奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2019/7/13

49-7光仁天皇皇子崇道天皇  天皇陵巡り
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 奈良市の東南、山辺の道の北コースに、崇道天皇の八嶋陵(ヤシマノミササギ)(奈良市八島町)があります。
写真の奈良県道188号高畑山線の角を入ってすぐです。
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 早良親王(サワラシンノウ)(750?〜785)の父は光仁天皇で、母は高野新笠なので、第50代桓武天皇の同母弟にあたります。
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 同母兄の桓武天皇の皇太子となりましたが、次期天皇を大伴一族が推す早良親王にするか、藤原一族が推す桓武の息子安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)にするかで起こった、有名な造長岡京使藤原種継暗殺事件の黒幕であると疑われ、皇太子を廃され、乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉されました。
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 早良親王は無罪を訴え断食しましたが、認められずに、淡路島に流される途中に大阪で憤死しました。(それでも遺体は淡路島に流されたそうです)
 その後、替わって皇太子になった安殿親王の病や、桓武天皇妃の次々の死、母の高野新笠までも病死したので、祟りを恐れた桓武天皇は、早良親王を崇道天皇と追称し、この八嶋陵に天皇として移葬しました。
 この御陵はちゃんと土塀に囲まれているし、鳥居もありません。
この方が明治になって出来たような天皇陵より本物らしいです。
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 陵の前には何故かゴロゴロ巨石が残されていましたので、一応写真におさめておきました。
早良親王は死の間際に石を9個投げて、「この石の落ちた所に葬ってくれ」と言われたそうです。
9個の内8個がここで見つかったので、ここに陵を作ったそうです。
 その八つ石がこの写真の石でした。
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 知っていたらちゃんと数えていたのですが、他の写真とも合わせて数えても、はっきり8個は確認できませんでした。
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 参拝したのが年末でしたので、陵の隣の由緒正しそうな家の玄関には門松が立っていました。
奈良の門松は、けっこうにぎやかで楽しいですね。
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 怨霊としても崇道天皇は、菅原道真や崇徳天皇と並ぶ超一流の怨霊ですので、桓武天皇が造営した平安京の鬼門にあたる北東、八瀬に至る道の途中に、崇道天皇だけを祀る崇道神社があります。
 以前紹介した(2018年6月の小野妹子)小野毛人の墓は、この神社の奥の山の中にあります。

       返事
花水木さん:免疫力の低下と共に、
    死が近づいています。
大雪男さん:まあ後はパリーグの試合をのんびり観ます。
     顔の三叉神経領域の帯状疱疹は、珍しくは有りませんが、
    綺麗な顔が台無しなのがつらいです。
    そろそろブログの顔を塗りつぶすのをやめて、
    素顔を出して、読者を増やそうとしていた計画はおじゃんです。

