奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/4/8

59-4宇多天皇皇子敦実親王  天皇陵巡り
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 宇治陵(ウジノミササギ)は、皇室関係者の中で藤原北家と深い繋がりがある17人の陵と3人の墓を集めて、総拝所としており、その周囲に誰の墓ともわからない様な37ヶ所の宮内庁管理地があり、それらを含めて総てで宇治陵と言ってるので、他の陵墓とは少し違う陵です。
総拝所(第1号陵)にだけある制札の最後の方に、宇多天皇皇子敦実親王墓と書かれています。
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 敦実親王(アツミシンノウ)(893〜967)は第59代宇多天皇の第8皇子で、母は兄の第60代醍醐天皇と同じく胤子です。
 敦実は藤原時平の娘を妻として、源雅信(マサザネ)などの子供をもうけ、60歳近くで出家し、75歳と言う比較的高齢で亡くなっています。
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   写真は、総拝所近くの宇治陵第2号陵ですが、敦実の墓というわけではありません。
 この雅信の子供の一人が、藤原道長の正室になった倫子(リンシ・ミチコ)です。
倫子は彰子(ショウシ)・頼通(ヨリミチ)・妍子(ケンシ)・教通(ノリミチ)・威子(イシ)・嬉子(キシ)と、藤原北家の中でも大切な人になった子供を次々と生みました。
敦実親王は、この倫子の祖父であるということで、藤原北家一族の墓にも等しい、宇治陵に入れてもらっているのでしょうね。
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 最近の整備か、宇治陵と書かれた石柱の裏側には、2〜37の番号も彫ってあります。

 新型コロナ:先月までは経済のこともあって、金を使わなくては思って行動していましたが、世間は経済より命優先の雰囲気になってきましたね。
他人と接触しない、交わらない方が良い、なんていう世の中は、嫌ですね!!
汚い人間同士が触れ合って、細菌やウイルスと共存して生きていく世界の方が好きです。
 それでも今日は、いつも行ってる病院近くで陽性者が出たので、出勤せずに一応自宅待機(今や私の仕事は絶対必要ではありませんので)と自粛してますので、私は接触10割減で、国家の目標値を達成してます。
せいぜいキーボードに濃厚接触して、朝からブログ書く生活ですが、なんかね!

    返事
和さん:杖、確かに有りましたが、
    使わずに登りました。
    ぬれてる地面が滑りましたが、もう少し年とるともうここには行けませんね!
    そんな道を毎日40kgの桑の葉を担いで降りた、
    村人さんは凄いですね!
     今年は有名で人の多い場所の花見は出来ませんでした。

2020/4/4

59-3宇多天皇女御贈皇太后胤子  天皇陵巡り
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 藤原冬嗣の孫ですので、藤原基経とは従兄弟関係になる藤原高藤(フジワラノタカフジ)が15〜6歳の頃、鷹狩の帰りに雨宿りした家で、そこの娘宮道列子(ミヤジノレッシ)に一目ぼれし、一夜の契りをむすんだそうです。
その後は音信不通になり、6年後に列子に再会した時の娘が6歳の胤子です。
高藤は騙されていたのかもしれませんが、その後二人の間には定国(サダクニ)(866〜906)や定方(サダカタ)(873〜932)も産まれていますので、まあ結果良しですね。
 この藤原定方は三条右大臣と呼ばれるまでに出世し、この写真の小倉百人一首にも選ばれています。
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 高藤と列子の一夜の契りの結果の子 藤原胤子(フジワラノインシ・タネコ)(860?〜896)は、884年に源定省(サダミ)の妃となり、敦仁(アツギミ・アツヒト)・敦慶(アツヨシ)・敦固(アツカタ)・敦実(アツミ)と柔子内親王(ヤスコ)(34年間も斎王を務めています)を産みました。
 伏見の老人ホームからの帰り、ひと山越えて歩き、名神高速道路にまで至り、第54代仁明天皇陵からもう少し行くと、醍醐天皇御母小野陵が見えてきました。
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 石段を少し上がって振り返ると、名神高速道路のすぐそこに小野陵のあることが分かりますでしょ。
この辺が東京オリンピックの前に開通した、名神高速道路の中でも一番早く出来た辺りですが、うまく仁明天皇陵や小野陵を避けて通していますね。
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 けっこう長い直線の参道を、名神高速道路を振り返りながら、車の音も小さくなるまで登って行くと、拝所が見えてきました。
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 夫の源定省が887年、降ってわいたように第59代宇多天皇に成ったので、胤子も更衣→女御となり、長男の敦仁親王が立太子するまでになりました。
しかも、胤子自身はもう亡くなっていましたが、敦仁親王が第60代醍醐天皇になったので、追贈皇太后が贈られ、この立派な小野陵(オノノミササギ)(山科区勧修寺)に葬られています。
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 この小野陵は、胤子の母の実家にも近く、勧修寺(カンジュジ)までも歩いてすぐです。
この胤子の血縁によって、基経直系ではないのに、藤原高藤の家系 北家勧修寺流は栄えました。

