴れた日に、滋賀県マキノに栗を買いに行った時。
昔マキノは小学校のスキー遠足で行きましたが、現在のマキノはメタセコイア並木で有名になってます。
メタセコイアを逆にしたら、パフェの容器になりますね。
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  おまけ2
 買い物ついでにちょっと豪華なランチを食べた9月の有る日。
そのデザートもついでに掲載、お腹いっぱいになっていても、これとコーヒーは入ります。

        返事
花水木さん:朝橘さんのことを書いて、
    怒られるか心配してましたが、安心しました。
     一度生も観たいです。
タグ: パフェ

2020/10/14

第9回桂南光独演会  趣味
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 2年前第7回は家内と二人で行きましたが、今回は定員が少ないのか1枚しか券が当たらなかったので、一人で行った第9回桂南光独演会(京都府立文化芸術会館4000円)。
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 新型コロナの影響で、まだ席は1席づつ空けて、そこにはプラスチックの衝立まで立っています。
それなので満員でしたが200人ほどの観客、採算はなかなか難しいでしょうね。
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 南光さん以外の3人は、全て知らない噺家でしたが、最初に出た桂りょうばさんが一番若いと思いましたが、パンフレットでは3人の中で一番上でした。
 上方落語の方が、やっぱり善人が多く、ほっとします。
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 ちょっと前にあった三遊亭朝橘(チョウキツ)さんの2回目の配信落語勉強会、Liveで観られなかったので、後日「提灯?」「さんま火事?」の2席は観れましたが、3席目は時間切れか配信終了してました。
花水木さん関係で大いに応援していて、面白い落語家さんの面白い落語なんですが、なんせ東京弁、固く不親切に聞こえてしまいます。
 でも発想は楽しく、文章は上手いです。
賢い人がいかに先天的に賢くない人を演じられるか、その辺が朝橘さんの越えるべきところと、偉そうに論じていますが、そんなことより三遊亭朝橘のホームページ?にアクセスいただき、一度観て下さい、めちゃくちゃ面白いこともやっておられますよ。
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 南光独演会の方は、2時間半ほどがおしっこを我慢することなく終わりましたが、ふと我に帰ると、もう皆さんの退席も終わっていました。
 そろそろ映画も観に行きたいです。

        返事
TOITENBさん:待ってますと言われたら、出さないですよ!
花水木さん:私も50歳過ぎてから、
    全く見知らぬ土地奈留島に行きました。
    でも昔の人とも繋がりたいこともあってブログ始めましたし、
    又煩わしいこともある京都に帰っています。
    人間関係はドロドロも面白いし、あっさりも良いものです。
    難しいですね!!!
     偉そうな落語家批評はお許しください。
    今回は500円しかNoteに入れてません(前回は1000円)

    

