奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2021/9/16

北朝2-1光明天皇  天皇陵巡り
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 第93代後伏見天皇(1288〜1336)の第2皇子で、母は兄光厳天皇(1313〜1364)と同じく女性の治天の君になった西園寺寧子の豊仁親王(ユタヒト・トヨヒトシンノウ)ですが、同母兄とは8歳はなれていました。
  伏見区桃山には明治天皇陵や桃山城があったりしますが、JR奈良線が明治天皇陵を避けるように廻りこんだ線路沿いに、大光明寺陵は有ります
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 建武の乱(1336年)で足利尊氏(1305〜1358)が楠木正成たちを破って入京すると、比叡山に退位しないまま逃げた後醍醐天皇に替わって、尊氏の要請で、同母兄光厳上皇の猶子になる形で、豊仁親王は北朝2代光明天皇(コウミョウ)(1321〜1380)(在位1336〜1348)として即位、15才でした。
光明天皇が本当は北朝初代天皇ということの方が正しいですが、政務は光厳上皇の院政です。
  線路沿いから始まる細長い大光明寺陵、この辺りに伏見宮の大光明寺があったと思います
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 第81代安徳天皇が三種の神器を持ったまま西国に逃げたので、神器なしで即位した第82代後鳥羽天皇にならって、神器なき即位となりましたが、その後後醍醐は神器を光明に返しています。(まあその後、返した神器は偽物だよとも言ってますが)
  本来なら南朝が正統なので、北朝天皇陵を宮内庁が管理するのはおかしな話ですが、なにせこの北朝が今の天皇家に繋がってるので(後醍醐の血は全く入っていません)、まあしかたないですかね
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 光明即位後は一旦都に戻った後醍醐に大上天皇の称号を与え、両統迭立の原則から後醍醐の皇子成良親王を皇太子に立てました。
しかし、後醍醐が吉野に去ったので、同母兄光厳上皇の息子興仁親王(オキヒト)を1338年には皇太子に立て、これで完全な南北朝争いの時代になりました。
  細長く開放的に続く参道です
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 1348年同母兄光厳上皇の第1皇子興仁親王に譲位し、崇光天皇(1334〜1398)(在位1348〜1351)として自らは上皇になった光明ですが、足利家の内紛観応の擾乱に続く南朝による正平の一統で、その崇光も廃されてしまい、とうとう南朝軍によって光明上皇は兄光厳上皇や甥崇光上皇・廃太子直仁親王と共に奈良県賀名生(アノウ)に軟禁、その後河内の金剛寺に移されています。
  拝所は広くなっていました
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 光明上皇が一番無害だったのか、1355年に一人だけ早目に京都に返された後は、仏門に入り大光明寺に住み、兄光厳と同じように諸国遍歴修行した後に、奈良の長谷寺で亡くなり、この大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られました。
 光明には皇女も少なく、皇子はいなかったようです。
大光明寺陵の陵印は、現在は有りませんでした。

          返事
Toitenlabeeさん:欧亜国際連絡列車にかけたのだと思いますが?
     大丈夫です、
    孫がおかしいと思った頃には、もう私は存在してないと思います。
2

