奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2019/12/21

53-3淳和天皇皇子恒貞親王  天皇陵巡り
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 前回のブログはお母さんの正子内親王、前々回のブログはお父さんの第53代淳和天皇、すなわち第50代桓武天皇の女孫と皇子にあたる両親から生まれたのが、今回の淳和天皇皇子恒貞親王(ツネサダシンノウ)(825〜884)です。
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 前回の母親の正子内親王の円山陵墓参考地が北嵯峨高等学校のグランドの裏側、大覚寺寄りにあったのに比べて、恒貞親王の入道塚陵墓参考地(右京区嵯峨)は対角線上の北嵯峨高等学校正門横にあるということでした。
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 高校の石垣の塀の角がその入り口ですが、この奥に墓がありそうには思えませんし、正門前におられた高校の先生らしき人に尋ねて、やっと行きつくことが出来ました。
北嵯峨高等学校はこの親子の墓を避けるようにして建設されたようですね。
正式名は入道塚古墳です。
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 高校の石垣と田んぼの間に、その塚と言うか墓が見えてきました。
 恒貞親王は従兄にあたる第54代仁明天皇の皇太子に立ちましたが、仁明天皇の女御になった藤原冬嗣の娘で良房の同母姉でもある藤原順子(フジワラノノブコ)が道康親王(ミチヤスシンノウ)(後の第55代文徳天皇)を産んだので、その地位は微妙なものになりました。
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 他戸親王・早良親王・伊予親王・高丘親王・恒世親王と、この50年ぐらいの間に、次期天皇の有力候補であった親王が、皇太子を廃されたり、殺されたり、潰されたりしているので、父の淳和上皇も恒貞親王本人も、たびたび皇太子の辞退を申し入れては、其の度毎に慰留されていました。
しかし最後は結局、淳和上皇・嵯峨上皇が次々と崩御するとすぐに、承和の変(842年)で廃太子されてしまいました。
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 藤原冬嗣と橘嘉智子の首謀した承和の変ですが、恒貞親王は命を取られることはなく、母正子内親王と共に間もなく出家し、恒寂入道親王(コウジャクニュウドウ)として写真の大覚寺を開創しています。
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 母正子内親王が亡くなって5年後の884年に60歳で亡くなったのですが、その直前第57代陽成天皇が退位する時には、次の天皇への即位要請の話があったようですが、意地もあったのかこれを拒絶して静かに亡くなられたようです。

      返事
花水木さん:肉親はなかなか許してくれませんね。
     年賀状は書き終わりましたが、
    もうあと10日ほどでお正月ですね。
    良いお年を!
    来年も楽しいコメントお願いいたします。

2019/12/18

53-2淳和天皇皇后正子内親王  天皇陵巡り
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 大覚寺の南、嵯峨野の畑や田んぼの中に、京都府立北嵯峨高等学校は建っています。
私の青年時代には、まだこの高校は出来ていませんでした。
 正子内親王(マサコナイシンノウ)(810〜879)の父は第52代嵯峨天皇で母は皇后橘嘉智子で、後に第54代仁明天皇となる正良親王マサラシンノウ)と双子だったと考えられています。
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 北嵯峨高等学校の北西のグランドの端に、この正子内親王の円山陵墓参考地があるというので捜しましたが、こんな目立たない狭い入り口の向こうに、なんとか制札らしきものが見えたので、たどり着けました。
 天皇に成ったばかりで叔父でもある第53代淳和天皇に入内、恒貞親王(ツネサダ)(825〜884)・基貞親王(モトサダ)(827〜869)・恒統親王(ツネムネ)(829〜842)を産んで、皇后ともなっています。
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 夫の淳和天皇が譲位し、正子内親王の双子の片割れの同母兄正良親王が第54代仁明天皇として即位し、息子の恒貞親王がその皇太子に成りましたが、夫の淳和・父の嵯峨も亡くなった後、承和の変(842年)で息子恒貞親王が廃太子されたために、この陰謀を藤原冬嗣と共に首謀した自分の母親嘉智子を激しく恨んだと言われています。
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 別に柵もないので、そのまま少し陵を廻ってみましたが、丁度掃除に来ていた宮内庁の職員らしき人に、「あまり入らないでください」と言われたので、外に廻り住宅の方から眺めるだけにしておきました。
 正子内親王は承和の変後出家し、父嵯峨が過ごしていた嵯峨院を大覚寺と改めたり、仏の世界に身を置いて30年以上過ごし、70歳で亡くなりました。
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 このため、正子内親王の御陵とされる円山陵墓参考地(大覚寺円山古墳)(右京区嵯峨)は、大覚寺の目と鼻の先のここにあるのです。