2020/10/11

藤原(北)家3.  天皇陵巡り番外
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 基経G(モトツネ)の長男時平(871〜909)は901年昌泰の変(ショウタイノヘン)で、写真の「飛梅」のある太宰府に菅原道真を左遷させ、学者門閥による権力奪取を阻止しましたが、道長の怨霊の崇りか早くに亡くなったので、基経の4男忠平H(880〜949)が藤原北家9代目の氏長者になりました。
忠平からが、本来の摂関政治の始まりと言われています。
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 忠平は外祖父にはなっていませんが、忠平次男の師輔I(モロスケ)(909〜960)は、第62代村上天皇の中宮になった長女安子(アンシ)のおかげで、第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の外祖父に成れ、忠平長男の実頼(サネヨリ)より上に立てました。
 969年の安和の変(アンナノヘン)で源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は終了しました。
 次いで北家の兄弟同士の争いに勝ったというか、長女超子(チョウシ・トオコ)が第67代三条天皇を、次女詮子(センシ)が第66代一条天皇を産んだことに依って、師輔3男の兼家J(929〜990)が圧倒的な権力者になれました。
  写真は、17人の藤原家出身の皇后などが眠る、何度も出してきた宇治陵総拝所です。
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 そしてたなぼた式ではありますが、兼家5男の道長K(966〜1028)が長男道隆系の中関白家(ナカノカンパクケ)に勝利し、天皇家と最高の身内的結合を完成させました。
 こうして12代約350年にわたる藤原(北)家の氏長者は、何故か長男ではなく次男以下が継ぐという結果になってしまい、道長の時代が藤原(北)家の最長点と思われますが、望月になった月はやっぱりかけ始めました。
  写真は、宇治木幡に道長が建てた大きなお寺浄妙寺跡ですが、今は小学校の前に建つこんな立柱だけです
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 道長の後を継いだのは、写真の平等院を完成させた長男の頼通L(ヨリミチ)(992〜1074)で、初の長男が氏長者になりました。
ただその後は、藤原北家の娘は入内はするが男子を産まない時代となり、大番頭(外祖父)が権力を握る藤原家の摂関政治から、会長(上皇・法皇)に早くなって息子の若社長(天皇)を操作するという、男系の院政の時代に移って行きました。
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 頼通以後の藤原北家氏長者は、頼通6男の師実M(モロザネ)(1042〜1101)に、次いで師実長男の師道N(モリミチ)(1062〜1099)、師道長男の忠実O(タダザネ)(1078〜1162)、忠実次男の忠通P(タダミチ)(1097〜1164)と続きます。
忠通は保元の乱(1156年)を勝ち抜き、百人一首の歌人としても法性寺入道前関白太政大臣として名を残していますが、道長以後道長以上の権力者は藤原北家からは出ませんでした。
それでも昭和天皇の皇后は藤原家からですし、他にも藤原家からの皇后や天皇の母は沢山出ています。
 高校生の頃、日本史を学んでいて、平安時代は面白くなかった理由が判りました。
汚い陰謀や子を産ませたもん勝ちの歴史が、若かった私には退屈で、実力で奪い取る武士の世の歴史の方が面白かったはずですよ。
でも年とってみると、ややこしい相関関係やだましあいの世界も、ゴシップ的で面白くなっています。
 8月の猛暑で、天皇陵巡りを見合わせていましたが、難関の上醍醐陵にもなんとか行けて、又いよいよ武士の世の中になっていく天皇陵巡り、それでも地味で退屈かもしれませんが、時々スイーツを入れながら続きますので、どうか見捨てないでよろしくお願いいたします!!

      返事
花水木さん:又ややこしい話ですみませんです。
     立石電機の先先代?社長の奥さんは、
    私にも優しかった、しゃきっとしたおばさんさんでした。
     観るならアメフトかラグビーですよ。

