1996年(平成8年)の9月以降、ヨットハーバー移転のため、今までより遠くなった。台風の被害で多くの艇は上架をし修理をしたりして、その秋は終わってしまった。
サムシングVも1996年(平成8年)9月から1998年(平成10年)12月までの約2年間を仮ヨットハーバーで過ごした。でも貝島でのヨットライフの思い出は、今となってはあまり残っていない。元々埋め立て予定地なので海底が凸凹。海底のチェーンが落ち着かない。でかいコンクリート片、沼地になっていて、2度潜ったが往生した。巻き上げる泥で作業している指先が見えないのだ。某工場の敷地内を通って海へアプローチするので、面倒だった。当然夕方には敷地内から出て行かなくてはならない。
ここで乗っていても楽しくないので、1996年の12月は日本を飛び出し南太平洋へ向かった。
http://www.the-support.net/something/fiji/fiji.html
1997年(平成9年)には公営新設マリーナ【仮称:日の出ヨットピア】に係留する全てのヨット104艇を取りまとめる必要に迫られた。今までのグループとは全く別な組織作りが必要になったのだ。104艇の全てが所属する「ヨット連絡会」を数人の仲間と企画し、全メンバーに呼び掛け、この会を作る必要性を説いた。これは紆余曲折を経て一年がかりで結成した。非常に難産であった。そしてヨット協会が30年掛けて作ってきたハーバーの運営規則は不要になった。
※注意
こうやって書いていると、私自身が色々な事をやったように読める場合があるかもしれないが、それは大間違い。実際はもっともっと大勢の人達が知恵を出し合い、時間をさいて話し合ってくれた結果なんです。ボクは疲れ果ててしまったのです(笑)。
そんな事とは関係なく、工事は着々と進んでいる。1997年(平成9年)の航空写真。
その年の12月の終わり頃には「ヨット連絡会」の第一回目の会合を開くことが出来た。この間には、何人もの議員を通じてさまざまな事で行政に働きかけたり、会員の意思統一を図ったり、それはそれはトンでもない労力を使った。
成り行き上、幹事の役をせざるを得なかった。数人の方にお願いしてゼロ年度、発足前の幹事になっていただいた。ヨット連絡会の準備委員会である。
今までのルールだけでは対処できない問題だらけだった。このマリーナは公営のマリーナだけど、清水港に1991年以前から係留している所謂不法係留ヨット(自分達は不法繋留だと思っていなかったが…)が対象となっているのである。従って或る意味、新規係留艇は係留できないのだ。また係留費の問題、管理の問題、運営の問題…行政と折衝することは山ほどあった。連絡会の会則を何度も何度も会合を開いて新規に作成した。ヨット連絡会の会費も別途必要になってきた。
多分、ヨットに乗った回数より数倍の会合が在ったのではないかな(泣)。
Aバース、Bバース、Cバースの3つの大きな桟橋が出来ることが分かった。その各バースの一部が1998年(平成10年)の3月に完成する。そして4月に30艇が移動可能になる。その時の30艇を決める方法を検討した。そして実際に移動した。3月28日にはオープンセレモニーも開催した。
その年、1998年(平成10年)の12月には全部のポンツーンが完成し、全艇が帰って来ることが出来た。ここへ戻って来るにも係留場所を決める抽選会、その抽選方法を考える。艇の大きさによってクラス分けを決定した。
その艇には自動的に1番から104番までの番号が付いた。
役員の選出方法も考えた。誰しもが役員になってもらう方法を考えた。
自動的に付いた艇番号から
初年度は1、11、21、31、41、〜101番
2年目は2、12、22、32、42、〜102番
3年目は3、13、23、33、43、〜103番という具合に
10年に一度は役員をやってもらう方法を決定した。
翌年の1999年(平成11年)の10月には電気、水道がポンツーン上に設置され、使うことが出来るようになった。万歳である。
電気料金、水道料金の問題も発生。
もうこれらは新役員にお任せしよう。
長年、夢に見たヨットハーバーが完成した。歩いて自分の艇に行けるのだ。
昨年生まれた子供を連れて安全にヨットへ乗り込むことが出来る。ベビーカーだって押して行けるのだ。
1999年(平成11年)1月1日のポンツーンでの画像である。ピカピカのポンツーン。
まだまだ問題は続いていたが、「あとはよろしく」と次年度以降の役員さんへお任せ(笑)。