奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2019/8/31

50-6桓武天皇皇孫遍照  天皇陵巡り
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 京都市山科の西北の辺りに遍照墓(ヘンジョウノハカ)はあります。
通勤の帰り道に、天智天皇陵に近い地下鉄御陵(ミササギ)駅で降りて(地図上の方)、ブラブラと遍照墓(地図下の方)を訪ねました。
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 地図を見て探しているのにもかかわらず、一度は見落として通り過ぎた、狭い道の奥に墓らしき姿を見とめました。
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 ぐるっと回りを住宅に囲まれている、小さな円形の丘が遍照墓ですし、はっきりと宮内庁が管理してる制札がありました。
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 遍照(ヘンジョウ)と言われてもピンときませんが、遍照の意味は「あまねく世間を照らすこと」らしいです。
このありがたい名前の持ち主は、桓武天皇の孫にあたります。
すなわち父親が良岑安世(ヨシミネノヤスヨ)で、桓武天皇の息子なんですが、生母の身分が低いので親王宣下を受けられず、良岑姓を賜与されて臣籍降下しました。
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 この安世の八男として生まれた良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)(816〜890)は、850年に出家して遍照僧正(ヘンジョウソウジョウ)となりました。
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 なんといっても有名なのは、まだ出家する前の宮中に出入りしていた頃に作った小倉百人一首の11番目
   天津風 雲の通い路 吹きとじよ
      乙女のすがた しばしとどめむ
この和歌、昔ノック・フック・パンチのマンガトリオが、
  天津風 余った風は どこに行く
と、漫才の冒頭によく使っていたので、憶えました。
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 遍照も突然妻子を捨てて出家したのですが、その息子良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)が父遍照を訪ねると、「お前もお坊さんになれ」と強引に11歳で出家させて、素性法師(ソセイホウシ)にさせられました。
まあそれでも、親子して小倉百人一首に載せてもらえるような歌人になったのですから、良しとしましょう。
 でも、臣籍降下した天皇の孫の墓まで宮内庁が管理してるのは、何故なんでしょうかね?

     返事
花水木さん:子供も多かったですが、妻も多いので、
    私たちの祖母年代が、一人でたくさん産んでる方が驚きですね。
     私の家族はAとBが結婚したので、
    子供はO・A・ABと一家で全て揃いました。
    どの型の子が産まれても、私の子だと言わなくてはならない、
    悲しい定めの私です。
    何だかなあ〜。(花水木さんから盗作)

2019/8/28

50-5桓武天皇皇子仲野親王  天皇陵巡り
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 第50代桓武天皇には35人の子供がいたそうですが、その第12皇子である仲野親王(ナカノシンノウ)(792〜867)と言われても、ピンときませんし今まで聞いたこともなかったです。
でも墓は、嵐電帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅とJR山陰線太秦(ウズマサ)駅の間にあって、結構目立つ大きな墓でした。
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 藤原四家の中で一番目立たず人材も少なかった藤原京家の出の藤原大従(フジワラノオオツグ)の娘藤原河子(カワコ)が、桓武天皇の宮人(キュウジン)となり、5人の親王・内親王を産みましたが、その内の一人が仲野親王です。
 住宅街の中にある高い丘に木々が生い茂り、森のようになった高畠墓(タカバタケノハカ)、参道も非常階段のように細く伸びていました。
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 仲野親王は歴史の中で特に何かしたと言うわけではないようですが、垂箕山古墳(タルミヤマコフン)と言われるこの大きな前方後円墳に葬られているのは、少し不思議です。
まあ、治定されたのが明治になってからですから・・・・。
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 空濠のなってるような墓外周の道を、丁度掃除中の職員に咎められないように一周巡りました。
 仲野親王にも17人の子供がいましたし、75歳と長生きです。
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 仲野親王の沢山の子供のうちの一人班子女王(ハンシジョオウ)が、親王時代からの第55代光孝天皇の妃となっていて、源定省(ミナモトノサダミ)を産んでいます。
この一時は臣籍降下していた定省が、第56代宇多天皇になってしまったので、仲野親王は死後20年経ってから、天皇の外祖父として一品太政大臣を追贈されています。

     返事
花水木さん:今や私のブログは、
    半分は花水木さんのコメントを期待してる読者で成立っていますので、
    面倒ですが一行でもコメントお願いいたします。
     京都は大文字がすむと、秋になりました。
    今年も半分以上が過ぎ、月日は巡りますが、
    目標無く生きるのはしんどいです。