2019/12/14

52-1淳和天皇  天皇陵巡り
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 今年の8月の暑い土曜日、天皇陵巡りで一番きついと書かれている淳和天皇の大原野西嶺上陵(オオハラノニシノミネノエノミササギ)(京都市西京区大原町小塩山山頂)に、そろそろ行く順番が廻ってきたと考えて、行ってきました。
バスで近くまで行ってから、この地図の赤色の現在地から、左のくねくね道を登って、左青字で書かれた御陵を目指します。
 今回12月になってやっと順番が淳和天皇まで廻ってきて書いているので、こんな暑い日に行くことは全くなかった気がします。
   えらい目に遭いました!
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 このくねくねした小塩山山頂に到る道を、車で登れたらどうと言うことはないのですが、何故か麓で道は通行止めになっていました。
山頂まで6kmの車道の登り、往復すると約12Km、それにバス停までの往復4Kmを合わせて16Km、6時間ぐらいかかった徒歩の旅でしたので、多分軽い熱中症になっていましたね!
   馬鹿でした!
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 この道、途中は時々視界が開けて、京都南部が見渡せますが、夏の暑い日と言っても、ほとんどはなにも見えない木陰の道です。
それでも35℃ぐらいあった暑い夏の日、ふらふらとぼとぼと登って行きました。
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 途中一カ所だけ清水の流れてる水場があって、おもいきり冷たい水をやかんからかぶりました。
帰りには持って来てた水も切れたので、かぶる以外にその水も飲まずにおれませんでした。
この日は地域の人が軽トラで上がってきていて、道路の清掃をされていたので、まあ熊は出ないだろうと、それだけは安心でしたが、「上に行くなら荷台に乗って行くか」との声はかけられませんでした。
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 やっとこの参道入り口に到着です。
大伴親王(オオトモシンノウ)は、786年に桓武天皇と藤原式家の百川(モモカワ)の娘旅子(タビコ)との間に産まれた第7皇子ですが、母の旅子は大伴の2歳の時にはもう亡くなりました。
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 大伴親王は異母妹(母は乙牟漏)である高志内親王(コシナイシンノウ)(789〜809)を妃に迎え、恒世親王(ツネヨシンノウ)(805〜826)と3人の皇女をもうけています。
ここでも、この恒世親王は母親の身分が高いので、皇位継承権も高位となり、このため父親の大伴親王の皇位継承まで認めなければならない事体になりました。
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 異母兄第52代嵯峨天皇が即位してすぐの810年薬子の変が起こり、廃太子された第51代平城天皇皇子高丘親王に替わって大伴親王が皇太子にたてたのは、恒世親王が産まれてたことがあったと考えられます。
しかし、恒世親王は22歳の若さで亡くなってしまいました。
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 823年には嵯峨天皇は譲位して上皇となったので、皇太子であった大伴親王は第53代淳和天皇(ジュンナ)(786〜840)(在位823〜833)に成り、嵯峨上皇の息子正良親王(マサラシンノウ)を皇太子にたてました。
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 この正良親王と双子だったと思われる正子内親王(810〜879)を、淳和天皇は皇后として迎え、恒貞親王(ツネサダシンノウ)(825〜884)など3人の皇子」をもうけています。
 嵯峨・淳和兄弟の治世は、仲良く安定した治世だったと言われていますが、これは淳和天皇の謙虚で温和な性格がもたらしたのかもしれません。
まあその裏では、藤原冬嗣(775〜826)の台頭と藤原北家の一人勝ちのスタートが切られていたようです。
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 833年には譲位して、甥の正良親王が第54代仁明天皇に成りましたし、息子の恒貞親王はその皇太子にも成れましたが、権力争いに巻き込まれることを恐れて、息子の立太子には辞退をし続けていたようです。
(実際淳和・嵯峨の死後に、ほぼ藤原冬嗣陰謀に依る承和の変が起こりました)
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 淳和天皇は薄葬を望まれ、天皇としては異例の散骨という形でこの山の上から骨を撒かれたようで、それでこんな苦しい思いをして登らなければならない小塩山頂上に、後日御陵が出来たようです。
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 あまりのしんどさと、熱中症で運ばれるギリギリで地上に生還し、なんとか地下鉄駅までたどり着いたので、お祝いにパフェを食べて御陵巡りを終わりました。
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 淳和天皇の火葬塚は麓の平たい所で、少しは迷いましたが以前簡単にたどり着けた、向日市物集女(モヅメ)の畑と住宅地が混ざり合った所にありました。
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 散骨されたために苦労して苦労してたどり着いた淳和陵、淳和天皇が散骨を願ったのは、自分の治世中に地震がたびたび起こり、地震を起こすもののけは桓武天皇や高志内親王の陵墓から現れているようで、「自分の遺体が墓に残ってると、それにもののけが付いて祟りを起こすので、自分の骨は砕き粉にして山の中にまき散らせ」と言っていたためだそうです。
タグ: 天皇陵 小塩山