2019/7/10

49-6光仁天皇夫人高野新笠  天皇陵巡り
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 第49代光仁天皇は、突然なるはずもなかった天皇になった天皇で、その理由として、皇后になった井上内親王が聖武天皇の皇女であることや、他戸皇太子もいたことが挙げられます。
 今の9号線老ノ坂峠を越える道より1本ずれて、京都から丹波に抜ける昔の山陰街道が走っていますが、その沓掛(クツカケ)の信号を見ながらもう少し進みます。
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 前回探し歩いて来た時は、こんな大きな石柱と山へ登って行く道を見落として、陵にたどり着けずに帰ったんですよ、信じられないですね。
この先にあるラブホテル群のことばかりが、頭の中を占めていたからでしょうか?
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 近づくと、桓武天皇御母御陵参道とはっきり彫られていました。
井上・他戸が廃された為、光仁天皇の宮人(キュウジン)にすぎなかった百済からの渡来系氏族の娘が産んだ山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)が立太子したので、高野新笠(タカノノニイガサ)(〜790)と高野姓となり、夫人ともなりました。
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 ここからまずまず整備された山道を登ります。
 高野新笠は山部親王以外にも、光仁天皇との間に、先ずは第1皇女の能登内親王を、また弟の早良親王(サワラシンノウ)も産んでいますが、皇后にはなっていません。(この頃皇后になれるのは内親王だけです、藤原一族の例外はありますが)
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 少し息が切れた頃に拝所が見えてきました。
ここは京都の西の端、ここを越えると丹波の亀岡に至ります。
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 光仁天皇皇后高野新笠大枝陵(オオエノミササギ)と書かれた石柱も立っていますが、皇后とはなっていないと思います。
明治になってやっとこの陵を高野新笠の陵と治定したので、この時に無理矢理皇后と付けたのかもしれません。
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 高野新笠は息子が天皇になったので、薨去後に贈皇太后を、孫も天皇になったので贈太皇太后(タイコウタイゴウ)を贈られ、諡号も天高知日之子姫尊(アマタカシラスヒノヒメノミコト)となりました。
 制札を読むと、光仁天皇夫人贈太皇太后天高知日之子姫尊 大枝陵(京都市西京区大枝沓掛町)。
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 夫の第49代光仁天皇陵は奈良の山奥に有りますが、息子の第50代桓武天皇が都を平安京に移したので、その母親高野新笠陵は夫とは遥かに離れた京都の西北になってしまいました。
 ここで明らかに、今の天皇家に繋がる家系に朝鮮半島の民族の血が入ったことに成ります。
今の世の中、もっともっと日韓友好に、このことを活用した方が良いと思うのですが。

       返事
和さん:ありがとうございます。
    今年はインフルエンザにも罹患しましたし、
    自転車で転倒した肘はまだ痛く、傷も変色して残ってます。
    そして71歳の誕生日には、
    左目周囲や眉間・鼻尖に帯状疱疹が出来て、
    唯一自慢の顔が、ミニお岩さん状態です。
    そろそろ私の免疫力も低下してきて、
    誕生日は冥土の旅の一里塚になってきたようです。
花水木さん:ありがとうございます。
    私より若い女性二人から誕生日を祝福してもらったので、ブログもし甲斐があります。
     大阪の御陵の周囲には、洗濯物がひるがえってる所もたくさん有ります。
大雪男さん1:ありがとうございます。
    男の人の祝福も、それなりにうれしいです。
    拓郎さんは心配ですが、陽水さんが逝ったら、いよいよ自分の番と思うでしょうね。
     もう今年は完全に終わりましたね。
    広島と最下位争いをしましょう。
    でもこれでのんびりと勝敗にこだわらずに野球観戦が出来ますよ。
    (毎年そうですが)

大雪男さん:下の画面までスクロールして押したら、
    元のPC画面になりました、さすが!ありがとうございます。
    でも今度は、元のスマホ画面は出なくなりました。
    まあいいか。

2019/7/7

49-5光仁天皇皇太子他戸親王  天皇陵巡り
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 秋の奈良県五条市、前回49-4井上内親王の宇智陵をやっと見つけた後、そこから広い車道を下って行きます。
向こうに見える小さな森が目的地です。
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 この柿畑とお墓の間の森が、井上内親王が45歳の高齢出産で産んだ(養子説もありますが)白壁王との間の息子、他戸親王(オサベシンノウ)(761〜775)の墓です。
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 車では行けないと思って、丘の下に車を停めて、家内に車で待っていてもらい、歩いて探したのですが、ここも広い道だったので、車で行った方が楽でした。
ただ入り口は柿畑の中に、小さい看板だけなので、見落としがちです。
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 父親の白壁王が60歳を過ぎてから突然予期せぬ第49代光仁天皇になったので、11歳で皇太子になりましたが、母の井上内親王(皇后)が夫である光仁天皇を呪詛したという罪で皇后を廃され、これに連座して他戸親王もわずか数カ月で皇太子を廃されました。
 柿畑の中の参道を登って行きます。
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 あげくの果てに母親と共に庶人(ショジン)に落とされ、母と共にここ五条に幽閉された後、母と同じ日に死んでいます(ほぼ殺されています)。
藤原一族のこれまた陰謀でしょう。
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 この母子の死後、天地異変が相次いだので、怨霊となることを恐れた桓武天皇などによって、立派な墓を母親の陵から500mほどの所に与えられました。
  光仁天皇皇太子他戸親王墓(奈良県五条市御山町)

