奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2020/10/11

藤原(北)家3.  天皇陵巡り番外
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 基経G(モトツネ)の長男時平(871〜909)は901年昌泰の変(ショウタイノヘン)で、写真の「飛梅」のある太宰府に菅原道真を左遷させ、学者門閥による権力奪取を阻止しましたが、道長の怨霊の崇りか早くに亡くなったので、基経の4男忠平H(880〜949)が藤原北家9代目の氏長者になりました。
忠平からが、本来の摂関政治の始まりと言われています。
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 忠平は外祖父にはなっていませんが、忠平次男の師輔I(モロスケ)(909〜960)は、第62代村上天皇の中宮になった長女安子(アンシ)のおかげで、第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の外祖父に成れ、忠平長男の実頼(サネヨリ)より上に立てました。
 969年の安和の変(アンナノヘン)で源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は終了しました。
 次いで北家の兄弟同士の争いに勝ったというか、長女超子(チョウシ・トオコ)が第67代三条天皇を、次女詮子(センシ)が第66代一条天皇を産んだことに依って、師輔3男の兼家J(929〜990)が圧倒的な権力者になれました。
  写真は、17人の藤原家出身の皇后などが眠る、何度も出してきた宇治陵総拝所です。
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 そしてたなぼた式ではありますが、兼家5男の道長K(966〜1028)が長男道隆系の中関白家(ナカノカンパクケ)に勝利し、天皇家と最高の身内的結合を完成させました。
 こうして12代約350年にわたる藤原(北)家の氏長者は、何故か長男ではなく次男以下が継ぐという結果になってしまい、道長の時代が藤原(北)家の最長点と思われますが、望月になった月はやっぱりかけ始めました。
  写真は、宇治木幡に道長が建てた大きなお寺浄妙寺跡ですが、今は小学校の前に建つこんな立柱だけです
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 道長の後を継いだのは、写真の平等院を完成させた長男の頼通L(ヨリミチ)(992〜1074)で、初の長男が氏長者になりました。
ただその後は、藤原北家の娘は入内はするが男子を産まない時代となり、大番頭(外祖父)が権力を握る藤原家の摂関政治から、会長(上皇・法皇)に早くなって息子の若社長(天皇)を操作するという、男系の院政の時代に移って行きました。
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 頼通以後の藤原北家氏長者は、頼通6男の師実M(モロザネ)(1042〜1101)に、次いで師実長男の師道N(モリミチ)(1062〜1099)、師道長男の忠実O(タダザネ)(1078〜1162)、忠実次男の忠通P(タダミチ)(1097〜1164)と続きます。
忠通は保元の乱(1156年)を勝ち抜き、百人一首の歌人としても法性寺入道前関白太政大臣として名を残していますが、道長以後道長以上の権力者は藤原北家からは出ませんでした。
それでも昭和天皇の皇后は藤原家からですし、他にも藤原家からの皇后や天皇の母は沢山出ています。
 高校生の頃、日本史を学んでいて、平安時代は面白くなかった理由が判りました。
汚い陰謀や子を産ませたもん勝ちの歴史が、若かった私には退屈で、実力で奪い取る武士の世の歴史の方が面白かったはずですよ。
でも年とってみると、ややこしい相関関係やだましあいの世界も、ゴシップ的で面白くなっています。
 8月の猛暑で、天皇陵巡りを見合わせていましたが、難関の上醍醐陵にもなんとか行けて、又いよいよ武士の世の中になっていく天皇陵巡り、それでも地味で退屈かもしれませんが、時々スイーツを入れながら続きますので、どうか見捨てないでよろしくお願いいたします!!

