奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/8/14

69-2後朱雀天皇皇后禎子内親王  天皇陵巡り
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 藤原道長(966〜1028)がやや強引に、もう皇子もいる第67代三条天皇(976〜1017)に次女妍子(ケンシ)(994〜1027)を入内させ、皇后にもしましたが、二人の間には皇子は生れませんでした。
唯一産まれたのが、今回の禎子内親王(テイシナイシンノウ)(1013〜1094)です。
  龍安寺の裏山には沢山の陵が並んでいますので、龍安寺駐車場を少し行くと、こんな宮内庁製の案内板が有りました。(私は本当はここに降りて来たのですが)
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 父三条天皇の従兄弟第66代一条天皇と道長長女で伯母にあたる彰子との間に産まれた敦良親王(アツナガ)には、既に道長6女で叔母である嬉子(ヨシコ)が東宮妃に入り、第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025〜1068)(後の第70代後冷泉天皇)が産まれていますが、嬉子は産後すぐに亡くなっていました。
そこで、禎子内親王が14歳で1027年に入内し、東宮妃となりました。
  皇后陵ですが、久しぶりの内親王からの皇后のせいか立派です。
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 禎子内親王は良子内親王(ナカコ・リョウシ)(1030〜1077)・娟子内親王(ケンシ)(1032〜1103)を産んだ後に、1034年尊仁親王(タカヒト)(1034〜1073)(後の第71代後三条天皇)を産みました。
 その後夫の敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(1009〜1045)(在位1036〜1045)になったので、中宮にも成れました。
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 しかしその頃には、祖父道長も父三条天皇も母藤原妍子も亡くなっていて、道長息子の頼通の世になっていたので、禎子内親王の地位も危ういものでした。
しかしその後、息子尊仁親王がなんとか異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子になれ、その後は第71代後三条天皇にも成ったので、禎子内親王は陽明門院と女院を宣下され、国母にまでなりました。
  火葬されたのは、藤原家からの皇后たちと同じ鳥戸野です。
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 禎子内親王は、孫の第72代白河天皇・曽孫の第73代堀河天皇の即位も見届け、82歳で亡くなり、この立派な龍安寺裏の圓乗寺東陵(エンジョウジノヒガシノミササギ)(右京区龍安寺御陵の下町)に葬られました。
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 右手前に少し石柵が見えてるのが禎子内親王の陵で、一人だけで独立していますが、左奥に写ってるのが夫後朱雀・義子後冷泉・実子後三条の三人の合わさったような陵です。
さすが内親王からの皇后で、力の有った老婆だったのですかね。

2020/8/12

69-1後朱雀天皇  天皇陵巡り
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 敦良親王(アツナガシンノウ)は第66代一条天皇の第3皇子で、母は藤原彰子です。
同母兄で第2皇子の第68代後一条天皇が即位した時は、第67代三条天皇の皇子で後一条より年上の敦明親王(アツアキラ)が皇太子に立ちましたが、道長の力の前には皇太子を自ら辞退せざるをえない羽目になって、替わって敦良親王が立太子しました。
  陵は龍安寺裏山にある円融天皇火葬塚から、一條・堀河天皇陵を通って龍安寺近くまで降りてくると、有りました。
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 同母兄後一条天皇の譲位・崩御に伴って、28歳で敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(ゴスザク)(1009〜1045)(在位1036〜1045)になりました。
 皇太子の時から東宮妃として道長6女で叔母にあたる嬉子(キシ)が入内していて、1025年には第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025〜1068)(後の第70代後冷泉天皇)も産まれていますが、嬉子は出産2日後に亡くなっています。
  三つ鳥居が並んだ陵の向かって右が後朱雀陵です。
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 叔母にあたる嬉子の死後、これまた叔母にあたる道長娘妍子を母にする三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013〜1094)も1027年に入内したので、これは従兄妹婚です。
禎子内親王との間には第2皇子尊仁親王(タカヒト)(1031〜1073)(後の第71代後三条天皇)が産まれました。
即位後は関白頼通などが次々と娘を後朱雀天皇に入内させましたが、皇子は生れることなく、このことが摂関政治が終わる始まりとなったようです。
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 後朱雀天皇は28歳から9年間、成人天皇として在位してましたが、政治の実権はまだまだ道長の息子関白頼通など藤原北家一族が握っていました。
 後朱雀天皇は息子後冷泉天皇に譲位しすぐ出家、そしてすぐに崩御し、圓乗寺陵(エンジョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュヤマ))に息子二人と並んで葬られています。
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 後朱雀天皇の火葬塚は、別に北区平野上柳町の金閣小学校校門前にあって、別の判りにくい狭い道から入っていくとありました。