 仁徳天皇陵などが世界遺産に登録されました。
めでたいとは思いますが、仁徳天皇陵すぐ横のラブホテルはどうなるのでしょうか。
これを機会に少しは天皇陵を発掘していただければ嬉しいのですが。

      返事
じょんのびかあさんさん:私のスマホ画面も、
    PC画面でしたが、1カ月前ぐらいから替わってました。
    これをスマホ画面と言うのですね。
    なぜこうなったかわかりませんし、元のPC画面に戻すことも出来ません。
     8月18日(日)堀川同窓会あります、
    参加ご希望ならまたN君に連絡してください。
    参加で花を添えてくれるなら嬉しいです。
タグ: 天皇陵 五条市

2019/7/3

49-4光仁天皇皇后井上内親王  天皇陵巡り
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 第45代聖武天皇には、皇后として光明子がいましたが、夫人もいて、その夫人である県犬養広刀自(アガタイヌカイノヒロトジ)との間にも3人の子供をもうけています。
今回の主人公井上内親王(イノエナイシンノウ・イガミナイシンノウ)(いのうえと読みません)(717〜775)と、妹の不破内親王(フワナイシンノウ)【夫の塩焼王は恵美押勝の乱で仲麻呂と共に殺されていますし、息子の氷上川継(ヒカミノカワツグ)が謀反を起こそうとした罪で流罪になった時に、自身も淡路に流されてます】と、45−4でも紹介した弟の安積親王(アサカシンノウ)【権勢を誇っていた頃の仲麻呂(恵美押勝)に毒殺された可能性大です】のあまり幸せでない最後の3人です。
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 井上内親王は聖武天皇の第1皇女でしたが、11歳で斎王として伊勢に下向、弟の安積親王が死んだので、30歳で斎王を解任されました。
帰ってから白壁王(後の第49代光仁天皇)の妃になりました。
38歳で酒人内親王(サカヒトナイシンノウ)を産み、なんと45歳の高齢出産で他戸親王(オサベシンノウ)を産んでいます。
当時としてはあまりにも高齢出産なので、他戸親王養子説(誰からもらったかは知りませんが)もあります。
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 そうしてなんと夫の白壁王が60歳(62歳)で第49代光仁天皇となったので(父聖武天皇の血を引く自分が妃であったことと、息子もいることが有力な理由でもありますが)、井上内親王も54歳で皇后になり、翌年には息子他戸親王も11歳で皇太子になりました。
このまま他戸親王が次期天皇になったら、天智系男系と天武系女系が合体した最強天皇になるはずだったのですが。
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 他戸親王を推していた藤原北家の永手(ナガテ)が死に、式家の百川(モモカワ)らの陰謀だと思われますが、773年に夫の光仁天皇を呪詛(ジュソ)したなどの言いがかりを付けられて、井上内親王は皇后を廃され(翌年には他戸親王も皇太子を廃され)、奈良の南五条市辺りに幽閉されてしまいました。
775年には井上内親王と他戸親王は、二人同日に亡くなっているので、多分殺されたのでしょうね。
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 五条市にあるこの宇智陵(ウチノミササギ)(奈良県五条市御山町)は、ご当地名産の柿畑の中にありました。(丁度大売出し中の柿農家の販売所の横)
最初は墓でしたが、二人の死後天地異変が続いたので、怨霊を恐れて再び皇后の身分に復帰させ陵としたようです。

      返事
花水木さん:実車講習は京都も三人一組でした。
    静岡は前進で縁石乗り上げのようですが、京都はバックで乗り上げ、お国柄?
     全くのペーパードライバーの人も上手に運転してました。
    「なんで今更更新?」と尋ねたら、「もうじき田舎岡山に帰るので必要」とのことで、
    納得しました。
     毎日のように高齢者の運転事故が報道されてるので、
    緊張して運転するようにはなりましたが、安全運転しすぎて、
    これはこれで怖い時あります。

