奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2021/9/29

北朝3-2崇光天皇皇子栄仁親王  天皇陵巡り
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 北朝第3代崇光天皇(1334〜1398)(在位1348〜1351)の17歳時の第1皇子で、母は典侍庭田(源)資子(シシ)(?〜1394)の栄仁親王(ヨシヒトシンノウ)(1351〜1416)ですが、父崇光の皇太子は祖父光厳上皇の意向で叔父の直仁親王(ナオヒト)(1335〜1398)でした。
以後もこの直仁親王の系統に皇位を継がせるために、栄仁親王は出家させられる予定になっていました。
  深草北陵の制札は、後深草天皇から12人の持明院統の天皇名が並んでいます
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 栄仁親王の産まれた1351年は正平一統で、祖父光厳・大叔父光明・父崇光と直仁親王は奈良大和の賀名生(アノウ)に拉致され、その間に叔父後光厳(1338〜1374)(在位1352〜1371)が北朝4代目として即位するなど、北朝持明院統嫡流の栄仁親王には厳しい情勢が続きましたが、1368年にやっと親王宣下で栄仁と命名されています。
  制札12人の最後は、南北朝も合体した後の戦国時代終わりの頃の天皇ですが、最後の最後に今回の栄仁親王墓の名もありました
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 1398年我が息子への皇位を望んでいた父崇光上皇が亡くなると、栄仁親王もあきらめて出家、持明院統の所領を足利義満(1358〜1408)(将軍職1369〜1395)の斡旋で後光厳孫にあたる後小松天皇と分け合って、以後現在まで続く伏見宮家初代となりました。
  塀に囲まれた深草北陵の中には、お堂があるようです
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 御息所正親町三条治子(ミヤスンドコロオオギマチサンジョウハルコ)との間に、伏見宮家2代治仁王(ハルヒトオウ)(1370〜1417)と第3代貞成親王(サダフサ)(1372〜1456)をもうけ、この貞成親王の息子が第102代後花園天皇になって、今の天皇家に繋がっています。
 墓は12帝陵の深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)とと同じ場所に有りました。
  週2回JR奈良線の車内からこの陵を見ながら通勤していますが、塀の内部は見えません

        返事
Toitenlabeeさん:マスクとメガネで、
    綺麗な顔の大部分が覆われたイカですね。
     確かに雨の日も風の日もほぼ毎週滋賀県に行ってますので、
    西川貴教かダイアンかとも言われています。
       そんなことあらへんわ
1

2021/9/26

辛抱できない私  
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 先週の4連休に続いて今週も4連休の私、どこも行けないので、朝早くからあまり行かない北西の方向に散歩。
カキツバタ(天然記念物)で有名な大田神社を、久しぶりに訪ねました。
朝早いと、近くなのに深山の趣で、良いですね。
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 そのまま足をのばして上賀茂神社まで、疲れた二人は市バスで帰りましたが、帰ってもまだ8時前。
その日はまだまだ長い1日でした。
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 新型コロナ新規感染者数は指数関数的に減少し、今月いっぱいで非常事態宣言も解かれるようですが、あと1週間が待てない私です。
 昨日は家に居て、昼に有る阪神巨人戦を観るのが怖いこともあって、掟破りの他県ドライブです。
滋賀県湖東にある紅葉とこんにゃくで有名な永源寺が、カーナビ画面に入ってきたので寄ることにしました。
永源寺前に簡単に駐車できたのは、朝早くて紅葉にはまだ早いからと思いましたが、門前まで歩くと、新型コロナで拝観中止中か、門には拝観終了の札が下がっていました。
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 まだまだ時間は有るので、左回りに琵琶湖一周で湖北に向かいます。
途中の道の駅で、朝のおやつはコーヒーゼリーとお茶アイスのクレープ、意外と美味しい!
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 「そうだ!賤ヶ岳リフトが動いていたら乗ってみるか」と、動いていました。
往復900円のリフトに乗って、35年ぶりぐらいの賤ヶ岳です。
写真は、乗った人のお土産にと、貰ったうちわです。
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 ゆっくり動くリフトでしたが、6分の旅はなかなか値打ちあり、これを歩くのは嫌ですね。
降りて山上までは10分程、蝉の声も聞けましたが、もう赤とんぼが飛んでいます。
 手を出したので雑兵ではなくイカになってしまった私、背景は奥琵琶湖です。
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 反対側は、鏡のような水面の余呉湖、山の向こうは敦賀です。
ここが敦賀〜越前に抜ける要所だと言うことがよく判ります。
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 北国街道や小谷城も見下ろせます。
光秀を討った秀吉軍は、跡目争いで北の柴田勝家とここで戦ったのが、賤ヶ岳合戦です。
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 「賤ヶ岳の七本槍」でも有名ですが、秀吉配下の七人の若武者が手柄を立てました。
加藤清正・福島正則・片桐且元は有名ですが、加藤嘉明(ヨシアキ)・平野長泰(ナガヤス)・脇坂安治(ヤスハル)・糟屋武則(カスヤタケノリ)は知りません。
  帰ったら(途中ラジオはおそるおそる聞いてましたが)阪神3−0巨人、高橋が菅野に勝って完封しましたよ!!!
これで今日は負けても良いので、どこにも行かず(孫のお守)、安心してゆっくり観てみます。
なんとなく買う前は、競馬も今日は勝てる気がしてますよ
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2021/9/23