       返事
花水木さん:もうすでに巡ってる陵が、
    10はありますので、今は休憩中ですよ。
     シガールって、筒状のお菓子ですね。
    お菓子も缶が少なくなっていますが。
    私も捨てられず、葉巻の缶・お菓子の缶まだ使ってますね。

2020/8/9

68-2 後一条天皇皇后威子  天皇陵巡り
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 藤原威子(フジワラノイシ・タケコ)(1000〜1036)は、あの道長・倫子の4女です。
栄光の同母兄弟姉妹には、長女彰子・長男頼通(ヨリミチ)(992〜1074)・次女妍子・5男教通(ノリミチ)・6女嬉子がいます。
  細長い宇治陵総拝所(宇治市木幡)を、横の道から眺めています。
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 1018年、甥である第68代後一条天皇(1008〜1036)(在位1016〜1036)に入内、女御→中宮と成りましたが、小学3〜4年生の夫と高校3年〜大学1年生ぐらいの妻と言うことで、威子本人は恥ずかしがっていたようです。
 これで父道長の娘3人が、皇后(威子)・皇太后(妍子)・太皇太后(彰子)の三后となり、道長は偉業達成です。
  宇治陵制札の文字、威子の名前がこの時は一番濃く残っていました。
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 後宮に入ったのは威子一人だけで、当時としては珍しく一夫一婦制になったのは、皆が道長の権威を恐れて、娘を入内させる勇気が無かったことが一因でしょう。
二人の間には、残念ながら皇子は生れず、章子内親王(ショウシ)(1027〜1105)・馨子内親王(ケイシ)(1029〜1093)の女しか産まれなかったので、これは道長の満月が欠けだす兆候でもあったのですかね。
  この写真は、哲学の道近くにある第63代冷泉天皇の桜本陵(左京区鹿ケ谷)です。
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 後一条天皇が30前に亡くなって半年後、後を追うように威子も亡くなり、やっぱり藤原家ゆかりの宇治木幡の辺りに葬られたようです。
  桜本陵は威子の火葬塚でもありますが、制札に書かれてあるだけで、塚のようなものを、私は確認できていません。

      返事
花水木さん:私の子供時代、 
    泉屋クッキーの工場が近くにあったので、
    怪我した人を診たお礼に、欠けたり焼きすぎたりしたクッキーを、
    一斗缶に一杯、よく貰いました。
    それが私の最高のおやつでしたので、
    今でも綺麗な泉屋クッキーより、焦げたのの方が好きです。