2021/9/7

北朝1-1光厳天皇  天皇陵巡り
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 第93代後伏見天皇(1288〜1336)(在位1298〜1301)の第3(1?)皇子で、母は女性として治天の君になった西園寺寧子(ネイシ)(広義門院)(1292〜1357)の量仁親王(カズヒトシンノウ)ですが、第96代後醍醐天皇(1288〜1339)(在位1318〜1339)の皇太子だった邦良親王が病死したので、叔父である花園上皇の猶子になって、なんとか替わって後醍醐の皇太子に6歳で立てました。
  写真は光厳天皇が開山した、丹波山国庄の常照皇寺の山門です
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 自分の息子を立太子させたかった後醍醐は、なかなか譲位はせず、とうとう1331年討幕運動(元弘の乱)を起こしましたが、敗れて廃位され、幕府の指示を得た量仁親王が(第97代)光厳天皇(コウゴン)(1313〜1364)(在位1331〜1333)として即位しました。
  常照皇寺は京都の北なので、市内よりやや遅めの桜でも有名です
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 後醍醐天皇皇女懽子内親王(カンシ・ヨシコ)と花園天皇皇女寿子内親王(ジュシ)を妃にしましたし、典侍正親町三条秀子(オオギマチサンジョウヒデコ)との間には、第1皇子興仁親王(オキヒト)(後の崇光天皇)と第2皇子弥仁親王(イヤヒト)(後の後光厳天皇)をもうけています。
 他にも沢山の後宮はいましたが、なんといっても1343年には可愛がってもらっていた叔父花園天皇と正親町実子(ジツコ)の間の子直仁親王(ナオヒト)(1335〜1398)は、実は私が寝取って出来た子だと、正親町実子と寿子内親王の親子丼をしたことを、自らが認めています。
  常照皇寺の玄関には、菊の御紋の幕が下がっていました。
もちろん私はここからは入れません
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 1333年各地で再び兵を挙げた後醍醐軍の足利尊氏などが京都六波羅探題を襲撃したので、北条仲時は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れて東へ落ちのびようとしましたが、滋賀県米原市にある番場宿(番場の忠太郎でも有名な中山道宿)で仲時以下北条一族432人は自刃、光厳天皇達は捕えられ皇位も廃されました。
 これで再び後醍醐天皇は、97代天皇としての光厳の治世を認めずに無かったものとして、天皇に返り咲きました。
  写真のように、常照皇寺の右横から御陵への参道が続いています
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 その後は建武新政の失政により叛旗を翻した足利尊氏により治天の君とされた光厳上皇は、同母弟光明天皇を1336年に北朝2代目として即位させ、その後皇子崇光天皇も皇位につけて院政を敷きました。
  常照皇寺に沿って参道を登って行くと、丁度寺の裏山に拝所は仰ぎ見るように有りました
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    勉強時間;
 源頼朝が開いた鎌倉幕府はイイクニヅクリの1192年と憶えましたが、現在は1185年(イイハコヅクリ)が鎌倉幕府の始まりとされてるようです。
 同じく室町幕府の成立も、足利尊氏が征夷大将軍に就任した1338年(イイミミヤ)ではなく、今は建武式目が制定された1336年だそうです。
 そしてここから室町時代が始まるのですが、室町時代は大きく南北朝期(1336〜1392)・室町期・戦国期に分けるそうですよ。
  この御陵は近くまでいけないので、これぐらいしかわかりません
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 光厳上皇の院政は15年続きましたが、足利家内の争いである観応の擾乱(カンノウノジョウラン)後の尊氏の南朝帰参の1351年正平一統にて、南朝軍によって光厳上皇は崇光上皇・廃太子直仁親王と共に拉致されて、大和の賀名生(アノウ)に幽閉されています。
  光厳・後花園陵と後土御門天皇分骨所を兼ねています
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 こうして京都御所内で20才過ぎまで女にこまらない公家生活をしてきた光厳天皇ですが、2度も京都から離されり、お供も少ない幽閉生活など不自由な暮らしを経験させられました。
5年後京都に帰った後は、禪に深く帰依し、奈良などの霊場を巡り、晩年は京都の北の奥に常照皇寺を開き隠棲し52才でこの地で亡くなったので、ここに陵があります。
 光厳天皇山國陵(ヤマクニノミササギ)(京都府桑田郡京北町常照皇寺内)

         返事
Toitenlabeeさん:飛んでる鳥も
    驚いて落ちていた頃を見たかったです。
     でも証明写真が可愛いって、すごいですね!
    写真映りが悪くて、ブログに顔を載せられない私には羨ましすぎます。
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2021/9/1