2019/6/20

49-3光仁天皇御母紀橡姫  天皇陵巡り
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 紀橡姫(キノトチヒメ)(〜709年10月21日)なんていっても、ほぼ皆さん知りませんよね。
前回の天智天皇第7皇子志貴皇子(後の春日宮天皇)の妃となって、難波女王と白壁王(後の第49代光仁天皇)を産んだ人です。
 光仁天皇の産まれたのは709年11月18日と伝わってるので、橡姫は光仁天皇を産んですぐに亡くなったといわれていますが、産む1ヶ月前にはもう亡くなってることになるので、単純ミスですかね。
まあそれでも、死んでから60年以上も経って、自分の産んだ息子が天皇になってしまったので、即位の翌年には皇太后を追贈され、光仁天皇御母贈皇太后橡姫として、吉隠陵(ヨナバリノミササギ)【奈良県宇陀郡榛原(ウダグンハイバラ)】に葬られました。
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 さてこの吉隠陵、長谷寺と室生寺の間ぐらいのえらい山中にあります。
国道165号線から登って行くと、えらく大変だったとの訪問記事を読みましたので、鳥見山公園に行く道路(車の離合が難しい所もある道ですが)を車で登り、この浄水場辺りの少し広い所に車を停めて、家内には車で待ってもらって、この道路標識に従って山道に入りました。
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 雨が降ったら水が流れるような滑る山道を、道を間違えないように、熊や猪が出たらどうしようと思いつつ、やや息を弾ませて、15分ぐらい一気に登って、やっと参道途中の石段に到着。
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 165号線の正面から登ると、何とかこの石段にたどり着き、更にこの石段を250段登るそうですので、この見下ろした石段を降りて、石段の始まりを見るのはやめておきました。(怖がりの私には寂しすぎでもありましたし)
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 本当に山の中にあります。
なんでこんな所と思いましたが、特に紀氏の地元でもないようですが、まあ昔は奈良から伊勢へ抜ける道の途中なので、日本の中でのここの地位は今よりずっと高かったとは思いますし、夫の春日宮天皇陵や息子の光仁天皇陵から、山は何個か越えますが、ほぼ真南の方向になります。
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 だいたい吉隠(ヨナバリ)なんてなかなか読めませんし覚えられませんが、隠(ナバリ)は近くに名張市(ナバリシ)があるので、ナバリの元の漢字かなあと、憶えました。
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 明治も半分すぎてやっと、この陵を宮内庁は治定したようですが、ここの山の草を牛馬に与えても食べなかったのが、治定の根拠になったという、なんとも言えない理由だそうです。
 天智ー光仁ー桓武と、今の天皇家に直接つながる元になった母なので、身分は低くても、明治政府もほっとくわけにはいかなかったのでしょうね。

       返事
花水木さん:前回・前々回の親子二つの天皇陵は、
    そっくりでしたね。
    それでなくても同じような写真ばかりですみません。
    色々工夫はしてるつもりなのですがね。
     「頑迷」なんて言葉はないのか、心配しましたが、
    調べて有ってほっとしました、よく使ってましたので。