2020/8/7

68-1後一条天皇  天皇陵巡り
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 敦成親王(アツヒラシンノウ)は第66代一条天皇(980〜1011)(在位986〜1011)の第2皇子で、母は道長(966〜1027)の娘彰子(988〜1074)ですので、外戚の地位を目指す道長にとっては待望の皇子で、産まれたのも道長邸宅の京極殿(キョウゴクドノ)ですし、摂関政治を掌握する為の希望の星でした。
  陵は山の斜面にあって、街中にしては立派です。
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 定子の子で一条天皇の第1皇子敦康親王(アツヤス)を差し置いて、敦成親王は4歳で第67代三条天皇の皇太子になり、三条天皇のほぼ強制的な譲位により9歳で即位し、第68代後一条天皇(ゴイチジョウ)(1008〜1036)(在位1016〜1036)となりました。
  拝所も広々としています。
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 皇太子には三条天皇の第1皇子敦明親王(アツアキラ)(994〜1051)が立ちましたが、天皇は9歳皇太子は23歳、父三條天皇もすぐに亡くなり、後ろ盾を失った敦明親王は1年ほどで、道長の前に屈して皇太子を辞退することになっています。
 その後、後一条天皇の皇太子に立ったのは、1歳年下の同母弟敦良親王(アツナガ)(後の第69代後朱雀天皇)です。
  後冷泉天皇の皇后になった娘の章子内親王と同じ陵です。
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 皇后には道長の三女威子(イシ)(1000〜1031)が20歳で入内、9歳年上女房ですが、この頃は珍しい唯一の皇后でした。
二人の間には皇子は生れず、二人の内親王が産まれただけでした。
  陵を一周すると、大きくて奥があることが判りました。
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 後一条天皇皇后にこの三女威子が成り、長女彰子が一条天皇・次女妍子が三条天皇の皇后になってますので、これで道長の娘三人が皇后になるという「一家三后」と成りました。
   この世をば 我が世とぞ思う 望月の
       欠けたることも なしと思えば
と、道長が歌ったのはこの頃ですが、満月になったら次は月は欠けるだけ、そろそろ藤原北家の時代にも秋風がたってきたようです。
  陵からは、送り火の大文字で有名な、東山如意ヶ岳がすぐそこに見えます。
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 1027年道長は死にましたが、長男頼通(ヨリミチ)は上手にその後を継いでいたので、後一条天皇は在位20年ありましたが、まだまだ自分が主導して国政をとるまでには至りませんでした。
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 1036年後一条天皇は突然の崩御の為、上位の儀式が間に合わず、喪を秘して同母弟後朱雀天皇への譲位儀式を行ったそうです。
 大文字の見える菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に娘の章子内親王(ショウシ)(1027〜1105)と共に葬られています。

        返事
花水木さん:50年以上前に初めて食べた、
    ミスタードーナツも衝撃でした。
    最近衝撃が無いのは、加齢で味音痴になったからですかね。

2020/7/24

67-3三条天皇皇后妍子  天皇陵巡り
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 藤原妍子(フジワラノケンシ・キヨコ)(994〜1027)は母倫子(リンシ)父藤原道長(966〜1028)の次女ですので、彰子・頼通・教通・威子・嬉子は同母兄弟姉妹です。
  またまたの宇治陵総拝所です。
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 同母姉彰子が第66代一条天皇との間にやっと念願の敦成親王(アツヒラ)・敦良親王(アツナガ)を産んだ直後ですので、そんなに必要ではなかったかもしれませんが、父道長は万全を期するためか、1010年に次女妍子を当時皇太子であった姉超子の子居貞親王(オキサダ)に入内させました。
  制札には娍子(セイシ)の次に三條天皇皇后妍子があがってます。
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 居貞親王が1011年に即位して第67代三条天皇になったので、妍子は女御となり、1012年には三条天皇との間に親王も産んでいる娍子を差し置いて、父の力の差で妍子が先に皇后になりました。
  写真は京都御所内に有る立札です。
   この辺は私の小学校時代のギリギリ領地範囲でした。
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 妍子が産んだのは禎子内親王(テイシ)(1013〜1094)だけで、皇子は産まれていません。
夫三条天皇が亡くなった後は、この娘と二人で枇杷殿(ビワドノ)に住み、娘禎子が時の皇太子敦良親王(アツナガ)(後の後朱雀天皇)に入内したのを見届けて亡くなりました。
  写真の御所内梅林辺りが、道長と妍子の里邸としてあった枇杷殿の跡です。