96-3後醍醐天皇皇子尊良親王  天皇陵巡り
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 第96代後醍醐天皇(1288〜1339)には沢山の皇子女(16人〜32人)がいたと報告してきましたが、その内10人の皇子女の墓が宮内庁治定陵墓になっています。
10人の内皇子は8人ですが、第97代後村上天皇になった第7皇子は別として、一番有名なのは第3(1かも)皇子大塔宮護良親王(オオトウノミヤ・ダイトウノミヤ/モリヨシ・モリナガ)です。
  写真は、奈良県十津川村の大塔にある護良親王像ですが、笠置山から逃げてきた護良親王をここの豪族が助けたので、ここに楠木正成像によく似た像が立っていました
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 最後は捕まって、父後醍醐に見捨てられたような形で、鎌倉の牢内で惨殺された護良親王ですので、鎌倉に有る墓には行かなくてはならないのですが、今の状況を口実にパスしました。
 他は、京都に有るのですが寺が閉まっていて観れない墓の皇子もいます。
静岡県浜松市・富山県高岡市・熊本県八代市・浜松市に墓があるのは、後醍醐天皇が我が子を総大将にして、諸国の戦や守りや統治に置いたためですが、この四つも今回は行ききれませんでした。
  写真は、護良親王が奈良県吉野で挙兵し、蔵王堂の前にはったが負けた、最後の陣地跡です
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 そして8人のうち今回の第1皇子尊良親王(タカヨシシンノウ)(1306?〜1337)の墓は京都に有るので、紹介します。
 母は歌人としても有名な(私は知りませんが)二条為子(イシ・タメコ)の尊良親王は、父後醍醐の皇太子であった従兄弟の邦良親王(クニヨシ)(1300〜1326)が急死したので、皇太子候補に推されましたが、持明院統候補に敗れています。
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 1331年元弘の乱で父後醍醐と共に笠置山で挙兵した尊良親王ですが、幕府軍に捕えられ、土佐に流されています。
その後土佐を脱出、九州に渡り挙兵、建武新政でで京都に戻っています。
 1335年の建武の乱では、父後醍醐は足利尊氏に降伏しましたが、新田義貞軍の総大将にまつり上げられ、最後は福井県敦賀の金ケ崎の戦いで自害しました。
 尊良親王など後醍醐の皇子たちは、公家と言うより武士に近く、日本中で戦いに明け暮れる生活を送った人が多いです。
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 金ケ崎の戦いでは、新田義貞の長男義顕(ヨシアキ)(20才)に落ちのびることを勧められましたが、「腹心のお前が死ぬのなら私も自害する。戦場での自害の作法を知らないので教えてくれ」と尋ね、義顕が正式作法で自刃した身の上に折り重なるようにして自害したそうです(30才前後)。
 自害した尊良親王の首は、敦賀から京都永観堂に届けられたそうで、それで永観堂に近いこの地に後醍醐天皇皇子尊良親王墓(左京区南禅寺下河原町)があるのはうなずけます。

          返事
Toitenlabeeさん:八百比丘尼伝説知ってましたね。
    800年生きる!私はいま73歳なので、
    丁度あと10倍730年生きられますよと言われたら、困りますね。
     では何歳の姿形で生きたいですかと言われたら、
    小学生時は病気しましたし、
    中学時代は少しだけですが、いじめられましたし、
    高校時代は楽しかったが、受験がありましたし、
    大学時代は、面白いぐらい人生に悩みましたが、モテませんでしたし、
    外科医時代は心配ばかりしたり、忙しすぎましたし、
    60歳頃の奈留島生活が、体力(精力も)はまだ少し残ってましたし、
    心が落ち着いていたような気がして、60歳で800年いけそうです。
花水木さん:私は洗濯掃除炊事をしないので、
    時間が余るのですかね。
商家の嫁さん:ご迷惑をおかけしています。
    小浜には神戸・大阪・滋賀ナンバーが多かったですよ。
    
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2021/8/25

96-2後醍醐天皇女御尊称皇太后阿野廉子  天皇陵巡り
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 第96代後醍醐天皇(1288〜1339)には沢山の妃(8人〜20人)がいますが、皇太子時代の最初の妃中宮藤原嬉子(キシ)(?〜1333)は溺愛されていました。(まあ、後醍醐は誰でも愛してしまう人のようですが)
この嬉子に中宮内侍として務めたのが19歳の阿野廉子(アノレンシ・カドコ)(1301〜1359)です。
  写真は、河内長野市にある観心寺、息子第97代後村上天皇陵も有ります
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 廉子はしばらくして後醍醐天皇に召されて、3男2女をもうけました。
日本史上最後の伊勢斎宮だった祥子内親王(ショウシ)(1322?〜1352)・第5皇子で建武新政で皇太子にもなった恒良親王(ツネヨシ)(1325〜?)・第6皇子で一時征夷大将軍にもなった成良親王(ナリヨシ・ナリナガ)(1326〜1344?)・惟子内親王(イシ)(1336?〜1389?)と、なんといっても第7皇子義良親王(ノリヨシ・ノリナガ)(1328〜1368)は第97代後村上天皇になっています。
  廉子の墓ははっきりしないので、この観心寺内に有る息子後村上陵参道近く、楠木正成首塚の横に、コウボ坂陵墓参考地(大阪府河内長野市寺元)として治定されてます
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 元弘の乱で夫後醍醐が隠岐島に流された時も廉子は同行し、1333年隠岐島から戻った後醍醐が建武新政を開始すると、直後に亡くなった正妃嬉子に替わって、廉子の地位は上がりました。
  コウボ坂は皇母坂と書くそうですが、ほんまですかね
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 建武新政が失敗し、吉野に逃れた後醍醐にも同行し、後醍醐亡き後は息子が第97代後村上天皇として即位したので、廉子はこれを助ける政務能力にもたけた女性だったようです。
  一旦観心寺を出て駐車場に戻りましたが、写真の近くの駐在所の赤信号の左手に、滅茶苦茶分かり難い参道への細い入り口があり、木の段々が付いているのを拠りどころにして登って行くと、なんとか見つけましたよ
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 しかしながら、南朝を正義とする論では、後醍醐天皇の人柄や政治能力を直接批判はしにくいので、廉子はそのやり玉に上がったようです。
正妃嬉子から後醍醐の愛を無理矢理奪い、他の親王ではなく我が息子を後継ぎにする為に護良親王などを葬り去ったなど、傾城傾国の悪女として描かれることが多く、最近再放送されてたNHK大河真田広之の「太平記」でも廉子(原田美枝子)は、後醍醐(片岡孝夫)に色仕掛けでせまる場面があったような気がします。
  なんとか見つけたもう一つの廉子の檜尾塚(ヒノオヅカ)陵墓参考地(河内長野市寺元)です
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 廉子は河内に移った南朝軍の本体と共に女院(新待賢門院)となって、息子後村上を助け、観心寺で亡くなったようですが、はっきりした墓は分かっていません。
それでも宮内庁は三つもの陵墓参考地を、廉子の為に治定しています。
三つ目の川上陵墓参考地(奈良県吉野郡川上村高尾)ですが、ここには行けませんでした

