「井田八幡神社」のすぐ南の井田町の交差点を西に向かうと南側に 八反田公園がある。その東側入口に「井田城址」の碑が建てられている。「井田城址」は、昭和53年(1978)に発掘調査が行われている。東西約66m、南北約67mの規模で、東側に残っていた土塁は、高さ約1.2m、幅約5m、堀はU字型に掘り込まれており、幅約3.6m、深さは0.5〜1mあった。かまどの跡や井戸跡も発見され、瀬戸焼・美濃焼の天目茶碗や鉄釉・灰釉・黄瀬戸・織部の皿、灰釉香炉、すり鉢、羽釜、内耳鍋などの室町時代以降のものが多く出土している。「井田城址」は、室町時代以降の土豪の居館であったと推測される。
『古城主覚記』には、浅井源四郎、浅井与九郎、林三郎兵衛の名が城主として記され、また、明徳年中(1390〜1393)には、浅井玄蕃が居城したと『井田八幡社社伝』に記録されている。「井田城跡」は、寛政5年(1793)の井田村略図にも古城として描かれており、周りの水田よりも一段高い畑になり残っていたことから、地元の人々からは城山と呼ばれていた。
尾張旭市には、7つの城跡があったことが知られているが、村絵図などをみると、そのほとんどが水路沿いまたは水田のなかにある。発掘調査の結果とあわせて考えると、水田地域を支配していた土豪層がこれらの城を築いたものと思われる。