      返事
花水木さん:又ややこしい話ですみませんです。
     立石電機の先先代?社長の奥さんは、
    私にも優しかった、しゃきっとしたおばさんさんでした。
     観るならアメフトかラグビーですよ。

2020/10/7

藤原(北)家2.  天皇陵巡り番外
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 807年第50代桓武天皇第3皇子伊予親王の謀反をでっちあげて、恵美押勝の乱(764年)後もなんとか残っていた藤原南家の残党を一掃した式家と北家ですが、810年薬子の変(クスコノヘン)で、藤原式家の仲成・薬子の兄妹を殺し、藤原四子体制は北家の一人勝ちになりました。
  写真は、私の働く伏見区の老人ホームから坂道を降りて行くと住宅街の一画にある、あまり有名ではないですが伊予親王巨幡墓(コハタノハカ)です
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 鎌足@から数えて6代目の藤原氏長者、北家冬嗣E(フユツグ)(775〜826)は第52代嵯峨天皇と強く結びつき、出世街道をまい進し、とうとう長女順子(ノブコ)を第54代仁明天皇に輿入れさせ、待望の孫第55代文徳天皇を産ませています。
  写真は、立石電機(オムロン)の社長さん旧宅。
私の産まれた家の真向かいに有ったので、今ほど大会社でもなかったからか、子供の時はこの家の庭で私のような庶民の子でも遊ばせてもらえました。
ここから私が1歳にして早くも行ってる、文徳天皇陵までは徒歩5分です。
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 冬嗣の次男良房F(ヨシフサ)(804〜872)は、842年承和の変で大伴氏・橘氏など他氏排斥を実行し、娘明子(メイシ・アキラケイコ)を文徳天皇に嫁がせ、産まれた第56代清和天皇の外祖父として、摂政の地位も得ました。
 良房は兄の長良(ナガラ)の三男基経G(モトツネ)(836〜891)を養子として、藤原氏長者を継がせています。
 866年応天門の変で大伴氏・紀氏を排斥した基経は、同母妹高子を清和天皇に嫁がせ、第57代陽成天皇を産ませますが、高子さんと基経は折り合いが悪く、陽成天皇で一旦天皇の外戚の地位は藤原北家から離れました。
しかし、政権はまだ藤原北家が握っていて、基経は何やかんやごねながら(887年の阿衡事件(アコウ))、実質上の関白にもなっています。
  写真は、基経の墓と言われてる許波多神社(コハタジンジャ)内に有る宇治陵36号です。 
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 基経は娘を第59代宇多天皇になんとか入れましたが、内親王しか産まれませんでした。
しかし、もう一人の娘穏子(オンシ・ヤスコ)を第60代醍醐天皇に入内させ、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇が産まれたので、ここに完全に北家が外戚の地位を握りました。
  写真は、宇治陵総拝所前に建つ藤原氏塋域の碑ですが、そうそうたる名が並んでいます

       返事 
花水木さん:ややこしいですよね。
    わかったつもりで書いていますが、すぐ忘れてしまうぐらいややこしいです。
     サッカーは単純な割に目が離せないし、あまりにもゴールが少ない。
    得点シーンだけ録画で見たらよいスポーツかもしれません。
     そろそろラグビーが始まりそうですが、
    昨年の興奮を皆さんが忘れていなければ良いのですが。

