奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2021/1/27

79-1六条天皇  天皇陵巡り
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 第78代二条天皇(1143〜1165)の第2皇子(第1皇子は4カ月年上の尊恵法親王(ソンエ))、順仁親王(ノブヒトシンノウ)の母は伊岐致遠(イキノムネトウ)の娘で、身分も低かったですが、父二条天皇が病弱だったこともあって、わずか2歳で即位し(歴代最年少即位)、第79代六条天皇(ロクジョウ)(1164〜1176)(在位1165〜1168)となりました。
  79・80代の甥と叔父ですが六条天皇と高倉天皇の陵はひっついています
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 しかし平氏一門の権勢を背景とした後白河院政の下では、しょせんは六条天皇は中継ぎですので、5歳にして早くも退位し、替わって後白河上皇の第7皇子が第80代高倉天皇に成りました。
  陵印も79・80代と共通です
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 六条自身は上皇となったのですが(歴代最年少上皇)、元服を迎えることなく妃もまだない13歳で崩御し、清閑寺陵(セイカンジノミッサギ)(東山区清閑寺歌の中山町)に葬られました。
  清閑寺陵は高倉天皇の後清閑寺陵の背側に有るので、近寄れませんし見えません。
隣の清閑寺の石段からズームでで、なんとか木間越しに塀や門がわかるぐらいでした
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 五条通の延長に有る国道1号線の山科に抜けるトンネル手前に、参道の標柱が立っていました。
右の天智天皇陵まではまだまだ遠いですが、今回の陵はここから歩いてすぐです。
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 この辺りは「歌の中山」と言われていて、清閑寺の山道で美女に出会った僧が、俗念を起こしましたが、気の利いた言葉が出てこず、「清水寺へはどう行けばいいのですか?」と聞くのがやっとだったそうです。
美女は「見るにだに まよふ心のはかなくて
      まことの道を いかでしるべき」
の歌を返されたそうです。
 もちろんここで美女には合えませんでしたし、若い時に美女に声をかける機会もなかったわけではありませんが、「今何時ですか?」ぐらいしか聞けなかった私です。

       返事
花水木さん:花水木さんも、
    センサーにめげないで〜
toitennさん:旅行どころか、
    「京都の人は滋賀県に来ないで」キャンペーンしてるので、
    大好きな滋賀県にも行けない生活です。
    こうなったら週末は毎週雨でも良いですよ。
和さん:やっぱりコロナの時代は
    これっ霧!より、これっきり!の方が良いですね。

2021/1/18

78-1二条天皇  天皇陵巡り
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 第77代後白河天皇(1127〜1192)(在位1155〜1158)の第1皇子で、大納言藤原経実(ツネザネ)の娘11歳年上の懿子(イシ)(1116〜1143)を母として産まれたのが守仁親王(モリヒトシンノウ)です。
母懿子は産直後に疱瘡で亡くなった為に、美福門院得子に養育されました。
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 そもそも後白河が天皇に成れたのは、実の子近衛天皇(1139〜1155)が眼病の為夭折したので、守仁親王を次の天皇にしたかった養母の美福門院得子などの働きによるものでした。
したがって父後白河天皇の即位と共に、守仁親王は立太子し、3年で譲位した(させられた)後白河天皇に替わって、16歳で即位し第78代二条天皇(ニジョウ)(1143〜1165)(在位1158〜1165)となりました。
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 二条天皇は祖父鳥羽天皇と美福門院得子との間に出来た、2歳年上の姝子内親王(シュシ・ヨシコ)(1141〜1173)を中宮に迎えましたが、関係は良くなく子にも恵まれていません。
 また、多分藤原忠通の娘藤原育子(ムネコ・イクシ)も中宮となりましたが、二条天皇には早くに先立たれ子は無く、身分の低い伊岐氏の娘に二条が産ませた後の六条天皇の養母となっています。
 又、先々代の叔父にあたる第76代近衛天皇の皇后だった「天下一の美女」と言われていた多子(マサルコ)が、史上初ですが皇后ともなっています。
  参道は住宅街の中に立派な松並木を持ってありました
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 幼帝ではなかった二条天皇は父後白河上皇の院政を嫌い、親政を目指し平清盛とも結んで頑張りましたが、なかなか父には勝てず、病により2歳の息子頼仁親王(ヨリヒト)に譲位して直ぐ、23歳で亡くなり香隆寺陵(コウリュウジノミササギ)(北区平野八丁柳町)に葬られています。
 もう少し元気で長生きしてたら、また違う武家世界になっていたかもしれませんね。
  平野神社に近い住宅地の中にある陵は、だだっ広く開けた感じのする、左大文字も見えそうな明るい陵でした