       返事
Toitenlabeeさん:ほんまにあ〜あ・・・・ですね。
     原本ではなく、ブロマイドですよ。
和さん:彼女のブログは読んでましたよ。
    残念ですよね!
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2021/8/19

96-1後醍醐天皇  天皇陵巡り
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 止まない雨はない、終息しない感染症はないのですが、新型コロナは今だ出口が見えず、今朝出勤前は虹がかかってた京都も、昼前から又雨です。
 午前中で仕事も終わり、明日から又3連休ですが、パラリンピックは中止せずに始まりそうも、私の予定は全くなしで困ってます。
 ブログも天皇陵巡りぐらいしか書くこともないので、退屈でしょうがお付き合い願います。
 今回は誰でも知ってる有名な後醍醐天皇ですので、面白いですよ?
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 大覚寺統の第91代後宇多天皇(1261〜1324)の第2皇子で、母は五辻忠子(イツツジチュウシ)の尊治親王(タカハルシンノウ)は、異母兄第94代後二条天皇(1285〜1308)の病死により、持明院統の第95代花園天皇(1297〜1348)(在位1308〜1318)に皇位が移った時に、後二条自身の息子邦良親王(クニヨシ)(1300〜1326)が幼く病弱でも有った為に、花園天皇より年長でしたが尊治親王が皇太子になれました。
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 その後、大覚寺統の長子として邦良親王を皇位につけるための中継ぎとしてですが、尊治親王は第96代後醍醐天皇(ゴダイゴ)(1288〜1339)(在位1318〜1339)として即位も出来ました。
 中宮藤原嬉子(キシ)・中宮ジュンシ(後伏見天皇皇女)・宮人阿野廉子(アノレンシ)など8人の妃に16人以上の皇子女をもうけています(20人の妃に32人の皇子女とも)。
この頃真言密教の一派立川流(タチカワリュウ)と言う、ややあやしげな宗教の広まりもあってか、宮中でも男女間は乱れていたようです。
  写真は、後醍醐天皇ゆかりの奈良県吉野の金峯山寺(キンプセンジ)の蔵王堂(国宝)です
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 後醍醐天皇は政治に対して強い意志を持って臨み、1321年には父後宇多の院政を廃止して親政を望みました。
 しかしいかんせん、両統迭立時代の弟の弟である後醍醐の系統に皇位が廻ってくるはずもなく、なんとしてでもと望む心が、皇位を決定する鎌倉北条幕府への反感になり、討幕計画となりました。
  吉野にある写真の如意輪寺(ニョイリンジ)境内に、後醍醐天皇陵は有ります
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 1324年の正中の変(ショウチュウノヘン)は未遂に終わり、1331年の元弘の乱では笠置山で挙兵しましたが、後醍醐は捕まって隠岐島に配流となり、幕府の指示で持明院統の(第97代)光厳天皇(1313〜1364)(在位1331〜1333)が即位しました。
  陵以外にも、如意輪寺境内には後醍醐天皇御霊殿もありましたが、内はどうなってるのか見れませんでした
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 それでもめげない後醍醐は、1333年隠岐島を脱出し、裏切った足利尊氏などの協力で鎌倉幕府は滅び、光厳天皇は廃位されて、再び後醍醐天皇の治世になりました(建武新政)。
これは再び天皇になった重祚(チョウソ)なんですが、後醍醐天皇は光厳天皇の治世自体を否定し、ずっと後醍醐天皇の治世が続いていたことにしてしまい、明治になってからもこれが正しいという歴史観になっています。
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 1335年から始まった建武の乱で足利尊氏とも袂を分け、その後は南北朝内乱の時代に突入、吉野に逃れた後醍醐天皇は、そのまま吉野の地で亡くなりました。
  御陵正面
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 一般には南面を向いてる天皇陵ですが、この塔尾陵(トウノオノミササギ)(奈良県吉野郡吉野町如意輪寺内)は京都に帰りたい言う意味から、京都の方角の北面を向いてるそうです。
  前日に雨が降ったせいもあってか、山中にあるためか、後醍醐の恨みがこもってるのか、陵の周囲はなんか湿っぽいです。
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 後醍醐天皇が立派な天皇だったのか、精力だけは有った暗君だったのか、評価は色々です。
私が子供の頃に田舎にあった戦前の本などから刷り込まれた、楠木正成などの忠君に囲まれた立派な後醍醐天皇、ではなかったようですね。