2020/10/4

藤原(北)家1.  天皇陵巡り番外
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 奈良時代から平安時代へと天皇陵巡りを続けながら、一緒に歴史の勉強もしてると、限りなく天皇家と藤原家は交じり合って、1000年頃の天皇は天皇家の人ではなく藤原家の人だと思ってしまいました。
 そもそも天皇家と藤原家の関わり合いは、藤原鎌足@(614〜669)が第38代天智天皇と蹴鞠で知り合い、奈良の多武峰にある談山神社の境内で、645年の大化の改新(乙巳の変)の談合をしてからです。
  写真は鎌足の長男で唐に渡っていた定慧和尚(ジョウエ)が建立した談山神社で、私がたまたま見れた蹴鞠の会です。
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 天智天皇の腹心の部下となった鎌足ですが、672年壬申の乱で政権が第40代天武天皇系に変わった時は、天智はもちろん鎌足ももう死んでおり、鎌足次男不比等A(659〜720)は13歳でした。
連座制で処罰を受けてもよい立場の不比等でしたが、不二山(富士山)のように比べることは出来ないような名前まで付いて、何故か天武→第41代持統天皇政権の中枢に入りこみ、養女宮子を第42代文武天皇に嫁がせ、出来た皇子第45代聖武天皇にも娘の光明子を嫁がせています。
以前の蘇我家と同じように藤原家がとってきた、娘を天皇に嫁がせる策の始まりです。
 そうして729年長屋王の変で、天武の望んだ皇親政治さえ終わらせたのは、不比等の4人の息子たち武智麻呂(南家)・房前B(フササキ)(681〜737)(北家)・宇合(ウマカイ)(式家)・麻呂(京家)の藤原四子体制です。
  写真は長屋王墓周囲にある長屋王公園です
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 写真の平城京を舞台に、藤原家と他の豪族や皇親との争いは続きましたが、宇合の式家は息子広嗣が738年広嗣の乱を起こし、五島列島宇久島まで逃げて捕まり、孫の種継(タネツグ)は長岡京遷都では貢献しましたが陰謀で射殺されています。
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 長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂(恵美押勝)(エミノオシカツ)が強大な権力と武力を握り、天皇に替わって政権を獲れそうなぐらいでしたが、764年恵美押勝の乱で予想外にもあっという間に敗れ、琵琶湖畔で敗死しました。
 麻呂の京家は、元々人材不足でそれほどは栄えていません。
  写真は滋賀県湖西の高島にある内湖の乙女ヶ池で、仲麻呂や一族がここで戦いに敗れ処刑された「勝野の鬼江(カツノノオニエ)」です。
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 次男房前Bの北家が何とか生き延び、藤原北家は恵美押勝の乱から学んだ、「なんぼ強くなっても社長(天皇)には成ろうとするな、社長に自分の娘を嫁がせ若社長(次期天皇)を産ませ、外祖父として大番頭(摂政関白)の地位を獲得して、そこで会社(日本)を実質我が物にする」と言う藤原家憲法で生きる道を選びました。
 房前の3男真楯C(マタテ)(715〜766)・真楯の次男内麻呂D(756〜812)・内麻呂の次男冬嗣E(フユツグ)(775〜826)達は、自分の娘が天皇の妃に成れなければ、弱い家の妃の息子が天皇に成るほうが得策だと、第50代桓武天皇の母親は渡来人でも良いとまでしています。
  写真は第49代光仁天皇夫人で第50代桓武天皇の母親になった渡来人の娘高野新笠の御陵です。

       返事
花水木さん:添臥を私も今回憶えましたが、
    もうこれを何と読むのか、確認しないと忘れていますよ。
     私の母は7人兄妹の末っ子で、父は4人兄妹の長男ですが、
    連れ合いも含めて、もう残ってるのは父方の叔母のみです。
    次は私の番がついに廻ってきてます。

2020/4/15

番外藤原基経の墓?  天皇陵巡り番外
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 新型コロナで、今朝の仕事も自粛中です。
 宇治の木幡(コハタ)にある許波多神社(コハタジンジャ)、645年に第35代皇極天皇が中臣鎌足に命じて、ここに社殿を造らせたという由緒正しい神社です。
 大化の改新の頃から、ここは藤原家と繋がっていたのです。
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 境内にある「お休み石」、天武天皇が近江の大津京から吉野に逃げる時に、途中ここに腰かけて休んだので、その後の壬申の乱に勝利したそうです。
やけに新しそうな石ですが、ここに腰かけて願えば、勝運が授かるので、この神社は競馬の神様でもあるので、もちろん私は腰かけて祈りました。
しかし以後も競馬の勝運は寄ってきていません。
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 伏見の施設の仕事の帰りにここに来たのは、石に腰かけるためではありません、この境内に宇治陵の36号陵があるからです。
しかしこの36号陵は、皇族ではなく藤原基経(フジワラノモトツネ)(836〜891)の墓と言われています。
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 そもそもこの宇治陵の治定自体が、藤原北家の墓か藤原北家ゆかりの皇后などの墓か判らないのを集めて、宇治陵として治定したようなので、なんか皇族とは思えないような人の墓を、宮内庁が管理してるのかもしれません。
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 藤原鎌足→不比等→房前(フササキ)→真楯(マタテ)→内麻呂→冬嗣→良房→基経と続き、以後も時平・忠平から道長に至る、藤原北家全盛時代を築いた基経です。
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 基経は、高潔な、なかなか良い人間の藤原長良(ナガラ)の三男として生まれましたが、時の権力者の叔父良房に見込まれ、その養子となりました。
清和・陽成・光孝・宇多と4代にわたり、ほぼ朝廷の実権を握り、ほぼ自分の思うとおりに政治や人事を動かして、実質上の関白になった人物です。
阿衡の紛議の時以外でも、気に入らないと政務をボイコットしたり、実の妹高子が反抗的だと毛嫌いしたり、なんか性格は悪い感じはします。
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 木幡近辺には、藤原北家ゆかりの墓がたくさんあったそうですが、あの道長の墓さえはっきりしません。
現在も続いている皇室と藤原家の関係にしては、意外と墓は軽視されてるようですね。
 でも、鎌足ゆかりの神社境内にあるこの墓が、基経の墓なら、基経も喜んでいるでしょうね。

