東日本豪雨で被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
1974年、昭和49年、七夕豪雨、ボクらの同年代は体験し、覚えているが
次第に記憶が危うくなってくる人も居るので、ここに記しておく。
残念ながら写真はない。
どこかで見つかったら、その時にアップする。
1974年(昭和49年)7月7日は日曜日だった。
静岡県知事選と参議院選挙があった日だった。
テレビで開票速報を流しながら、被害状況を伝えていた。
夕方まで清水の七夕を当時の知人と楽しんで、巴川沿いに在ったマリンショップ
「キングノット」に立ち寄った。
雨がひどくなってきたので、午後8時頃、静岡へ向かって帰り始めた。
静岡に戻ってくるときに既に国道一号(静清国道)は豪雨だった。
ワイパーが動いていても、前が見えない状態。
駅南の西島に住んでいる知人を送るため柚木の地下道へ左折しようとしたけど、
地下道はすでに冠水。
国一を、もうすこし西進して静岡駅前を通過。松坂屋前はかなり冠水していた。
現在の商工会議所が在る場所に、宝台橋がありました。
昭和通りの南端です。その橋をを通り、大浜街道を通って西島へ。
http://blog.goo.ne.jp/aoikunoaoikun/e/6d8a6cc8322965f7adc3477ace7f2d5b
知人を西島で降ろしてUターン。
駅北へ向かう。
再び宝台橋へ戻ってきたら、国一側はタイヤ半分まで冠水。
国一を振り切って昭和通りを北上。安西まで戻りました。危うかった(笑)
戻った後、弟を連れてヨット用のカッパを着て自転車でもう一度静岡駅へ向かった。
この景色は見ておかないとならないと、思った。
昭和通り、茶町通り、呉服町通り、両替町通り、御幸町通り、南北の通りは
荒れた川のように流れていました。
波頭が、思いの外大きかった。
現在の葵タワーの処に東海軒があり、その南側に地下道があったのですが、
それも冠水していました。
東海軒の前で立ち往生していた車から「弁当を買って欲しい」の要請で
お金を受け取り、買って上げたコトを覚えています(笑)
自宅、事務所、倉庫に浸水はなかったが、土場に置いてあったリグナムバイタという
超重量級の木材が、動いていた。
http://white.ap.teacup.com/something/857.html
翌7月8日(月)
雨は止んで、快晴。真っ青い青空を覚えています。
新聞は届かないけど、テレビが大騒ぎしています。
どうも、大岩で山が崩れたようだ。
自転車に乗って見に行きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/apollo11moonwater/52368617.html
もう一つ。
この7月8日は、会社の移転先の土地を購入する契約日だったのです。
岳美町、グランド青湖の隣の梨畑。約300坪。
その当日、その土地は水深2m。
安くすると不動産屋さんは言ったけど、買わなかった(笑)
けど、半値で買っておけば良かったかも(泣)。
また、瀬名方面の川合では長尾川橋のたもとで土手が決壊して、
巴川とくっついてしまった。
知人がここに店を構えていたので、お見舞いに行った記憶があります。
住宅、店舗、商品が巴川に流出したとききました。
そして巴川は決壊しました。
ちなみに、巴川は源流から清水港の河口まで、約18km。標高差8mという川です。
勾配がほとんど無く、ゆったりと流れています。もともと水が流れにくいのです。
一方、一級河川の安倍川は源流の梅ヶ島から河口まで約47km。
標高差2000mという急勾配。
翌々日、清水に住んでいるイトコから電話。
国一も北街道も通れない。
国鉄も、静岡鉄道の電車も車も不通。
「東京へ行くために新幹線に乗りたい。バイクで行くので静岡でバイクを預かって欲しい」
新幹線は動いていたようでした。
関連記事
http://shizuoka.veritas.jp/tomoe/5-tanaba.htm
静鉄電車七夕豪雨 復旧の記録
