奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2022/3/24

104-2後柏原天皇後宮豊楽門院藤原藤子  天皇陵巡り
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 勧修寺藤子(カジュウジフジコ)(1464〜1535)は准大臣勧修寺教秀(ノリヒデ)の娘で、姉の房子が後土御門天皇の皇女をもうけたり、勝仁親王(カツヒト)の養育係をしていたこともあって、その勝仁親王の元に20歳で入内しました。
  般舟院陵((ハンジュウインノミササギ)は一歩中に入ると、街中とは思えない静かさを味あえます
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 その勝仁親王が後に第104代後柏原天皇(1464〜1526)(在位1500〜1526)になり、間にもうけた3男1女の内の長子が後の第105代後奈良天皇(1497〜1557)(在位1526〜1557)になったので、准后宣下を受けたり、死後は豊楽門院(フラクモンイン)の院号が宣下されたりし、般舟院陵に葬られました。
ただし、般舟院陵の制札では、陵ではなく墓として祀られていました。

          返事
Toitennさん:まあほとんど嘘でしたが、
    ホンマの話はおもしろくないからですよ。
花水木さん:なんで旗本退屈男が出てきたのか、
    理解するまで3分かかりました、情けない!
      ええい! この鼻の下の髭が目に入らぬか!(マスクしてるからか?)
    人呼んで マリオ大先生!
    退屈じゃ!退屈じゃあ!
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2022/3/20

104-1後柏原天皇  天皇陵巡り
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 第103代後土御門天皇(1442〜1500)の第1皇子で、母は庭田朝子(1437〜1492)の勝仁親王(カツヒトシンノウ)は、父後土御門の死後践祚(センソ)して第104代後柏原天皇(ゴカシワバラ)(1464〜1526)(在位1500〜1526)に成りました。
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 応仁の乱(1467〜1477)の荒廃した世にあって、父後土御門の葬式も死後43日後にやっと行われたぐらいですから、後柏原天皇の即位の礼を行う余裕はなかったようです。
1502年に第11代足利将軍義澄(ヨシズミ)(1481〜1511)が即位の費用を出すと言った時も、管領の細川政元(マサモト)(1466〜1507)が「大がかりな即位礼などなくても、実質が大事」と、反対したので延期になりました。
第10代足利義稙(ヨシタネ)(1466〜1523)が再任されて再び将軍職に就いたので、その義稙や本願寺からの献金で、22年後にやっと後柏原天皇の即位礼は行われたそうです。
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 典侍勸修寺藤子(カジュウジフジコ)(1464〜1535)との間の第2皇子知仁親王(トモヒト)が、後の第105代後奈良天皇(1497〜1557)になっていますし、それ以外にも他の妃を含めて計6人の皇子と2人の皇女がいます。
  写真は深草北陵
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 26年の治世の間、天皇の周りを固める公卿らも戦火を逃れて諸国に去っており、財政難でもありましたが、後柏原天皇は伊勢神宮に平安を祈り、痘瘡の流行時には般若心経を諸寺に納めたり、それなりの努力もされましたし、詩歌を好み、「後柏原天皇宸記(シンキ)」という日記も書かれていました。
 崩御後は今は深草北陵(フカクサノキタノミササギ)になってる深草法華堂に葬られました。
  陵の横に廻っても、塀の内部がどうなってるか見えませんでした

         返事
Toitennさん:陵墓の管理費、無駄なものと言えばそうですが、
    宮内庁職員になって、世の流れとは別に、
    せっせと陵墓の掃除で過ごす人生も、
    素晴らしいし、羨ましいとも思いますが・・・。
     私が居なくなって寂しいのではなく、
    退屈だったんですか!
    まあそれはToitennさん流の、誉め言葉と思ってますよ。
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2022/3/18

103-3後土御門天皇皇子尊伝親王  天皇陵巡り
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 尊伝入道親王(ソンデンニュウドウシンノウ)(1473〜1504)は第103代後土御門天皇(1442〜1500)(在位1464〜1500)の第2皇子で、母は朝子(1437〜1492)で、同母兄が第104代後柏原天皇(1464〜1526)です。
俗名は尊敦(タカアツア)で、1484年に青蓮院に入室も1493年には八瀬に隠遁しています。
 母贈皇太后朝子の般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)の制札に、父後土御門の分骨と共に、33歳で亡くなった後土御門天皇皇子尊傳親王墓とありました。
 私が何も知らない皇子女の墓の紹介は、なるべく減らしていこうと思っていますし、全部したらえらいことになるほど、宮内庁治定墓はたくさんあります。

