奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/10/23

72-1白河天皇  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 第70代後三条天皇(1034〜1073)(在位1068〜1073)の第1皇子である貞仁親王(サダヒトシンノウ)は、父後三条天皇がその長い33年にも及ぶ皇太子時代に、母である藤原能信(ヨシノブ)の養女即位前妃贈皇太后茂子(モシ)(?〜1062)との間に産まれました。
 クリックすると元のサイズで表示します
 父後三条天皇が1068年に即位したので、1069年には貞仁親王は立太子し、1071年には関白藤原師実(モロザネ)(頼通の6男)の養女賢子(ケンシ・カタイコ)(1057〜1084)が入内しました。
後三条天皇がわずか4年で退位し、譲位された貞仁親王は即位し第71代白河天皇(シラカワ)(1053〜1129)(在位1073〜1086)に成りました。
  写真の奥に映る白河天皇陵は、京都の南、高速道路の通る南ICの近くです
 クリックすると元のサイズで表示します
 白河天皇即位と共に、父後三条天皇は藤原北家御堂流を外戚の地位から外したい為か、白河天皇の異母弟でわずか2歳の実仁親王(サネヒト)を皇太子に立て、実仁親王が15才で亡くなると、約束されていたその弟輔仁親王(スケヒト)が皇太子に立つ予定でした。
 これを嫌った白河天皇は、父後三条天皇も亡くなっていたので、中宮賢子所生の善仁親王(タルヒト)(1074〜1107)(後の堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位してしまいました。
これには、亡くなった非常に愛してた賢子を悼む気持ちと、自らの直系に依る皇位継承を目指す気持ちがあったようです。
  写真では静かそうですが、前をひっきりなしに車が通ります
 クリックすると元のサイズで表示します
 第73代堀河天皇(在位1086〜1107)はまだ8歳であり、摂政となった師実は完全な外戚ではない(賢子は養女)ので、実権は白河天皇が握り、ここに院政が開始されました。
 次いで孫を5歳ですが第74代鳥羽天皇として即位させ、続いてひ孫も5歳で即位させて第75代崇徳天皇にして、結局白河天皇は堀河・鳥羽・崇徳と三代にわたって「治天の君」として院政を敷いたことになります。
  制札の如く、成菩提院陵(ジョウボダイインノミササギ)(伏見区竹田浄菩提院町)です
 クリックすると元のサイズで表示します
 白河天皇は院政の間の長い権力保持によって、政権の独断や人事のえこひいき、浄土教への傾斜による多数の寺院の建立など、弊害も多かったようです。
このようなわがままな行動でもままならぬものとして、「賀茂の水・双六の賽・叡山の山法師」の「天下三不如意」の話は有名です。
  クリックすると元のサイズで表示します
 噂された、白河天皇ご寵愛の待賢門院璋子(ショウシ)(1101〜1145)を孫の鳥羽天皇の皇后にして産まれた崇徳天皇は、実は鳥羽の子ではなく曾祖父白河の子であるらしいという話は、ゴシップ好きの私には嬉しい話です。
崇徳が産まれた時、父鳥羽は16歳、曾祖父白河は66歳、どちらの生殖能力も上限下限で可能ですよね!
  陵から振り返り、私が島に行ってる間に完成した京都高速道路仰ぎ見ます
 クリックすると元のサイズで表示します
 白河天皇火葬塚は、陵からは離れた金閣寺近くの金閣小学校の裏側、北区衣笠西馬場町の判りにくい路地の裏側にありました。
金閣小学校校門前の後朱雀天皇火葬塚を捜してる時に見つけた物で、京都市の西北にも火葬塚は集まっています。

       返事
花水木さん:静岡県の施設の対策は厳しいですね!
     GoToトラベルもGoToイートもなんか不公平感一杯ですね!
    こんなことに何兆円も使うなら、
    消費税を1〜2年なくす方が、皆に公平で、
    購買欲も高まりますし、店もうるおい、全てが良くまわるような気がしますがね。