2021/1/16

77-2後白河皇子以仁王  天皇陵巡り
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 第77代後白河天皇には沢山の妃や、二条・高倉天皇など多くの子もいましたが、天皇に成った子以外、皇后や子供で宮内庁治定陵墓に祀られてるのは以仁王(モチヒトオウ)(1151〜1180)のみです。
  写真は、京都府の南、木津に有る以仁王を祀る高倉神社横の、以仁王墓への入り口です(京都府木津川市山城町)
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 以仁王の母藤原成子(シゲコ)は待賢門院璋子の姪で、後白河天皇の愛も受けて以仁王以外にも、殷富門院の号を持つ亮子内親王(リョウシ)や小倉百人一首の式子内親王(シキシ)など二男四女をもうけていますが、正式な女御にはなれていません。
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 以仁王は後白河天皇の第3皇子で、その母成子の家柄もよく、皇位継承の有力候補でもあるはずですが、異母弟憲仁親王(ノリヒト)(1161〜1181)(後の高倉天皇)の母がなんせ平滋子(ジシ・シゲコ)ですので、その頃の平家の勢いからしても無理でした。
  奈良の興福寺目指して落ち延びる途中に、以仁王はここで流れ矢に当たり落命したので、この地に祀られたようです
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 平清盛の勢いは衰えず、父後白河上皇を幽閉し、高倉天皇も譲位させて、孫である安徳天皇を即位させたため、とうとう以仁王は全国の源氏に令旨(リョウジ)を出して挙兵しました。
しかしすぐに敗れてしまい、加勢した源頼政と共に奈良興福寺を目指して落ちる途中、宇治平等院で頼政は自刃(76歳)したため、写真の宇治平等院中に源三位頼政公墓がありました。
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 三井寺の僧兵で強かった筒井浄妙(ツツイジョウミョウ)も以仁王に従って、宇治平等院の戦いでも宇治川の上で奮戦したようですが、以仁王墓の100ⅿほど南の畑の中にある宮内庁管理の傍塚に、何故か筒井浄妙塚として名を残しています。
 祇園祭の後祭の山に「浄妙山」がありますが、この人形は宇治川で戦ってる浄妙さんです。
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 写真左の塚が筒井浄妙で、右の森が以仁王墓のある高倉神社です。
JR奈良線が通り、まだ田畑が多いこの地を、以仁王一行は逃げ落ちていったんですね。
 以仁王の令旨で源氏が奮い立って武家社会が生れた経過から、それなりに日本史では有名な親王ですので、多分この墓には遺品ぐらいしか入ってないかもしれませんが治定されたのですかね。

 

2021/1/13

77-1後白河天皇  天皇陵巡り
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 第74代鳥羽天皇の上皇時代の第4皇子、雅仁親王(マサヒトシンノウ)は第75代崇徳天皇と同じく、待賢門院璋子を母として産まれました。
異母弟で美福門院得子を母とする第8皇子の第76代近衛天皇が早くに亡くなり、保元の乱に至る勢力争いの中で、本来は皇位に付く立場でもなく、今様に明け暮れていた雅仁親王が第77代後白河天皇(ゴシラカワ)(1127〜1192)(在位1155〜1158)として即位しました。
  三十三間堂の丁度向かいにある法住寺の横に、参道入り口がありました
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 即位後すぐの保元の乱(1156年)を乗り切った後白河天皇は、藤原信西(シンゼイ)を起用し、前評判は悪かったですが、意外と新たに登場した武家の世を上手に渡り歩き、わずか3年にして息子の第78代二条天皇に譲位した後も、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と5代にわたって院政を敷いて、30年以上治天の君として君臨しました。
  制札には、後世の親王の墓の名も揚がっていました
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 即位と共に藤原忻子(キンシ・ヨシコ)が皇后に立ちましたが、子は生れず。
9歳年上の源懿子(イシ・ヨシコ)が産んだのが第1皇子守仁親王(モリヒト)(後の二条天皇)ですが、懿子は産後すぐに疱瘡で亡くなっています。
 また、藤原成子(シゲコ)との間には、以仁王(モチヒトオウ)や式子内親王など2男4女をもうけています。
  参道を直角に曲がると御陵正面に出ますが、お寺形式でした
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 後白河上皇時代35歳の時に20歳の平滋子(ジシ・シゲコ)(1142〜1176)に産ませた第7皇子が、後に第80代高倉天皇になる憲仁親王(ノリヒト)です。
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 平治の乱(1159年)で後白河上皇は平氏と強く結びつき、平家一門は「平氏にあらざらば人に非ず」と言われるぐらいで平清盛の全盛時代になりました。
しかしその平氏打倒の為に諸国の源氏が挙兵すると、後白河は今度は源氏と結びつき、また源氏の中でも頼朝についたり義経についたりしながら、鎌倉幕府が産まれるまで生きて、結構長命の66歳で亡くなっています。
 葬られたのは、平滋子も眠ってる自分が大きくした法住寺の法住寺陵(ホウジュウジノミササギ)(東山区三十三間堂)です。
  後白河陵の南にあるここからは陵には行けませんが、裏に廻ると制札にあった7人の後世の親王墓がありました