2019/8/24

50-4桓武天皇皇子伊予親王  天皇陵巡り
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 木曜日の午後の仕事を辞めたので、午前中の仕事を終えて山の上の施設から、いつもの帰りとは逆の方向に降りて行き、色々訪問すること(道草です)が増えました。
山から降りた所が、写真の奥に見えてる六地蔵方面、京アニの放火殺人事件のあった所です。
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 降りて行く途中を少し外れて、住宅街の中を探していると、なんの目印も無くなかなか見つからなかった伊予親王(イヨシンノウ)(783?〜807)の巨幡墓(コハタハカ)(京都市伏見区)を、この奥に見つけました。
正式には黄金塚2号墳と言う、元々は120mもあった前方後円墳らしいです。
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 第50代桓武天皇は26人の女性を娶り、35人の子供をもうけていますし、この内の3人が天皇になりました。
 この伊予親王も、藤原南家の恵美押勝の乱を起こした仲麻呂の甥である藤原是公(フジワラノコレキミ)の娘で、桓武天皇夫人の藤原吉子(キッシ)から産まれていますので、天皇になっても不思議はなかったようです。
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 父の桓武天皇には愛されていたようですが、桓武の次の天皇になったのは、異母兄の第1皇子である第51代平城天皇です。
 兄の平城天皇に疎まれていた可能性もあるし、藤原四家の間の権力争いもあって、伊予親王が謀反の首謀者だと言われ、母吉子と共に捕縛幽閉されました。「伊予親王の変(807年)」
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 「伊予親王の変」を日本史で学んだ記臆が全く無く、その墓が勤務地の近くにある自覚も、残念ながら私には全くありませんでした。
 この不幸な母子は、幽閉後1ヶ月ほどして、二人とも毒を仰いで自害したそうです。
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 恵美押勝の乱でボロボロになっていた藤原南家は、これでとどめを刺されたようですが、後に伊予親王は無実とされ、母と共に復号・復位されました。
こんなこともあってかどうか知りませんが、墓の中央には石の宝塔が立っていました。

2019/8/21

50-3桓武天皇夫人藤原旅子  天皇陵巡り
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 藤原式家の百川(モモカワ)とその姪にあたる藤原諸姉(モロネ)【良継の娘で、前回の乙牟漏の姉になります】との間に、長女として産まれたのが藤原旅子(フジワラノタビコ)(757〜788)です。
 この陵の訪問も一度失敗してたどり着けずに、再挑戦です。
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 父の百川と、伯父でもあり祖父でもある良継が推した山部親王が第50代桓武天皇になったので、旅人の1歳下ですが叔母にあたる乙牟漏が皇后とはなっていましたが、更に785年に旅子自身も26歳で桓武天皇の後宮に入りました。
 竹林の間の道を少し登っただけで、たどり着けます。
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 786年には大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を産みましたが、788年には30歳で亡くなっています。
 妻の乙牟漏・旅子を次々と若くして死なせ、母の高野新笠も亡くなったので、桓武天皇はより一層早良親王(崇道天皇)の霊を畏れたようです。
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 こうして宇合(ウマカイ)から始まった藤原式家は、武智麻呂から始まった藤原南家の仲麻呂が恵美押勝の乱を起こして滅びたので、桓武・平城天皇の時代には種継や薬子(クスコ)等を擁して、藤原四家の中で一番栄えました。
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 旅子が若くして亡くなった時にはまだ2歳だった大伴親王が、37歳で即位して第53代淳和天皇になったので、旅子は皇太后を贈られて、洛西の丘陵地にあるこの宇波多陵(ウハタノミササギ)(京都市西京区大枝)に葬られました。