      返事
花水木さん:今週末は晴天で、
    満開の桜をたくさん観てきました。
     俗っぽい私ですので、
    やっぱり桜は満開が好きです。

2020/4/1

59-2宇多天皇女御皇太夫人藤原温子  天皇陵巡り
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 父は藤原基経(モトツネ)、母は忠良親王(タダヨシ)(第52代嵯峨天皇の第4皇子)の娘操子女王(ソウシジョオウ)という藤原温子(フジワラノオンシ・ヨシコ)(872〜907)は、同母弟には兼平、異母兄弟に時平・仲平・忠平、異母妹に隠子という、関白基経の率いる藤原北家の秘蔵っ子です。
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 父基経が天皇にしてやったも同然の第59代宇多天皇には、天皇になる前から多くの妃や子供がいました。
888年阿衡の紛議でいちゃもんをつけた基経に対し、宇多天皇はその日記に「寝られもせず、玉茎(ギョッケイ)は発(オコ)らず、ただ老人のようである」とまで書いたぐらい口惜しがりましたが、基経と妥協するために、娘の今回の温子が入内するのを許しました。
 なおこの時の宇多天皇の不能は、源融が献上した露蜂(ロホウ)(蜂の巣の薄い膜)を服用して、回復したようですので、私も蜂蜜をなめるだけでなく、巣も買わなくてはと思っています。
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 温子は宇多天皇との間に均子内親王(キンシ)をもうけましたが、入内の経緯からも宇多の愛はあまり受けられず、その他には皇子などをもうけることは出来ませんでした。
 しかし、第60代醍醐天皇の養母として七条后と呼ばれ、皇太夫人となっています。
 36歳で亡くなり、藤原北家ゆかりの宇治木幡(コハタ)近辺の陵墓をまとめたような宇治陵(ウジノミササギ)(宇治市木幡)の制札の筆頭者になっています。