2020/10/7

藤原(北)家2.  天皇陵巡り番外
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 807年第50代桓武天皇第3皇子伊予親王の謀反をでっちあげて、恵美押勝の乱(764年)後もなんとか残っていた藤原南家の残党を一掃した式家と北家ですが、810年薬子の変(クスコノヘン)で、藤原式家の仲成・薬子の兄妹を殺し、藤原四子体制は北家の一人勝ちになりました。
  写真は、私の働く伏見区の老人ホームから坂道を降りて行くと住宅街の一画にある、あまり有名ではないですが伊予親王巨幡墓(コハタノハカ)です
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 鎌足@から数えて6代目の藤原氏長者、北家冬嗣E(フユツグ)(775〜826)は第52代嵯峨天皇と強く結びつき、出世街道をまい進し、とうとう長女順子(ノブコ)を第54代仁明天皇に輿入れさせ、待望の孫第55代文徳天皇を産ませています。
  写真は、立石電機(オムロン)の社長さん旧宅。
私の産まれた家の真向かいに有ったので、今ほど大会社でもなかったからか、子供の時はこの家の庭で私のような庶民の子でも遊ばせてもらえました。
ここから私が1歳にして早くも行ってる、文徳天皇陵までは徒歩5分です。
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 冬嗣の次男良房F(ヨシフサ)(804〜872)は、842年承和の変で大伴氏・橘氏など他氏排斥を実行し、娘明子(メイシ・アキラケイコ)を文徳天皇に嫁がせ、産まれた第56代清和天皇の外祖父として、摂政の地位も得ました。
 良房は兄の長良(ナガラ)の三男基経G(モトツネ)(836〜891)を養子として、藤原氏長者を継がせています。
 866年応天門の変で大伴氏・紀氏を排斥した基経は、同母妹高子を清和天皇に嫁がせ、第57代陽成天皇を産ませますが、高子さんと基経は折り合いが悪く、陽成天皇で一旦天皇の外戚の地位は藤原北家から離れました。
しかし、政権はまだ藤原北家が握っていて、基経は何やかんやごねながら(887年の阿衡事件(アコウ))、実質上の関白にもなっています。
  写真は、基経の墓と言われてる許波多神社(コハタジンジャ)内に有る宇治陵36号です。 
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 基経は娘を第59代宇多天皇になんとか入れましたが、内親王しか産まれませんでした。
しかし、もう一人の娘穏子(オンシ・ヤスコ)を第60代醍醐天皇に入内させ、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇が産まれたので、ここに完全に北家が外戚の地位を握りました。
  写真は、宇治陵総拝所前に建つ藤原氏塋域の碑ですが、そうそうたる名が並んでいます

       返事 
花水木さん:ややこしいですよね。
    わかったつもりで書いていますが、すぐ忘れてしまうぐらいややこしいです。
     サッカーは単純な割に目が離せないし、あまりにもゴールが少ない。
    得点シーンだけ録画で見たらよいスポーツかもしれません。
     そろそろラグビーが始まりそうですが、
    昨年の興奮を皆さんが忘れていなければ良いのですが。

2020/10/4

藤原(北)家1.  天皇陵巡り番外
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 奈良時代から平安時代へと天皇陵巡りを続けながら、一緒に歴史の勉強もしてると、限りなく天皇家と藤原家は交じり合って、1000年頃の天皇は天皇家の人ではなく藤原家の人だと思ってしまいました。
 そもそも天皇家と藤原家の関わり合いは、藤原鎌足@(614〜669)が第38代天智天皇と蹴鞠で知り合い、奈良の多武峰にある談山神社の境内で、645年の大化の改新(乙巳の変)の談合をしてからです。
  写真は鎌足の長男で唐に渡っていた定慧和尚(ジョウエ)が建立した談山神社で、私がたまたま見れた蹴鞠の会です。
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 天智天皇の腹心の部下となった鎌足ですが、672年壬申の乱で政権が第40代天武天皇系に変わった時は、天智はもちろん鎌足ももう死んでおり、鎌足次男不比等A(659〜720)は13歳でした。
連座制で処罰を受けてもよい立場の不比等でしたが、不二山(富士山)のように比べることは出来ないような名前まで付いて、何故か天武→第41代持統天皇政権の中枢に入りこみ、養女宮子を第42代文武天皇に嫁がせ、出来た皇子第45代聖武天皇にも娘の光明子を嫁がせています。
以前の蘇我家と同じように藤原家がとってきた、娘を天皇に嫁がせる策の始まりです。
 そうして729年長屋王の変で、天武の望んだ皇親政治さえ終わらせたのは、不比等の4人の息子たち武智麻呂(南家)・房前B(フササキ)(681〜737)(北家)・宇合(ウマカイ)(式家)・麻呂(京家)の藤原四子体制です。
  写真は長屋王墓周囲にある長屋王公園です
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 写真の平城京を舞台に、藤原家と他の豪族や皇親との争いは続きましたが、宇合の式家は息子広嗣が738年広嗣の乱を起こし、五島列島宇久島まで逃げて捕まり、孫の種継(タネツグ)は長岡京遷都では貢献しましたが陰謀で射殺されています。
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 長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂(恵美押勝)(エミノオシカツ)が強大な権力と武力を握り、天皇に替わって政権を獲れそうなぐらいでしたが、764年恵美押勝の乱で予想外にもあっという間に敗れ、琵琶湖畔で敗死しました。
 麻呂の京家は、元々人材不足でそれほどは栄えていません。
  写真は滋賀県湖西の高島にある内湖の乙女ヶ池で、仲麻呂や一族がここで戦いに敗れ処刑された「勝野の鬼江(カツノノオニエ)」です。
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 次男房前Bの北家が何とか生き延び、藤原北家は恵美押勝の乱から学んだ、「なんぼ強くなっても社長(天皇)には成ろうとするな、社長に自分の娘を嫁がせ若社長(次期天皇)を産ませ、外祖父として大番頭(摂政関白)の地位を獲得して、そこで会社(日本)を実質我が物にする」と言う藤原家憲法で生きる道を選びました。
 房前の3男真楯C(マタテ)(715〜766)・真楯の次男内麻呂D(756〜812)・内麻呂の次男冬嗣E(フユツグ)(775〜826)達は、自分の娘が天皇の妃に成れなければ、弱い家の妃の息子が天皇に成るほうが得策だと、第50代桓武天皇の母親は渡来人でも良いとまでしています。
  写真は第49代光仁天皇夫人で第50代桓武天皇の母親になった渡来人の娘高野新笠の御陵です。