2020/10/1

71-2後三条天皇即位前妃贈皇太后茂子  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 藤原茂子(フジワラノモシ・シゲコ)(?〜1062)は権中納言藤原公成(キンナリ)(999〜1043)の娘ですが、叔母が大納言藤原能信(995〜1065)の妻だったので、能信の養女となりました。
実父の官位が低すぎると言われましたが、1046年養父能信が推したので皇太子に成れた尊仁親王(タカヒト)(後の後三条天皇)(1034〜1073)に添(副)臥(ソイブシ)として入内しています。
 添(副)臥:元服の儀を終えた東宮や皇子など身分の高い男子には、
      その夜女子を添い寝させる風習があって、
      その相手に選ばれた女子をこう言うそうです。
      その後正妻にすることが多いようです。
  写真はまたまたの宇治陵総拝所です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 茂子は貞仁親王(サダヒト)(後の白河天皇)(1053〜1129)や篤子内親王(トクシ)(後の堀河天皇中宮)(1060〜1114)など1男4女を産んでいますが、貞仁親王の即位前に亡くなり、藤原北家本流とは少し離れていますが、宇治陵総拝所に祀られています。
   写真の宇治陵35号は、藤原時平の墓とも言われています。
宇治陵のいくつかは藤原北家男子の墓だと思うので、宮内庁が管理などしなくて良い墓もたくさん有ると思うのですが。
 クリックすると元のサイズで表示します
 この辺りから、茂子や能信の出身である藤原氏閑院流(カンインリュウ)が、娘を院政期の天皇に嫁がせることが増えて、本元の藤原北家から外戚の地位を奪う形になってきています。
  総拝所制札には、白河天皇御母贈皇太后茂子とありました。

        返事
花水木さん:私ぐらいの年の京都の男は、
    なんか偉そうにしてる人が多いいようで、反省しています!
     権力を握ったら、手放すのはなかなか難しいですね。
    その辺で人間性が出るような気がするので、反省・反省!!

2020/9/28

71-1後三条天皇  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 1034年に産まれた尊仁親王(タカヒトシンノウ)は、第69代後朱雀天皇の第2皇子で、母は第67代三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013〜1094)(母は藤原妍子)です。
 異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子に12歳で成れましたが、藤原北家の関白頼通・教通は娘を後宮に入れてる後冷泉天皇に皇子が産まれて、出来るなら外祖父に成りたかったので、尊仁親王には冷たかったようです。
  写真は、龍安寺の裏にあった薄くなって読みにくい立札ですが、ここから山へあがると、六つの御陵と一つの火葬塚に行けるとあります
 クリックすると元のサイズで表示します
 道長と倫子の間に産まれた、当腹(ムカイバラ)(正妻の子)の頼通などの子供は関白になったり皇后になったりしていますが、同じ兄弟でも母が違う道長と明子(メイシ・アキラケイコ)との間の外腹(ソトバラ)の子は、なかなか出世できませんでした。
 外腹の一人藤原能信(ヨシノブ)(995〜1065)が強力に推したので、尊仁親王は皇太子に成れたようです。
  先ほどの立札をもう少し進むと、母の禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の御陵の向こうに見える山際に、三人の天皇陵が並んでいます。
 クリックすると元のサイズで表示します
 尊仁親王の東宮妃として18歳の時に、23歳の第68代後一条天皇皇女で母は藤原威子の馨子内親王(ケイシ・カオルコ)(1029〜1093)を入内させましたが、出来た二人の子供はいずれも夭折しています。
 能信の養女となった藤原茂子(モシ・シゲコ)(?〜1062)も入内し、第1皇子貞仁親王(サダヒト)(1053〜1129)(後の第72代白河天皇)など1男4女をもうけました。
 又女御としては源基子(キシ・モトコ)(1049〜1134)を寵愛して、第2・3皇子が産まれています。
  三つ並んだ鳥居に向かって左側が、この後三条天皇陵です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 後見人となっていた藤原能信はもう亡くなっていましたが、異母兄後冷泉天皇は後継者が産まれることなく亡くなったので、尊仁親王が即位し、第71代後三条天皇(ゴサンジョウ)(1034〜1073)(在位1068〜1073)が産まれました。
 これで第61代朱雀天皇からちょうど10代、130年以上続いた藤原北家の娘を母親にした天皇の時代は終わりました。
 まあそれでも、後三条天皇の母禎子内親王の母親は、道長の娘妍子ですので、藤原北家の血がまだまだ濃く入ってると言えばそうです。
  写真の天皇陵印も三つの陵名がまとめて入っています。
 クリックすると元のサイズで表示します
 娘を天皇に嫁がせ、出来た幼い孫を次の天皇にして、自分は外祖父として政治の実権を握る摂関政治はここでほぼ終わりました。
 その最後として、頼通・教通兄弟は摂政・関白として政治の実権をまだ握っていましたが、後三条天皇は1069年延久の荘園整理令を発布したり、1072年延久宣旨枡(エンキュウノセンジマス)の制定など、天皇親政も開始しています。
  写真のように、三つの陵共に高台にあるので、近くまで行けませんでした
 クリックすると元のサイズで表示します
 後三条天皇は即位後わずか4年で第1皇子貞仁親王に譲位し、院政を開こうとしていますが、次の年には40歳でもう亡くなってしまい、父と異母兄の横で母の陵も見える圓宗寺陵(エンソウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られました。
 火葬塚は京都岡崎の平安神宮の中にあって、見せてもらえたというブログもありましたが、私は番人や若い宮司に「そんなものは知らん」とけんもほろろに断われてしまいました。
 写真の平安神宮の案内看板の現在地の少し右に、後三条天皇火葬塚は有るはずなのですが、偉そうにして入れてくれませんでした。
五島や長崎など他の地方でも道を尋ねると、こちらが恐縮してしまうぐらい親切丁寧に教えてもらえることが多いですが、京都の名所に居る私ぐらいの年の番人はいつも高圧的な態度で接してくるので、気分が悪くなることが多いです。
 私も他山の石として、京都のいじわるお爺さんにならないように気を付けます。