 なお今日(4月1日)のブログ記事に一切嘘は有りません。

2020/3/28

59-1宇多天皇  天皇陵巡り
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 光孝天皇が亡くなる前の慌ただしい時期、次の天皇に誰が成るのかは、結局権力者基経の手に委ねられましたが、ここで基経は臣籍降下していた光孝天皇の皇子源定省(ミナモトノサダミ)を再び親王にして、立太子させ、速やかに次の天皇にしました。
こうして即位したのが、第59代宇多天皇(ウダ)(867〜931)(在位887〜897)です。
 前回の光孝天皇の真陵かとも言われてる、仁和寺裏手の御室陵墓参考地から更に山道を(自動車道)を登っていくと、昔参道であった急な石段に到りました。
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 その石段を登った所から、本当の山道の参道になります。
 光孝天皇の長男でもない定省を基経が選んだのは、定省が基経のこちらは仲が良かった妹淑子(トシコ)の猶子になっていたことがありました。
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 仁和寺の裏山にある御室八十八カ所は、私の小学校の担任の先生の家が御室にあったので、級友と遊びに行った時に皆で廻りましたし、大人になってからハイキングに行ったこともあります。
今回宇多天皇陵を目指して仁和寺裏山の大内山を登りましたが、なんとなくこの辺の土と言うか岩と言うか、懐かしい気がしながら登って行ったので、しんどいと聞いていた宇多天皇陵も意外と楽に到達できました。
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 山の上から少し下がったような所に、御陵が見えてきました。
基経によって成れたような天皇の地位ですので、宇多天皇は基経にそれなりに気をつかっていたと思いますが、基経はせっかく自分が選んだ天皇なのに、なんかいちゃもんをつけたり権力を誇示するような性格の悪さから、阿衡の紛議(アコウノフンギ)と言う一件を起こしています。
(詳しくは調べて下さい、入試を日本史でとった私ですが、このことを知りませんでした)
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 定省が宇多天皇になる前からの多くの妃の中で、藤原胤子(インシ)が産んだ敦仁親王(アツギミ・アツヒト)が次の第60代醍醐天皇になりました。
 天皇になってから888年には基経の娘温子(オンシ)を更衣に迎えていますが、幸か不幸か二人の間には内親王しか産まれませんでした。(宇多が避けた?)
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 基経が891年に亡くなり、その後藤原北家を継いだのは基経長男の時平(871〜909)でしたが、まだ若いこともあって、宇多天皇は藤原北家とはやや距離を置くようになり、菅原道真などを重要地位に置く布陣を構えています。
 宇多天皇は比較的早めに譲位し、以後899年には出家し、仁和寺に入って法皇となり、熊野三山にしばしば参詣するなど、政治からは身を引いていきました。
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 それでも901年昌泰の変(ショウタイノヘン)、いわゆる菅原道真が時平などの勢力によって太宰府へ左遷された時は、あわてて内裏にかけつけたそうですが、時すでに遅かった。
 宇多天皇は火葬後そのまま土で覆われ、そこが陵になっていたそうですが、こんな山の上に江戸時代になってから治定されたのが、この大内山陵(オオウチヤマノミササギ)(右京区鳴滝宇多野谷)です。

     返事
花水木さん:花粉症の人は、
    今のご時世、電車などに乗りにくいですね。
前々回の花水木さん:まだ満開ではないですが、
    混みそうでない場所の花見に出かけてはいます。

2020/3/21

58-光孝天皇  天皇陵巡り
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 陽成天皇が譲位したのは(させられたのは)まだ16歳の時です。
時の権力者基経は、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)を次期天皇にすると、また妹高子が国母になるので嫌がったようですし、自分の娘佳珠子(カズコ)が産んだ陽成の異母弟貞辰親王(サダトキ)(7歳)を擁立するのは、いかにも我田引水見え見えなので嫌がったのか。
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 第53代淳和天皇皇子で承和の変(842年)で一度は廃太子されて、その後出家して大覚寺を開創した、恒貞親王(ツネサダ)(昨年12月21日ブログ参照)に白羽の矢を立てました。
基経の祖父にあたる冬嗣に廃太子されてるので意地もあったのか、もう60歳で出家してることもあったのか、恒貞親王は基経の要請は固辞しました。
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 そこで基経が選んだのは、第54代仁明天皇第3皇子時康親王(トキヤスシンノウ)(この時55歳)です。
時康親王の母沢子(タクシ・サワコ)(1月29日ブログ参照)と、基経の母乙春(オトハル)は姉妹であったことや、時康親王があまり政治に関心が無いようで、自分が政務を独占できるとの思いが、基経が選んだ理由と言われています。
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 こうして時康親王は即位して、第58代光孝天皇(コウコウ)(830〜887)(在位884〜887)と成りました。
最近になって第125代平成天皇(今の上皇)の55歳、今回の第126代今上天皇(令和天皇)の59歳の即位で抜かれるまでは、桓武天皇の父第49代光仁天皇の60歳に次いで2番目の高齢即位であった光孝天皇ですが、あっという間に高齢即位4番目に落ちました。
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 こうしてせっかく藤原北家からの娘が産んだ文徳・清和・陽成と続いた皇統は、藤原北家の長者基経自身によって途切れてしまいました。
 光孝天皇と基経との関係は良好で、光孝自身も自分の子を全て(40人以上いました)臣籍降下させて、その次は基経の家系からの天皇に戻せるようにも計らっていました。
しかし最後、再び基経の意向で、自分の子で臣籍降下もしていた源定省(ミナモトノサダミ)を親王に復活させてもらい、喜んでその日に亡くなりました。
 嵐電御室駅を降りてすぐ、写真の仁和寺二王門に至る道の途中にある後田邑陵(ノチノタムラノミササギ)(右京区宇多野)に葬られています。
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 この光孝天皇のように、皇統が移動する時は、天武系から天智系に戻った時の第49代光仁天皇、今回の第58代光孝天皇、そして江戸時代に別の皇統に別れた第119代光格天皇と、なるべくしてなった天皇ではない天皇の名に「光」が付いてることに気づきましたが、何故なのか?
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 光孝天皇陵、実はこの後田邑陵と仁和寺をはさんで反対側、700ⅿほど離れた山側の仁和寺裏手にある御室陵墓参考地(右京区御室大内)の方が、真陵ではないかと言われています。
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 丁度仁和寺の裏に建つ京都府立聾学校の北側に、なんとかこの御室陵墓参考地への入り口を見つけました。
場所的にも雰囲気的にも、こちらの方が正しい陵の気はしてます。