       返事
Toitennさん:映画にハマったのは2007年とのこと、
    15年前なら、私が病院を辞めて奈留島に行った頃ですね。
    たぶん私の面影を、映画男優に求めてたのではないでしょうか?
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2022/3/7

103-2後土御門天皇後宮贈皇太后朝子  天皇陵巡り
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 庭田朝子(ニワタアサコ)(1437〜1492)の父は権大納言庭田長賢(ナガカタ)で、庭田ということからも、貞成親王(サダフサ)の正室で後花園天皇の生母庭田幸子(ユキコ)は大叔母にあたりますし、庭田資子(シシ)は貞成親王の父栄仁親王(ヨシヒト)を産んでいるので、庭田家は伏見宮家に長く仕えていたようですね。
  朝子の御陵般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)(上京区千本今出川東般舟院前町)の制札です
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 親王時代の第103代後土御門天皇(1442〜1500)(在位1464〜1500)に召されて、庭田朝子は後の第104代後柏原天皇(1464〜1526)(在位1500〜1526)になる勝仁親王(カツヒト)や尊伝入道親王(ソンデン)(1473〜1504)を産んでいます。
勝仁親王が天皇になったので、即位後朝子に皇太后宮が与えられたので般舟院陵の筆頭に御陵として皇后として祀られています

         返事
花水木さん:必殺仕掛人では無理なので、
    ここはゴルゴ13の出番ですが、斎藤先生は死んじゃいましたね。
    プーチンはどう終わらせたいのですかね?
Toitennさん:5円以上は持って食べに行ってくださいね。
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2022/3/3

103-1後土御門天皇  天皇陵巡り
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 第102代後花園天皇(1419〜1470)(在位1428〜1464)の皇子で、母は嘉楽門院藤原信子であった成仁親王(フサヒトシンノウ)は、母の身分は低かったのですが唯一の皇子だったので、第103代後土御門天皇(ゴツチミカド)(1442〜1500)(在位1464〜1500)として即位出来ました。
  12人の天皇名が並ぶ深草北陵(フカクサキタノミササギ)(伏見区深草坊町)の制札アップです
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 典侍庭田朝子(ニワタアサコ)(1437〜1492)との間に、後に第104代後柏原天皇になる勝仁親王(カツヒト)をもうけるなど、その他の妃との間にも数人の皇子女が出来ています。
  方形堂の深草北陵です
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 後土御門天皇の治世は、1467年から1477年まで京都を舞台にした11年間の応仁の乱によって全く安定せず、この乱を避けるために、8代将軍足利義政の室町邸(花の御所)に父後花園上皇と共に移らざるを得なくなって、ここを仮御所として約10年間を過ごしていますし、全くの財政難から御所もぼろぼろ、朝議もできない状態になっています。
  陵の塀の向こうには、お堂が見えるだけで、内側はわかりません
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 後土御門天皇の在位期間は36年と長く、これは古代の推古天皇以後は、昭和天皇(63年)・明治天皇(45年)・光格天皇(江戸時代37年)に続く4番目です。
しかし応仁の乱によって治世は翻弄され続けたので、60歳近くで崩御された時は足利幕府も葬儀の費用が出せず、遺体は黒戸(クロド)(御所清涼殿北側の細い部屋)に納められたまま43日間捨て置かれたそうです。
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 その後は北朝系天皇の眠る深草北陵に葬られ、妃の朝子の御陵般舟院陵にも分骨所がありますし、月輪陵にも灰塚があります。
  たくさんの名が並んでる月輪陵の制札には、御土御門以後続いて4人の天皇の灰塚ともありました

           返事
Toitennさん:3回続けて行ったのは、人魚浜の「ごえん」です。
    980円の定食目当てにサラリーマンも来てますので、昼は込みます。
    北海道に行って名物ラーメンを食べるのは惜しいので、毛ガニを食べるように、
    もう少し高いものを注文してます。
    他は浜の端の「雅」もおいしいですし、市場の寿司屋さんも手ごろです。
    商家の嫁さんがこれを読んで、他の店を紹介してくれたらよいのですがね。
花水木さん:これにもう一品来ました。
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大雪男さん:秀吉の朝鮮出兵や関東軍の悪夢を思い出しますね。
    プーチン、老害以外の何ものでもないですが、長期政権はダメです!
    ロシア人民が引きずりおろしてくれるのを待つ以外ないでしょうね。
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2022/2/20