        返事
花水木さん:今回が回答です。
    キラキラネームも平安時代の名前も難しいですよね。

2020/7/22

67-2三条天皇皇后娍子  天皇陵巡り
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 藤原娍子(フジワラノセイシ・スケコ)(972〜1025)の母は源延光(ノブミツ)の娘で、父は藤原忠平の五男師尹(モロタダ)の次男藤原済時(ナリトキ)(941〜995)ですので、美人であったとはいえ本流からは外れています。
  写真は、おなじみの宇治陵総拝所です。
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 992年、4歳年下の居貞親王(オキサダ)(後の三条天皇)(976〜1017)(在位1011〜1017)に入内し、
 敦明親王(アツアキラ)(994〜1051)
 敦儀親王(アツノリ)(997〜1054)
 敦平親王(アツヒラ)(999〜1049)
 師明親王(性信入道親王)(ショウシンニュウドウシンノウ)(1005〜1085)
 当子内親王(トウシ)(1001〜1085);伊勢斎宮
 畛卞眇堂ヲ(シシ・タダコ)(1003〜1048;藤原教通室 
   (漢字ここだけ何故か化けてしまいました。上手に治せません。)
の4男2女をもうけました。
  制札中央に三條天皇皇后娍子の名が有ります。
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 多分道長娘妍子より済時娘娍子の方が、三条天皇には愛されたと思いますが、皇后になったのは後から入内した妍子でした。
娍子も遅れて皇后になりましたが、その儀式にも道長の横やりが入り、参列者は少なかったそうです。
 三条譲位後、息子敦明親王が次の後一条天皇の皇太子にたてられましたが、父三條はすぐに亡くなり、道長の圧力によって、1年後には敦明親王は皇太子を辞退しています。
 娘当子内親王は、斎宮から17歳で退下した後、伊周長男藤原道雅との密通事件で仲を裂かれ、尼になっています。
 それでも藤原北家系の墓に葬られたのか、宇治陵総拝所には妍子より前に名があがっています。
  当子内親王と密通した左京大夫道雅のこの歌は、その時のことを歌っていて、直接会って今の気持ちを伝えたいとの意ですが・・・。

      返事
toitenlabeeさん:私は、顔は良いし、心は綺麗ですが、
    口は悪いで頑張っています。
    toitenさんは、口も悪いで頑張って下さい。

2020/7/19

67-1三条天皇  天皇陵巡り
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 居貞親王(オキサダシンノウ)は第63代冷泉天皇(950〜1011)(在位967〜969)の第2皇子ですし、第1皇子は異母兄の第65代花山天皇です。
居貞親王の母は、摂政太政大臣藤原兼家(929〜990)の長女超子(954?〜982)ですので、冷泉が上皇になってからの子で、母超子は7歳の時に亡くなってるとはいえ、外祖父兼家にも気に入られていたので、11歳の時に4歳年下の従兄弟第66代一条天皇(980〜1011)(在位986〜1011)の皇太子になり、将来の皇位も約束されていました。
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 それから25年、思いのほか長く死の直前まで天皇位だった一条天皇の崩御によって、居貞親王は36歳でやっと第67代三条天皇(サンジョウ)(976〜1017)(在位1011〜1017)になりました。
  この陵も火葬塚も、我が家からは西に行けばよいだけなので、自転車で廻りました。
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 本来なら本家である冷泉天皇系の三条天皇でしたが、この頃では異例の高齢即位です。
幼年の天皇を実現させ、それを外祖父が摂政関白として補佐して実権を握って行くという藤原氏のパターンからすると、外祖父兼家も母超子ももうおらず、そろそろ藤原道長の天下が始まって来たので、天皇に成った時から三条天皇には、譲位の圧力が始まっていた不幸な天皇です。
  百人一首の歌も寂しい無念な歌です。
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 三条天皇には皇太子の時から、藤原済時(ナリトキ)の娘娍子(セイシ)(972〜1025)を入内させていて、敦明親王(アツアキラ)(994〜1051)など4男2女をもうけていました。
 道長が次女の妍子(ケンシ)(994〜1027)を1010年に強引に入内させ、しかも中宮も娍子を差し置いて妍子となりましたが、禎子内親王(テイシ)(1013〜1094)が産まれただけで、皇子は出来ませんでした。
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 三条天皇は眼病にも悩まされ、失明に到ったり、内裏が焼失したりしたので、そんな理由と、道長の早く自分の孫を皇位に付けたいという執念から、三条天皇への譲位要求は強くなり、とうとう三条天皇は息子敦明親王を新帝の皇太子にたてることを条件に譲位し、出家しました。
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 そして1年後、先代一条天皇が火葬されたのと同じこの写真の場所(北区衣笠鏡石町)で火葬され、近くの北山陵(キタヤモノミササギ)(北区衣笠西尊上院町)に葬られました。