     返事
花水木さん:私はストレスに弱いです。
     世界のニュースを見てると、心配ですが、
    日本のニュースを見てると、
    なんかたいしたこともなく終わりそうな気もしてます。
大雪男さん:3連休中の世間は、
    京都・滋賀・大阪・兵庫・徳島ですが、
    桜も咲きだして、車も混みだして、
    人も出はじめてる気はしてますが、
    プロ野球がまだなのは寂しい限りです。
    (その分気は楽ですが)

2020/3/16

57-1陽成天皇  天皇陵巡り
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 父第56代清和天皇(18歳)、母藤原高子(27歳)の第1皇子として生まれた貞明親王(サダアキラシンノウ)は、3カ月足らずで父清和天皇の皇太子となりました。
 9歳で天皇に成った父清和天皇は、27歳の若さでもう譲位し、以後4年の余生を山中の仏道修行に捧げましたので、まだ9歳だったこの第1皇子貞明親王が即位し、第57代陽成天皇(ヨウゼイ)(868〜949)(在位876〜884)になり、母高子の同母兄であり伯父でもある藤原基経が摂政に就きました。
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 同母兄基経の権力保持の道具には成りたくなかった母高子と、兄のいうことを聞かないわがままな同母妹高子を許せなかった、やや病的な感じもする基経との間には、徐々に決定的な溝が出来たようです。
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 陽成天皇は「病気の為に譲位したい」、と言ったかどうかあやしいですが、16歳にして譲位しました(させられました)。
そして次の天皇には、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)の名があがりましたが、それでは又妹高子が国母としていばってしまうし、基経の娘との間の陽成の異母弟である清和天皇第7皇子貞辰親王(サダトキ)では、あまりにも基経にとって露骨すぎるとの思いから、かなり皇統を戻したような光孝天皇が選ばれました。(基経の独断)
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 譲位の理由が健康と言うことでしたが、陽成天皇は82歳という長命で、光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上と続く歴代天皇の治世の間上皇歴65年を続けました。
 最後に出家してすぐに崩御し、この吉田山の裏の神楽岡東陵(カグラガオカノヒガシノミササギ)(左京区浄土寺)に葬られています。
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 宮中内の乱暴な事件にも絡んだり、宮中で馬を乗りまわすなど、若気の至りのような事件を起こしていることも、譲位の原因になったかもしれませんが、小倉百人一首13番に
   筑波嶺の 峯よりおつる みなの川
      恋ぞつもりて 淵となりぬる
というような優しい歌も作っていますし、陽成の皇子元良親王(モトヨシ)の歌も小倉百人一首の中にあるので、噂されるよりずっと優しかった可能性大です。
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 文徳ー清和ー陽成と続いた皇統が途切れたので、母高子さんの密通疑惑と同様、滅びた人にはより厳しい説話が残っているというのが世の常かもしれません。
昔々、第25代武烈天皇の皇統が途切れたので、武烈の悪行が日本書紀にまできっちり書かれているのと同じかもです。
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 陽成天皇、平たく言えば、幼くして社長に担ぎあげられ、自分の母親の兄でもある大番頭と母の仲が悪くなったので、これから社長業をしっかりやろうと思っていた矢先に、社長を辞めさせられ、次期社長はなんと万年窓際の平課長で自分の祖父の弟が成り、以後は5代の社長時代を外野から見続けていた。
と言う、不幸と言えば不幸なんですが、でものんびりストレスなく好きな歌や恋をしながら長生きしたので、幸せな人生だったかもしれません。