北朝3-1崇光天皇  天皇陵巡り
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 父は光厳天皇(1313〜1364)(在位1331〜1333)で、母は三条秀子(シュウシ)(1311〜1353)の興仁親王(オキヒトシンノウ)ですが、1338年後醍醐上皇が吉野へ逃げたので両統迭立は崩れて、叔父北朝2代光明天皇の皇太子になりました。
  大光明寺陵近くには明治天皇陵があるので、殉死した乃木大将を祀る写真の乃木神社もあります
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 興仁親王は15才で(北朝3代目)崇光天皇(スコウ)(1334〜1398)(在位1348〜1351)として即位し、父光厳の意思で、皇太子には光厳の養父花園上皇の皇子直仁親王(ナオヒト)(1335〜1398)(崇光の叔父ですが、実は弟にあたる不倫の子です)が立ちました。
 3人の妃に3男1女をもうけましたが、その内典侍庭田資子(シシ)(?〜1394?)の産んだ第1皇子が栄仁親王(ヨシヒト)(1351〜1416)です。
  日露戦争の戦いでも有名な乃木大将の像ですが、名将かどうかは議論別れますね
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 観応の擾乱から1351年の正平一統で皇位を退き、太上天皇の尊号を贈られた崇光ですが、翌年には南朝軍の京都占拠により、父光厳上皇・叔父光明上皇・廃太子された直仁親王と共に大和の賀名生(アノウ)に、第97代後村上天皇(1328〜1368)(在位1339〜1368)の意思により幽閉されました。
  写真のJR奈良線からも見える、大光明寺陵の参道入り口です
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 この拉致幽閉は、北朝方が二度と天皇を立てられないようにする南朝方の策でしたが、足利幕府は崇光の祖母にあたる広義門院寧子を治天の君として、崇光の弟弥仁親王(イヤヒト)を(北朝4代目)後光厳天皇(1338〜1374)(在位1352〜1371)としました。
  大光明寺陵印は昔はあったようですが、宮内庁治定陵墓なのに今は陵印が無いのは、やはり北朝方の正式天皇陵ではないからでしょうね
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 1957年許されて先に入京した光明より遅れること2年、父光厳・直仁親王と共に帰京した崇光ですが、その条件として、子孫ともども二度と皇位を望まないと誓約させられています。
  明るい参道の向こうに拝所が見えてきました
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 こうして弟の後光厳とは微妙な関係になった崇光は、息子栄仁親王の即位を2回(1370・1382年)も願うも果たせず、1398年65歳で失意のまま伏見で亡くなり、大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られましたが、其の30年後に直系ひ孫が皇位に就き、今の天皇家に繋がっています。
  右の方が崇光陵です

          返事
和さん:みかん屋さんのチャンポンとかまぼこ、
    食べたいです!
大雪男さん:巨人ももたもたしてるので、
    かろうじて持ってる阪神。
    今週の巨人3連戦全敗しなければ、まだ楽しめますよね。
Toitenlabeeさん:どちらかは
    ドクターに続く仕事に就いてくれたら良いのですが。
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2021/9/20

