奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/11/13

41−1持統天皇  天皇陵巡り
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 鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)は、父38−1天智天皇で母は遠智媛(オチノイラツメ)ですので、前回の40−2大田皇女の同母妹になります。
 姉の大田皇女と一緒に、叔父にあたる大海人皇子の妃に13歳でなり、草壁皇子(クサカベノミコ)を産んでいます。
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 姉の大田皇女は早くに亡くなっているので、壬申の乱後に夫の大海人皇子が第40代天武天皇になった時に皇后になり、夫の皇親政治を助けると共に、自分の病弱な息子草壁皇子をなんとか次期天皇にしようと努力しました。
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 夫天武天皇の崩御(686年)後は、皇后のまま称制を敷いて政治にあたり、姉大田皇女の優秀な息子大津皇子を、謀反の疑いで抹殺してまで、我が息子草壁皇子を天皇にしようと思っていましたが、689年息子草壁皇子が27歳で亡くなった為、皇后は即位して第41代持統天皇(ジトウ)(645〜702)(在位690〜697)になりました。
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 もちろんこれは、最愛の息子草壁皇子の忘れ形見、すなわち我が直系の孫である軽皇子(カルノミコ)を次の天皇にするための繋ぎ役をしようとしたのであって、少々目の上のたんこぶであった夫天武天皇の息子高市皇子(タケチノミコ)が薨去した後は、速やかに若き孫軽皇子を15才で第42代文武天皇として即位させました。
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 持統天皇は藤原京(奈良県橿原市と明日香村)を造営し、この大和三山(耳成山・畝傍山・天香久山)に囲まれた都は、平城京や平安京よりも大きく、一代の天皇の宮ではなく、三代の天皇に続けて使用されました。
 小倉百人一首の2番目は、持統天皇の
      春すぎて  夏きにけらし  白妙の
               衣ほすてふ  天の香久山
藤原京にいる時に詠んだのですかね。
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 持統天皇陵はこの檜隈大内陵(ヒノクマノオオウチノミササギ)(奈良県明日香村)で、夫である先代の第40代天武天皇と共に葬られています。
持統天皇は天皇としては初めて火葬された人で、銀の骨壺に遺骨は納められていたそうです。
 1235年盗掘にあって、この骨壺がさらわれてしまった事は、藤原定家の「明月記」にちゃんと書かれていますが、それでもこの陵は真陵ではないという説も有力です。
 この持統天皇記で日本書紀は終わっています。
高校日本史で学んだように、次の日本の歴史書は「続日本紀(ショクニホンキ)」になります。

     返事
花水木さん:忙しい時には、読んでもらっているだけで充分ですよ!
     私はどっちかと言うとシンプルに生きてる気はします。
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2018/11/10

40−2天武天皇皇妃大田皇女  天皇陵巡り
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 37−1斉明天皇と36−2孝徳天皇皇后間人皇女の越智崗上陵と38−3天智天皇皇子建王墓に登っていく200段ほどの写真右の石段、その途中に天武天皇皇妃大田皇女墓(オオタノヒメミコノハカ)はあります。
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 40−2大田皇女(オオタノヒメミコ)(〜667年20代で没だろう)、父は38−1天智天皇で、母は遠智媛(オチノイラツメ)です。
同母妹の鸕野讃良皇女と共に、大海人皇子の妃となり、大来(大伯)皇女(オオクノヒメミコ)と大津皇子(オオツオウジ)を産むが、大津皇子がまだ5歳の時にもう亡くなりました。
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 大海人皇子が40⁻1天武天皇になった時に妹の鸕野讃良皇女が皇后になったのですから、亡くなってなかったら当然姉の大田皇女が皇后になったと思います。
そうなれば、息子の大津皇子は立派な皇子だったので、謀反の疑いで殺されることもなく、すんなりと天武天皇の次期天皇になって、歴史はまた少し変わったかもしれません
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 同母弟の建王(禁断の恋が正しければ異母弟かもしれませんが)が658年に夭折し、父方祖母の37−1斉明天皇が661年に亡くなり、叔母(父の妹)の36−2間人皇女(禁断の恋なら建王の母に成る)が665年亡くなり、667年にやっと斉明天皇の葬儀が行われ、上記3人が同じ陵に合葬された時、同じく667年に没した大田皇女もこの陵の下近く越智崗上墓(オチノオカノエノハカ)に葬られたようです。
 