          返事
和さん:同級生の死はこたえますね。
    かと言って、同級生より自分が早く死ぬのも悲しいですね。
Toitenlabeeさん:50年以上前は賢かったんです。
    二十歳過ぎればただの人ですが、顔は綺麗なままです?
     ステイホームで送り火鑑賞できました、羨ましいでしょう。
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2021/8/11

95-1花園天皇  天皇陵巡り
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 第92代伏見天皇(1265〜1317)の第4皇子で、母は左大臣洞院実雄(サネオ)の娘洞院季子(スエコ・キシ)(1265〜1336)の富仁親王(トミヒトシンノウ)ですが、兄第93代後伏見天皇(1288〜1336)(在位1298〜1301)の猶子になり、1301年大覚寺統の第94代後二条天皇の皇太子にたちました。
  粟田口の大きな楠木で有名な青蓮院(ショウレンイン)の南側に、花園天皇陵への門があります(平日のみ9〜16開門)
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 富仁親王は後二条天皇が急病で亡くなったので、12才で第95代花園天皇(ハナゾノ)(1297〜1348)(在位1308〜1318)として即位、その皇太子には大覚寺統の考えで、花園天皇より9才も年上の尊治親王(タカハル)(後の第96代後醍醐天皇)が立ちました。
  十楽院が元々あって、そこに青蓮院が移ったので、花園天皇陵はそのまま十楽院上陵(ジュウラクインウエノミササギ)(東山区粟田口三条坊町)になってますし、南隣は知恩院です
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 花園天皇の在位中の前半は父伏見の、後半は兄後伏見の院政が行われました。
大覚寺統と持明院統の対立も激化し、その統内でもまた対立が生れ、これに各寺々の寺領争いもあって、生真面目な花園天皇は苦しんだようです。
天皇位に嫌気がさしていたのか、父伏見も死んだこともあってか、花園天皇はあっさり譲位しています。
  塀越しに青蓮院を見ながら、緑一杯の参道を少し上りました
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 花園天皇の後宮には正親町実子(オオギマチジツシ)(1297〜1310)が入り、第1皇女寿子内親王(ジュシ)(1318〜1358)(光厳天皇の後宮に入るも子は無し)や第3皇子直仁親王(ナオヒト)(1335〜1398)(光厳天皇の皇太子)など6人の子をもうけてます。
花園天皇はそれ以外にも、数人の妃に数人の皇子女ももうけました。
  新緑の季節に訪問したので、緑緑でした
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 花園は上皇になってからも30年以上生きましたが、歌道・学問・書道に励み、第96代後醍醐天皇の皇太子になった兄後伏見の皇子量仁親王(カズヒト)(後の(第97代)北朝初代光厳天皇(コウゴン))の養育や、禅宗信仰にも力を注ぎ、妙心寺を創建し、52歳で亡くなっています。
  普段なら観光客が多い場所ですが、一歩入った陵周囲は別世界です
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 花園天皇に養育され、その娘寿子内親王を妻にした光厳天皇ですが、後日叔父になる花園天皇の息子直仁親王は自分の子供だと自ら告白しています。
可愛がってた甥に、妻とその妻が産んだ娘の親子丼をやられた花園天皇は、どう思ったのですかね。
  