      返事
花水木さん:育休なんて考えられなかった世代、
    長男はたまたま王子動物園で初めて歩いたんで、
    よく憶えていますが、
    次男や娘はどうなって歩きだしたのか、
    あまり記憶がありませんね。
     三遊亭朝橘・ユーチューブで検索して、
    落語自由研究にたどり着けました。
    めちゃくちゃ面白かったですよ!!
    あまりの阿保らしさにくじけずに続けて下さいね。  
    私のブログもこれくらいの高みを目指したいと、常々思ってます。

2020/3/25

番外58-2光孝天皇女御皇太后班子女王  天皇陵巡り番外
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 京都福王寺の五叉路ぐらいのバス道ですが、高雄や嵐山や金閣寺などに行く丁度別れ道になりますので、行楽の季節には昔からかなり混む交叉点です。
 この丁度角の一段高い所に建つのが福王寺神社(フクオウジジンジャ)です。
近くには文徳・光孝・宇多・村上・円融の御陵もあり、私が産まれ、大学時代も一人で過ごした鳴滝にも近いので、懐かしい場所でもあります。
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 この福王寺神社の祭神が、光孝天皇女御皇太后班子女王(ハンシ・ナカコジョオウ)(833〜900)で、福王寺神社由来のこの木の額には、この地が一説には班子女王の陵墓かとも伝えられている、と書いてありました。
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 第50代桓武天皇の皇子仲野親王は、あまり有名な人でもないのに、ここからまあ近い同じ嵐電沿線の帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅近くの、大きく立派な高畠墓(タカバタケノハカ)に葬られています。(昨年8月のブログ参照)
 この仲野親王の17人の子の一人が班子女王です。
光孝天皇がまだ時康親王時代にその妃になった班子女王ですが、家系的には従兄(仁明天皇)の息子と結婚したことに成ります。
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 夫の時康親王も気さくな人柄だったようですし、班子女王自身も至極お気楽な正確だったようです、知らんけど!
 時康親王(光孝天皇)自身の子供も40人ほどいるようですが、二人の間にも源元長(ミナモトノモトナガ)・是忠親王(コレタダ)・是貞親王(コレサダ)・定省親王(サダミ)の4皇子と4人の女の子、計8人の子をなしています。
その内綏子内親王(スイシ)は、第57代陽成天皇の妃になって、前々回のブログで陽成が贈った小倉百人一首の歌の相手方だったようです。
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 夫の時康親王が55歳で思いもかけずに第58代光孝天皇に成ったので、班子女王の子供も含めてすべての子を臣籍降下させましたが、最後に息子定省親王が復活して、光孝の死後第59代宇多天皇になったので、班子女王も皇太后を贈られています。
 息子宇多天皇の10年の在位をずっと見届け、息子の開いた仁和寺近くで、夫光孝や息子宇多の御陵近くのここに葬られたのなら、まあこの地が班子女王の陵であったとの説も納得できました。

