蕎麦にまつわる話(2001年)
ここ10数年ほど前からでしょうか、飽食の時代に健康食として
脚光を浴びてきました。
それを新聞雑誌TV等のメディアがこぞって取り上げ、一つのジャンル
を作り上げてきました。
蕎麦業界の地位も上がって来て良いことだと思います。
しかし、過熱気味の気配もあります。
本来、原始農業、焼畑農業、栄養が無い土地を開墾するときに、
野山を焼いてその灰を肥料にして稗(ひえ)、粟(あわ)、蕎麦(そば)と
肥えた農地を作って行くと聞いてます。
はっきり言って、蕎麦は貧しい土地の作物だと思います。
米が収穫できる地に蕎麦は植えていないはずなんだが、違うかな。
五穀豊穣の五穀は普通,米,麦,粟,きび,豆で蕎麦は入って居ない。
松本から上高地へ向かう途中。左手に山形村が在る。
村の多くの民家がソバ屋をやっている。ソバ屋の前は全部ソバ畑。
10数年前、福井の「うるしや」さんという蕎麦屋へ行きました。
一日50食しか作らないと云う蕎麦屋です。
セイロ(ざるそば)しかありません。
辛いダイコンのお汁で食べるのです。
が、そこの親爺さんは、一流フランス料理のコックさんがテーブルを廻って、
お客の印象をたずねるように、テーブルを廻って客の伺いを立てるのです。
親爺「どちらからですか?。味はいかがですか?」
ボク「静岡からです。美味いです」
親爺「ああ、静岡には安田屋さんがありますねえ」
美味い不味いは別にして、辛いダイコンの汁で食べるのは、
クチに合いませんでした。が、その場を取り繕いました。
多分、静岡は鰹節が沢山あるからそれで出汁をとり、
福井の山の中では鰹節が高価であったので、地元で安く売られている
辛いダイコンでを汁にして食べたのだと思う。
笊蕎麦が700円でした。小さな笊(ざる)なので2杯必要でした。
やはり10年ほど前、東京の新宿の友人宅へ仲間20人ほど集まり、
「手打ち蕎麦職人 加藤晴之」氏を呼び、その友人宅で昼から夕方に
掛けて作って食べました。
出張蕎麦打ち人です。
女性のヘルパーを3人連れて蕎麦打ち道具を積んだワゴン車で来ました。
蕎麦の育った地域の良い水をポリタンクで入れて持ってきました。
庭に持ち込んだ蕎麦打ち台で蕎麦を打ち始め、1時間後くらいに小さな笊に乗せ、
仲間が待っているテーブルに持ってきました。小さな笊です。
加藤氏「
これは黒姫の蕎麦です。特徴は、あ〜たら、こ〜たら」
数口で食べ終わってしまいました。待ちきれなくなって酒、ワインを飲み始めてしまいました。また1時間後くらいに違った蕎麦が出てきました。
加藤氏「
これは赤城の蕎麦です。違いがわかりますか?」
1時間前に数口食べた蕎麦の味は、もうとっくに忘れてしまいました(笑)。
また1時間くらい経つと「
これは椎原(しいば)の蕎麦です」と持ってくるのです。
仲間は酔ってしまって味わうどころではありません(笑)。
夕方までに数種類の蕎麦を食べました。1人15,000円だったのを覚えています。
加藤氏「10人以上集めて戴ければ、静岡へも行きますよ」
実現しませんでした(笑)。
検索すると「蕎麦打ち 加藤晴之」で沢山出てきます。
俳優の加藤大介の息子とか云ってました。
デフレスパイラルによって外食の値段が下がって来ました。
牛丼250円マクドのハンバーガー100円の時代です。
ちょっと前、もり蕎麦350円、ざる蕎麦400円くらいでした。
海苔が50円か(笑)。
静岡にも色々な蕎麦屋さんがあります。ちょっと食べると2000円を
超してしまいます。特上の鰻丼と同じくらいの値段になってしまいます。
う〜む。なんだかなぁ?。
何か違うなぁ…。
時々各地へ行ったとき、「蕎麦粉」を購入してきます。
蕎麦を打つ気は全くないのですが、かきっぱなしの「そばがき」を作って
鰹節を乗せ、醤油をかけて食べてます。
製作時間3分です(笑)。しっかりと蕎麦の味がします。
加藤晴之氏、プロフィール