2019/8/14

50-2桓武天皇皇后藤原乙牟漏  天皇陵巡り
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 奈良時代末のおさらいになります。
藤原乙牟漏(フジワラノオトムロ)(760〜790)の父親は、藤原四兄弟の式家の宇合(ウマカイ)の次男である良継(ヨシツグ)【宿奈麻呂スクナマロ】です。
宇合の長男であった兄の広嗣(ヒロツグ)が、聖武天皇時代の740年に九州で広嗣の乱を起こし、遠い値嘉島(五島列島北の宇久島)で捕えられ斬刑なった時、弟の良継も連座して伊豆国へ流罪となりました。
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 良継はその後許されましたが、当時は南家藤原仲麻呂の絶頂期であり、乙牟漏が産まれた頃は不遇の日々をおくらざるを得ませんでした。
一時は仲麻呂暗殺計画(763年)まで起こしましたが、失敗して姓も剥奪された時もありました。
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 しかしこの藤原仲麻呂が764年に恵美押勝の乱を起こすと、父良継はその討伐軍に加わて、再び中央政界に復帰しました。
 770年称徳天皇が崩御すると、良継は弟の藤原百川(モモカワ)や従兄弟で藤原北家の藤原永手(ナガテ)と組んで、白壁王(第49代光仁天皇)の擁立に尽力しましたが、、天智系の白壁王をあえて推した理由は、白壁王の息子に自分の娘乙牟漏が嫁いでいることもあったんだと思われます。
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 白壁王の長男でしたが、母親は身分の低い百済系渡来人の娘高野新笠だったので、まさか天皇に成れるとは思ってなかった頃の山部親王(ヤマベシンノウ)と結婚したので、まだまだ無位だった乙牟漏は、14歳で774年に安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)を産み、781年には夫がまさかまさかの第50代桓武天皇として即位したので、無位→正三位→夫人→皇后と位が上がりました。
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 785年には息子安殿親王が立太子し、786年には神野親王(カミノシンノウ)(後の第52代嵯峨天皇)を産みましたが、789年高志内親王(コシナイシンノウ)を産んだ翌年に31歳で亡くなり、考古学的には4世紀代の古墳であるこの高畠陵(タカバタケノミササギ)(京都府向日市)に葬られました。
 天之高藤廣宗照姫之尊(アマカツタカフジヒロムネテルヒメノミコト)

      返事

花水木さん:倒木を跨ごうとして跨ぎきれず、
    前方に倒れこみました。
    頭では出来そうなことが出来なくなってます。
     当時の奈良仏教界が平安京に遷都したくなかったので、
    「ナクヨ坊さん」の方が、理屈にあった憶え方だと思っています。
大雪男さん:自転車通勤の時は帽子を被るようになりました。
    京都の夏は死ぬほど暑いですので、気力も萎えます。
タグ: 桓武天皇

2019/8/8

50-1桓武天皇  天皇陵巡り
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 私が働いてる所の一つは、京都伏見の南の端の丘陵の上にあります。
すぐ近くにある写真の小さな丘のような森は大亀谷陵墓参考地で、ここは宮内庁管理地ですので、被葬者候補としては桓武天皇の名が挙がっています。
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 この辺りの丘陵地はまた、昔は豊臣秀吉の築いた伏見城とその城下町があった所で、黒田長政の屋敷跡参考地も、すぐ近くにあります。
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 5分ほど歩くと、この伏見城を模して遊園地(伏見桃山城キャッスルランド)内に築城された城は、15年以上前に遊園地が廃園になった後も残っています。
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 ということで、この近くにある第50代桓武天皇(カンム)の柏原陵(カシワバラノミササギ)(京都市伏見区桃山町)は仕事帰りに簡単に行けました。
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 天皇の地位からは程遠かった天智天皇の孫白壁王の第1皇子として、渡来系の身分の高くない母高野新笠が山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)を産んだのは737年、父白壁王はその時28歳ぐらいです。
 その33年後に、父白壁王は第49代光仁天皇になってしまいましたが、皇太子になったのは第1皇子の山部親王ではなく、異母弟で二回りも若い他戸親王(オサベシンノウ)でした。
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 その後、以前のブログでも書いたように、他戸親王が廃されたため自分が皇太子になり、781年父光仁天皇の後、なれそうになかった天皇になった山部親王は第50代桓武天皇(737〜806)在位781〜806)として44歳で即位しました。
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 京都岡崎の名所、明治になってから作られた神社にすぎない平安神宮ですが、祭神は平安京を開いたこの桓武天皇ですし、坂上田村麻呂を派遣して蝦夷征伐したことでも有名で、比較的皆が知ってる桓武天皇です。
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 794年(ナクヨ坊さん平安遷都と憶えましたね)、奈良の仏教世界から逃げ出したかったのか、曾祖父天智天皇のように遷都したかったのかもしれませんが、最初に動いた長岡京は藤原種継の暗殺や早良親王(サワラシンノウ)を死に追いやった土地であったので離れざるを得なかったのか、いろんなことが重なって平安京に都を移した桓武天皇です。
 又、他戸親王や早良親王と一応自分の兄弟が、藤原一族の覇権争いに巻き込まれたような形で亡くなり、自分が天皇の地位についたという負い目と崇り信仰にも苦しめられたようです。
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 京都に都を移してくれた桓武天皇が眠る柏原陵は、京都を去って都を東京に移した明治天皇陵と、皮肉にも並ぶようにありますので、この参道を歩くと両方の陵に行けることになってます。
それでも、この有名な古代でもない桓武天皇陵でさえも、ここが真陵かどうかは不明のようです。