2020/3/8

番外56-2清和天皇女御藤原高子  天皇陵巡り番外
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 私がこの天皇陵巡りを書いていて、いつも参考にさせてもらってるのは、ブログ「倭は国のまほろば・・・」と「邪馬台国大研究の天皇陵巡り」です。
 特に「倭は国の・・・」さんは、天皇・皇后陵を丹念にしかも年代順にきちっと廻られていて、写真もたくさん掲載されているので、分かり難い陵の場所を探すのに非常に役に立ってます。
以前の文徳天皇皇后明子の墓と伝えられてる姫見塚は、山梨県にあるそうで、私はパスしてますが、奈良の方なのに、ここもきっちり足を運ばれています。
今回の清和天皇女御藤原高子の後深草陵の場所は全く不明なのに、真宗院(シンシュウイン)の円空上人廟のある丘陵地だということで、そこも訪問されていました。
 治定されてないし、山梨県までは遠いので行けませんが、真宗院なら特養で朝働いた後、歩いて訪ねられるので、行ってきました。
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 藤原高子(フジワラノコウシ・タカイコ)(842〜910)は、藤原北家の長男長良(ナガラ)の娘で、後に父長良の弟でありより実力のある良房(ヨシフサ)の養子になって、藤原北家をより強力にした基経(モトツネ)の同母妹にもなります。
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 この高子さん、美人でしたので、次期天皇の妃にすべく、同母兄基経に育てられましたが、あろうことか天下のプレイボーイ在原業平と駆け落ちする、という事件を起こしてしまいました。
 そのほとぼりも冷めた頃、年増になった25歳で入内(ジュダイ)し、9歳年下の清和天皇の女御になりました。
 清和天皇との間には、年上の好リードもあってか、27歳で貞明親王(サダアキラシンノウ)(後の第57代陽成天皇)に続いて、貞保親王(サダヤス)と敦子内親王(アツコ・トンシ)を産んでいます。
 この円空上人廟のある丘が高子の後深草陵?
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 しかしながら、高子と時の権力者同母兄基経との仲は、まったく良くなかったようです。
長男貞明親王は陽成天皇になり、基経は摂政になりましたが、天皇の母として君臨する同母妹高子のことが気に入らなかったのか、基経は陽成天皇を早めに譲位させ、弟の貞保親王でもなく、あろうことかあまり姻戚関係のない年寄りの光孝天皇を指名しています。
 写真はこの丘の廟から深草の方を眺めています。
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 896年、もう未亡人になっていた55歳の頃に、高子さんは自分が建てた寺の座主善祐と密通したとして皇太后を廃されています(後に復権してますが)。
 少し病的な時の権力者同母兄基経に逆らい、熟女としてもなかなか頑張った高子さん、美人でもあるので、ちょっと逢ってみたかった女の人ですね。
 藤原北家のエースとして、跡継ぎの天皇もちゃんと産んでるのに、陵もはっきりしないとは、よほど基経さんに嫌われたのか、明治政府に嫌われたのか、まあその基経さんの墓もはっきりはしてませんがね。
 帰り道で、「しつけ教室」洋裁かなんかの教室?→いや子供の情操教育の教室?→単に犬のしつけ教室の広告でした。

      返事
大雪男さん:もう7年になるのですね!
    ありがとうございます!!
    確かインフルエンザに罹患してじっとしてる時に、
    私のブログをたまたま読んでもらってからですね。
    あの頃のブログの方が面白かった気はしますが、
    天皇陵巡りもよろしくお願いします!
花水木さん:私も子供の時に田舎で土葬をみてます。
    火葬の方がお金が(薪代)かかったのでしょうね。