http://www4.tokai.or.jp/s.tetudourekisi/shizutetsu/shizutetsu0b.htm
丸子川決壊
http://www.sankei.com/region/news/150707/rgn1507070018-n1.html
動画
mms://stw.mm22.jp/cityshizuoka_vod/city_info_h22_056.wmv
七夕豪雨(上) 「すべて水の底に沈んだ」
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◆不気味な「白い海」
「土手より高い位置で川が波打っていたんだ。怖いと感じるよりも先に、『不思議だなあ』とただただあっけにとられていた」。静岡市駿河区丸子の柴山信夫さん(90)は、昭和49年の七夕の夜をそう振り返る。
当時、市水防団丸子川分団の副分団長だった柴山さんは同年6月に起きた宇津ノ谷峠の土砂崩れの再発に備え、数日前に水防団の仲間とともに1千俵あまりの土嚢(どのう)を作り上げたばかりだった。7日午後10時半ごろには、自宅のすぐ近くを流れる丸子川が30分に約1メートル水位を増す勢いで急激に増水。約300人の水防団員に全員出動の指令を出し、準備した土嚢を持って水のあふれ始めた地点に向かった。
「下流の方が危ないぞ」。日付の変わった8日午前0時過ぎ、水防団の本部に入った急報を受けて現場に駆けつけると、土手の消えた一帯は真っ暗闇の中に不気味に輝く「白い海」と化していた。住民の避難場所となった長田西小学校の運動場も、すでにひざが隠れるほどの水位に。避難してきた住民の「早く開けて」という悲鳴が響く中、警察官が校舎のガラス戸を破り、なんとか難を逃れた。
車やプロパンガスのボンベが川を流れる異様な光景…。夜通し数十メートルにわたって決壊した2カ所の復旧作業を進め、朝を迎えた。目に映ったのは、「すべて水の底に沈んだ」丸子の集落。柴山さんは放心状態のまま不眠不休で作業を続け、決壊から35時間が過ぎた9日正午、ようやく仮せき止めが終わった。
◆41年後の警鐘
「七夕豪雨」の名で知られる49年7月7日から翌8日にかけての集中豪雨は、総雨量が508ミリに達し、静岡市と清水市(現在の静岡市清水区)で家屋の倒壊や浸水被害が相次ぎ27人が犠牲になった。浸水面積は2584ヘクタールに及び、「巴川流域七夕豪雨二十年誌」には「本県の水害史上特筆すべき大災害」と記されている。
大洪水で決壊が起きた丸子川や長尾川などの河川では、甚大な被害を受けて県と市が共同で護岸工事を実施。特に勾配が緩く過去にも水害を引き起こしていた巴川は、53年に全国初の「総合治水対策特定河川」に指定された。
県静岡土木事務所によると、総延長約11キロの丸子川の河川改修工事は平成16年までに完了。巴川流域でも、1秒間に25メートルプール約1杯分の水を流すことが可能な大谷川放水路や、約9300杯分の水をためておける麻機遊水地が整備された。現在は管内の9河川について26台のライブカメラで常時監視しており、同事務所の担当者は「現状で取れる対策はすべて取っている」と話す。
だが、そもそも「自然」を相手に万全の備えなど存在するのか。“あの夜”から41年。柴山さんは「自分の想像を超えた事態が起き得ることを忘れてしまうのが一番怖い」と警鐘を鳴らす。
「日頃から備えていても、雨そのものは防ぎようがない。誰かが災害の怖さ、恐ろしさを伝えていかないといけない」(村嶋和樹)
◇
今年は戦後70年。県内で発生し、社会に大きな影響を与えた事件、事故の記憶をたどる。
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【用語解説】七夕豪雨
昭和49年7月7日夜に静岡市付近で発生した集中豪雨。台風8号の影響で梅雨前線の活動が活発になり、県中西部を中心に1時間あたりの降水量が80ミリを超える猛烈な雨となった。静岡市と清水市(現在の静岡市清水区)では各所で河川の氾濫や決壊が発生し、家屋の倒壊や土砂崩れで27人が死亡。翌8日午前9時までの24時間降水量は508ミリに達し、両市で計2万6156戸が家屋流出や浸水の被害に遭った。