       返事
花水木さん:添臥を私も今回憶えましたが、
    もうこれを何と読むのか、確認しないと忘れていますよ。
     私の母は7人兄妹の末っ子で、父は4人兄妹の長男ですが、
    連れ合いも含めて、もう残ってるのは父方の叔母のみです。
    次は私の番がついに廻ってきてます。

2020/10/1

71-2後三条天皇即位前妃贈皇太后茂子  天皇陵巡り
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 藤原茂子(フジワラノモシ・シゲコ)(?〜1062)は権中納言藤原公成(キンナリ)(999〜1043)の娘ですが、叔母が大納言藤原能信(995〜1065)の妻だったので、能信の養女となりました。
実父の官位が低すぎると言われましたが、1046年養父能信が推したので皇太子に成れた尊仁親王(タカヒト)(後の後三条天皇)(1034〜1073)に添(副)臥(ソイブシ)として入内しています。
 添(副)臥:元服の儀を終えた東宮や皇子など身分の高い男子には、
      その夜女子を添い寝させる風習があって、
      その相手に選ばれた女子をこう言うそうです。
      その後正妻にすることが多いようです。
  写真はまたまたの宇治陵総拝所です。
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 茂子は貞仁親王(サダヒト)(後の白河天皇)(1053〜1129)や篤子内親王(トクシ)(後の堀河天皇中宮)(1060〜1114)など1男4女を産んでいますが、貞仁親王の即位前に亡くなり、藤原北家本流とは少し離れていますが、宇治陵総拝所に祀られています。
   写真の宇治陵35号は、藤原時平の墓とも言われています。
宇治陵のいくつかは藤原北家男子の墓だと思うので、宮内庁が管理などしなくて良い墓もたくさん有ると思うのですが。
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 この辺りから、茂子や能信の出身である藤原氏閑院流(カンインリュウ)が、娘を院政期の天皇に嫁がせることが増えて、本元の藤原北家から外戚の地位を奪う形になってきています。
  総拝所制札には、白河天皇御母贈皇太后茂子とありました。

        返事
花水木さん:私ぐらいの年の京都の男は、
    なんか偉そうにしてる人が多いいようで、反省しています!
     権力を握ったら、手放すのはなかなか難しいですね。
    その辺で人間性が出るような気がするので、反省・反省!!


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