    返事
花水木さん:暑い暑いのに、外人観光客は減りませんね。
     熱中症になりかけたようですね、
    山頂の御陵でしばらく休んで(動けなかった)から下り始めたので、
    なんとかもったのかもしれません。
     ほどほど程度も出来ない体にならない程度に、体を鍛えたいと思ってます。
大雪男さん:一度前にバッタリ倒れて、
    スマホが飛んでいきました。
     黒ごまアイスクリームで、味は美味しかったですよ!
     阪神はやはり無理ですね。

2019/7/13

49-7光仁天皇皇子崇道天皇  天皇陵巡り
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 奈良市の東南、山辺の道の北コースに、崇道天皇の八嶋陵(ヤシマノミササギ)(奈良市八島町)があります。
写真の奈良県道188号高畑山線の角を入ってすぐです。
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 早良親王(サワラシンノウ)(750?〜785)の父は光仁天皇で、母は高野新笠なので、第50代桓武天皇の同母弟にあたります。
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 同母兄の桓武天皇の皇太子となりましたが、次期天皇を大伴一族が推す早良親王にするか、藤原一族が推す桓武の息子安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)にするかで起こった、有名な造長岡京使藤原種継暗殺事件の黒幕であると疑われ、皇太子を廃され、乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉されました。
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 早良親王は無罪を訴え断食しましたが、認められずに、淡路島に流される途中に大阪で憤死しました。(それでも遺体は淡路島に流されたそうです)
 その後、替わって皇太子になった安殿親王の病や、桓武天皇妃の次々の死、母の高野新笠までも病死したので、祟りを恐れた桓武天皇は、早良親王を崇道天皇と追称し、この八嶋陵に天皇として移葬しました。
 この御陵はちゃんと土塀に囲まれているし、鳥居もありません。
この方が明治になって出来たような天皇陵より本物らしいです。
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 陵の前には何故かゴロゴロ巨石が残されていましたので、一応写真におさめておきました。
早良親王は死の間際に石を9個投げて、「この石の落ちた所に葬ってくれ」と言われたそうです。
9個の内8個がここで見つかったので、ここに陵を作ったそうです。
 その八つ石がこの写真の石でした。
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 知っていたらちゃんと数えていたのですが、他の写真とも合わせて数えても、はっきり8個は確認できませんでした。
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 参拝したのが年末でしたので、陵の隣の由緒正しそうな家の玄関には門松が立っていました。
奈良の門松は、けっこうにぎやかで楽しいですね。
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 怨霊としても崇道天皇は、菅原道真や崇徳天皇と並ぶ超一流の怨霊ですので、桓武天皇が造営した平安京の鬼門にあたる北東、八瀬に至る道の途中に、崇道天皇だけを祀る崇道神社があります。
 以前紹介した(2018年6月の小野妹子)小野毛人の墓は、この神社の奥の山の中にあります。

       返事
花水木さん:免疫力の低下と共に、
    死が近づいています。
大雪男さん:まあ後はパリーグの試合をのんびり観ます。
     顔の三叉神経領域の帯状疱疹は、珍しくは有りませんが、
    綺麗な顔が台無しなのがつらいです。
    そろそろブログの顔を塗りつぶすのをやめて、
    素顔を出して、読者を増やそうとしていた計画はおじゃんです。