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2018/10/26

40-1天武天皇  天皇陵巡り
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 飛鳥の岡の上にある天武・持統天皇陵、この夫婦の天皇陵はよく目立ちます。
40-1天武天皇は武力によって政権を奪い、皇族中心の皇親政治を行い、律令政治の基礎を築いた、強い天皇のイメージですし、そもそも今まで私が書いてきた文章の根拠となってる「日本書紀」の編纂を命じた人ですが、分からない点がたくさん有ります。
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 父は34−1舒明天皇で、母は35−1宝皇女(後の皇極・斉明天皇)なので、38−1天智天皇の同母弟になる大海人皇子(オオアマノオウジ)は高貴な出のはずなんですが、生まれ年は不明です。(まあこれは日本書紀では普通らしいですが)
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 成人するまでははっきりしたことが分からないため、大海人皇子は新羅の皇族だったという説や、母の宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に結婚していた前夫高向王(タカムコノオウキミ)(31−1用明天皇の孫です)との間の子漢皇子(アヤノミコ)である、すなわち天武は天智の異父兄であるという説もあります。
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 いずれにしても、(兄)天智天皇の娘、すなわち姪にあたる皇女4人を娶っています。
大海人皇子は、大田皇女との間に大来皇女(オオク)と大津皇子、鸕野讃良皇女との間には草壁皇子、新田部皇女(ニイタベ)との間には舎人親王、大江皇女との間には長皇子(ナガ)と弓削皇子(ユゲ)をもうけています。
他にも天智天皇の娘さん以外も娶り、十市皇女(トオチ)・高市皇子・忍壁皇子(オサカベ)・磯城皇子(シキ)など、多数の子供がいました。
これらの中から、また天智天皇の息子や娘と結婚した人がいたので、天智・天武間の血の濃さはかなりのものです。
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 大海人皇子は、兄天智天皇から皇位を譲ってもらえるチャンスもあったのですが、協力することを嫌って吉野に出家隠遁しました。
 そして近江朝廷にすぐに反旗を翻し、武力で持って1ヶ月ほどで近江朝を倒しました。
しかしこの有名な壬申の乱(672年)で、天武天皇は全く戦闘場面に出てくることはなく、後方で座っていただけですのに、そんな大将を実際に戦った豪族が天皇として担ぐ不思議さが、私にはちょっと納得しにくいです。
 私が納得しようがしまいが、奈良の岡本宮→飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)で即位し第40代天武天皇(テンム)(〜686)(在位673〜686)となりました。
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 ここから9代にわたり、いわゆる天武天皇の血が続き、藤原京→平城京と律令政治が始まり、東大寺大仏などの天平文化が花開くことになります。

    返事
花水木さん:60過ぎたら思い込みで、
    自然に文字を間違って読んでしまうのですかね。
    若い時は意図的でしたね、
    全国共通オコメ券をオ○▽券と読むと教えられ、
    全国共通のこの券ほしいと思ってました。
大雪男さん:春は広島と西武が圧倒的に強かったですが、
    秋はやっぱりソフトバンク。
    でもそれになんとか抵抗できるセのチームは広島だけ。
    面白いシリーズになりそうですね。
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2018/10/17