http://blog.goo.ne.jp/tetsu814-august/e/c22874e47092fcb337960a15b367211e
役者の加東大介の息子、加藤晴之がSONYのデザイナーを辞めて出前蕎麦屋を始めるまでのお話し。本人も書いているが、「多くの人との出会いと支えが導いてくれた」、読者である僕から見ると、役者の父親の力は亡くなってからもシッカリと息子のことを心配していて助けてくれているようである。筆者の現在の妻は中学時代の同級生、真弓さん、彼女がまるで女神のように加藤を見守っている。前の妻は黒澤明監督の娘和子、黒澤と加東大介は親友であり、その娘とは幼なじみだったそうだ。だから黒澤久雄と林寛子とも知り合いであり、津川雅彦とはいとこ同士であるため、朝丘雪路とも顔見知りである。こうした親戚づきあいの中から生まれるネットワークがそこここで筆者を助けている。
成城学園の実家から成城大学に進むが、自分には向いていないと1年生で退学、親に頼んで2ヶ月の欧州旅行をさせてもらう。イタリアで母の知り合いの日本人デザイナーからアドバイスを貰い、デザインの勉強のために武蔵野美術大学に入学。イタリア語を習い始めるとその先生からイタリアのデザインの名門会社のデザイナー宮川秀之に紹介してもらう。実は加東大介はトヨタスポンサーの芝居をやっていたときに時のトヨタ社長から宮川秀之を息子に会えるよう手配していたのだ。そして宮川秀之が日本に来る時のドライバーになる。そこで宮川秀之が連れてきたのがジウジアーロ、その会社というのがイタル社であった。こうした時に父加東大介は死んでしまうのだが、父の息子への思いはいくつもの恩恵を加藤晴之にもたらしている。通夜の席上、黒澤明の娘和子との婚約を発表、長男隆之とともにイタリアでデザイナー修行をするためイタル社でジウジアーロの元で勉強をさせてもらう。
和子との離婚の経緯は触れられていないが、その後真弓と再婚、SONYでデザイナーに、デレビ”Profile”などのデザインを出がける。あるとき、自然食に目覚めた加藤はSONYを退社して母の八ヶ岳の別荘に移住することを決める。八ヶ岳には知り合いはいなかったが、カナディアンファームという自然の中で暮らす人に出会い、そこから畑を貸してくれる人に出会う。そこで借りたのが二反、600坪の畑であった。その地で長女なおを設け、一年目から地元の人達に助けられて自然野菜を作ることができた。そんな時、東京では行けなかった蕎麦の名店「翁」が八ヶ岳にあることを知る。すぐに出かけていき翁の高橋邦弘さんと知り合う。高橋邦弘は加藤に蕎麦を自然農法で育ててみないかとオファーを受ける。一も二もなく引き受けた加藤、自然農法で1年かけて蕎麦を育てて200Kgのソバが収穫できた。翁の高橋邦弘にさっそく手渡すと、蕎麦屋の設備を使って製粉をさせてくれるという。そして製麺道具一式を借りることになる。
SONYを退職した加藤には退職金が手元にあったが、それも尽きてしまい、母に借金、どうして暮らしていくのかを考える。そこで出てきたアイデアが「蕎麦屋になる」ということ。翁の高橋邦弘に弟子入りを頼み込み、3ヶ月半の修行で蕎麦打ちの基本をマスターする。そして思いついたのが出前蕎麦打ち、という商売。最初のお客はSONYの当時の会長、社長であった大賀、盛田であり、役員家族のパーティ会場での手打ち蕎麦サービスというものであった。ダイレクトメールを出すのにアイデアを暮れたのはSONY時代の上司黒木取締役、黒木の紹介で雑誌ターザンに出前蕎麦打ちの記事を書いてもらい、イタリアの宮川秀之の紹介で日経トレンディーにも記事が出た。こうした取材や記事のお陰で予約は入り仕事は順風満帆であった。
なんと羨ましいお話だろうか。妻もこどももいて、やりたいことをやらせてもらって、生活の心配もある中で、人に支えられてやりたいことができる。ビジネスを目指しているのではなく、アートを目指すとはこういう生き方なのだろう。そういえば家にも蕎麦打ちセット一式があった、僕も蕎麦打ち、やってみたくなった。