2019/6/17

49-2光仁天皇父志貴皇子  天皇陵巡り
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 国道に面した拝所入り口から、長い直線の参道が続きます。
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 切通のような、両側に石垣のある部分も通り抜けます。
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 木々の間も抜けて下がって行くと、御陵が見えてきました。
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 息子の第49代光仁天皇陵とよく似た感じの陵ですが、それもそのはず、両陵共に奈良の東、若草山の向こう側の田原地区にあります。
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 志貴皇子(施基親王)(シキノミコ)(〜716年)、母は越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ)で、父は第38代天智天皇ですが、母の身分も低く第7皇子でもあるので、壬申の乱(672年)後も皇位を狙うこともなく、天武朝の中でひっそりと生きていたようです。
 吉野の盟約《第40代天武天皇が、皇后(後の第41代持統天皇)との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であることを他の皇子達に誓わせ、異母兄弟同士や従兄弟同士が争わないようにさせた会議》にも末席ですが出席し、大津皇子のように皇位争いに巻き込まれて殺されることもなく過ごせたのは、志貴皇子に能力がなかったのか、若すぎたのか、権力争いが好きでなかったのか・・・・。
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  石走る 垂水(タルミ)の上の さわらびの
     萌え出づる春に なりにけるかも
 なんとなく授業で習ったようなこの万葉和歌、リズム感が良いので憶えやすく、私のような素人の心も捕えますね。
この作者が志貴皇子ですので、主に文化人として過ごしていたのと違いますかね。
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 志貴皇子の死後50年以上経って、紀橡姫との間の息子白壁王(6男)が突然第49代光仁天皇として即位したので(770年)、あわてて春日宮天皇(カスガノミヤ)の追尊を受け、この田原西陵(タハラノニシノミササギ)(奈良市矢田原町)に葬られています。
 父親が天皇でない天皇は、皆少なからずコンプレックスを持っていたのかもしれません、光仁天皇は自分の陵と同じくらいの同じ感じに、父の陵をしています(本当に息子光仁が作ったのかは不明ですが)

      返事
大雪男さん:阪神まだまだ実力不足です。
    パのチームが交流戦でもっともっと巨人を叩いてほしいのですが。
花水木さん:図にはしたいのですが、
    パソコンで図や系図を作れない私です。
     先週は同級生と四国に帰った同級生を訪ねましたが、
    私含め参加4人とも、年とって頑迷になっています。

2019/6/12

49⁻1光仁天皇  天皇陵巡り
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 第41代持統天皇は、夫である第40代天武天皇が推し進めた皇親政治を継続すると同時に、自分の息子草壁皇子を絶対に後継ぎにしようと画策しましたが、草壁皇子の死によりその夢は潰えました。
その後は直系孫の第42代文武天皇に、そしてひ孫の第45代聖武天皇にと、策をめぐらしました。
この為には、皇親政治を続けると、皇位を狙う天武天皇の皇子たちが高い地位にいることに成るので、皇親政治とは一線を画しても、天智天皇の死や壬申の乱で一旦途絶えそうになった藤原一族の鎌足の子不比等を登用し、外戚にすることによってまでも、他の天武皇子を排斥し続けました。
 写真の陵は、奈良の東の山の向こうにある田原地区の、田んぼの中にあります。
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 陵へ続く一本道、やはり御陵は住宅地のそれこそ民家の洗濯物がひるがえってる横にあるよりも、この方が良いです。
 天武・持統の血は、直系ひ孫の聖武天皇が丈夫な男の子に恵まれなかったし、天然痘で一時はほぼ壊滅した藤原一族の中でなんとか権勢を盛り返した不比等の孫で南家の仲麻呂が、恵美押勝の乱を起こして、天武天皇直系の孫たち(淳仁天皇・塩焼王・道祖王など)と共に消滅しました。
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 静かにたたずむ陵正面。
訪問時の天気もぴったりな感じです。
 大将を失った藤原家ですが、なんとか北家の永手(ナガテ)や式家の百川(モモカワ)などが協力して、孝謙天皇が亡くなるやいなや、天智系の白壁王(シラカベオウ)を皇太子にたて、その令旨(リョウジ)を持って道鏡を追放し、2カ月後には白壁王を即位させました。
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 白壁王は第38代天智天皇の第7皇子である志貴皇子(シキノミコ)の6男で、変に皇位争いに巻き込まれて殺されたりしないように、酒を飲んで行方をくらましたりして、自分は皇位などを望んでないことを示し続けていたようです。
この皇位に対する消極的な姿勢と、聖武天皇の皇女である井上内親王を妃としていることが、外戚ではないですが、藤原一族が結束して白壁王を推した理由のようです。
 第49代光仁天皇(コウニン)(在位770〜781)として即位したのは、平成天皇の55歳、今回の今上天皇の59歳即位よりも高齢の60歳(62歳?)でした。
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 光仁朝も皇位継承はやはりもめて、井上皇后・他戸親王(オサベシンノウ)は廃され、山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)を皇太子にした後に譲位し、間もなく崩御してこの田原東陵(タワラノヒガシノミササギ)(奈良市日笠町)に葬られました。
 こうして、皇統から天武系は無くなり、天智系がこの光仁から復帰して、今の天皇家に繋がってることになっています。