     返事
花水木さん:私が感染したら、
    バイト先5〜6カ所にかなり迷惑をかけると思うので、
    大丈夫でも今は罹りたくないですが、
    早く感染した人も嫌がられない状況にはなってほしいです。
大雪男さん:今までは混んでいたら、
    うっとおしいと思ってましたが、
    こうどこも空いてくると、心配です。

2020/3/4

56-1のイ清和天皇火葬塚  天皇陵巡り
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 京都吉田山にある浄土宗の金戒光明寺(コンカイコウミョウジ)、幕末に会津藩主松平容保(カタモリ)が京都守護職会津本陣を置いたので、鳥羽伏見の戦いで亡くなった会津藩士の墓もあります。
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 アフロ大仏として近年人気スポットにもなってる五劫思惟阿弥陀仏(ゴコウシュイアミダブツ)です。
*一劫;大岩を3年に一度天女が羽衣でこすることに依って、
    岩が擦り切れて無くなるまでの間、
    ほぼ永遠に近い時間の単位。
ですから五劫なんてのは、無限大以上と言うことでしょうね。
落語の「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ・・・・」の五劫はこれです。納得!
 金戒光明寺にあるこのアフロ大仏を左に見て、お墓へ行く石段を登り、会津藩士墓の更に上に三重塔が有ります。
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 分かり難いですが、その三重塔の裏側に清和天皇火葬塚を見つけました。
前回の御陵のあった水尾にお寺を建立しようと思っていた時に、源融の嵯峨の別邸で発病し、この近くの円覚寺(今はない)で亡くなった清和天皇は、ここで火葬されたようです。
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 火葬後の遺骨は前回の清和天皇水尾山陵近くに埋葬されたようで、薄葬の遺詔があってか陵は築かれず、今の水尾の陵やこの火葬塚も後世のものです。
 天皇として最初に火葬されたのは持統天皇ですが、平安初期からしばらくは皇族や金持ちは火葬される風習も出てきたのですかね。
 火葬塚も紹介するので大変ですが、まあ分かった限りは本ブログで紹介して、数を稼ぎます。

      返事
花水木さん:普通の市民の私ですが、
    小さな小さな権力争いはしてますので、
    時々嫌になります。
大雪男さん:日本人は怖がりなのか、
    心配性なのか、右に習えが好きなのか、
    なんだかたいした民族ではない気もしてきてます。
    その点馬は、マスクもせず、観客がいなくても黙って走ってくれています。
    まあ私の思い通りの走りはしてくれませんが。