       返事
toitenlabeeさん:素直なコメントが書けるようになりましたね。
    私は奈留島に行って良い人間になりましたが、
    toitenさんは歳を重ねて良い人間になってきましたね。
    気をつけて下さいよ! 辛口の方がらしいですよ。
和さん:木村君、TVの神事では先頭でした。
     今でも大学生のアルバイトだと思いますが、
    引きたい人もいるようです。
    小学生の頃に、巡行が終わった後に鉾を元の位置に戻すため、
    少しだけ引いたことはあります。

2020/7/10

66-3一条天皇皇后彰子  天皇陵巡り
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 藤原彰子(フジワラノショウシ)(988〜1074)は藤原道長(966〜1028)の長女ですが、道長22歳の子で当時の長女としては遅めです。
父道長が藤原家の氏長者になったのは、995年の長徳の変で道長兄の道隆系の一族が排斥された以後ですので、彰子が産まれた頃は、藤原氏長者祖父兼家の5男でしかなかった父道長が、ここまで出世出来るようになったとは思えない状況でした。
  写真はいつもの宇治陵総拝所です。
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 第60代醍醐天皇の同母弟敦実親王(アツミ)の3男で左大臣の源雅信(マサザネ)の娘源倫子(リンシ・ミチコ)(964〜1053)が、彰子の母親です。
倫子は24歳で2歳年下の道長と結婚していますが、沢山の子
 長女彰子
 長男頼通(ヨリミチ)(992〜1074)
 次女妍子(ケンシ)(994〜1027)
 5男教通(ノリミチ)(996〜1075)
 4女威子(イシ)(1000〜1036)
 6女嬉子(キシ)(1007〜1025)
と、43歳まで産み続け、90歳まで長生きしたことが、道長の栄華を助けました。
  写真は宇治陵総拝所制札を裏側から見てますが、前を京阪電車宇治線が走ってます。
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 さて今回の彰子ですが、父道長の出世に伴い、幼少期から后かね(キサキカネ)(后になるはずの人)として育てられ、12歳で皇后定子がすでにいた20歳の第66代一条天皇(980〜1011)に入内しましたが、なかなか子は出来ませんでした。
 大叔母安子と村上天皇の間の子である円融天皇が、伯母詮子との間に作った一条天皇との結婚ですので、彰子と一条天皇の間は普通の従兄妹同士よりも血が濃い従兄妹結婚です。
  写真は父道長の墓と言われてる、宇治陵32号です。
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 やっと敦成親王(アツヒラ)(1008〜1036)(後の後一条天皇)を産んだのは彰子20歳の時、父道長はめちゃくちゃ喜んだようです。
続いて敦良親王(アツナガ)(1009〜1045)(後の後朱雀天皇)を産みましたが、夫一条天皇とは彰子24歳で死別しています。
  写真は父道長の建てた宇治木幡にある浄妙寺跡です。
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 息子二人の即位後は国母(コクモ)として、摂関になった同母弟頼通と共に政界に大きな影響力を持ち、39歳で出家し、上東門院(ジョウトウモンイン)と称されました。
 1年後には父道長の死を、その後息子後一条天皇・後朱雀天皇・母倫子・妹嬉子の息子後冷泉天皇を見送って、87歳の生涯を終え、一條天皇皇后彰子として宇治陵制札に並んでいます。
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 定子と同じく彰子のサロンにも、道長の権勢もあって沢山の女官が集まりました。
恋多き情熱の歌人和泉式部。
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 定子サロンの清少納言にライバル心を燃やした紫式部。
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 大弐三位が15歳の時に、母紫式部は亡くなっています。
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 私的には、この中ではこの歌が一番好きですが、85歳まで長生きした赤染衛門。
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 和泉式部の娘で、この歌で藤原定頼をやりこめた小式部内侍。
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 紫式部に替わって、当時は奈良にしか咲いていなかった八重桜の、宮中受け取り役になった時に、歌ったこの歌の素晴らしさに、宮中全体がざわついたという伊勢大輔。
 坊主めくりのお姫さんがたくさん集まったサロンでした。

