明和高校の西側の外堀との間の通りを枳穀(きこく)坂というが、今日の枳穀坂は、イチョウの落ち葉で黄色い絨毯状態であった。
枳穀とは白い花の咲く「からたち」のことである。「からたち」には鋭い刺があるので、盗人や不審者を防ぐ意味合いがあった。江戸時代には、外堀の土手側と成瀬家の中屋敷(現在の明和高校の場所)側の双方に枳穀が植えられ、万一の場合はこの枳穀をもって防御柵とするために植えられたのである。
現在の瀬戸電東大手駅の場所は、江戸時代には名古屋城の東大手門があったところである。東大手門は、東門とも呼ばれ、三の丸から東方に出る門であった。東大手門から北へ枳穀坂を下った地を「土居下」という。ここには、東矢来木戸(ひがしやらいきど)があり、いつも固く閉ざされていた。。(「矢来」とは、竹や丸太を縦横に粗く組んで作った囲いのことをいう。)万一の時に藩主が名古屋城の埋門(うずみもん)からぬけ出し、この土居下を経て、木曽路に落ち延びてゆくための非常口の木戸であったからだ。
この非常口を守っていたのが御土居下屋敷の同心たちであった。彼らは忍者集団であるが、剣術・柔術・弓術・馬術・忍術・水泳・砲術・軍学など武芸だけでなく、儒学・漢詩・書道・絵画・笛・茶道など諸道全般にわたるプロフェッショナルとして代々其の秘技を子孫に伝えた。この御土居下同心については別稿で詳述したい。

イチョウの落葉の絨毯。

土居下同心屋敷跡の碑

西側は現在、名古屋市の交通局の敷地となっている。