       返事
大雪男さん:明日は私も高齢者教習(合理化講習)を受けます。
    教習所(家のほんまに隣です)からは、わざわざ予約確認の電話が今入りました。
     阪神ムードは良いので、夏にはもしかしたら開花も・・・・。
花水木さん:ここで決起した天誅組にかけたグミなので、
    思わず買ってしまいましたが、味は普通のグミでした。
     私は本当にケッセラ〜セラな〜るようになると生きています。

2019/5/24

48-1称徳天皇  天皇陵巡り
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 光明皇太后が亡くなり、藤原仲麻呂はますます自分だけへの権力集中をはかった結果、孝謙上皇や藤原氏の他の家の人々からも反感を買い、焦った仲麻呂は764年に恵美押勝の乱をおこし、予想外にあっけなく敗れ、琵琶湖の西の高島で斬殺されました。
 (いくら準皇親化した藤原氏であっても、しょせんは臣下、皇権にとって替わろうとしたら滅びることを、藤原一族は身を持って経験し、以後良き教訓としたようですね。)
 こうして恵美押勝の乱を平定した孝謙上皇は、第47代淳仁天皇を廃して、自分は重祚(チョウソ)して第48代称徳天皇(ショウトク)(718〜770)(在位764〜770)となりました。
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 日本で2回天皇の位についたのは(重祚)、皇極・斉明と孝謙・称徳の2人だけで、いずれも女帝です。
皇極・斉明の陵もそうでしたが、陵の制札や陵印にはいずれも後の方の名称(斉明と称徳)の名前しかありませんでした。
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 称徳天皇の治世において、なんといっても有名なのは、独身であった称徳女帝の病気を治してくれた、しかも私が羨ましく思うような一物を持っていた道鏡との仲です。
政敵の実力者をどんどん潰していった持統天皇から藤原仲麻呂までの為、政界の実力者不足もあってか、道鏡はどんどんその地位を上げて行ってます。
後ろ盾になっていた父や母(聖武天皇と光明皇后)が死に、支えてくれていた藤原一族の頭の反乱もあって、一人女で天皇の地位を守って行く道は、結局男道鏡に頼ることしか出来なかったのか・・・。
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 最後、「道鏡が王位につけば天下が泰平になる」という神託までもらえたのは、二人の周りに群がった人々の忖度の結果かもしれません。
 しかし、この証明に派遣された和気清麻呂(ワケノキヨマロ)が、宇佐八幡宮から「臣下を君主には出来ない、皇統の人をたてよ」という反対の神託を貰ってきたので、道鏡が皇位につく野望は潰えました。
 清麻呂が宇佐八幡宮に行く道中を猪が助けたので、亥年の今年は初詣でにぎわい、私も本殿には行けなかった京都護王神社の境内に立つ清麻呂です。
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 こうして、第40代天武天皇から始まった皇親政治は、第41代持統天皇が息子や直系の孫を天皇位につけようと、ライバルである皇統を次々と葬り、その分藤原一族が準皇親化し力が強くなりましたが、第45代聖武天皇が男の子に恵まれなかったために、天武系はこの第48代称徳女帝で途絶えてしまうという結果になりました。
 孝謙・称徳と2回天皇位についた未婚の女帝は、770年に亡くなり、この高野陵(タカノノミササギ)(奈良市山陵町)に葬られています。
 昔NHKのドラマで、この女帝を石原さとみがやったと思うので、書いてる時になんか石原さとみのコマーシャルが浮かんで困りました。