2019/7/10

49-6光仁天皇夫人高野新笠  天皇陵巡り
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 第49代光仁天皇は、突然なるはずもなかった天皇になった天皇で、その理由として、皇后になった井上内親王が聖武天皇の皇女であることや、他戸皇太子もいたことが挙げられます。
 今の9号線老ノ坂峠を越える道より1本ずれて、京都から丹波に抜ける昔の山陰街道が走っていますが、その沓掛(クツカケ)の信号を見ながらもう少し進みます。
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 前回探し歩いて来た時は、こんな大きな石柱と山へ登って行く道を見落として、陵にたどり着けずに帰ったんですよ、信じられないですね。
この先にあるラブホテル群のことばかりが、頭の中を占めていたからでしょうか?
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 近づくと、桓武天皇御母御陵参道とはっきり彫られていました。
井上・他戸が廃された為、光仁天皇の宮人(キュウジン)にすぎなかった百済からの渡来系氏族の娘が産んだ山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)が立太子したので、高野新笠(タカノノニイガサ)(〜790)と高野姓となり、夫人ともなりました。
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 ここからまずまず整備された山道を登ります。
 高野新笠は山部親王以外にも、光仁天皇との間に、先ずは第1皇女の能登内親王を、また弟の早良親王(サワラシンノウ)も産んでいますが、皇后にはなっていません。(この頃皇后になれるのは内親王だけです、藤原一族の例外はありますが)
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 少し息が切れた頃に拝所が見えてきました。
ここは京都の西の端、ここを越えると丹波の亀岡に至ります。
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 光仁天皇皇后高野新笠大枝陵(オオエノミササギ)と書かれた石柱も立っていますが、皇后とはなっていないと思います。
明治になってやっとこの陵を高野新笠の陵と治定したので、この時に無理矢理皇后と付けたのかもしれません。
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 高野新笠は息子が天皇になったので、薨去後に贈皇太后を、孫も天皇になったので贈太皇太后(タイコウタイゴウ)を贈られ、諡号も天高知日之子姫尊(アマタカシラスヒノヒメノミコト)となりました。
 制札を読むと、光仁天皇夫人贈太皇太后天高知日之子姫尊 大枝陵(京都市西京区大枝沓掛町)。
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 夫の第49代光仁天皇陵は奈良の山奥に有りますが、息子の第50代桓武天皇が都を平安京に移したので、その母親高野新笠陵は夫とは遥かに離れた京都の西北になってしまいました。
 ここで明らかに、今の天皇家に繋がる家系に朝鮮半島の民族の血が入ったことに成ります。
今の世の中、もっともっと日韓友好に、このことを活用した方が良いと思うのですが。

       返事
和さん:ありがとうございます。
    今年はインフルエンザにも罹患しましたし、
    自転車で転倒した肘はまだ痛く、傷も変色して残ってます。
    そして71歳の誕生日には、
    左目周囲や眉間・鼻尖に帯状疱疹が出来て、
    唯一自慢の顔が、ミニお岩さん状態です。
    そろそろ私の免疫力も低下してきて、
    誕生日は冥土の旅の一里塚になってきたようです。
花水木さん:ありがとうございます。
    私より若い女性二人から誕生日を祝福してもらったので、ブログもし甲斐があります。
     大阪の御陵の周囲には、洗濯物がひるがえってる所もたくさん有ります。
大雪男さん1:ありがとうございます。
    男の人の祝福も、それなりにうれしいです。
    拓郎さんは心配ですが、陽水さんが逝ったら、いよいよ自分の番と思うでしょうね。
     もう今年は完全に終わりましたね。
    広島と最下位争いをしましょう。
    でもこれでのんびりと勝敗にこだわらずに野球観戦が出来ますよ。
    (毎年そうですが)

大雪男さん:下の画面までスクロールして押したら、
    元のPC画面になりました、さすが!ありがとうございます。
    でも今度は、元のスマホ画面は出なくなりました。
    まあいいか。

2019/7/7

49-5光仁天皇皇太子他戸親王  天皇陵巡り
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 秋の奈良県五条市、前回49-4井上内親王の宇智陵をやっと見つけた後、そこから広い車道を下って行きます。
向こうに見える小さな森が目的地です。
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 この柿畑とお墓の間の森が、井上内親王が45歳の高齢出産で産んだ(養子説もありますが)白壁王との間の息子、他戸親王(オサベシンノウ)(761〜775)の墓です。
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 車では行けないと思って、丘の下に車を停めて、家内に車で待っていてもらい、歩いて探したのですが、ここも広い道だったので、車で行った方が楽でした。
ただ入り口は柿畑の中に、小さい看板だけなので、見落としがちです。
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 父親の白壁王が60歳を過ぎてから突然予期せぬ第49代光仁天皇になったので、11歳で皇太子になりましたが、母の井上内親王(皇后)が夫である光仁天皇を呪詛したという罪で皇后を廃され、これに連座して他戸親王もわずか数カ月で皇太子を廃されました。
 柿畑の中の参道を登って行きます。
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 あげくの果てに母親と共に庶人(ショジン)に落とされ、母と共にここ五条に幽閉された後、母と同じ日に死んでいます(ほぼ殺されています)。
藤原一族のこれまた陰謀でしょう。
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 この母子の死後、天地異変が相次いだので、怨霊となることを恐れた桓武天皇などによって、立派な墓を母親の陵から500mほどの所に与えられました。
  光仁天皇皇太子他戸親王墓(奈良県五条市御山町)