39⁻1弘文天皇  天皇陵巡り
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 38-1天智天皇はたくさんの妻を持っていましたが、あまり皇子には恵まれず、身分の高くない伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)との間に産まれた、大友皇子(オオトモノオウジ)(伊賀皇子とも)に後を譲りました。
 大友皇子が即位して天皇になったかどうか、もちろん敵方の正史である「日本書紀」には大友皇子の巻もなく、即位もさしていません。
即位はしてないが天皇代理として統治した称制説、即位したのは天智天皇皇后38-2倭姫王だった説など有ります。
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 明治政府は即位説をとって、明治3年(1870年)に39‐1弘文天皇(コウブン)(648〜672)(在位672年1月〜8月)と諡号しました。
24歳で近江宮(滋賀県大津市)で即位し、わずか半年後に自害に追い込まれたことになります。
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 妃は叔父40⁻1天武天皇の娘十市皇女(トオチノヒメミコ)で、葛野王(カドノオウ)を産んでいます。
 日本史で学ぶ有名な壬申の乱(672年)がなぜ起こったのか、先代天智天皇の敵をせん滅するような数々の強引な改革に対する不満、後継ぎ弘文天皇は身分の低い側室の子ではないか、白村江の大敗戦や対唐政策などで近江宮に遷都したことへの不満、額田王をめぐる天智・天武の恋のさや当て説まで、色々あるようです。
仮にも出家した男天武が、兄の子でありわが娘も嫁ぎ孫も出来てる甥を、滅ぼそうと思い、それに同調した豪族が沢山いたことがもひとつ理解できません。
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 乱の総指揮官、大将である天武天皇は、全く戦闘には参加することなく、わずか1ヶ月で近江朝廷軍は大敗、弘文天皇は一人山中で首を吊って自害したと、日本書紀は記しています。
一応この長等山前陵(ナガラノヤマサキノミササギ)(滋賀県大津市)が大津市役所(左の建物)の裏、近江宮跡に近い所に、明治政府によって定められていますが、園城寺亀山古墳を明治政府が陵にしようと思っただけの場所だと思います。
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 壬申の乱後、弘文天皇の忘れ形見葛野王は、父を殺した母方の祖父40⁻1天武天皇や父方の叔母である41−1持統天皇にも、殺されることなく仕えられたのも不思議です。
皮肉にも持統天皇には、皇位継承は直系に限ると、42−2文武天皇にするように進言までして、称賛されています。(これでいったら弘文の次の天皇は自分に成るのですがね)
また、弘文天皇の曽孫は淡海三船(オウミノミフネ)という、ちょっと偉い文人で、天皇の和風諡号を作った人です。
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2018/10/13

38−3天智天皇皇子建王  天皇陵巡り
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 38-1天智天皇(626〜672)と蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘(オチノイラツメ)との間には、大田皇女(〜667)と鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)(645〜703)の他に、今回の建王(タケルノミコ)(651〜658)も産まれたので、次期天皇の有力候補になったと思います。
しかし建王は話すことが出来ない皇子であり、8歳で薨去してしまいました。
祖母の37-1斉明天皇に深く愛されていた建王は、この祖母の越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)に間人皇女と共に合葬されています。
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 しかしながらその当時、祖母が姑の立場から幼い孫を身近に置いて愛することが出来るでしょうか。
7月28日の私のブログ36-2孝徳天皇皇后間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)で書いたことと同じになりますが、38-1天智天皇と36-1孝徳天皇の皇后になった同母妹36-2間人皇女との間の同母兄妹恋はありえたと思うので、建王はその間に産まれた秘密の子と考えたらどうでしょうか。
自分の息子天智天皇と自分の娘間人皇女との間に産まれ、障碍者で幼くして亡くなった建王を、祖母の37-1斉明天皇は実の娘の子であるので身近に置くことが出来、可愛がり、死んだ時には薄幸の孫と娘と共に3人で合葬してくれと願ったのではないでしょうか。
時代系列的にもなんとか話は合いそうですが・・・・・。
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2018/9/12