102-2後花園天皇後宮嘉楽門院藤原信子  天皇陵巡り
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 信子(ノブコ・シンシ)(1411〜1488)は実父の身分が低かったので2回猶子に出され、第102代後花園天皇(1419〜1471)(在位1428〜1471)の寵愛を受けたので、公卿の大炊御門信宗(オオイノミカドノブムネ)の猶子にもなって、宮中に召されました。
  信子の墓は般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)で、その制札には夫・息子の分骨所の名に挟まれて、後花園天皇後宮嘉楽門院藤原信子墓(カラクモンイン)名がありました
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 8歳年下の後花園天皇との間には、歓心女王(カンシン)(1334〜1491)・成仁親王(フサヒト)(1442〜1500)が生まれています。
  般舟院陵(上京区今出川千本東般舟院前町)は嘉楽中学の隣で、平安京朱雀大路のそばでもありましたので、今でも町中になりますが、たぶん秀吉が伏見城を造る時に、近くにあった伏見宮家ゆかりの般舟院をここに移築させたので、こんな町中に陵があることになったんだと思います。
夜や土日はこの門は閉じてあるそうです
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 後花園天皇と他の妃の間には皇子が生まれなかったため、唯一の皇子成仁親王が第103代後土御門天皇になれましたが、余りにも実父の身分が低い信子が女院嘉楽門院の称号を与えられたのは、危篤に陥ってからでした。
しかしその後は快方に向かい、7年後に亡くなってこの般舟院陵に祀られましたが、陵ではなく陵内の墓です。

         返事
Toitennさん:ネタよりシャリの質を問うとは、
    なかなかのもんですね。
花水木さん:踊っても・歌っても・外科医も、
    もう出来なくなってる私です。
     静岡も結構感染者数多いですね、
    でも3月にはもう終わると思いますよ。

 
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2022/2/17

102-1後花園天皇  天皇陵巡り
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 北朝天皇としては6代目の第101代称光天皇(1401〜1428)(在位1412〜1428)が、精神的にも肉体的にも弱く、たびたび危篤状態になって、その度に南朝方が勢いを増すので、くじ引きで室町将軍になった第6代足利義教(ヨシノリ)(1394〜1441)は、後小松上皇(1377〜1433)に次の天皇を早く決めるように急かしていました。
  写真の制札のように、後花園はひいひいじいちゃん(高祖父)にあたる北朝初代光厳天皇と同じ陵に眠っていますし、ここは息子後土御門の分骨所でもあります
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 北朝方としては、称光天皇より3代さかのぼって長子にあたる北朝3代崇光天皇の子孫から人を選ばざるを得なくなり、称光天皇が崩御すると、崇光の皇子で皇位に就きたかった栄仁親王(ヨシヒト)(昨年9月参照)の息子伏見宮3代目貞成親王(サダフサ)(昨年10月参照)の第1皇子彦仁王(ヒコヒトオウ)を、後小松上皇の猶子として親王宣下のないまま9歳で即位させ、第102代後花園天皇(ゴハナゾノ)(1419〜1470)(在位1428〜1464)となりました。
  陵印も山国陵と同じです
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 後花園天皇の父貞成親王も、一度は後小松上皇の猶子になって次の天皇になる準備をしていましたが、これは称光天皇の怒りに触れて出家させられていたので、後花園天皇の成立は崇光流の伏見宮家の念願成就で、喜んだとのことです。
 これは明らかに、伏見宮家の子種の多さの勝利でしょうね。
  京都の北の山の中、常照皇寺の横の道の参道を上って行きます
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 養父の後小松上皇が亡くなると、父貞成親王も天皇の実父として存在感を示すようになりましたが、嘉吉の乱(1441年)で足利将軍義教が赤松満祐(ミツスケ)に宴会の席で殺されたり、1443年禁闕の変(キンケツノヘン)では禁闕(皇居内裏)に後南朝方が押し入り、三種の神器の内剣と勾玉が奪われるという事件も起こっています。
  近寄れない陵を仰ぎ見ます
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 女院藤原信子(ノブコ・シンシ)(1411〜1488)との間に産まれた成仁親王(フサヒト)(1442〜1500)に譲位し、上皇としてその直後に起こった応仁の乱(1467年ヒトノヨムナシ)の初期を生きた後、後花園は崩御し、遺言によって光厳天皇陵と同じ常照皇寺内の後山国陵(ノチノヤマグニノミササギ)(右京区京北井戸町)に葬られました。
分骨所は般舟院陵に、そして写真の火葬塚(上京区扇町)は大應寺境内にあって、今は堀川鞍馬口に面した高校駅伝などでもよくTV画面に映ってくる場所です。