     返事
和さん:ありがとうございますバースデー
    還暦から12年、又干支が廻ってきました。
    もう一回干支が廻ってくるまで、
    自分で動けて、認知も軽いぐらいで過ごせたら良いのですが。

2020/7/8

66-2一条天皇皇后定子  天皇陵巡り
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 藤原兼家の長男道隆(953〜995)と高階貴子(タカシナノキシ・タカコ)(?〜996)との間に産まれた長女が藤原定子(フジワラノテイシ)(977〜1001)です。
定子の同母兄弟に伊周(コレチカ)(974〜1010)や隆家(タカイエ)(979〜1044)もいますし、母は息子伊周の官職から儀同三司母と呼ばれて、小倉百人一首のこの歌もある才女です。
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 定子と言えば、彰子(ショウシ)(988〜1074)と共に、歴代皇后の中では有名な皇后です。
定子は990年に14歳で3歳年下の第66代一条天皇(980〜1011)(在位986〜1011)に入内し、なんか難しい規約は有るのですが、中宮・皇后になりました。
  今熊野の光孝天皇母の沢子(タクシ)の陵から、泉涌寺の月輪陵に歩いて行く途中に見つけた鳥戸陵参道入り口です。
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 定子の祖父兼家が990年に亡くなり、関白職を継いだ父道隆ですが、5年ほどで995年に亡くなりました。
道隆は息子伊周を関白にたてたかったのですが、これはかなわず、弟の道兼(ミチカネ)(961〜995)が関白になりましたが、道兼も数日で亡くなりました(7日関白)。
  綺麗な参道の石段を登って行くと、見えてきました。
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 この後定子兄伊周と叔父道長(966〜1028)との激しい藤原家氏長者争いは、道長が征して、おまけに、翌年996年に起こった長徳の変で伊周と隆家は罪人に成った為、定子の後ろ盾は全くなくなってしまいました。
  鳥戸陵正面です。
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 長徳の変の時にやっと懐妊していた定子は、髪を切って出家し、その後第1皇女脩子内親王(シュウシ)(997〜1049)を産みました。
 その後伊周も許され、出家の身で又後宮入りは非難されましたが、再び入内し、999年には第1皇子敦康親王(アツヤス)(999〜1019)も産みました。
皇后が産んだ第1皇子にもかかわらず、敦康親王は皇太子にも成ることなく、風雅の道を生きて20歳で亡くなっています。
  石段を下る帰り道、京都タワーも綺麗に見えました。
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 定子は1001年に第2皇女媄子内親王(ビシ)(1001〜1008)を産みましたが、そのお産の姿のまま亡くなったそうです。
 希望に沿って鳥辺野の南の鳥戸野陵(トリベノノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に土葬されました。
この陵は藤原家ゆかりの皇后の火葬塚にもなっていました。
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 なんとなく哀れを誘う定子ですが、高校の歴史や古文で出てきた、定子サロンの清少納言と彰子サロンの紫式部は有名ですね。
 定子と彰子は一条天皇の皇后であり(一帝二后)、ライバル同士だと思ってましたが、二人は会ったことはないのかもしれませんね。
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 鳥戸陵の近くには、宮内庁の月輪陵墓監区事務所もあるので、ここで又陵印を沢山押してきました。
事務所の壁には昔の陵印が押された額が掛かっていましたが、古い陵印の方が変化もあって綺麗です。

      返事
花水木さん:偉い人は昔から火葬もあったようで、
    歴代天皇最初の火葬は、第41代持統天皇と女帝です。
     木村君、能面彫るのも玄人肌ですし、
    京都検定1級に2回も受かってる京都通です。
    高校の成績はボチボチでしたが、私の人間形成には一役以上貢献してます。
    中止の祇園祭の山鉾連合会理事長で、またTVにも出てくると思います
花水木さん2:ありがとうございます。
    誕生日だけ1日お姉さんの花水木さんも、
    遅れましたがおめでとうございます