        返事
花水木さん:今年は彼岸花の開花が1週間ほど遅れてる、
    とニュースで知りました。
    彼岸花の生活リズムを狂わすほどの異常気候になってるんですかね。
    私は開花せずに、枯れ果てる人間のようです。
     草間彌生さんの作品は、色が明るいから気持ち良いです。

2020/9/11

70-4後冷泉天皇皇后歓子  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 藤原歓子(フジワラノカンシ・ヨシコ)(1021〜1102)は藤原教通(ノリミチ)の3女で、母は藤原公任(キントウ)の長女ですので、同母姉には第69代後朱雀天皇の女御で、皇后には阻止されてなれませんでしたが准后になった生子(セイシ)(1014〜1068)がいます。
  写真は何回も出てきてる宇治陵総拝所
 クリックすると元のサイズで表示します
 歓子は4歳にして母と死別していますが、1047年に第70代後冷泉天皇(1025〜1068)(在位1045〜1068)に入内し、皇子も産まれましたが、この皇子はすぐに亡くなっています。
 1050年にはあとから入内した伯父頼通の娘寛子の方が先に立后されました。
  総拝所前にある藤原家塋域碑は、道長が宇治木幡に建てた浄妙寺堂柱礎石です
 クリックすると元のサイズで表示します
 歓子の同母姉生子は、立后を伯父頼通によって阻止されましたが、1068年に父教通が関白になったので、歓子も皇后になれました。
 こうして後冷泉天皇には、章子内親王・寛子・歓子と3人の正妃が並び立つことに成りましたが、結局この3人には成人した皇子は産まれず、摂関政治の終焉を迎えることに成りました。
でも、3人の後冷泉天皇の正妃は、3人とも80・92・82歳と、当時としてはかなり長命でした。
  制札左から6番目に後冷泉天皇皇后歓子宇治陵
クリックすると元のサイズで表示します
 皇后に成れた歓子ですが、その2日後にはもう後冷泉天皇は崩御しました。
そんなことには関係なく、以前から仏教に帰依していた歓子は、その後も念仏三昧の生活を送り、82歳の高齢で亡くなって、定子の鳥戸野陵で荼毘にふされた後、宇治陵に葬られたようです。
  一条天皇皇后定子鳥戸野陵は、6人の皇后の火葬塚でもあります

     返事
花水木さん:岡崎市にある寺だと思います。
    徳川将軍14代のお位牌は有りますが、
    15代将軍慶喜公のだけ無いと思いますが、
    それがちょっと嬉しいような悲しいような気がするのは、
    私の曾祖父の兄が、主君慶喜公に裏切られたような気がしてるからです。