38−2天智天皇皇后倭姫王  天皇陵巡り
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 そもそも蘇我家の血が入ってない第34代舒明天皇が天皇に成れたのは、蘇我蝦夷の妹法提郎媛と結婚していて、古人大兄皇子という第1皇子が二人の間にいたためのようです。
蘇我一族はこの古人大兄皇子を次の天皇に出来ると思ったので、舒明天皇を天皇にしたようです。
 滋賀県大津市北部の坂本にある、滋賀県を中心に多数の店舗を持つスーパー平和堂に車を停めて、積んでる自転車で、坂本の丘の上にある住宅地を目指しました。
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 しかしながら舒明天皇の皇后になったのは皇族の宝皇女で、二人の間には第2皇子として中大兄皇子(天智天皇)も産まれ、宝皇女自身も舒明天皇死後第35代皇極天皇になりました。
 そうしてる間に、乙巳の変で後見人である蘇我入鹿を目の前で殺された古人大兄皇子は、次の天皇になる道も閉ざされたと思い、出家してしまいました。
 木の岡丘陵のてっぺん近くに、やっと下坂本陵墓参考地(シモサカモトリョウボサンコウチ)の石柱を見つけました。
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 政権の中枢を牛耳った第2皇子の中大兄皇子は、出家してもやっぱり怖かったのか、謀反の疑いで、異母兄の第1皇子古人大兄皇子と一族を皆殺しにしますが、この時唯一幼い古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)は生かされました。
  そもそも倭姫王の墓ははっきりしません、宮内庁がこの陵墓参考地がそうだと言ってるだけで、木の岡古墳群の中の一番高い所にある丸山古墳、帆立貝式古墳がそれです。
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 そして何故か、倭姫王は自分の実家を滅ぼした叔父にあたる第38代天智天皇の皇后になりますが、子供は出来ていません。
 あまり整備されていない細い道を少し行って、やっと下坂本陵墓参考地の前に出てきましたが、あの有名な天智天皇の皇后の墓としては、ややみすぼらしかったです。
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 夫の天智天皇が娶った唯一の皇族出身者は、この倭姫王のみで、残る8人は皆臣下の娘であるのも不思議ですし、ここにも天智天皇と同母妹の間人皇女との禁断の恋が影を落としていた、と考えるのは思いすぎですかね。
 倭姫王との間に子がなかったのは、皇后であっても肉体関係はなく、倭姫王は巫女的な存在として皇后になり、それ故に天智天皇死後、次の第39代は弘文天皇ではなく、倭姫王が即位したという説が産まれてるのかもしれません。
  周囲には下坂本陵墓参考地の飛地として、宮内庁管理の円墳状の丘が何個かありました。
帰りは自転車で坂をかけ下り、平和堂での買い物が終わった家内と合流しました。

     返事
花水木さん:この頃数代の天皇陵は八角形の八角墳、
    中国思想の影響らしいです。
     権力は長く続くと絶対に腐敗します。
全共闘世代私の座右の銘;権力の座にある者、
             時として己の非を忘れ、
             相手のみ礼を求むるは、
             失政の因をなす!
        漫画’子連れ狼’からですが。
     次期天皇、つなぎなら愛子さまでいいですが、
    その次は男系で繋がるために、悠仁さんということに成るでしょうね
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2018/9/8