      返事
花水木さん:昭和二ケタ生まれの我々は、
    今の後期高齢者より長生き出来そうではないでしょうね。

2021/1/9

76-1近衛天皇  天皇陵巡り
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 鳥羽上皇(1103〜1156)第8(9)皇子の体仁親王(ナリヒトシンノウ)は、鳥羽が寵愛した得子(トクシ)(美福門院)(1117〜1160)を母として産まれました。
すぐに異母兄第65代崇徳天皇(1119〜1164)の皇太子に立ち、父鳥羽上皇は実の子ではないかもしれない第1皇子の兄崇徳を強引に皇位から引きずり落とし、体仁親王がわずか3歳にして即位、第76代近衛天皇(コノエ)(1139〜1155)(在位1141〜1155)になりました。
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 12歳で藤原頼長(ヨリナガ)の養女多子(タシ)17歳が、同じく藤原忠通(タダミチ)の養女呈子(テイシ)20歳が入内し、それぞれが女御→中宮にも成り、競い合ったのが保元の乱の一因にもなっていますが、子はどちらにも出来ていません。
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 近衛天皇は在位の間も父鳥羽上皇の院政下に置かれ、眼病の為にわずか17歳で崩御しました。
 父鳥羽が母得子の為に建てた安楽壽院内の三重塔に、得子は入るのを拒み高野山に葬られたので、替わって1163年に近衛天皇の遺骨はここ安楽壽院南陵(アンラクジュインノミナミノミササギ)(伏見区竹田内畑町)に納められています。
故に近衛天皇陵は、歴代天皇陵では唯一の多宝塔形式です。
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 近衛天皇火葬塚は、天皇陵よりははるか北の、北区紫野花ノ坊町の細い路地の奥にありました。
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 金閣寺にも近いこの辺りは、この頃の皇族の火葬塚も多い所です。
近衛天皇火葬塚は、可愛いですがこんな立派な堀もある塚でした。
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 火葬塚の目と鼻の先に京都ライトハウスが建っています。
我田引水ですがお許しください。
この京都ライトハウスを創立し、初代の館長だった盲人の父と言われてる鳥居篤治郎は、私のなじみ深かった伯父になります。
「盲人は不自由なれど不幸にあらず」と言ってた言葉通り、私の親類では一番心が綺麗な偉人ですが、子供心にも全く盲人感も無く普通の人でした。
その影響か、大学時代私も少しエスペラント語も習いに行きましたが、しょせんは凡人の私、今は全く忘れています。

       返事
花水木さん:確かに、耳が悪くなったのか、
    脳が悪くなったのか、分からないぐらい、
    聞き取り力落ちましたね。
     尿意は老々男女同じで頻回ですが、
    男はくしゃみで漏れる心配はあまりありません。
    その替わり排尿の後に、よく振っておかないと、
    ちょろっと内腿を尿が伝うことはあります。

2021/1/6

75-2崇徳天皇皇后聖子  天皇陵巡り
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 摂政関白太政大臣藤原忠通(タダミチ)と正室藤原宗子(ソウシ)の間の唯一の子、藤原聖子(フジワラノセイシ・キヨコ)(1122〜1182)は7歳で10歳の第75代崇徳天皇(1119〜1164)(在位1123〜1142)に入内し、すぐに中宮にも成りました。
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 摂政在任中に娘が入内したのは80年ぶりのことで、摂関家はこれに依って再興の希望が出ましたが、二人の間に子は出来ませんでした。
  陵からは丁度京都駅も望め、景色は良いです。
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 崇徳天皇と兵衛佐局(ヒョウエノスケノツボネ)との間に第1皇子重仁親王(シゲヒト)(1140〜1162)が産まれると、忠通と聖子親子は不快感をあらわにし、聖子は夫崇徳天皇の異母弟体仁親王(ナリヒト)(後の第76代近衛天皇)の准母となり、近衛天皇即位後は皇太后となって院号も宣下され、皇嘉門院(コウカモンイン)と号してます。
  聖子に仕えた女流歌人の、このラブホテルでの一夜のような歌も、小倉百人一首に有りました
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 保元の乱で父と夫が敵味方に別れ、夫は敗れて讃岐に流されましたが、これには付いて行かず、聖子は出家し60歳で亡くなっています。
 御陵は仲恭天皇九条陵の参道にある月輪南陵(ツキノワノミナミノミササギ)(東山区深草本寺山町)で、さすが摂関家の娘ですので、名ばかりの皇后にしては景色の良い立派な御陵です。