2020/2/19

55番外天智天皇6世孫聖宝  天皇陵巡り番外
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 京都から奈良へ向かう街道の一部深草の辺りは、師団街道と呼ばれていますが、これは深草に第16師団の司令部が有った為で、今この跡地は聖母女学院になっています。
 この近くにも宮内庁治定のお墓があるというので、捜しました。
一度目は目の前を通過してるのに見落としまった、民家の狭い通路の向こう側に、それらしきものが見えるだけのお墓です。
他人の家に入るような感じで、少し心配しましたが、門の隙間を抜けて参拝しました。
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 奥まで入ると、小さな塚が有りました。
聖宝(ショウボウ)(832〜909)の墓です。
 天智天皇6(7)世孫と言うことなので、沓塚陵墓参考地(クツヅカリョウボサンコウチ)(伏見区深草)として宮内庁の管理になっていますので、55番ぐらいに入れ紹介します。
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 聖宝は香川県の塩飽諸島で生れ、空海の実弟真雅(シンガ)の弟子となりました。
やや権力にすり寄りがちな真雅とは、犬好き犬嫌いの違いもあってか、やや距離を置いた聖宝は、清廉潔白・豪胆な人柄だったようです。
真言宗の僧であり、醍醐寺の開祖とも言われてるので、塚の頂上の石碑に、その名理源大師○塚と書かれていました。
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 聖徳太子は「私は日本国に三度生まれ、その名には聖の字がある」と予言したそうで、これが聖徳太子・聖武天皇・聖宝の三人だそうです。
なんとも微妙な選び方ですね。
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 何故こんな遠い親戚のような人の墓が、宮内庁の管理になったのか、その理由は何なんでしょうかね。
陸軍の師団本部のうわさとして、この辺になんか天智天皇と繋がってる人の墓があるようだとの噂を聞いた師団長か誰かが「これはちゃんと綺麗にして宮内庁がしっかり管理せい」と言ったので、こうなったと私は思います。
まあ邪推でしょうが、管理してる割には分かり難い場所です。
でも中は予想より広く、綺麗でした。

     返事
花水木さん:「男と女」
    アヌーク・エーメさんは4度の結婚と離婚、
    ジャン=ルイさんは2度の結婚と離婚以外に、ブリジット・バルドーとの交際もあります。
    これぐらい馬力のある芸能人の方が楽しいですね。
大雪男さん:基本の骨組みも悪い上に、
    部品も壊れ始めていますので、
    色気ある男ではいたいのですが、
    単なる下品ないやらしいおじいちゃんになりそうです。
タグ: 師団街道

2019/12/11

嵯峨天皇皇子源融  天皇陵巡り番外
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 八瀬大原を抜けて、途中峠を越えて、滋賀県までよく車で行きますが、滋賀に入ってすぐの伊香立(イカダチ)の道路沿いに融神社の看板があって、「なんでここに融神社があるんだろう?」といつも思いながら走っていました。
この辺は融公の荘園があったからでした。
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 やっと今回この融神社にお参り出来ましたが、綺麗に整備されています。
融公を祀る全国唯一の神社だそうです(滋賀県大津市伊香立)。
 源融(ミナモトノトオル)(822〜895)は第52代嵯峨天皇と女宮の大原全子(オオハラノゼンシ)との間に産まれた皇子ですが、なんせ嵯峨天皇には50人ほどの子供がいたので、源氏の姓を賜り臣籍に降下しています。
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 周りの公家が亡くなったり、応天門の変(866年)などで失脚したので、急速に昇進し、左大臣まで上がっています。
 三代下になる第57代陽成天皇譲位の時には、自分も次期天皇に成る資格があるとも言ったかどうか、これは藤原基経(モトツネ)に、源氏に降下した後に即位した例はないと阻止されています。
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 源融の宇治の別邸は、後に藤原氏により平等院になりましたし、鴨川河原近くにあった六条河原院は、みちのく宮城の塩釜を摸した庭園があって、今も枳殻邸(キコクテイ)として残っています。
このため融公は、正一位河原左大臣と呼ばれていたそうで、小倉百人一首の14番に和歌が残っています。
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 又山荘であった栖霞観(セイカカン)は、この嵯峨釈迦堂清凉寺(右京区嵯峨釈迦堂)の境内にありましたし、
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この境内に同じくある、以前は御陵とされていた嵯峨天皇・檀林皇后宝塔の横には、源融の墓がありました。
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 この宝塔が墓所のようです。
嵯峨天皇の子供50人のうち、一番贅沢に生きたようで、「源氏物語」の光源氏のモデルであるとも言われてるのがこの融公です。

       返事
花水木さん:傾城(女郎)やまくらの字だけで、
    色っぽいと感じた私ですが、句の意味はもひとつ解かってないと思いますよ。
     まあ、紅葉を通り越して冬に入った私の姿より、
    紅葉の方が良いのは当たり前ですね。