2019/12/7

52-3嵯峨天皇皇女有智子内親王  天皇陵巡り
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 島から戻って最初の元旦、嵯峨野を二人でブラブラした時の写真です、左に御陵らしき森と鳥居、右に見える藁ぶき屋根が落柿舎(ラクシシャ)です。
長崎生まれで芭蕉の弟子、蕉門十哲の一人向井去来(ムカイキョライ)の別荘が、この落柿舎です。
(庵周囲の柿が、一夜にして全て落ちたので、この名があります)
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 ブログを始めた頃に、島から訪れた長崎市内にある、坂本龍馬も遊んだ有名な料亭「花月」の入り口に、向井去来の句碑があって、この写真も掲載し紹介したことを思い出しました。
(10年以上前の若き?私の姿ですが、まだこのシャツやズボンを着てると思います)
    いなずまや どの傾城の かりまくら
 色っぽい俳句なんですかね
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 この左の陵墓が、嵯峨天皇第8皇女の有智子内親王(ウチコナイシンノウ)(807〜847)の墓(右京区嵯峨小倉山)で、母は交野女王(カタノノジョオウ)です。
 なんでこんな墓が残ってるのかと言えば、
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 810年薬子の変の時に、「勝てば私の娘を賀茂大神に捧げる」と、嵯峨天皇は祈願したので、勝利後初代賀茂斎王(イツキノヒメミコ)として4歳の有智子を任命しました。
(現在の葵祭では一般人を斎王代として選んでいます)
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 また、嵯峨天皇の多数の皇子女の中で、有智子内親王は文才に恵まれ、数少ない女性漢詩人でしたので、墓が残るそれなりの理由はある内親王だったようです。