彼岸花の咲く頃  
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 まだ京都の非常事態宣言は続いていて、自粛生活を続けないといけないようですが、TVの関心は自民党総裁選に移り、新型コロナの話は据え置かれてる感もありますね。
 瀬戸内海に沿って横断して来た台風も、京都は何事もなく済んだようで、五島列島の看護婦さんにメールしたところ、奈留島も福江島もたいしたことなかったようです。
 シルバーウイークの私には4連休ですが、ふと見るときっちり家の道端には彼岸花が咲いていました。
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 家の窓から見下ろした、近所で最後まで残ってる畑にも、彼岸花が咲いています。
   あのコロナ〜がなかったら〜 楽しい日々が続いたのに
    今年の秋はいつもの秋よ〜り 短くなりそうな そんな気がして
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 蝉の声もいつの間にかなくなって、虫の声が聞こえるようになり、朝もやや冷えてきたなあと思ってたら、萩の花も咲き始めてました。
 なにもしてないままに、季節は廻ります。
   めえぐる 廻る季節の中で〜 ♪♪
     私はなにも見つけられず 年とって行ってます
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 1日だけ百貨店に買い物に行っただけで、この4日間をほぼ家の周りだけで過ごした私ですが、来てくれた孫と散歩中に綺麗な虹は見れました。
   若かった〜 何もかもが〜虹♪♪
    わ〜がままは女のを罪  それを許してしまうのも女の罪
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 かろうじて9月も保っていた阪神は、巨人にボロ負けしてしまい、やっぱり私の3位予想は当たりそう。
 今週は3日間も開催された競馬は、二場だけだったのでまだ救いですが、被害を大きくしただけでした。
それでも自粛時代の休日の、数少ない楽しみでしたよ。
 今朝六時から散歩した、宝が池に映る逆さ比叡です。
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 散歩の帰り道の田んぼの稲刈りは、まだ終わってませんでした。
     歩きつづける 彼岸花咲きつづける
                 種田山頭火
 彼岸花が咲くたびに、福江島三井楽の、彼岸花で一杯の万葉公園を思い出します。
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 今日は敬老の日、孫V-1・V-2が、もう一回来てくれました。
あと10回ぐらい敬老してもらえたら、それで充分です。
 来週も私は4連休、最後の自粛休みになったらいいのですが、やっぱり最後の頼りはWOWOWの映画とラグビーですかね。

            返事
Toitenlabeeさん:無理ですよ、と言いながら、
    Toiteさんより長生きしたらすみません。
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2021/9/16

北朝2-1光明天皇  天皇陵巡り
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 第93代後伏見天皇(1288〜1336)の第2皇子で、母は兄光厳天皇(1313〜1364)と同じく女性の治天の君になった西園寺寧子の豊仁親王(ユタヒト・トヨヒトシンノウ)ですが、同母兄とは8歳はなれていました。
  伏見区桃山には明治天皇陵や桃山城があったりしますが、JR奈良線が明治天皇陵を避けるように廻りこんだ線路沿いに、大光明寺陵は有ります
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 建武の乱(1336年)で足利尊氏(1305〜1358)が楠木正成たちを破って入京すると、比叡山に退位しないまま逃げた後醍醐天皇に替わって、尊氏の要請で、同母兄光厳上皇の猶子になる形で、豊仁親王は北朝2代光明天皇(コウミョウ)(1321〜1380)(在位1336〜1348)として即位、15才でした。
光明天皇が本当は北朝初代天皇ということの方が正しいですが、政務は光厳上皇の院政です。
  線路沿いから始まる細長い大光明寺陵、この辺りに伏見宮の大光明寺があったと思います
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 第81代安徳天皇が三種の神器を持ったまま西国に逃げたので、神器なしで即位した第82代後鳥羽天皇にならって、神器なき即位となりましたが、その後後醍醐は神器を光明に返しています。(まあその後、返した神器は偽物だよとも言ってますが)
  本来なら南朝が正統なので、北朝天皇陵を宮内庁が管理するのはおかしな話ですが、なにせこの北朝が今の天皇家に繋がってるので(後醍醐の血は全く入っていません)、まあしかたないですかね
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 光明即位後は一旦都に戻った後醍醐に大上天皇の称号を与え、両統迭立の原則から後醍醐の皇子成良親王を皇太子に立てました。
しかし、後醍醐が吉野に去ったので、同母兄光厳上皇の息子興仁親王(オキヒト)を1338年には皇太子に立て、これで完全な南北朝争いの時代になりました。
  細長く開放的に続く参道です
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 1348年同母兄光厳上皇の第1皇子興仁親王に譲位し、崇光天皇(1334〜1398)(在位1348〜1351)として自らは上皇になった光明ですが、足利家の内紛観応の擾乱に続く南朝による正平の一統で、その崇光も廃されてしまい、とうとう南朝軍によって光明上皇は兄光厳上皇や甥崇光上皇・廃太子直仁親王と共に奈良県賀名生(アノウ)に軟禁、その後河内の金剛寺に移されています。
  拝所は広くなっていました
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 光明上皇が一番無害だったのか、1355年に一人だけ早目に京都に返された後は、仏門に入り大光明寺に住み、兄光厳と同じように諸国遍歴修行した後に、奈良の長谷寺で亡くなり、この大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られました。
 光明には皇女も少なく、皇子はいなかったようです。
大光明寺陵の陵印は、現在は有りませんでした。