2020/7/5

66-1一条天皇  天皇陵巡り
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 藤原兼家(929〜990)の娘詮子(962〜1002)が産んだ、第64代円融天皇(959〜991)(在位969〜984)の唯一の子懐仁親王(ヤスヒトシンノウ)は、父円融天皇の譲位で従兄弟の第65代花山天皇が即位した時に、5歳で立太子しました。
  山の上にあった父円融の火葬塚から続く立派な石段を降りて行くと、御陵の裏側に出ました。
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 986年寛和の変(カンナノヘン)で花山天皇を謀略で出家させた兼家は、懐仁親王を史上最年少7歳で第66代一条天皇(イチジョウ)(980〜1011)(在位986〜1011)として即位させ、念願の外祖父の地位を手に入れ、これまた自分の娘超子の産んだ冷泉上皇第2皇子居貞親王(オキサダ)(976〜1017)(後の第67代三条天皇)を皇太子にたて、摂政関白として権力を握りました。
  裏側から陵の前方に廻りこみました。
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 これで藤原北家の氏長者の地位は、師輔(モロスケ)の長男伊尹(コレタダ)や次男兼通(カネミチ)ではなく、3男の兼家が獲ったことになります。
 兼家死後は、自分の長男道隆(ミチタカ)(953〜995)が関白・摂政となり、長女定子を一条天皇の中宮に入れています。
 道隆は亡くなる前に、自分の3男伊周(コレチカ)(974〜1010)を関白に推したのですが、一条天皇自身などの不興もかって、それはなされませんでした。
  空中に浮かぶかのような立派な陵です。
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 道隆に変わって関白に着いたのが、兼家次男の同母弟道兼(ミチカネ)でしたが、わずか数日後に病死し、「7日関白」と呼ばれています。
 こうして次の藤原家氏長者の地位は、国母でもあった同母姉銓子の覚え良かった5男道長(966〜1028)と、長男道隆の息子伊周の争いになりましたが、996年長徳の変(伊周などが花山法皇に弓を射かけた)により伊周の政治生命は絶たれてしまいました。
 拝所の前に立つと、京都市街パノラマの絶景です。
高校同級生で20歳前には天皇陵すべてを廻り切っていて、今年祇園祭山鉾連合会の理事長になって苦労してる木村君(きんすけ)は、ここからの眺めが陵の中で最高だと推薦していました。
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 一条天皇は7歳で即位し32歳で亡くなっていますが、その在位期間は25年の長きにわたりました。
成人するまでの母詮子の政治への介入は仕方がないですが、成人してからは勢力を拡大していく道長との確執もかなりあったようです。
  御陵印には堀河天皇陵ともあります。
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 一条天皇の妃としては5人いましたが、皇后は道隆長女の定子(テイシ)(977〜1001)で、二人の内親王と第1皇子敦康親王(アツヤス)(999〜1019)がいましたが、外祖父道隆亡き後道長と権力争いしていた伊周・隆家も失脚し、敦康親王は結局立太子すら出来ませんでした。
  ここは一条天皇陵と第73代堀河天皇陵を兼ねていました。
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 もう一人の皇后は、道長の長女彰子(ショウシ)(988〜1074)で、道長の期待を背に999年に一条天皇に入内し、一天皇に二后という前例なき事態になりました。
 彰子は10年近く懐妊しませんでしたが、1008年に第2皇子敦成親王(アツヒラ)(後の後一条天皇)を、次の年には敦良親王(アツナガ)(後の後朱雀天皇)をもうけ、道長天下の道筋を作っています。
  火葬塚は別の場所にありますが、そこの制札はパソコン文字。
 下手でもかすれていても、手書きの方が有難味が有ります。
 まあ字に関して、偉そうなことは言えない私ですが。
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 結局、一条天皇は道長の権勢の前には太刀打ち出来ず譲位し、その年に崩御、写真で見てきた立派な圓融寺北陵(エンユウジキタノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュウヤマ))に葬られました。
 火葬塚は金閣寺近くの北区鏡石町に三条天皇と共にあります。
  火葬塚は別の日に自転車で廻っています。

      返事
花水木さん:日本の歴史なんて、
    勝った人の歴史、中央の歴史ですもんね。
    私は地方郷土史家が好きです。
     お菓子も魚も生ものは、
    現地で食べないと美味くないですね。


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