38−1天智天皇  天皇陵巡り
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 夫婦共に天皇になった舒明と皇極・斉明天皇の息子葛城皇子(カズラキノミコ)(中大兄皇子の名の方が有名)は、異母兄で乙巳の変後出家していた古人大兄皇子一家を謀反のかどで皆殺しにし、その時に唯一年端のいかなかった古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)だけ生かし、後に皇后としましたが、二人の間に子供は生れていません。
  写真は東海道沿いに建ってる天智天皇陵への石柱です。
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 その頃は皇女に適当な人がいなかったのか、中大兄皇子は倭姫王以外は臣下の娘とばかり結婚しています。
 蘇我入鹿を倒した乙巳の変(大化の改新)を起こす為、蘇我家の中に仲間を作る為もあってか、蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘(オチノイラツメ)との間に建王(タケルノミコ)(夭折)・大田皇女(オオタノヒメミコ)(後の天武妃)・鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)(後の天武皇后で持統天皇に)をもうけ、同じく蘇我倉山田石川麻呂のもう一人の娘姪娘(メイノイラツメ)との間には御名部皇女(ミナベノヒメミコ)と阿閉皇女(アヘノヒメミコ)(後の元明天皇)をもうけています。
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 中大兄皇子はこの3人以外にも、他に6人の女性に11人の子をもうけていますが、めんどくさくややこしいので後に繋がる重要な2人だけを紹介すると、後に第39代弘文天皇になった大友皇子の母宅子娘(ヤカコノイラツメ)と言う采女で伊賀の田舎娘と、最後なんとか今の天皇家に繋がった志(施)貴皇子(シキノミコ)(第39代光仁天皇の父)の母で女官の道君伊羅都売(ミチノキミイラツメ)です。
 計16人(娘12人)の中大兄皇子の子供のうち、4人が何故か一応叔父にあたる天武天皇に嫁いでいます。
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 小学生の時に、少年向きの天智天皇の冒険小説仕立てを読んでますので、中大兄皇子は藤原鎌足と蹴鞠を通じて知り合い、専横をほしいままにしていた蘇我入鹿を大化の改新で倒して、その後は庚午年籍(コウゴネンジャク)(670年)を作成したり、唐と戦ったりした後近江宮を開き、日本の発展に尽くしたと信じていました。
しかし、意外と政敵をだまし討ちしたり、醜い面も見せた人物だったようですね。
   写真の山科陵の参道は、立派でかなり長いです。
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 参道の最後には門まで見えてきました。
夜には閉まるようです。
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 父第34代舒明天皇が亡くなった時は、中大兄皇子はまだ16歳でしたので、母が第35代皇極天皇となり、乙巳の変の時は20才で、叔父が第36代孝徳天皇に成りました。
その次はもう他に有力候補もいなかったので、中大兄皇子で当然だったようですが、何故か母がもう一度天皇になってしまい第37代斉明天皇です。
 皆で九州に遠征中に、その斉明天皇が亡くなったのにもかかわらず、すぐには天皇に成らず、称制と称して7年間を過ごした後、やっと近江宮(滋賀県大津市)で即位し第38代天智天皇(テンジ)(626〜671)(在位668〜671)と成りました。
  写真は知名度で言うとトップクラスの天皇にふさわしい拝所の手前、実際に水が出ている手水鉢もありました。
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 天智天皇は30年近く政治の中枢にいたのですが、実際天皇の名で働いたのは3年間程です。
その間に忠臣の鎌足にも死なれ、やっぱり最後は息子を天皇にしようとしたのか、やや弱気を見せつつ亡くなり、この山科陵(ヤマシナノミササギ)(京都市山科区)に葬られました。
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 奈良でもなく、近江宮からも少し離れたこの京都山科に何故天智天皇陵は有るのか(山科の山の中で命を落としたという説有り)不明ですが、この八角墳である御廟山古墳(ゴビョウヤマコフン)に天智天皇が葬られてることはまず間違いないようです。
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 京都の町中にあった私の小学校は山科に校外学舎を持っていて、ここにはよく遠足で行くため、天智天皇陵の横はよく通っていました。
小さい時からよく知っていた天智天皇陵には、大きな石の日時計があったはずなのですが、今回京都市営地下鉄東西線の御陵駅(ミササギエキ)から歩いて5分ほどの山科陵に行ったのですが、どこにも日時計を見つけられませんでした?。

      返事
花水木さん:20世紀は戦争の世紀、
    21世紀は天災の世紀と言うそうですが、
    もう死ぬ世代の私でも、なんか不安ですね。
     結局東海大地震だけが起こらなかった、
    になれば良いのですが。
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2018/9/4

37-1斉明天皇  天皇陵巡り
  風が強い台風が過ぎ去りましたが、仕事もなんとか行って帰れましたし、家も大丈夫です。
 2Kmぐらいしか離れてない息子の家は昼からずっと停電らしいですが。