          返事
Toitenlabeeさん:欧亜国際連絡列車にかけたのだと思いますが?
     大丈夫です、
    孫がおかしいと思った頃には、もう私は存在してないと思います。
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2021/9/13

休日  
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 緊急事態宣言は京都も9月いっぱいまで伸びてしまいましたが、TVは新型コロナより自民党総裁選の方が面白いのか、新型コロナ関連ニュースは減ってきたようにも感じます。
感染者数も減ってきてはいますが、私以外の医療従事者にとっては、まだまだ厳しい状況ですので、越境は困難で心苦しいですが、毎週の三連休初日は秋晴れ、1日ぐらいは越境しないとあまりにも退屈です。
 滋賀県のこのメタセコイヤ並木で観光スポットになってるマキノ高原に、栗を買いに出かけました。
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 秋の青空に導かれてもう一県越境、ひと山越えて福井県敦賀にまで足を伸ばしました。
久しぶりのJR敦賀駅は新装なって、3年後には北陸新幹線が金沢から敦賀まで伸びるので、駅の裏側は突貫工事中です。
この新幹線には乗れそうですが、その後京都か大阪に延びる分には乗れそうに有りませんし、私の子供でさえ乗れるかどうかですよね。
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 敦賀駅前から気比神社に続く道の途中、60年前からずっと空き地だった印象の有る場所に、平和堂アルプラザが出来ていました。
ここに車を駐車して、駅前を散策です。(駐車券さえ発行せず無料ですが、もちろん帰りには、食料品の買い物とコーヒーを飲んでいます)
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 かっては東京ー敦賀港を結ぶ「欧亜国際連絡列車」が走っていた敦賀、敦賀港開港100年を記念して、松本零士さんの「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメントが、駅前の商店街から気比神社まで並んでいました。
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 駅前の店で福井県人のような顔をして食べた「金ケ崎定食」、手ごろな値段で値段以上に美味しかったです。
でもこれで、敦賀に金ケ崎城があったことを思い出し行きましたが、駅からもすぐ近くでした。
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 金ケ崎城は、敦賀港近くの海に突き出た丘の上にある城ですが、2度目の戦いは、1570年織田信長の越前朝倉攻めに際して、織田軍はこの城を接収しましたが、浅井長政の裏切りに依って撤退を余儀なくされました。
この時織田軍にいた秀吉・家康・光秀の活躍で、信長は無事京都に逃れられたので、この撤退戦を「金ケ崎の退き口(カネガサキノノキクチ)」と言うそうです。
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 この金ケ崎城跡に有る金崎宮(カネガサキグウ)の祭神は尊良親王(タカヨシ)(1306?〜1337)と弟の恒良親王ですので、菊の御紋が社殿には有りました。
 尊良親王のことは最近9月1日の天皇陵巡りブログで取り上げたところですので、本来はもっと早く訪問しても良かったのですが失念してました。
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 一度目の金ケ崎城の戦いは、1337年に新田義貞がこの尊良親王を大将に就けて、足利軍に対してここに立て籠もりましたが敗れ、尊良親王(30歳)は新田義貞の長男義顕(ヨシアキ)(20歳)と共に自害しています。
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 もう少し何もない城跡を登って行くと、「尊良親王御陵墓見込地」の碑が立っていました。
この地で尊良親王と義顕は折り重なって自害したと思いますが、墓は京都南禅寺近くにありますので、9月1日のブログ参照してください。