    返事
花水木さん:「灯台下暗し」で、
    思わず福江島の大瀬崎灯台を思い出してしまいました。

2019/11/13

52-2嵯峨天皇皇后橘嘉智子  天皇陵巡り
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 愛宕神社一之鳥居前にある平野屋を以前紹介しましたが、ここで昼食を食べた時の目的地は、この左手の道しるべの道を行った嵯峨陵(サガノミササギ)(京都市右京区嵯峨鳥居本)です。
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 嵯峨陵にはこの道しるべから500m程、車の通る道を歩いてすぐでしたが、この道は水尾にまで続いているので、歩いてはしんどいですが、清和天皇陵の参道にもなっています。
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 道路から参道に入る入り口が見えてきましたが、やっぱりまだ通行止めでした。
 4月24日のこのブログでも紹介した橘諸兄、その息子で藤原仲麻呂(恵美押勝)に対抗して反乱をおこし(757年)獄死した橘奈良麻呂、この乱の直後に産まれた奈良麻呂の息子橘清友(タチバナノキヨトモ)、その清友の娘が今回の第52代嵯峨天皇皇后の橘嘉智子(タチバナノカチコ)(786〜850)です。
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 ここで通行止め、しっかり閉ざされていました。
破門する気になれば行けなくもなかったですが、年とってからは法を犯す気がなくなっています。
 嵯峨天皇が即位した時、桓武天皇皇女で異母妹の高津内親王(コウズ・タカツナイシンノウ)(?〜841)が妃となり、二人の間に産まれたのが業良親王(ナリヨシシンノウ)(?〜868)です。
血統から言えば次期天皇の候補であるべき業良親王は、精神的に不安定だったようで、それが原因かどうか高津内親王は妃をすぐに廃されしまいました。
裏では陰謀があった可能性大の状況ですね。
 その頃に、少し遅いですが23歳で嵯峨天皇に入内したのが嘉智子です。
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 塀の上からのぞくと、奥に続く参道には倒木もあって、まあ宮内庁がせっかく通行止めにしているので、山奥でちょっと怖いと思うこともあって、ここから参拝です。
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 参拝したらこんな感じと、案内板の写真でお許しください。
嘉智子は正良親王(マサラシンノウ)(後の第54代仁明天皇)と、たぶん双子の正子内親王(マサコナイシンノウ)(後の第53代淳和天皇皇后)の他に、2男5女をもうけていますので、すごい美人だったこともあって嵯峨天皇に愛されたのだと思います。
それでも嵯峨天皇は、他に30人の妃に50人の子供ももうけていますがね。
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 その後815年に皇后になった橘嘉智子、祖父の橘奈良麻呂が逆賊として獄死していることを考えると、不思議な運命ですね。
 仏教に深く帰依し、嵯峨野に今はもうありませんが、日本最初の禅院である檀林寺(ダンリンジ)を創建したことから、檀林皇后とも呼ばれています。
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 遺体は埋葬せず、帷子ノ辻(カタビラノツジ)に放置して、腐乱・白骨化していく様を描かせたという伝説もあります。
九相図(クソウズ);打ち捨てられた死体が、朽ちて行く過程を9段階に分けて描いた仏教画。
 檀林寺跡に建った大覚寺近くの嵯峨釈迦堂清凉寺、その境内には嵯峨天皇・檀林皇后の宝塔が並んでいて、手前が檀林皇后の宝塔です。
明治以前はこれが御陵とされていたそうです。
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 梅宮大社(ウメノミヤタイシャ)は橘氏の氏神として京都の南の井手町にあったのを、嘉智子がここ嵐山の南、松尾大社と桂川をはさんで反対側に移しています。
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 皇后は皇子に恵まれなかったので、梅宮大社の奥の神殿横にあるこの「またげ石」を跨いで、子を授かったどころか7人もの母親になってますので、この周囲の白砂は安産のお守りとされています。

      返事
花水木さん:逆でしょうと言われましても、
    奥さんの写真の裏に小百合さんの写真を入れて、
    隠れキリシタンのように眺めているのがばれたら、
    それこそ、逆さ水責め・いびり火あぶりの刑が処せられるので、
    やっぱり小百合さんの写真の裏に家内の写真ですよ!
    まあ、今は入っていませんが。