2019/4/24

橘諸兄  天皇陵巡り番外
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 京都市伏見区にある老人ホームで午前中働いた後(午後からの他の病院での仕事は今年からやめています)、いつもならJR奈良線に乗って、京都駅の方に帰るのですが、この日は反対方向の電車に乗って、30分ほどの京都府南部、奈良にも近い井手町(イデチョウ)を目指しました。
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 新しい駅舎になったばかりのJR玉水(タマミズ)駅で降りて、木津川の流れの反対方向である東の方、山手を目指して20分ほど歩きました。
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 スマホの地図にも出てこないので、感を頼りに歩いて行って、やっと入り口を見つけました。
    橘諸兄公旧趾
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 竹林の中を走る寂しい道を少し歩いて、この石段に到着。
橘諸兄(タチバナノモロエ)(684〜757)、何をした人かもひとつ憶えていませんが、日本史の教科書には載っていて、名前が印象的なので憶えていました。
皆さんも名前だけはなんとなくご存知と思います。
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 諸兄の父は美努王(ミヌオウ)、母は県犬養美千代(橘美千代)で、第30代敏達天皇5世の孫にあたるそうです。
母美千代はその後藤原不比等の後妻になって、聖武天皇夫人の光明子(光明皇后)を産んでますので、諸兄は光明皇后の異父兄にもなります。
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 聖武天皇(妹の旦那になります)に仕えていましたが、藤原四兄弟や他の議政官(大臣・大納言・中納言・参議)が次々と天然痘で亡くなったので、自動的に官位が上がり、左大臣にまでなっています。
それと共に、政争にも巻き込まれ、藤原一族の巻き返しを狙った広嗣の乱(740年)や、孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂の台頭もあって、謀反の疑いまでかけられたた為、756年自ら潔く職を去って引退しました。
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 この旧趾(単に石碑を建てただけでしたが)から又駅の方に戻る途中に、この六角井戸がありました。
この辺りが本当に諸兄の別荘(玉井頓宮タマイトングウ)があった所らしく、このために諸兄は井手左大臣とも呼ばれていたようです。
 うろつきまわった聖武天皇が、この近くの恭仁京へ遷都した時に、ここを仮り宮ともしたと、案内板には書かれていました。
 橘諸兄の死後1年たって、諸兄の息子橘奈良麻呂(タチバナノナラマロ)は、藤原仲麻呂に対抗して乱を起こそうとしましたが、事前に密告により捕えられ獄死しています。
  橘奈良麻呂の乱(757年)

       返事
花水木さん:私たちは熟年夫婦以上、
    枯れきった老夫婦になっています。
     TV観たくないほど阪神弱いので、
    甘いものを食べて早く寝るしかありません。

2019/1/11

太安万侶  天皇陵巡り番外
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 第43代元明天皇の命により、稗田阿礼(ヒエダノアレ)の暗唱を元にした古事記を、編纂者として献上した太安万侶(オオノヤスマロ)は、学校の日本史でも学ぶ有名人ですね。
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 奈良の若草山の裏側にひろがる丘陵地である田原地区、その茶畑の中にこの太安万侶の墓はあります。
細い道の分かり難い道端に小さな道標があって、そこを少し上って行くとありました。
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 私もなんとなく記憶にありますが昭和51年1月、自分の茶畑を整地していた竹西英夫さんが偶然掘り当て、周辺の関係者の協力もあって発見された太安万侶墓(奈良市此瀬町)です。
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 茶畑の真ん中の斜面にある直径4.5ⅿの円墳ですが、火葬された骨と共に出土した銅製墓誌から、太安万侶の墓であると確定しています。
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 半分架空の人物かとも思える人が、墓誌に依りはっきりと実在の人と分かった好例です。

       返事
花水木さん:大正生まれの死亡診断書はまだよく書きます。
    明治に○するのは、最近経験なくなってきました。
    90歳以上でも昭和生まれですが、昭和は長いので、   
    4つの時代を生きるお姑さんはすごいですね。
     私の子供たちは昭和最後の方の産まれなので、
    昭和・平成・○・△と4つの元号を簡単に生きそうですが、
    私は△はちょっと無理かも?
    


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