         返事
Toitenlabeeさん:そう売ってるんですが、ちょっと高い!
     1才になった孫が、色白で髪はやや茶色、
    日本製カメラで撮っても可愛いので、「ハーフですか?」と、
    よく聞かれるそうです。
    「祖父がフランス人のクオーター」と答えるように、
    娘には命じてますが、何か問題でも・・・・?
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2021/9/10

43.リングダーツサンドアイス  菓子たくさん
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 懐かしの泉屋の缶カンです。
これに入った泉屋のクッキーの中でも、とくに有名なのはドーナツ型の輪のクッキーに果物の粒が付いていたリングダーツです。
 昔は私の家の近所、烏丸二条に泉屋京都店があって、店より近い所にあった泉屋工場でけがした職人さんが、父の小さな開業外科医院を受診してくれたので、年に何回かは欠けたのや焦げた泉屋クッキーが一斗缶に一杯届きました。
私たちのおやつはこのクッキーが多かったので、泉屋クッキーの味は私の舌に今も残っています(不良品の方が美味しかった)。
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 今はそのリングダーツ2枚でアイスを挟んだ「リングダーツサンドアイス」が出来ていました。
 義理堅い義弟からの、今年のお中元はこれでした。
貰いものの値段を調べるのはみっともないですが、この懐かしい缶に10個入っていて5400円。
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 1個500円するので、買う物ではなく貰うアイスですね。
ビスケットやモナカの皮で挟んだアイスは、重量感あって満足しますが、清涼感には乏しいので、冬に食べた方が美味しいアイスかもしれません。

       返事
Toitenlabeeさん:ようやく私の写真映りが悪いわけが判りました。
    キャノンやキミマロなど日本製カメラで写してたからですね。
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2021/9/7

北朝1-1光厳天皇  天皇陵巡り
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 第93代後伏見天皇(1288〜1336)(在位1298〜1301)の第3(1?)皇子で、母は女性として治天の君になった西園寺寧子(ネイシ)(広義門院)(1292〜1357)の量仁親王(カズヒトシンノウ)ですが、第96代後醍醐天皇(1288〜1339)(在位1318〜1339)の皇太子だった邦良親王が病死したので、叔父である花園上皇の猶子になって、なんとか替わって後醍醐の皇太子に6歳で立てました。
  写真は光厳天皇が開山した、丹波山国庄の常照皇寺の山門です
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 自分の息子を立太子させたかった後醍醐は、なかなか譲位はせず、とうとう1331年討幕運動(元弘の乱)を起こしましたが、敗れて廃位され、幕府の指示を得た量仁親王が(第97代)光厳天皇(コウゴン)(1313〜1364)(在位1331〜1333)として即位しました。
  常照皇寺は京都の北なので、市内よりやや遅めの桜でも有名です
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 後醍醐天皇皇女懽子内親王(カンシ・ヨシコ)と花園天皇皇女寿子内親王(ジュシ)を妃にしましたし、典侍正親町三条秀子(オオギマチサンジョウヒデコ)との間には、第1皇子興仁親王(オキヒト)(後の崇光天皇)と第2皇子弥仁親王(イヤヒト)(後の後光厳天皇)をもうけています。
 他にも沢山の後宮はいましたが、なんといっても1343年には可愛がってもらっていた叔父花園天皇と正親町実子(ジツコ)の間の子直仁親王(ナオヒト)(1335〜1398)は、実は私が寝取って出来た子だと、正親町実子と寿子内親王の親子丼をしたことを、自らが認めています。
  常照皇寺の玄関には、菊の御紋の幕が下がっていました。
もちろん私はここからは入れません
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 1333年各地で再び兵を挙げた後醍醐軍の足利尊氏などが京都六波羅探題を襲撃したので、北条仲時は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れて東へ落ちのびようとしましたが、滋賀県米原市にある番場宿(番場の忠太郎でも有名な中山道宿)で仲時以下北条一族432人は自刃、光厳天皇達は捕えられ皇位も廃されました。
 これで再び後醍醐天皇は、97代天皇としての光厳の治世を認めずに無かったものとして、天皇に返り咲きました。
  写真のように、常照皇寺の右横から御陵への参道が続いています
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 その後は建武新政の失政により叛旗を翻した足利尊氏により治天の君とされた光厳上皇は、同母弟光明天皇を1336年に北朝2代目として即位させ、その後皇子崇光天皇も皇位につけて院政を敷きました。
  常照皇寺に沿って参道を登って行くと、丁度寺の裏山に拝所は仰ぎ見るように有りました
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    勉強時間;
 源頼朝が開いた鎌倉幕府はイイクニヅクリの1192年と憶えましたが、現在は1185年(イイハコヅクリ)が鎌倉幕府の始まりとされてるようです。
 同じく室町幕府の成立も、足利尊氏が征夷大将軍に就任した1338年(イイミミヤ)ではなく、今は建武式目が制定された1336年だそうです。
 そしてここから室町時代が始まるのですが、室町時代は大きく南北朝期(1336〜1392)・室町期・戦国期に分けるそうですよ。
  この御陵は近くまでいけないので、これぐらいしかわかりません
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 光厳上皇の院政は15年続きましたが、足利家内の争いである観応の擾乱(カンノウノジョウラン)後の尊氏の南朝帰参の1351年正平一統にて、南朝軍によって光厳上皇は崇光上皇・廃太子直仁親王と共に拉致されて、大和の賀名生(アノウ)に幽閉されています。
  光厳・後花園陵と後土御門天皇分骨所を兼ねています
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 こうして京都御所内で20才過ぎまで女にこまらない公家生活をしてきた光厳天皇ですが、2度も京都から離されり、お供も少ない幽閉生活など不自由な暮らしを経験させられました。
5年後京都に帰った後は、禪に深く帰依し、奈良などの霊場を巡り、晩年は京都の北の奥に常照皇寺を開き隠棲し52才でこの地で亡くなったので、ここに陵があります。
 光厳天皇山國陵(ヤマクニノミササギ)(京都府桑田郡京北町常照皇寺内)