2019/11/9

52−1嵯峨天皇  天皇陵巡り
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 大覚寺の前身・離宮嵯峨院を建立した第52代嵯峨天皇の嵯峨山上陵(サガノヤマノエノミササギ)(京都市右京区北嵯峨)は、その大覚寺の北西にありました。
大覚寺から北西に少し歩いた(一度迷いましたが)、ここが陵への登り口です。
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 つづら折れの500段以上の石段を登らなければならないと、かなりしんどそうに紹介されていましたが、石段は綺麗に整備された直後で、まあ一気には登れませんでしたが、途中所々で振り返って嵯峨野を眺めながら休憩したので、それ程辛くはなく登れました。
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 以前紹介した大覚寺や大沢池も眼下に広がっていますが、こうしてみると、大沢池も意外と小さく見えました。
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 父第50代桓武天皇と母藤原乙牟漏(オトムロ)との間には、安殿親王(アテ)(後の第51代平城天皇)がいましたが、その同母兄に遅れること12年、786年に産まれたのが神野親王(カミノシンノウ)。
生れた時には父はもう天皇、同母兄の安殿親王はもう皇太子でした。
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 母の乙牟漏は、神野親王の4歳の時にはもう亡くなっています。
同母兄第51代平城天皇の病気による譲位を受けて、神野親王は809年平安京で即位し第52代嵯峨天皇(サガ)(786〜842)(在位809〜823)になりました。
皇太子には、同母兄平城天皇の皇子高丘親王(タカオカシンノウ)をたてました。
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 平城天皇の項で記したように、810年の薬子の変に対しては、迅速に行動してこれを平定、高丘親王も廃太子とし、今度は異母弟の大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を皇太子にたてました。
 以後は比較的安定した治世が続き、818年弘仁格(コウニンキャク)を発布し死刑を廃したり、文化面でも嵯峨天皇は空海・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)と共に三筆と言われています。
 この辺りから平安京を舞台にした平安時代が始まりました。(私的には高校時代の日本史を学んでいた頃は、平安時代は退屈でしたが)
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 父桓武天皇もたくさんの子供に恵まれ、その子供たちが桓武平氏と言われる平氏一族になりましたが、嵯峨天皇も29人以上の皇妃達に50人の子供をもうけ、子の養育費が皇室財政を圧迫することを苦慮し、源姓を与えて臣籍に降ろす、賜姓源氏(シセイゲンジ)の初例を開きました。
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 多数の皇妃の内、皇后は橘嘉智子(タチバナノカチコ)で、その間には正良親王(マサラシンノウ)(後の第54代仁明天皇)をもうけました。
 823年には異母弟の淳和天皇に譲位して上皇になり、淳和は嵯峨上皇の皇子正良親王を自分の皇太子にしました。
嵯峨上皇は淳和・仁明両朝においても家父長的存在として重きをなし続けたようです。
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 この嵯峨山上陵は陵の周囲をぐるっと回れましたが、丁度裏側には見た人は呪われると言われてる血の池が有ります。
有ったので見てしまいましたが、写真の様にやや赤っぽい感じの、大きめの水たまり程度の池でした。
こんな山の上には誰もいませんでしたし、怖いので足早に後ろも見ずに、急いで陵を一周しました。
 まだ呪いは、私には及んでいないようです。
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 嵯峨天皇陵の麓近くにある、嵯峨天皇のゆかりもある嵯峨釈迦堂清凉寺(セイリョウジ)、その境内の一画に嵯峨天皇の宝塔がありましたが、明治まではこれが御陵だったと清凉寺のパンフレットには書いてありました。

      返事
花水木さん
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   実は私の机の隅にはもう50年以上、
   吉永小百合さんのこのブロマイドが飾ってあります。
   若い時の一時期は、この写真の裏側に、今の家内の写真も入れていて、
   友達などにばれないよう、隠れキリシタンのように、祈っていた時も有りました。
和さん:ランチは1300円で、
    わずかにパフェが高かったですが、
    「最高・・・ 」の映画の中で、
    京都のからふね屋で吉永・天海さんが食べていたパフェは5万円なので、
    まあこのチョコレートパフェぐらいが、私の最高の人生です。
    「最高の・・・」映画は、特別に福江会館でも上映されたそうですよ。