 仁徳天皇陵などが世界遺産に登録されました。
めでたいとは思いますが、仁徳天皇陵すぐ横のラブホテルはどうなるのでしょうか。
これを機会に少しは天皇陵を発掘していただければ嬉しいのですが。

      返事
じょんのびかあさんさん:私のスマホ画面も、
    PC画面でしたが、1カ月前ぐらいから替わってました。
    これをスマホ画面と言うのですね。
    なぜこうなったかわかりませんし、元のPC画面に戻すことも出来ません。
     8月18日(日)堀川同窓会あります、
    参加ご希望ならまたN君に連絡してください。
    参加で花を添えてくれるなら嬉しいです。
タグ: 天皇陵 五条市

2019/7/3

49-4光仁天皇皇后井上内親王  天皇陵巡り
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 第45代聖武天皇には、皇后として光明子がいましたが、夫人もいて、その夫人である県犬養広刀自(アガタイヌカイノヒロトジ)との間にも3人の子供をもうけています。
今回の主人公井上内親王(イノエナイシンノウ・イガミナイシンノウ)(いのうえと読みません)(717〜775)と、妹の不破内親王(フワナイシンノウ)【夫の塩焼王は恵美押勝の乱で仲麻呂と共に殺されていますし、息子の氷上川継(ヒカミノカワツグ)が謀反を起こそうとした罪で流罪になった時に、自身も淡路に流されてます】と、45−4でも紹介した弟の安積親王(アサカシンノウ)【権勢を誇っていた頃の仲麻呂(恵美押勝)に毒殺された可能性大です】のあまり幸せでない最後の3人です。
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 井上内親王は聖武天皇の第1皇女でしたが、11歳で斎王として伊勢に下向、弟の安積親王が死んだので、30歳で斎王を解任されました。
帰ってから白壁王(後の第49代光仁天皇)の妃になりました。
38歳で酒人内親王(サカヒトナイシンノウ)を産み、なんと45歳の高齢出産で他戸親王(オサベシンノウ)を産んでいます。
当時としてはあまりにも高齢出産なので、他戸親王養子説(誰からもらったかは知りませんが)もあります。
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 そうしてなんと夫の白壁王が60歳(62歳)で第49代光仁天皇となったので(父聖武天皇の血を引く自分が妃であったことと、息子もいることが有力な理由でもありますが)、井上内親王も54歳で皇后になり、翌年には息子他戸親王も11歳で皇太子になりました。
このまま他戸親王が次期天皇になったら、天智系男系と天武系女系が合体した最強天皇になるはずだったのですが。
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 他戸親王を推していた藤原北家の永手(ナガテ)が死に、式家の百川(モモカワ)らの陰謀だと思われますが、773年に夫の光仁天皇を呪詛(ジュソ)したなどの言いがかりを付けられて、井上内親王は皇后を廃され(翌年には他戸親王も皇太子を廃され)、奈良の南五条市辺りに幽閉されてしまいました。
775年には井上内親王と他戸親王は、二人同日に亡くなっているので、多分殺されたのでしょうね。
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 五条市にあるこの宇智陵(ウチノミササギ)(奈良県五条市御山町)は、ご当地名産の柿畑の中にありました。(丁度大売出し中の柿農家の販売所の横)
最初は墓でしたが、二人の死後天地異変が続いたので、怨霊を恐れて再び皇后の身分に復帰させ陵としたようです。

      返事
花水木さん:実車講習は京都も三人一組でした。
    静岡は前進で縁石乗り上げのようですが、京都はバックで乗り上げ、お国柄?
     全くのペーパードライバーの人も上手に運転してました。
    「なんで今更更新?」と尋ねたら、「もうじき田舎岡山に帰るので必要」とのことで、
    納得しました。
     毎日のように高齢者の運転事故が報道されてるので、
    緊張して運転するようにはなりましたが、安全運転しすぎて、
    これはこれで怖い時あります。


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