         返事
Toitenlabeeさん:飛んでる鳥も
    驚いて落ちていた頃を見たかったです。
     でも証明写真が可愛いって、すごいですね!
    写真映りが悪くて、ブログに顔を載せられない私には羨ましすぎます。
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2021/9/3

42.ぶどう饅頭  菓子たくさん
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 首都圏の新型コロナ感染者数はやっとピークが過ぎた感じですが、近畿の感染者数はまだまだ先が見えません。
菅首相も、この数日なんかわけがわからい提案を出し続けたあげく、突然「辞めた」と職場放棄ですので、あっさりと悪役が死んでしまった映画のようで、拍子抜けですが、また新たな悪役が出てくるんでしょうね。
 第3者のように傍観しかしてない医療従事者の私ですが、また毎週の自粛生活の休みが始まりました。
 雨の中今日はいつものように滋賀県に越境して、日用品の買い物とランチです。
今日のランチは少し豪華に、写真のデザートもたくさん有りました。
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 我々が帰省も出来ないし、ひ孫の顔を見に上京してもらうことも出来ない今、家内の実家の義母から送ってきた荷物の底に入っていたのは、阿波名物「ぶどう饅頭」。
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 以前から時々送ってきたり、徳島で食べてましたが、久しぶりの「ぶどう饅頭」は、昔と違って1個ずつの包装になっていて、これが8個入っていました。
1個は108円です。
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 味は微妙で、徳島県人でも好き嫌いが激しいお菓子のようで、これがメジャーにならない原因かもしれません。
 漫画「ガキでか」で主人公の少年警察官こまわり君が、「ぶどうまんじゅう〜!」と叫んでいたことを、「八丈島のキヨーン〜!」と共に知ってる人もいるかと思いますが、その饅頭です。
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 それでも徳島県美馬市穴吹町にある日乃出本店製の「ぶどう饅頭」は、大正3年から百有余年続く阿波の名物らしく、家内の子供の頃から箱の中に1億円札が入っていたようです。
(当時は1万円札だったと思うと、家内は証言しました)。
写真の下の1万円札は、私の小遣いからの借用です。
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 日乃出幸運券の裏側です。
四国の霊峰「剣山」の武道(ブドウ)信仰にちなんだ「ぶどう饅頭」ですが、味や形は「葡萄饅頭」ですね。