2020/9/9

70-3後冷泉天皇皇后寛子  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 藤原寛子(フジワラノカンシ・ヒロコ)(1036〜1127)は道長の後を継いで藤原氏長者になった頼通(ヨリミチ)(992〜1074)の長女で、母は藤原祇子(ギシ)(?〜1053)で、やや母方の身分が低い感はありますが、同母弟の師実(モロザネ)(1042〜1101)も後継者になれて関白になっています。
  何回も使いまわししてる宇治陵総拝所の写真です
 クリックすると元のサイズで表示します
 正妻との間に子女に恵まれなかった頼通にとって、寛子は待望の娘でしたので、後冷泉には東宮の時から章子内親王がもう入内していて(1037年)、天皇に成った後も3年前には従姉妹の歓子(カンシ・ヨシコ)も入内していたのに、1050年に寛子も入内させています。
  宇治陵総排除の前に建つ藤原北家塋域の碑には、頼通・師実の名も刻まれています
 クリックすると元のサイズで表示します
 明るい性格で、後冷泉天皇の寵愛も受けましたが、子には恵まれませんでした。
夫に先立たれて出家し、四条院とし、皆から敬意を払われながら92歳まで生きて、宇治の山奥の院で亡くなり、宇治木幡の藤原家塋域に葬られ、宇治総拝所制札には後冷泉天皇皇后寛子として名があがっています。
 昭和天皇皇后の香淳皇后(コウジュン)が2000年に97歳で亡くなるまでの870年以上の間、寛子は皇后歴代最高齢記録を保持していました。

2020/9/7

70-2後冷泉天皇皇后章子内親王  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 天皇家のサラブレッド第68代後一条天皇は、9歳年上ですがこれまた有力な道長4女威子(イシ)とだけ結婚し、当時では珍しい一夫一婦制を貫きました(貫かされたかも)。
 この二人に皇子が産まれたら、道長はじめ藤原北家は万々歳だったのですが、皇子は産まれず、残念ながら内親王二人が産まれただけでした。
 クリックすると元のサイズで表示します
 二人の内親王の内、妹の馨子内親王(ケイシ・カオルコ)(1029〜1093)は第71代後三条天皇に入内しましたが、産んだ一皇子・一皇女は夭折しています。
  陵の近くには昔の京都市電の錦林車庫があったので、そこに京都市電が飾ってありました
 クリックすると元のサイズで表示します
 今回の主人公は姉の方の章子内親王(ショウシ・アキコナイシンノウ)(1027〜1105)です。
章子内親王は10歳で父後一条天皇と母威子を相次いで亡くしましたが、祖母兼母方では伯母の上東門院彰子の庇護を受け、1037年11歳で2歳年上の親仁親王(チカヒト)の東宮妃になり、親仁親王が第70代後冷泉天皇(1025〜1068)(在位1045〜1068)になったので、女御になりました。
  細長くなかなか立派な御陵です
 クリックすると元のサイズで表示します
 しかし子宝には恵まれず、夫の後冷泉天皇崩御後は落飾(ラクショク;貴人が髪をそって仏門に入ること)し、太皇太后として後二条院と称し、40年近く安定した余生を送って80歳で亡くなり、父親と同じ菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に後冷泉天皇皇后章子内親王として葬られています。

       返事
toitenlabeeさん:お経は嫌な仕事より容易いのでは!
     最後に底に残ったコーンフレークで、今までの美味しさが消える時が有りますね。
    まあ私は総入れ歯になってからは、硬口蓋は入れ歯で守られ、
    コーンフレークが刺さることは無くなっていますがね(自慢になりませんが)
     白玉が入ってるのは、和風パフェだけでしょ。
花水木さん:人がいず、
    並ばずに御朱印が手に入ったのは良かったです。
     プリンアラモードは、高台の有る平べったい紡錘形の器に入った物では?
    逆円錐形で細長い器に入っていて、長いスプーンで食べて、
    最後の底の一すくいが取りにくいのがパフェでは?
     70歳過ぎてさすがにもうやりませんが、
    パフェの器の内面に残ったクリームなどがもったいなくて、
    ちょっと水を入れて器を回し、こびりついたクリームを溶かして、それを飲む。
    そしてあまりおいしくなくて、今までのパフェの後味を台無しにして後悔する。
    若さゆえの苦い思い出を、返事を書いてる間に思いだしてしまいました。