2019/10/1

51-2平城天皇皇子阿保親王  天皇陵巡り
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 JR芦屋駅で降りて1kmはありませんが、6月と言ってももう暑い日に目指すのは阿保親王墓(兵庫県芦屋市)です。
 阿保親王はこの辺りに別邸を営んで、近くの打出浜の眺望を愛されていたために、ここに墓があると、錆びついた案内板には書いてありました。
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 阿保親王(アボシンノウ)(792〜842)は、平城天皇と葛井藤子(フジイノフジコ)(クズと読まずフジイのようです)との間に産まれた第1皇子ですが、嵯峨天皇時代に皇太子に選ばれたのは、異母弟で第3皇子の高岳親王(タカオカシンノウ)でした(特にこちらの母の身分が高かったわけでもないようなので、不思議ですが)。
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 薬子の変(810年)で出家した父平城太上天皇と、廃太子され同じく出家して最後唐から天竺に渡る途中に虎に食べられたと言われる高岳親王に連座して、阿保親王自身も太宰権帥に左遷されましたが、父平城の死後は、許されて平安京に帰っています。
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 帰郷後は嵯峨・淳和・仁明と三代の天皇に仕えて働き、性格は控えめで文武共に優れた人だったと言われています。
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 ただ最後は、842年の「承和の変」での対応が、反乱を未然に防いだと称賛された一方、自分自身が望んでいたもっと穏便な結末に至らなかったことを悔やんだのか、変の三カ月後に急死したのは、自殺に近い精神的なダメージだったともされているようです。
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 阿保親王墓の周りは、さすがに芦屋、高そうなマンションや大きな屋敷に囲まれていましたが、墓の正面近くの柵にかかってる警告板、宮内庁と書いてはありますが、みすぼらしい!
まさか宮内庁ではなく、近所のおじさんでも書いたのですかね。
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 阿保親王の息子、平城天皇からは孫にあたるのが、かの有名なプレイボーイ在原業平です。
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 同じく息子で業平の異母兄が中納言行平で、この人はまっとうに行政者として仕事もして、出世もしました。
海水を沸かして塩を作る時の鍋の行平(雪平)は、この人の名に由来するそうで、今も使ってる柄のついた鍋ですね。
中納言行平が詠んだ小倉百人一首の16番、この下の句
  まつとしきかは いまかへりこむ
と書いたお札を玄関に吊るしておくと、家出した猫が帰ってくるそうです。
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 数日前に地図で、京都にも伝阿保親王塚があることを知ったので、急いで訪問してきました。
東福寺と伏見稲荷の間ぐらいにあるマンションの一隅に、なんとか見つけました。
 阿保親王を遠祖とする長州毛利家が、江戸時代に親王のお墓を捜して、前記の芦屋の親王塚古墳をそれと制定したようで、この時にここ伏見の地も、阿保親王が京都へ帰りたい願いがかなったお礼として建てたお寺の跡だと言うので一緒に制定したそうです。
前者は明治になって宮内庁管理になりましたが、ここは宮内庁管理ではないようです。

      返事
花水木さん:結果ありきなら、
    ジャパンは又スコットランドに負けて3勝1敗なのに、
    予選通過ならずになる可能性が残ってます。
大雪男さん:阪神、
    これで矢野の首はつながったようですね。
    巨人に勝てるチャンスは横浜の方があると思うので、
    阪神はここまででもいいですよ。
     やはりラグビーはFWですね!
    アイルランドの蹴り出した選択は解かりますが、
    それなら後ろか横に確実に蹴り出してほしかったですよ。
和さん:どさくさに紛れて阪神CSに進出、
    まだあまりうれしくありません。
    6連勝の阪神があと10連勝して日本一か、
    2連勝のジャパンがあと5連勝して世界一か、
    どちらの確率が高いかと言えば、
    阪神は絶対無理、ジャパンもそこまでは無理でしょうね。
     阪神は横浜に負けてももういいですが、
    ジャパンはなんとか1位通過して南アフリカか、
    2位通過でニュージーランドと、
    負けてもいいから行ってほしいです。