2020/3/1

56-1清和天皇  天皇陵巡り
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 49-11-29紅葉狩り4で水尾の天皇陵巡りのことを書いていますが、その時JR保津峡駅へ降り立った私は、そこから自治会バス(250円)に乗って、亀岡から愛宕山を抜けて京都に至る道(明智光秀も本能寺に向けて通り抜けた明智越え)の途中にある、柚の里水尾(ミズオ)を目指しました。
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 終点水尾で自治会バスを降りて、そこから山道を、無数に実った柚や紅葉を愛でながら歩きました。
真夏の地獄のような淳和天皇陵よりはずっとましですが、下がってはまた登る山道は、まあしんどいと言えばしんどかったです。
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 天皇陵に近づいた雰囲気になってきて、向こうに制札も見えてきました。
今回の訪問 第56代清和天皇(セイワ)(850〜880)(在位858〜876)の水尾山陵(ミズノオヤマノミササギ)(右京区嵯峨水尾)です、到着しました。
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 中に鳥居は有りましたが、石垣と木扉もあるので、明治に治定されたのではなく、江戸時代に作られたようです。
 さて、今回の清和天皇ですが、父は第55代文徳天皇で母は女御藤原明子です。
母明子の父親は時の権力者藤原良房で、母親は嵯峨天皇の皇女で臣籍降下した源潔姫(キヨヒメ)ですので、清和天皇の両親は従兄妹同士の結婚です。
又明子は美人だったようで、72歳まで生きましたが、双極性障害(昔で言う躁うつ病)だった可能性も有ってか、皇太后→太皇太后まで行きましたし、藤原北家の大切な人ですのに、はっきりした墓も残っていません。
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 文徳天皇の第4皇子として生まれた惟仁親王(コレヒトシンノウ)(今回の清和ですよ)ですが、第1皇子惟高親王(前回で紹介)を押しのけて、生後8ヵ月で皇太子となり、生きてるうちに早く外祖父に成りたかった藤原良房の強い引きで(父文徳暗殺説もあるぐらい)、第56代清和天皇になったのは9歳の時でした。
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 もちろん9歳の子供に統治能力などはなく、良房など藤原北家が主導権を握り、866年には応天門の変によって伴善男(トモノヨシオ)を流罪とし、大伴氏一族を消滅させ、また仲間でもあった源信(ミナモトノマコト)や藤原良相(フジワラノヨシミ)の勢力もそいで、清和天皇は17歳になっていましたが、良房は太政大臣摂政に任じられるまでになりました。(平安前期摂関政治の成立)
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 良房は兄の藤原長良(ナガラ)の息子基経(モトツネ)を養子にして北家の跡目を継がしています。
その基経の同母妹高子を、9歳年下の清和天皇に娶らせ、貞明親王(サダアキラシンノウ)(後の第57代陽成天皇)が産まれていますが、清和天皇は他にもたくさん(2〜30人)の女御・更衣にたくさんの子供を産ませ、清和源氏の祖ともなっています。
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 876年には譲位し、879年には出家して近畿巡幸の旅の後、ここ水尾で修行と隠棲をしてる途中に平安京で亡くなっていますので、火葬後遺骨はこの陵に埋葬されたそうです。
 水尾バス停まで戻りましたが、帰りの自治会バスはなく、4Kmの下りばかりのバス道を紅葉を観ながら歩いて、保津峡下りを見下ろせる橋の上のJR保津峡駅へ戻りました。

       返事
花水木さん:不要不急の外出を繰り返して、
    日本経済を牽引?しようと思ってます。
    今週も遠出した高速のSA、観光バスが少ないのか、空いてます。
     全くの私見ですが、
    Jリーグ・大相撲・オリンピックは中止でも困りませんが、
    プロ野球と競馬は続けてほしいです。
大雪男さん:その通りだと思います!
    なんか風邪の一種だと思うので、
    風邪は万病の元でもありますが、単なる風邪でもあります。
タグ: 天皇陵 水尾

2020/2/14

55-2文徳天皇皇子惟高親王  天皇陵巡り
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 大原から途中を越えて滋賀に行く道、最近は休日になったら走ってるような気がしてます。
その大原へ行く手前に野村別れと言う、静原・鞍馬へ抜ける分かれ道が有りますが、そのまた少し手前の道端にこの道標が有ります。
この道標に従って、少し道を登って行きます。
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 この辺りは小野と言うらしいですが、10分ほど登って行くと、なんか少し神秘的な感じのするする場所に到着。
隣の小さな社は、やはり不幸だと思われていた親王の御霊を祀る小野御霊神社です。
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 惟高親王(コレタカシンノウ)(844〜897)は文徳天皇と紀名虎(キノナトラ)の娘静子(シズコ)との間に産まれた第1皇子でしたが、なにせ第4皇子が藤原良房の娘明子(アキラケイコ・メイシ)の産んだ惟仁親王(コレヒト)(後の第56代清和天皇)だったので、皇太子になったのは7歳の第1皇子惟高親王ではなく8ヶ月の惟仁親王の方でした。
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 父文徳も出来れば後継ぎにと推していた第1皇子でありながら後継ぎになれず、あまりでしゃばると良房に殺されるかもしれないという境遇で、惟高親王はここ大原小野以外にも色々な場所に隠棲したとありますが、在原業平とも親交があったようで、歌の世界にも逃げていたのかもしれません。
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 ここは宮内庁が治定した惟高親王墓ですが、滋賀県湖東の山の奥にある木地師の里近くには、惟高親王陵と言われてる墓があるそうです。
つい最近知ったので、近くまで行ってみましたが、山の中の道の駅のおばさんに尋ねたところ、「冬はいかない方が良い」と言われて断念しました。
この隠棲地で、巻物の形からロクロで木を削る方法を思いついた惟高親王を、木地師の祖とする伝承があるようです。