        返事
toitennさん:憎まれっ子・・・・は、
    40年ぐらい前に確か漫才師が言っていたセリフだと思うので、
    座布団の権利は私には有りません。
大雪男さん:高校ラグビーも、
    やっと準決勝から見れるようになりましたが、
    上手になってますね!

2020/12/23

75-1崇徳天皇  天皇陵巡り
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 前回の木星土星大接近の写真にはコメントがなかったので、21日もっと接近したのを家の窓からカメラを三脚で固定して撮りました。
上の土星は、なんとなく土星らしく見えませんか。
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 横道にそれましたが、今回も本題は天皇陵巡りです。
 第74代鳥羽天皇(1103〜1156)(在位1107〜1123)と皇后璋子(待賢門院)との間に産まれた、表向きは第1皇子の顕仁親王(アキヒトシンノウ)(実は曾祖父白河上皇の子?)は、白河上皇の意向に依ってわずか5歳で即位し第75代崇徳天皇(ストク)(1119〜1164)(在位1123〜1141)となりました。
  写真は四国八十八カ所第81番札所白峯寺(シロミネジ)で、境内には巡礼の人々も沢山見られました
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 崇徳天皇は藤原忠通の長女聖子を中宮に迎えましたが、子は生れませんでした。
それで、父鳥羽上皇と得子の間の子で異母弟になる体仁親王(ナリヒト)(1139〜1155)を養子に迎えていましたが、兵衛佐局(ヒョウエノスケノツボネ)の間には重仁親王(シゲヒト)(1140〜1162)が産まれました。
  気持ちの良い石段を登って行くと、崇徳天皇白峯陵(シロミネノミササギ)(香川県坂出市青海町)です
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 これに先立ち、1129年に白河上皇が崩御してからは、崇徳天皇はその後ろ盾を失い、父鳥羽上皇の意向により1141年に無理矢理譲位させられ、体仁親王が第75代近衛天皇として即位しました。
 この近衛天皇が17歳で亡くなると、望みをつないでいた我が子重仁親王ではなく、今度は同母弟の第77代後白河天皇が即位したので、院政をひく望みは絶たれてしまいました。
  香川県の山の上まで来て、又陵印を取りに大阪まで帰れと言うのも酷ですが、まあここまで参拝する人は、陵印はここではもらえないことは知ってるでしょうね
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 白峯寺境内にも崇徳天皇御陵遥拝所が、写真のようにありましたが、御陵もすぐそこでした
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 摂関家でも忠実(タダザネ)の息子忠通と頼長の兄弟同士の権力争いが激しくなり、1156年に父鳥羽上皇が死ぬとすぐに、崇徳と後白河の跡目争いも起こり、
 天皇方;後白河(弟)・関白忠通(兄)・平清盛(甥)・源義朝(兄) 対
 上皇方:崇徳(兄)・左大臣頼長(弟)・平忠正(叔父)・源為朝(弟)の
保元の乱が起こりました。
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 崇徳はこれにあっさり敗れて讃岐に流され、この地で大乗経を書写して京都の寺院に納めようとしましたが、呪いが込められてると阻止されたので、無念のあまり天皇家を呪いながら亡くなりました(殺されたという説もあり)。
  瀬戸大橋が綺麗に見える展望台も近くにあります
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 京都祇園の場外馬券売り場の裏と言うか歌舞練場の裏に、阿波内侍(アワノナイシ)が崇徳の遺髪もらい受けて塚を築き、その霊を慰めたという崇徳天皇御廟があります。
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 明治天皇が京都から東京に出て行く時に、配流されて怨霊になったかもしれない崇徳天皇と淳仁天皇を祀った白峯神宮を建てて出て行ったぐらい、崇徳の霊は天皇家から恐れられていたようです。
 私はこの白峯神宮を見下ろす位置の病院で働いていましたが、今の所大丈夫です。
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 崇徳天皇は百人一首にも一首載せていますが、落語にも「崇徳院」があって、
おちは;鏡が 「割れても末に買わんぞと思う」でした。