2020/8/30

70-1後冷泉天皇  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 天皇陵巡りもなんとか70代まで行きついて、半分以上は過ぎました。
巡った陵の貯金も、夏の暑さで少なくなりつつあるので、秋になったら又ちょこちょこ陵墓巡りをしていく予定です。
 先代第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)がまだ皇太子の頃に、藤原道長(966〜1028)6女嬉子との間に産まれた第1皇子が、親仁親王(チカヒトシンノウ)ですが、母嬉子はお産直後に10代で亡くなっています。
  龍安寺の裏山の陵を巡った後、下りてくると、龍安寺の裏に三つ並んだ鳥居の有る陵がありますが、真ん中が圓教寺陵です
 クリックすると元のサイズで表示します
 親仁親王は父の後朱雀天皇が即位したので、1037年には立太子し、父の譲位に伴い21歳で即位し、第70代後冷泉天皇(ゴレイゼイ)(1025〜1068)(在位1045〜1068)と成りました。
 祖父道長はもう亡くなっていましたが、その長男頼通(ヨリミチ)(992〜1074)が権力を握っていて、「天皇は全てにおいて宇治殿(頼通)の言うがままであった」と伝えられています。
 後冷泉天皇は、蹴鞠や歌合せなど宮廷の優雅な生活に溺れて、政治にはあまり関心を示さなかったようです。
  向かって左に異母弟の後三条天皇、右には父の後朱雀天皇が眠っています
 クリックすると元のサイズで表示します
 後冷泉天皇の治世の時代は、丁度末法に入った1052年頃であり、高校日本史で学んでる時も理解できなかった、陸奥の豪族安部氏を河内源氏の源頼義・義家が滅ぼした「前九年の役」(1051〜1062)の頃です。
  右の鳥居は父の陵、三つの陵それぞれが寺なんですかね?
 クリックすると元のサイズで表示します
 伯父である後一条天皇第1皇女で、母は道長4女威子(イシ)である章子内親王(ショウシ・アキコ)(1027〜1105)が1038年に12歳で入内してますが、子は生れませんでした。
 関白頼通の長女寛子(カンシ・ヒロコ)(1036〜1127)も期待を背に1050年に入内しましたが子に恵まれませんでした。
 頼通の同母弟教通(ノリミチ)三女歓子(カンシ)(1021〜1102)はその前1047年に入内していて、皇子を産みましたが死産です。
 この3人が正妃になるという異例のこともありましたが、いずれにもお世継ぎは生れませんでした。
  少し高い所にある陵なので、はっきり見えそうで見えなかった陵です
 クリックすると元のサイズで表示します
 唯一後冷泉天皇には、1051年皇子が産まれていますが、あまりにも母親の身分が低いために養子に出されています(高階為行)。
 こうして後冷泉天皇には世継ぎが無く、とうとうここで第61代朱雀天皇から続いた母親が藤原北家の娘である天皇は終わり、それと共に時代は摂関政治から院政に移って行きます。
 クリックすると元のサイズで表示します
 後冷泉天皇は、父と異母弟と一緒になった陵ですが名前は別々の、圓教寺陵(エンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られていますが、火葬塚は別のもっと市内の千本北大路交差点の正に北東角にあります。
この辺りの火葬塚と同じく制札はパソコン文字でした。

       返事
大雪男さん:Go To Travel効果とはあまり関係ないと思いますが、
    9月の連休に高齢者の旅行する気がどのくらいになってるか・・・。
     焼き魚が何だったか、すみません判りません。
     プロ野球が面白くないスポーツになってきています。
花水木さん:城好きな人は沢山います。
     新型コロナも半年以上、
    なんか気分が萎えているのは、年のせいだけでもないようですが、
    若いこれからの人は、孫も含めて大変です。
     女の人にとって、上げ膳据え膳が、
    旅の一番の喜びのようですね。

2020/8/22

69-4後朱雀天皇准后生子  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 道長5男の藤原教通(ノリミチ)(996〜1075)と藤原公任(キントウ)の娘との間に、長女として産まれたのが藤原生子(フジワラノセイコ・ナリコ)(1014〜1068)です。
 父教通は最後は関白ですし、母方祖父公任は写真に又だしてます大納言公任で、三舟の才もある歌人です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 父教通は、最初は16歳の生子を第68代後一条天皇に入内させようとしましたが、自分の母倫子や同母兄の関白頼通の反対にあい、あきらめました。
 しかしその次の第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)には、これも反対がありましたが、26歳と年増になっていた生子を、強引に入内させ女御と成りました。
  宇治陵総拝所の前をJR奈良線が走っています。
 クリックすると元のサイズで表示します
 意外と生子と後朱雀天皇との仲は良かったのですが、子供はできませんでした。
後朱雀天皇自身が生子を皇后に推した時には、伯父である関白頼通は、同母弟の娘であるにもかかわらず、生子には皇子も無く、生子が執柄(シッペイ)(摂政関白の別名・政治権力を握ること)の娘ではないと、拒否したそうです。
  宇治陵総拝所前に立つ藤原氏塋域の碑には、頼通の名はありますが、もちろん教通はありません。
 クリックすると元のサイズで表示します
 1045年後朱雀天皇の譲位と共に、生子は内裏を去り、10年後には出家。
太皇太后・皇太后・皇后に準じた処遇である准后を与えられていたために、宇治陵総拝所制札の最後に、准后藤原生子墓と書かれていました。