2019/9/26

51-1平城天皇  天皇陵巡り
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 第49代光仁天皇が思いもかけなかった天皇に成ったために、その子桓武天皇は親王になり、光仁天皇の最初の皇太子であった桓武の異母弟他戸親王が772年に皇太子を廃されたために、773年には桓武は光仁天皇の皇太子にまでなりました。
その翌年に父桓武と母藤原乙牟漏から生まれたのが安殿親王(アテシンノウ)です。
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 安殿親王7歳の時に、父は即位し第50代桓武天皇となり、その皇太子は早良親王でしたが、長岡京遷都のどさくさに起こった藤原種継暗殺事件で、早良親王(崇道天皇)は廃太子となり死去(暗殺)したので、785年に12歳で皇太子となりました。
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 皇太子妃として藤原帯子(フジワラノタラシコ)がいましたが、子供はできずに安殿親王が20歳の時にはもう亡くなったので、以後は誰も皇后にはしていません。
 藤原種継の娘で叔父である藤原縄主(フジワラノタダヌシ)との間に5人の子をもうけていた薬子(クスコ)、その長女を後宮に入れましたが、安殿親王は後宮に入った娘より付き添ってきたその母親の熟女であった薬子と良い仲になったようで、父桓武の怒りに触れてその仲は裂かれました。
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 そして父桓武が崩御して、安殿親王は平安京で初めて即位し、第51代平城天皇(ヘイゼイ)(774〜824)(在位806〜809)となりました。
 天皇に成った翌年には、父桓武の寵愛を受けていた異母弟伊予親王を、平城天皇自身の伊予嫌いに付け込むようにした、藤原式家の仲成・薬子兄妹の策謀に、北家の内麻呂も便乗し、南家の雄友(オトモ)の追い落としを兼ねた「伊予親王の変」(8月のこのブログ50-4伊予親王を参照)が起こりました。
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 平城天皇は律令制の再建にはある程度の行政能力も示しましたが、性格は猜疑心が強く執念深かったようで、遠ざけられていた薬子を再び手元に呼び戻し、夫の縄主は九州太宰帥(ダザイノソツ)に栄転という形で遠ざけて、再び二人で不倫ごっこをしたようです。
(今なら、若社長が専務夫人と良い仲になり、年上の専務をアメリカ支店長に栄転させて、留守の間に二人で・・・・。)
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      平城京跡にはこんな立派な大極殿が再建されています
 元々の病弱か性格か早良親王や伊予親王の崇りを恐れたのか、わずか4年で12歳年下の同母弟第52代嵯峨天皇に譲位し、太上天皇として平城京に帰ってしまいました。
 しかし再び元気になって、仲成・薬子兄妹にもそそのかされて、再び天皇に戻る動きをし、一時は平安京と平城京「二所朝廷」と呼ばれるようになりました。
そしてとうとう810年「薬子の変」を起こし決起しかけましたが、嵯峨天皇側に押されて、仲成は射殺、薬子は毒を仰ぎ鎮圧されました。
平城天皇自身は出家しただけで済みましたが、こうして藤原式家も没落し、以後は冬嗣の北家の独壇場と成りました。
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 再建された大極殿から住宅越しに見える小山が平城天皇陵です。
平城天皇は変の15年後に崩御し、ここ平城京のすぐ近く揚梅陵(ヤマモモノミササギ)(奈良市佐紀町)(元は市庭古墳と言う前方後円墳を削って円丘にしたもの)に葬られました。
 私たちは日本史で「薬子の変」と憶えましたが、最近は「平城太上天皇の変」とも言うらしいです。
  
土曜日、日本が奇跡を起こすことを祈ってます!!!

      返事
大雪男さん:「きずつない」標準語?
    気を使ってもらってすみません、と言う時に使いますよね。
     大リーグから野手として大谷君を獲りますかね。
     大雪男さんのブログで教えてもらったNHKBS五島列島トレッキング観ました。
    大瀬崎灯台はいつ見ても良いですね!!
    七ツ岳は結局行ってませんが、私では無理だったでしょうね。
    野崎島の王位石(オエイシ)、実物見たかったですが、これも無理だったでしょうね。
    TVでは小値賀島からも見ていたので、せめてそれぐらいは行って見てみたいです。
花水木さん:男の私でも言うので、標準語では?
     美人も最近の4K・8Kでアップは辛いでしょうね。
     恐竜と一緒に住む世界はかんべんですね。
タグ: 天皇陵 薬子