        返事
toitennさん:中トロ・雲丹・帆立・ヒラメの刺身が乗ってた後の皿です。
花水木さん:コッペは松葉ガニの雌でセイコガニとも言います。
    クモコはタラの精巣で、こちらでは家庭でも食べます。
     巷では感染者がまた増えてきていますが、
    もう一度クラスターにならないように、注意はしてます。

2020/12/12

94-7鳥羽天皇皇女ショウシ内親王  天皇陵巡り
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 日に章と書くショウシ内親王は、文字化けしてしまうので、ショウシ内親王と書かなけねばならないみっともなさをお許しください。
 ショウシ(1137〜1211)は第74代鳥羽天皇(上皇)(1103〜1156)(在位1107〜1123)の35歳の時の子で、母は皇后得子(1117〜1160)です。
 異母弟に第76代近衛天皇がいます。
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 異母兄第77代後白河天皇の第1皇子第78代二条天皇(1143〜1165)(在位1158〜1165)の生母懿子(イシ)は産後すぐに亡くなっているので、ショウシはその准母となってますし、この二条天皇が23歳で亡くなった時は、女性ですが次期天皇候補にも挙がっています。
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 父鳥羽崩御後、1157年には落飾し八条院となったショウシは、今は京都駅になってる八条院御所で過ごし、父母から譲り受けた広大な八条院領の財力を持って75歳で亡くなりました。
  京都駅構内にある案内所の壁に、八条院御所の跡のプレートが飾ってありました
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 私が産まれた後は空き家になっていた鳴滝の家に、大学時代5〜6年一人で住んでいましたが、京福鳴滝駅はよく利用しましたし、駅前の喫茶店にもよく通っていました。
 なんとその鳴滝駅の目の前に、鳥羽天皇皇女ショウシ内親王墓(右京区鳴滝)があることを50年ぐらい経った今知りました。
若さの無知って恐ろしいですね。
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 車両の色は昔と違いますが、懐かしい京福鳴滝駅についた嵐電です。
反対向いたら墓になります。

遅れた返事
花水木さん:今しばらくは天皇陵巡りだけでお許しください
    もう少しで明けると思います。
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2020/12/9

94-6鳥羽天皇皇女尊称皇后統子内親王  天皇陵巡り
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 統子内親王(トウシ・ムネコナイシンノウ)(1126〜1189)は第74代鳥羽天皇の第2皇女で、母は璋子(待賢門院)(1101〜1145)です。 
幼いころより母譲りか、めちゃくちゃ綺麗だったそうで、幼少期の賀茂斎院を経て、1158年に同母弟第77代後白河天皇(1127〜1192)(在位1155〜1158)の准母として立后しています。
  母璋子の花園西陵を参拝して、近くの東陵を探していると、今宮神社と言う小さな神社があり、さてと振り向いたら、写真のように上にありました
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 准母制度と言うのは、もひとつ理解しがたいですが、後白河天皇はすぐに譲位して上皇に成ったので、統子は母璋子から相続していた仁和寺法金剛院で出家しています。
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  上西門院(ジョウサイモンイン)の院号も与えられ、64歳と比較的長生きした統子は、母璋子の眠る西陵のすぐ近く花園東陵(ハナゾノノヒガシノミササギ)(右京区花園寺ノ内町)に葬られました。
  前の民家を拝むかのような造りになってしまった陵です
 
       返事
花水木さん:40近くなったら、
    息子はだいたい父親に似てきますね。

2020/12/7

74-5鳥羽天皇皇女禧子内親王  天皇陵巡り
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 第72代白河天皇皇后賢子とその二人の娘の葬られてる上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)(伏見区醍醐醍醐山上醍醐寺内)を、今まで3回報告していますが、この制札の如く鳥羽天皇皇女禧子内親王(キシナイシンノウ)(1122〜1133)の墓でもあります。
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 上醍醐陵は今回4回目ですが、もちろん地獄のような登山をしなくてはならなかった上醍醐陵に、4回も登ったわけではなく、1回の参拝の写真で4回分を賄っています。
  写真の上醍醐寺絵図ですが、右上から少し下がった所に白河皇后陵と描かれています
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 ここに何故か賢子にとってはひ孫でしかなく、第74代鳥羽天皇第1皇女で、母は中宮璋子の禧子内親王も葬られています。
  苦労して登ったのに、最後は写真のように、石段を降りなくてはならないのが悩ましいところです
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 禧子内親王は10歳で賀茂斎院に卜定(ボクテイ)され、翌年斎院に入りましたが、すぐに病の為退下し、11歳で亡くなりました。

       返事
花水木さん:私の好みは優しさ、もうこれにつきます。
     花水木さん濃い顔苦手って、落語家の息子さん、
    Youtubeで観る限り、濃い顔ではないですかね。


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