      返事
花水木さん:当時の夏休みの記録に、
    30℃以上の日ってあまりなかったと思いますよね。
     冷やしたスイカではなく、冷やした桃やトマトを、田舎で食べてましたが、
    たぶん今の桃やトマトほどは美味くなかったと思います。
toitenlabeeさん:夏もあと1週間ぐらいで、
   35℃以上は終わってほしいですね。

2020/8/19

69-3後朱雀天皇即位前妃贈皇太后嬉子  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 藤原嬉子(フジワラノキシ・ヨシコ)(1007〜1025)は、藤原道長(966〜1028)と倫子(964〜1053)の6女ですので、栄光の同母兄弟姉妹の長女彰子・長男頼通・次女妍子・5男教通・4女威子の最後になります。
  写真は、宇治陵総拝所とその前に立つ藤原家塋域の石碑です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 嬉子は敦良親王(アツヨシ)(1009〜1045)の東宮妃として14歳で入内し、敦良親王が1036年に即位して第69代後朱雀天皇になる前に、1025年に親仁親王(チカヒト)(後の第70代後冷泉天皇)を産みましたが、その2日後には、末っ子ですが兄弟姉妹の中で一番早く10代で亡くなってしまいました。
 藤原北家一族が眠る宇治木幡の宇治陵総拝所制札には、後冷泉天皇御母贈皇太后嬉子と名が載っています。

      返事
じょんのびかあさんさん:綾部は涼しそうな気もしますが、
    ダメですか。
     かかりつけ医って、正月に亡くなった同級生のY君ですか?
     ポジテイブに、夫婦でもう一度自転車日本一周はどうですか。

2020/8/14

69-2後朱雀天皇皇后禎子内親王  天皇陵巡り
 クリックすると元のサイズで表示します
 藤原道長(966〜1028)がやや強引に、もう皇子もいる第67代三条天皇(976〜1017)に次女妍子(ケンシ)(994〜1027)を入内させ、皇后にもしましたが、二人の間には皇子は生れませんでした。
唯一産まれたのが、今回の禎子内親王(テイシナイシンノウ)(1013〜1094)です。
  龍安寺の裏山には沢山の陵が並んでいますので、龍安寺駐車場を少し行くと、こんな宮内庁製の案内板が有りました。(私は本当はここに降りて来たのですが)
 クリックすると元のサイズで表示します
 父三条天皇の従兄弟第66代一条天皇と道長長女で伯母にあたる彰子との間に産まれた敦良親王(アツナガ)には、既に道長6女で叔母である嬉子(ヨシコ)が東宮妃に入り、第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025〜1068)(後の第70代後冷泉天皇)が産まれていますが、嬉子は産後すぐに亡くなっていました。
そこで、禎子内親王が14歳で1027年に入内し、東宮妃となりました。
  皇后陵ですが、久しぶりの内親王からの皇后のせいか立派です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 禎子内親王は良子内親王(ナカコ・リョウシ)(1030〜1077)・娟子内親王(ケンシ)(1032〜1103)を産んだ後に、1034年尊仁親王(タカヒト)(1034〜1073)(後の第71代後三条天皇)を産みました。
 その後夫の敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)になったので、中宮にも成れました。
 クリックすると元のサイズで表示します
 しかしその頃には、祖父道長も父三条天皇も母藤原妍子も亡くなっていて、道長息子の頼通の世になっていたので、禎子内親王の地位も危ういものでした。
しかしその後、息子尊仁親王がなんとか異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子になれ、その後は第71代後三条天皇にも成ったので、禎子内親王は陽明門院と女院を宣下され、国母にまでなりました。
  火葬されたのは、藤原家からの皇后たちと同じ鳥戸野です。
 クリックすると元のサイズで表示します
 禎子内親王は、孫の第72代白河天皇・曽孫の第73代堀河天皇の即位も見届け、82歳で亡くなり、この立派な龍安寺裏の圓乗寺東陵(エンジョウジノヒガシノミササギ)(右京区龍安寺御陵の下町)に葬られました。
 クリックすると元のサイズで表示します
 右手前に少し石柵が見えてるのが禎子内親王の陵で、一人だけで独立していますが、左奥に写ってるのが夫後朱雀・義子後冷泉・実子後三条の三人の合わさったような陵です。
さすが内親王からの皇后で、力の有った老婆だったのですかね。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