         返事
Toitennさん:私の城陽訪問が知れたら、
    旗と幟の歓迎が待ってるので、
    恥ずかしくて言えませんでした。
    「糸八」新装されてましたね、上握り2800円になってますか!
    昔は2000円しなかった気もしてますが。
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2022/1/21

101-1称光天皇  天皇陵巡り
 せっかくの金曜日休みの日も、朝から京都は雪で、もう10p以上積もってまだ降っています。
車で遊びに出かけるのは午後からでないと無理なので、朝から雪を見ながらブログを書いています。
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 第100代後小松天皇(1377〜1433)(在位1382〜1412)の第1皇子で、母は日野西資子(ヒノニシシシ・スケコ)(1384〜1440)の実仁親王(ミヒトシンノウ)は、父の譲位を受けて12歳で第101代称光天皇(ショウコウ)(1401〜1428)(在位1412〜1428)となりました。
  いつもの石柱です
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 称光天皇は生まれながら病弱で、何度も危篤になって葬儀の準備をすると持ち直すことを繰り返してたようです。
典侍藤原光子との間には子は生まれず、他の数人の妃との間にも数人の皇女が生まれただけでした。
  いつものJR奈良線踏切です、右側が御陵
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 病弱であったことが精神にも及んだのか、妻と側近の密通を疑ってその側近を謹慎にしたり、後継ぎがないので父後小松上皇が崇光流から皇位継承を計画してることを知って、すねるように父と不仲になったり、天皇という地位にいるにしては称光天皇は問題児だったようです。
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 称光天皇には皇位継承なら次の同母弟小川宮(オガワノミヤ)(1404〜1425)がいたのですが、この弟もかなり問題児で、頼み込んで兄称光から貰った羊をその日のうちに撲殺したり、同母妹に突然暴行を加えたりと、精神状態はかなり不安定なうえに身体も病弱で、兄より早く22歳で突然死んでしまいました(突然すぎてるので殺されたのかもしれません)。
  12人の天皇が眠る十二帝陵
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 こうして長男の第89代後深草(持明院統)と弟の第90代亀山(大覚寺統)から始まった、変わりばんこにその系統が皇位に就いた両統迭立は、第96代後醍醐の武力による反抗によって南北朝に分裂しました。
その北朝方も長子の北朝3代崇光と弟北朝4代後光厳の二つに何となく分裂、第4代足利将軍義持によって守られていた後光厳側も、南北朝合一は果たしたものも、今回の第101代称光の死で継承男子がいなくなり、元の長子系の崇光流から天皇を迎えざるを得なくなりました(第102代後花園天皇)。
  称光など持明院統の12人が眠る深草北陵(伏見区深草坊町)は、12回(13)出てきますので、おなじみというか・・・・

  書き終えて朝10時ですが、まだ雪が降り続いています、午後からの外出もできないかもしれません。

        返事
和さん:そう言われてみたら、
    完全におこたの上ですね。
     富江の「ニク勝」家は、元々走る一家だったのですね。
Toitennさん:しばらく冬眠ですね。
    ブログのネタ無くなりますが。
花水木さん:「鎌倉殿」2回目も面白かったですね。
    静岡が今後もたくさん出てきそうですので、また「クレソン畑」で現地紹介してください。
     古希は越えると、かなりしんどくなりますよ。
    家内も老人化してきましたし、私は当然それ以上です。
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2022/1/13