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 弟の第36代孝徳天皇が、皇太子の中大兄皇子などの仲間に離反されて寂しく亡くなった時、有馬皇子という孝徳天皇の息子は対立候補としていましたが、もう年齢的にも30歳になり、誰が考えても次の天皇は中大兄皇子(天智天皇)だと思う状況でした。
しかしながら、噂の?道ならぬ同母兄妹恋を世間が許さなかったかどうかは別にして、次の天皇はあっと驚く、以前譲位した天皇がもう一度天皇位に返り咲くという重祚(チョウソ)と言う手を使って、前第35代皇極天皇が第37代斉明天皇(サイメイ)(在位655〜661)として飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位しました。
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 2回目の天皇時代、斉明天皇は石造りの大規模造営を好んだようで、運河を掘ったり、大きな石を運んだりして、写真の飛鳥の酒船石遺跡(サカフネイシイセキ)も作っています。
 有馬皇子にこのような事業を批判するように仕向けた蘇我赤兄(ソガノアカエ)でしたが、彼の裏切りに依って、孝徳天皇の息子悲劇の有馬皇子(アリマノミコ)の謀反は失敗に終わり、殺されました。  
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 660年百済が滅亡すると、わずかに残った臣下が日本に救援を求めてきたので、661年斉明天皇(その時61歳?68歳?)自らが指揮をとり、子や孫の中大兄皇子・大海人皇子・大田皇女・鸕野讃良皇女などと共に九州へ進軍しました。(女性も含めて一家中で進軍したのは、飛鳥に残ってるのも危険だったのでしょうか?)
 しかし斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)(福岡県朝倉市)で崩御してしまったので、全軍は引き上げ、斉明天皇は越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)(奈良県高取町)に、同母兄妹恋で苦しんだ?娘の間人皇女と、禁断の恋で産まれたのかもしれない?最愛の孫の建王と共に葬られました。(前回36−2間人皇女参照)
 重祚してるので、陵印はてっきり皇極天皇・斉明天皇と彫ってあると思っていましたが、よく見ると斉明天皇・孝徳天皇皇后(間人皇女)でした。
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 この御陵には途中大田皇女の墓もあって、石段200段以上登ってたどり着きました。
御陵は車木ケンノウ古墳と言う円墳ですが、1周ぐるっと石柵で囲まれていて、1周回れるはずですが、このビニールシートに阻まれてしまいました。
土木工事の好きな女帝の陵なので、早く治してあげて下さい。

    返事
花水木さん:私の若い時は、
    世間でのイギリスの地位はもっと高かったように思いますが。
     久本さんの福江島は観ました。
    五島の海や湧水とか、行ったところばかりなので、
    私は本当に懐かしかったですよ。
    日村さんの夕方の食番組も観ました。
    奈留からも良く食べに行った望月のステーキも懐かしかったですが、
    私はあんなに高いのを食べず、もっと安いのを食べていましたが。
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2018/7/28

36−2孝徳天皇皇后間人皇女  天皇陵巡り
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 父第34代舒明天皇、母第35代・37代皇極・斉明天皇の間に生まれ、同母兄弟に第38代天智天皇と第40代天武天皇を持つ、貴人中の貴人間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(?〜665)は、母の同母弟の計算上は30歳以上も年の違う第36代孝徳天皇の皇后になりましたが、子供は産んでいません。
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 古代異母兄弟姉妹の結婚はたくさん有りましたし、親族で固めるためにも良かったのかもしれませんが、同母兄弟姉妹の恋は絶対に許されないようです。
以前第19代允恭天皇の息子木梨軽皇子(キナシカルノミコ)は同母妹と道ならぬ恋に落ちて、流罪(死刑とも)になっています。
 間人皇女と同母兄中大兄皇子(後の天智天皇)は、どうも同母兄妹恋をしてしまったみたいで(証拠はない話のようですが)、年の離れた叔父の孝徳天皇に嫁いだ間人皇女には子供は生れませんでした。
同母兄の中大兄皇子が皇太子として夫の孝徳天皇と対立した時は、同母妹の間人皇女と難波長柄豊崎宮を一緒に去っています。
又、中大兄皇子は何度も天皇に成れる機会がありましたが、成らなかったり成れなかったのは、この同母兄妹の道ならぬ恋が原因だったのかもしれませんし、間人皇女の死後やっと周りも納得して即位できたと推測してるのですが、単なる下ネタ好きの私の邪推ですかね。
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 間人皇女は母親の皇極・斉明天皇陵である越智崗上陵(オチノオカノウエノミササギ)に、孝徳天皇皇后間人皇女として合葬されています。
この陵には斉明天皇が愛したと言われてる孫、中大兄皇子の息子建王(タケルノミコ)も一緒に葬られ、建王墓の名も制札には書いてありました。
 祖母である皇極・斉明天皇が息子中大兄皇子と遠智娘(オチノイラツメ)との間の子建王(持統天皇とも姉弟になる)を、近くで愛せるほどかわいがることがその当時可能でしょうか。
実の娘の間人皇女の子供なら、近くで愛することも可能なのではないでしょうか。
この話すことも出来なかった8歳で夭折した建王は、自分の実の息子と娘の子、許されない中大兄皇子(天智天皇)と間人皇女の間の不幸な生まれの孫ということで、祖母の皇極・斉明天皇はよけいに可愛くて、この幸が少ない3人で一緒に墓に入ることを望んだのではないか・・・・。