       返事
花水木さん:写真で一番若かった私も70才越え、
    父母は鬼籍に、叔母は元気ですが施設に入所です。
     これと同じような写真を私も子供たちと撮って、
    子供たちは孫と撮った同じような写真を送ってくれます。
    時代は巡り、今日は「男と女人生最良の日々」を観てきました。
     ダバダバダ ダーダーダ ダバダバダ〜

2020/2/11

55-1文徳天皇  天皇陵巡り
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 光仁・桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明と続いた歴代天皇の治世時代、藤原氏はその政治の中枢にはずっといましたが、この歴代天皇の母は藤原氏の出ではないので、外戚にはなれていません。
 写真は御陵に通じる、私にとってはなんとなく懐かしい参道入り口です。
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 しかし827年に仁明天皇と藤原冬嗣の娘順子の間に第1皇子として道康親王(ミチヤスシンノウ)が産まれると、冬嗣はその時はもう死んでいましたが、順子の同母兄良房が、その後時の皇太子淳和天皇の皇子恒貞親王(ツネサダ)を廃して、16歳の道康親王を皇太子にたてました。
この陰謀が何度もこのブログで書いてる842年の承和の変です。
 参道は直角に曲がって拝所に続きます。
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 850年父親の仁明天皇がその母橘嘉智子が何度も悶絶するなか亡くなると、道康親王は26歳で即位し、第55代文徳天皇(モントク)(827〜858)(在位850〜858)と成りました。
 即位数日後には良房の娘明子(アキラケイコ)との間に、第4皇子惟仁親王(コレヒトシンノウ)(後の清和天皇)が産まれています。
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 文徳天皇には以前から紀名虎(キノナトラ)の娘静子(シズコ)との間に、第1皇子惟高親王(コレタカシンノウ)などをもうけており、惟高親王を皇太子にしたかったようですが、藤原良房に遠慮してか8ヵ月の惟仁親王を皇太子にしました。
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 最後は遠慮が確執に変わっていき、32歳で没した時は、突然の発病と死が少々異常だったこともあって、生きてる間に早く外祖父になりたかった藤原良房による暗殺説もあるようです。
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 文徳天皇は田村天皇とも呼ばれていて、田村陵(タムラノミササギ)(右京区太秦三尾町)が御陵に治定されていますが、写真の京都市内では最大級の前方後円墳で桂坂近くにある、昔から天皇陵と言われてた写真の天皇の杜古墳(テンノウノモリコフン)(西京区御陵塚ノ越町)が本当の文徳天皇陵だという説もあります。
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 実は私はこの治定されてるほうの田村陵から500mぐらいしか離れてない場所で産まれています。
この辺の人は皆「ぶんとくさん・ぶんとくさん」と呼んでいた御陵です。
 終戦後4年、1歳未満の私が父母と叔母そして姉と一緒に近くの田村陵へ行った時の写真です。
この写真の場所がどこか田村陵の中を捜して見ましたが、それらしい場所は見つかりませんでした。
 もうだいぶ天皇陵巡りをしましたが、私が最初に行った天皇陵はこの文徳天皇陵である田村陵と言うことになります。

      返事
花水木さん:1円切手でよいのに、
    無いので62円はがきに2円切手を貼って出しています。
     タカアシガニは美味しいと以前ブログで書かれていませんか?
    見た目の驚きだけですか?
    でも、蟹は渡り蟹もモズク蟹も毛蟹も何でも美味しいですね。
タグ: 天皇陵 鳴滝


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