2019/5/20

47-3大夫人山背  天皇陵巡り
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 当麻山背(タイマノヤマシロ)は前回の舎人親王の何人かの妃の一人で、733年(舎人親王は57歳ぐらい)に第7皇子になる大炊王(後の淳仁天皇)を産んでいますが、その時に当麻山背が何歳だったかは不明です。
 息子の第47代淳仁天皇の淡路島の陵から少し歩くと、いかにも陵らしい写真の丘が見えてきました。
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 それから25年経った758年に、急に我が息子が天皇になってしまいましたので、天皇の母として大夫人(オオミオヤ・ダイブジン)と尊称されるようになりました。
とっくの昔に死んでいた夫の舎人親王も759年には、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号されたので、追尊天皇崇道尽敬皇帝妃大夫人山背(ツイソンテンノウスドウジンキョウコウテイヒダイブジンヤマシロ)となったのです。
 小山の頂上まで、真っ直ぐの石段がのびていました。
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 ただし、淳仁王朝を完全に支配していた藤原仲麻呂が764年に恵美押勝の乱をおこし、あっけなく孝謙上皇方に負けてしまいましたので、息子の淳仁天皇も捕えられ、親子して淡路島に流されてしまい、当麻山背はその後消息不明です。
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 息子淳仁天皇はその後殺されたようなので、母もその時一緒に殺されてる可能性大です。
でも墓は息子の陵に近い所に淡路墓(アワジノハカ)として作られていますが、多分あと付けの様な墓だと思います。
遠い淡路まで、宮内庁の目が行き届いていないのか、制札は新しいですが、字自体は子供が書いたような感じです。

      返事
花水木さん:昔の嫌なことを夢に見ることはあります。
    辛いですが、それでも前向きに生きてるほうだとは思ってます。
    自分のことを忘れるのは良いのですが、歌の文句ではないですが、
    自分のことを忘れられるのは辛いですね。

2019/5/17

47-2舎人親王  天皇陵巡り
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 舎人親王(トネリシンノウ)(676〜735)、その名前は太安万侶と共に日本書紀を編纂したとして、教科書にも名前が挙がっているので有名ですね。
 菖蒲の節句発祥の地らしい京都藤森神社は、菖蒲→勝負に通じていたり、5月5日の藤森祭で曲乗りの駈馬神事(カケウマシンジ)が行われることからも、競馬の勝負運の神様として、私も少しは頼りにしている神社です。
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 藤森神社のの祭神として、日本書紀を編纂したので日本最初の学者とされる舎人親王もあがっています。
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 舎人親王の父は天武天皇で、母は天智天皇の娘新田部皇女(ニイタベコウジョ)ですので、血統的には申し分ありません。
第40代天武天皇の沢山いる息子の中では、一番最後まで行き残り、天武系の皇親政治を補佐するとともに、やや藤原氏寄りの政治活動もしてきました。
当麻山背(タイマノヤマシロ)との間に、第7皇子として大炊王をもうけたのは、死ぬ3年前の55才過ぎです(すごい!)。
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 舎人親王の死後20年以上経ってから、息子の大炊王が思いがけずに第47代淳仁天皇に成れたので、天皇の父として崇道尽敬皇帝(スドウジンキョウコウテイ)とすごい名前の追号を貰っています。
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 黄金塚陵墓参考地(コガネズカリョウボサンコウチ)(奈良市田中町)として宮内庁が舎人親王の墓(陵)と定めた、ここ奈良の平城京の東南の山すそですが、発掘調査では舎人親王の時代より100年ぐらい前の時代の墓の様で、正式名帯解黄金塚古墳(オビトケコガネズカコフン)です。
入り口を探すのに苦労して歩き回りました、このなんの目印もない脇道を入っていった所にありました。

     返事
花水木さん:心が折れたことも、もう忘れてしっまてる。
    これが年寄りの良い所です。
数さん:和さんの変換間違いでしょうね?
     賀茂川土手の木々の間を抜ける行列は、
    街中で観るより気持ち良かったです。


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