2019/8/31

50-6桓武天皇皇孫遍照  天皇陵巡り
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 京都市山科の西北の辺りに遍照墓(ヘンジョウノハカ)はあります。
通勤の帰り道に、天智天皇陵に近い地下鉄御陵(ミササギ)駅で降りて(地図上の方)、ブラブラと遍照墓(地図下の方)を訪ねました。
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 地図を見て探しているのにもかかわらず、一度は見落として通り過ぎた、狭い道の奥に墓らしき姿を見とめました。
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 ぐるっと回りを住宅に囲まれている、小さな円形の丘が遍照墓ですし、はっきりと宮内庁が管理してる制札がありました。
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 遍照(ヘンジョウ)と言われてもピンときませんが、遍照の意味は「あまねく世間を照らすこと」らしいです。
このありがたい名前の持ち主は、桓武天皇の孫にあたります。
すなわち父親が良岑安世(ヨシミネノヤスヨ)で、桓武天皇の息子なんですが、生母の身分が低いので親王宣下を受けられず、良岑姓を賜与されて臣籍降下しました。
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 この安世の八男として生まれた良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)(816〜890)は、850年に出家して遍照僧正(ヘンジョウソウジョウ)となりました。
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 なんといっても有名なのは、まだ出家する前の宮中に出入りしていた頃に作った小倉百人一首の11番目
   天津風 雲の通い路 吹きとじよ
      乙女のすがた しばしとどめむ
この和歌、昔ノック・フック・パンチのマンガトリオが、
  天津風 余った風は どこに行く
と、漫才の冒頭によく使っていたので、憶えました。
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 遍照も突然妻子を捨てて出家したのですが、その息子良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)が父遍照を訪ねると、「お前もお坊さんになれ」と強引に11歳で出家させて、素性法師(ソセイホウシ)にさせられました。
まあそれでも、親子して小倉百人一首に載せてもらえるような歌人になったのですから、良しとしましょう。
 でも、臣籍降下した天皇の孫の墓まで宮内庁が管理してるのは、何故なんでしょうかね?

     返事
花水木さん:子供も多かったですが、妻も多いので、
    私たちの祖母年代が、一人でたくさん産んでる方が驚きですね。
     私の家族はAとBが結婚したので、
    子供はO・A・ABと一家で全て揃いました。
    どの型の子が産まれても、私の子だと言わなくてはならない、
    悲しい定めの私です。
    何だかなあ〜。(花水木さんから盗作)

2019/8/28

50-5桓武天皇皇子仲野親王  天皇陵巡り
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 第50代桓武天皇には35人の子供がいたそうですが、その第12皇子である仲野親王(ナカノシンノウ)(792〜867)と言われても、ピンときませんし今まで聞いたこともなかったです。
でも墓は、嵐電帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅とJR山陰線太秦(ウズマサ)駅の間にあって、結構目立つ大きな墓でした。
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 藤原四家の中で一番目立たず人材も少なかった藤原京家の出の藤原大従(フジワラノオオツグ)の娘藤原河子(カワコ)が、桓武天皇の宮人(キュウジン)となり、5人の親王・内親王を産みましたが、その内の一人が仲野親王です。
 住宅街の中にある高い丘に木々が生い茂り、森のようになった高畠墓(タカバタケノハカ)、参道も非常階段のように細く伸びていました。
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 仲野親王は歴史の中で特に何かしたと言うわけではないようですが、垂箕山古墳(タルミヤマコフン)と言われるこの大きな前方後円墳に葬られているのは、少し不思議です。
まあ、治定されたのが明治になってからですから・・・・。
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 空濠のなってるような墓外周の道を、丁度掃除中の職員に咎められないように一周巡りました。
 仲野親王にも17人の子供がいましたし、75歳と長生きです。
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 仲野親王の沢山の子供のうちの一人班子女王(ハンシジョオウ)が、親王時代からの第55代光孝天皇の妃となっていて、源定省(ミナモトノサダミ)を産んでいます。
この一時は臣籍降下していた定省が、第56代宇多天皇になってしまったので、仲野親王は死後20年経ってから、天皇の外祖父として一品太政大臣を追贈されています。

     返事
花水木さん:今や私のブログは、
    半分は花水木さんのコメントを期待してる読者で成立っていますので、
    面倒ですが一行でもコメントお願いいたします。
     京都は大文字がすむと、秋になりました。
    今年も半分以上が過ぎ、月日は巡りますが、
    目標無く生きるのはしんどいです。


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