        返事
Toitenlabeeさん:愛に溺れる!
    映画「髪結いの亭主」はまあ私の理想でもありますが、
    主人公を私が演じた記憶はありませんよ。
元商家のよめさん:えらいメダカに詳しいんですね!
    私はいい加減にほとんど自然体で飼ってるので、
    それで死んだら、まあそれも私に飼われたメダカの人生ですよね。
花水木さん:ご苦労様です。
    メダカは手間がかかりませんよ。
    気軽にキノコ友から貰って買ってください。
    死んでも犬猫程ダメージありません、可愛いですよ。
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2021/8/7

94-2後二条天皇皇子邦良親王  天皇陵巡り
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 大覚寺統の第94代後二条天皇(1285〜1308)(在位1301〜1308)が15才でつくった第1皇子で、母は典侍五辻宗子(イツツジソウシ・ムネコ)(?〜?)の邦良親王(クニヨシ・クニナガシンノウ)(1300〜1326)ですが、父後二条天皇は邦良親王が8歳の時に亡くなりました。
  邦良親王墓は父後二条と同じ所にあります
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 両統迭立の原則から、第95代は持明院統の花園天皇が即位し、邦良親王はその皇太子になるはずでしたが、8歳でやや病弱でもあった親王を皇太子にすることは、大覚寺統自体にも不安があったので、父後二条の弟である尊治親王(タカハル)が皇太子にたちました。
  北白河陵拝所の左手事務所の向こうに墓があります
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  そして10年後、尊治親王は第96代後醍醐天皇(1288〜1339)(在位1318〜1339)として即位し、邦良親王が皇太子にたちました。
 この様に大覚寺統としても、後醍醐天皇はあくまでも中継ぎの天皇で、本来は早々に邦良親王が皇位につく予定ではありました。
  墓の裏は、完全に京都大学構内です
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 こんな中で、皇位の系統からは外れていた後醍醐天皇は、このまま親政を続け、あわよくば自分の息子に天皇位を継がしたいと、逆に邦良親王はもう成人したので早く皇位を譲ってくれと、大覚寺統で争いが起こりだしましたが、その中で邦良親王は27歳で亡くなってしまいました。
  邦良親王墓の石柱です
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 小学生の頃は、楠木正成や後醍醐天皇は私の中の英雄でしたが、高校生の頃は、後醍醐天皇はわがままで人の意見を聞かないあまり良くない政治家になってしまっていました。
しかしここへ来ると、後醍醐天皇は我が身内のことばかり考えて政治をやっていた人のような気がして、明治天皇が自分の直系でもない後醍醐の南朝方を何故正統としたのか、理解できなくなっています。
足利尊氏は朝敵だと言う思想に嵌まりすぎたのですかね。
  邦良親王は病弱でもあって(それでも子は沢山作ってます)悲劇的な御曹子ですが、墓も父の横にちゃんと有って良かったです。

 新型コロナ感染者世界で2億人・日本で百万人を超え、死者は世界で感染者の2%強・日本で1.5%となりましたね。
世界で37人に一人、日本で120人に一人ぐらい感染してるんです。
 この4連休はなるべく家に居ることにします。
4連休初日の昨日は、車の点検待つ間近くの商業施設に行っただけで、オリンピック観戦。
 女子バスケはベルギー戦に奇跡的に逆転勝ちしたと思ったら、フランスにも勝って決勝戦まで、すごいことですね。
クライミングも女子を観てルールが少し分かりました。
新体操を目尻を下げてみましたが、「タッチ」のみなみちゃんより日本女子のスタイル良くなってますね。
サッカーは負けて良かったですよ、勝って皆が騒いだらコロナが広がります、日本政府も負けて良かったと思ってるでしょう。
陸上でイタリアがこんなに強いとは思いませんでした。
1500ⅿの田中さん、確か小野の子でしたよね、インタビュー立派でした、最近のスポーツ選手は皆賢いですね。
400mリレーもアメリカが残ってないのであわよくばと思いましたが、あ〜あですが、これ以上日本が勝ったら他国からクレームが来ますのでまあこれで良いです。
アメリカの視聴者の為のこの時期のオリンピックなので、まさか女子バスケはアメリカには勝てないですが、女子ゴルフはアメリカに勝たせて、今晩野球はアメリカに負けてやった方がいろんな点で平和だと思います。

       返事
和さん:富江の人にメールしたら、
    レンタカーはよく走ってるようになったが、
    まだ歓迎するムードではないそうです。
じょんのびかあさんさん:それで高校の時は
    御池のアパートだったのですね。
    かあさんが好きだった同級生のお供で、
    アパートの前に立ってたことを思い出しています。
Toitenlabeeさん:城陽のフルーツサンドも食べたいです。
     ワクチンは絶対ではないですよ。
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2021/7/31