        返事
Toitenlabeeさん:「18〜24才の元のかわいい姿」の時には、
    私はお目にかかってないですよね。
    良かったです!?
花水木さん:そうつらいニュースばかりですが、
    菅首相が「辞めたー!」と言ったのは、明るいニュースですかね。
     多少でもボケるのは、私はつらいです。
    辛いことや悲しいことも、なるべく楽しく考えて、
    15才若返ったままで、800年生きてみます。
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2021/9/1

96-3後醍醐天皇皇子尊良親王  天皇陵巡り
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 第96代後醍醐天皇(1288〜1339)には沢山の皇子女(16人〜32人)がいたと報告してきましたが、その内10人の皇子女の墓が宮内庁治定陵墓になっています。
10人の内皇子は8人ですが、第97代後村上天皇になった第7皇子は別として、一番有名なのは第3(1かも)皇子大塔宮護良親王(オオトウノミヤ・ダイトウノミヤ/モリヨシ・モリナガ)です。
  写真は、奈良県十津川村の大塔にある護良親王像ですが、笠置山から逃げてきた護良親王をここの豪族が助けたので、ここに楠木正成像によく似た像が立っていました
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 最後は捕まって、父後醍醐に見捨てられたような形で、鎌倉の牢内で惨殺された護良親王ですので、鎌倉に有る墓には行かなくてはならないのですが、今の状況を口実にパスしました。
 他は、京都に有るのですが寺が閉まっていて観れない墓の皇子もいます。
静岡県浜松市・富山県高岡市・熊本県八代市・浜松市に墓があるのは、後醍醐天皇が我が子を総大将にして、諸国の戦や守りや統治に置いたためですが、この四つも今回は行ききれませんでした。
  写真は、護良親王が奈良県吉野で挙兵し、蔵王堂の前にはったが負けた、最後の陣地跡です
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 そして8人のうち今回の第1皇子尊良親王(タカヨシシンノウ)(1306?〜1337)の墓は京都に有るので、紹介します。
 母は歌人としても有名な(私は知りませんが)二条為子(イシ・タメコ)の尊良親王は、父後醍醐の皇太子であった従兄弟の邦良親王(クニヨシ)(1300〜1326)が急死したので、皇太子候補に推されましたが、持明院統候補に敗れています。
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 1331年元弘の乱で父後醍醐と共に笠置山で挙兵した尊良親王ですが、幕府軍に捕えられ、土佐に流されています。
その後土佐を脱出、九州に渡り挙兵、建武新政でで京都に戻っています。
 1335年の建武の乱では、父後醍醐は足利尊氏に降伏しましたが、新田義貞軍の総大将にまつり上げられ、最後は福井県敦賀の金ケ崎の戦いで自害しました。
 尊良親王など後醍醐の皇子たちは、公家と言うより武士に近く、日本中で戦いに明け暮れる生活を送った人が多いです。
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 金ケ崎の戦いでは、新田義貞の長男義顕(ヨシアキ)(20才)に落ちのびることを勧められましたが、「腹心のお前が死ぬのなら私も自害する。戦場での自害の作法を知らないので教えてくれ」と尋ね、義顕が正式作法で自刃した身の上に折り重なるようにして自害したそうです(30才前後)。
 自害した尊良親王の首は、敦賀から京都永観堂に届けられたそうで、それで永観堂に近いこの地に後醍醐天皇皇子尊良親王墓(左京区南禅寺下河原町)があるのはうなずけます。

          返事
Toitenlabeeさん:八百比丘尼伝説知ってましたね。
    800年生きる!私はいま73歳なので、
    丁度あと10倍730年生きられますよと言われたら、困りますね。
     では何歳の姿形で生きたいですかと言われたら、
    小学生時は病気しましたし、
    中学時代は少しだけですが、いじめられましたし、
    高校時代は楽しかったが、受験がありましたし、
    大学時代は、面白いぐらい人生に悩みましたが、モテませんでしたし、
    外科医時代は心配ばかりしたり、忙しすぎましたし、
    60歳頃の奈留島生活が、体力(精力も)はまだ少し残ってましたし、
    心が落ち着いていたような気がして、60歳で800年いけそうです。
花水木さん:私は洗濯掃除炊事をしないので、
    時間が余るのですかね。
商家の嫁さん:ご迷惑をおかけしています。
    小浜には神戸・大阪・滋賀ナンバーが多かったですよ。
    
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