100‐2後小松天皇皇子宗純王  天皇陵巡り
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 宗純王(ソウジュンオウ)(1394〜1481)は第100代後小松天皇(1377〜1433)の落胤と言われ、母は官女でその父は楠木正成の孫と伝えられています。
  仕事帰りに近鉄奈良線新田辺駅まで行って、そこから歩いて一休寺を目指しました
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 あまり確かでないかもしれない落胤説に従って、宮内庁がこの墓を治定し、後小松天皇皇子宗純王墓(京都府新田辺市薪里ノ内)として、一休寺内に祀っています。
ある意味天皇陵巡りで回ってる陵墓の内、宗純王は一番有名な人かもしれません。
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 そう宗純王と言ってもピンときませんが、一休宗純のことで、もっとくだけて言うとあの頓智の一休さんです。
 京都の南の酬恩庵一休寺(シュウオンアンイッキュウジ)を中興し、80歳ごろに大徳寺の住職になってからも、ここから通っていたそうです。(30Kmはあると思いますが、歩いてでしょうね?それとも馬?輿?)
  一休寺の入り口です、昔行った時の印象で静かな所と思ってましたが、周囲はかなり開けていました
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 後小松天皇の皇子達は、過激でやや性格がゆがんだ人が多かったようですが、一休さんも禅宗の高僧ですがなかなか型破りで、70歳を過ぎてから女と同棲するという、うらやましいが私には真似出来ない体力もあったようです。
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 一休寺に入ってすぐ右に墓所はあったのですが、門には菊の御紋の透かしが入っていたので、そこから廟を覗くことは出来ました。

 嫌になるほど感染者数は増えてきましたね!
症状が軽そうなのと、終息も早そうなのですが、近くに感染者や濃厚接触者の影も出始めました。
孫が中学受験なので、それも少し気になりますが、なんといっても本日予定の麻雀も中止になって、悲しいと言えば不謹慎ですかね。

      返事
花水木さん:「鎌倉殿の13人」第1回観ました。
    面白かったので、久しぶりに1年間観るでしょうね。
    後白河や後鳥羽天皇も出てくると思うので、
    皆で天皇陵巡りの復習をしましょうね。
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2022/1/9

100-1後小松天皇  天皇陵巡り
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 北朝5代後円融天皇(1358〜1393)(在位1371〜1382)の第1皇子で、母は内大臣三条公忠(キンタダ)の娘厳子(イツシ)の幹仁(モトヒト)は、父から譲位されて6歳にして北朝6代後小松天皇(ゴコマツ)(1377〜1433)(在位1382〜1412)として即位しました。
  写真は師団街道沿いの十二帝陵の石柱
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 父後円融上皇が院政を敷きましたが、足利3代将軍義満(1358〜1408)(在職1369〜1395)の専制的な政治も進み、1392年南北朝合一も成って、南朝の第99代後亀山天皇(?〜1424)(在位1383〜1392)から三種の神器を受け取って、北朝6代から一応第100代後小松天皇となりました。
  写真は私が週に2回乗るJR奈良線沿い、降りるJR藤森駅の手前にある深草北陵(十二帝陵)です
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 後円融上皇が没すると、義満は皇室の権威的な部分を後小松天皇には渡さずに自らが継承し、教科書でも有名な明国の使いに「日本国王」として認められたり、一説には天皇になろうとしたとも言われています。
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 後宮の日野西資子(ヒノニシスケコ)(1384〜1428)との間に後の第101代称光天皇(1401〜1428)や小川宮(1404〜1425)をもうけ、ほかにも5人以上の妃がいましたが、そのうちの一人の皇子が一休宗純(1394〜1481)、あのとんちの一休さんと言われています。
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 後小松天皇の治世はほぼ義満の天下の下でしたが、義満が死んでようやく束縛から解放された1412年、第1皇子称光天皇に譲位し院政を開始しましたが、今度はちょっと風変わりな息子と対立することも多く、後継者にも恵まれなかったので、とうとう北朝方では正統になる崇光系に第102代は譲り、院政を敷いたのちに亡くなりこの深草北陵(フカクサノキタノミササギ)に葬られました。
  これで100代まで行った天皇陵巡り、あと五分の一になりましたので、皆さんもう少しのご辛抱ですが、終わったら次は素晴らしいものが待っているという自信は皆無ですよ。

        返事
花水木さん:残しておくと、
    笑いを忘れなかったが、馬鹿なご先祖さんですね、と言われそう。
大雪男さん:こちらこそ今年もよろしく!
    安全第一で遊んでください!
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