94-1後二条天皇  天皇陵巡り
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 邦治親王(クニハルシンノウ)は大覚寺統第91代後宇多天皇(1261〜1324)(在位1274〜1287)の第1皇子で、母は後宮の堀川基子(モトコ・キシ)(1269〜1355)です。
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 第92代伏見・第93代後伏見と、持明院統が続いたこともあり、後嵯峨上皇の両統迭立問題の意向に反するとの父後宇多の訴えに、前回でも報告した関東申次西園寺実兼(サネカネ)の持明院統から大覚寺統への乗り換えもあって、邦治親王は1298年に後伏見天皇の皇太子にたちました。
  陵は今出川通りに面して、大学時代よく行った、黒田辰秋さん作の大きながっちりした木のテーブルでも有名な、喫茶店「進々堂」の近くにあります
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 そしてわずか3年の在位で、後伏見天皇は譲位せざるを得なくなって、邦治親王が第94代後二条天皇(ゴニジョウ)(1285〜1308)(在位1301〜1308)として即位し、父後宇多上皇の院政が始まりました。
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 後二条天皇の即位と共に、やはり両統迭立の遵守から、皇太子には持明院統の伏見天皇第3皇子富仁親王(トミヒト)(後の第95代花園天皇)が立ちました。
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 両統迭立という兄と弟の子孫が替わりばんこに皇位に付くと言う制度も、それぞれの兄にまた兄・弟が生れ、弟にも兄・弟が生れて増えていくので、ややこしくならざるを得ない制度です。
 元々は弟から出てる亀山天皇から始まった大覚寺統の路線は、その中で長男で繋いでいこうと画策しました。
しかし、後二条天皇が意外に早く在位7年で急病で亡くなってしまいましたし、後継ぎの長男はまだ小さく病弱でしたので、花園天皇の皇太子に立てずらかったようです。
  祖父や父の眠る蓮華峯寺に、後二条の分骨所もありました
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 後二条天皇が葬られた北白河陵(キタシラカワノミササギ)(左京区北白川追分町)は、京都大学の構内にある感じで、京大農学部の一画を占めていますし、次回報告の天皇になれなかった長男邦良親王(クニヨシ)墓も同域に有りました。

        返事
Toitenlabeeさん:外観は地味で、
    食べ物屋かどうか迷いましたが、暖かい雰囲気の応援したくなる店ですよ。
じょんのびかあさんさん:ブログ「晴徨雨読」の更新無いので心配してました。
    ジョンノビ父さんはお元気なんですか?
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2021/7/14

93-1後伏見天皇  天皇陵巡り
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 第92代伏見天皇(1265〜1317)(在位1287〜1298)の第1皇子として生まれた胤仁親王(タネヒトシンノウ)、母は典司五辻経子(ケイシ)だったので、子のなかった太政大臣西園寺実兼(サネカネ)の娘で中宮だった西園寺ショウシの猶子となりました。
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 胤仁親王はわずか1歳にして父伏見天皇の皇太子にたち、11歳で第93代後伏見天皇(ゴフシミ)(1288〜1336)(在位1298〜1301)として即位し、父伏見上皇の院政が始まりました。
 後伏見天皇は西園寺実兼の孫娘西園寺寧子(ネイシ・ヤスコ)(1292〜1357)を女御として3男2女をもうけ、その内に北朝第1代光厳天皇と北朝第2代光明天皇がいます。
 その他にも6人の妃にたくさんの皇子女をもうけています。
  祖父後深草・父伏見の次に後伏見の名が並んだ制札です
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 なんか武家社会の支配下に置かれるようになった承久の乱(1221年)以後の天皇は、政治主導が出来ない分、手当たり次第に身近の女官などに手を出し、産まれた皇子は法親王として日本中の寺々の座主・門跡として配っていたような気がしますが、こんなことを書くと戦前なら不敬罪でしょうね。
  深草北陵の正面です
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 後伏見天皇の養母の父で、妻の祖父でもある西園寺実兼(1249〜1322)は、それこそ第88代後嵯峨天皇の上皇時代から、第96代後醍醐天皇の時代まで、9代の天皇に仕えた実力者で、1269年関東申次に就任し、鎌倉幕府と共に大覚寺統・持明院統の皇位継承権を握る立場にいました。
  嵐山に有る火葬塚は、元々の後嵯峨は良いとして、別れた敵の大覚寺統の亀山と同じです
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 実兼の妹嬉子は、第90代亀山天皇の皇后でしたが、亀山に余り愛されてなかったので、実兼は亀山の大覚寺統を見限って持明院統の伏見・後伏見天皇の即位を実現させました。
しかし伏見院政下で、本来は歌人で実兼の家来にすぎなかった京極為兼(キョウゴクタメカネ)が頭角を表わし、家来が主人を凌駕するようになったので、実兼は今度は元の大覚寺統に鞍替えし、結果後伏見天皇はわずか3年にしてた退位し、皇太子であった後宇多の皇子が大覚寺統として第94代後二条天皇になりました。
 こんな個人的な見栄や血縁で、天皇も決まっていたんですね
  これも嵐山亀山公園内の火葬塚です
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 1331年大覚寺統の後醍醐天皇が討幕の兵を挙げましたが失敗し、息子光厳天皇が持明院統として即位したので、後伏見上皇による院政が開始されましたが、1331年足利尊氏の入京で光厳天皇は廃位されたので、後伏見の院政も停止されました。 
後伏見はその後出家し、崩御後深草北陵(フカクサキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られています。