   返事
花水木さん:私は昔から芸能界相関図とか好きでした。
     金平糖のたとえはおもしろい。
    歳を取ると人間丸くなるというのは、確かに嘘と思いますが、
    女の人の方が、金平糖になりやすい気はします。
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2018/7/25

36−1孝徳天皇  天皇陵巡り
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 軽皇子(カルノミコ)は第35代皇極天皇の同母弟なので、父は茅渟王で母は吉備姫王です。
王位とは無縁の三世王でしたが、姉の宝皇女が第34代舒明天皇の皇后になり、その後は第35代皇極天皇ともなったので、一世王に準じた地位に自動的に上がりました。
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 写真の板蓋宮で実行された乙巳の変(大化の改新)の主導者は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったという説もありますが、その変後、姉の皇極天皇が初の譲位をし、次の天皇に成るのを中大兄皇子は辞退し、古人大兄皇子は出家してしまったので、軽皇子が第36代孝徳天皇(コウトク)(596〜654)(在位645〜654)として即位しました。
 唐の属国ではないという証のためか、初めて元号をもうけ大化としました。
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 姉の皇極天皇の娘で中大兄皇子とは同母兄妹である若い間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を皇后としましたが、二人の間には子供はなく、左大臣の阿部内麻呂(アベノウチマロ)の娘小足媛(オタラシヒメ)を妃として、悲劇の主人公と言われてる有間皇子(アリマノミコ)をもうけていますし、右大臣になった乙巳の変の功労者蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダイシカワノマロ)の娘乳娘(チチノイラツメ)も妃としています。
 二上山山麓、竹内街道に沿ってある孝徳天皇陵には、車を道の駅に置いて、そこから自転車で太子町の他の御陵と一緒に廻りました。
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 中臣鎌子(ナカトミノカマコ)(藤原鎌足のことです)を内臣(ウチツオミ)にし、徐々に政権は中大兄皇子に集中していき、出家していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼし、蘇我山田石川麻呂も間違った情報で殺してしまった中大兄皇子の独裁が目立ってきました。
 石段を登った先の孝徳天皇陵拝所は、正面には廻れない配置になっていました。
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 外交政策でも中大兄皇子と対立し、自分の若い皇后間人皇女と同母兄妹の中大兄皇子との許されぬ恋もあったようですが、孝徳天皇の周りの皆が離反していき、難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)(大阪市北区)で一人寂しく亡くなり、ここ大阪磯長陵(オオサカシナガノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 この古墳は円墳の山田上ノ山古墳(ヤマダカミノヤマコフン)です。

      返事
花水木さん:元気ではないですよ。
    さすがに今年の夏は暑いですね!
    外では水分補給あまりしない私ですが、ポカリを買い仕事中飲みました。
    夜中クーラーをつけっぱなし(29度設定)で寝るなんてのも、人生初めての経験です。
     70才になったせいか、今年の夏は心も体もやられそうです!
タグ: 天皇陵


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