        返事

Toitenlabeeさん:「見た目もダンデイだし、綺麗!」
    と、何万回も聞いてきたお褒めの言葉を糧に、
    これからも生きて行きます。ありがとう!
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2021/7/9

92-1伏見天皇  天皇陵巡り
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 ここでは本来、前回の後宇多天皇の皇子である性勝親王(ショウショウ)(?〜1354)の大覚寺宮墓地(ダイカクジノミヤボチ)(右京区北嵯峨山王町)を91-3として紹介する順番なんですし、大覚寺裏の住宅街にある写真の墓地も巡ってるのですが、有名でもないし歴代大覚寺門跡と一緒に葬られてるので、省略して写真だけにしました。
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 第89代後深草天皇(1243〜1304)(在位1246〜1259)の第2皇子として、母洞院愔子(インシ)(1246〜1329)の下に産まれたのが、難しい漢字ですが煕仁親王(ヒロヒトシンノウ)です。
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 煕仁親王は持明院統の皇子ですが、鎌倉幕府の裁定に依って、大覚寺統の第91代後宇多天皇(1267〜1324)(在位1274〜1287)の皇太子に立ち、後宇多の譲位により1287年に第92代伏見天皇(フシミ)(1265〜1317)(在位1287〜1298)として即位しました。
  JR奈良線の車中から、通勤途中にいつも眺めてる深草北陵です
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 中宮は太政大臣西園寺実兼(サネカネ)の娘西園寺ショウ(金へんに章)子(1271〜1342)ですが、子は無く、典侍五辻経子(ケイシ)の産んだ第1皇子胤仁親王(タネヒト)(1288〜1336)(後の第93代後伏見天皇)を猶子としています。
女院洞院季子(スエコ・キシ)(1265〜1336)の産んだ第4皇子富仁親王(トミヒト)(1297〜1348)(後の第95代花園天皇)の他にも、沢山の妃にたくさんの皇子女が産まれています。
  JR奈良線越しに陵を眺めています
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 即位後2年にして父後深草上皇が院政を停止、1289年には息子胤仁親王を皇太子に立てたので、大覚寺統の怒りを買い対立は激化しました。
 また1290年に、宮中に浅原為頼(アサハラタメヨリ)父子3人が押し入る伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起こり、裏に亀山上皇の存在も疑われたので、大覚寺統の痛手になりました。
 この頃の宮中は男女関係の乱れもそうとうでしたし、聖域でも無くなってきてるようです。
  陵は塀に囲まれた方形堂です
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 伏見天皇は和歌・書道にも優れ、特に書道は日本史上最高の能書帝とも呼ばれています。
 1298年には息子第93代後伏見天皇に譲位し、3年後には又大覚寺統の第94代後二条天皇に皇位は移りましたが、再び息子第95代花園天皇の下で伏見上皇は院政を行っています。
 こうして伏見上皇は両統迭立問題の解決を出来ないまま亡くなり、父後深草と同じ深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られました。
  12人の天皇の名が並ぶ陵は、十二帝陵とも呼ばれています

 阪神雨のおかげで、巨人三連戦の初戦を獲りました。
これで8月中旬までは首位キープ出来そうです。
   良かった!

        返事
和さん:ありがとうございます。
    8日で73歳、思いのほか長く生きてますね。
     今年はまだ五島の人も歓迎してくれないので、
    来年ぐらい行きたいです。

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