名古屋城二の丸の「那古野城跡」碑のある場所から東西の通路をはさんだ南の植え込みの中に「青松葉事件之遺跡」の碑が建っている。
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こった。薩摩・長州軍を中核とした官軍と旧幕府軍の衝突である。ここから一年半にわたる戊辰戦争が始まる。その直後の1月20日、尾張藩では二之丸御殿向屋敷(現在の愛知県体育館東南隅)の庭前で渡辺新左衛門在綱、榊原勘解由正帰、石川内蔵允照英の三重臣が斬首となった。ついで佐幕派とされる同士11人も処刑された。いわゆる青松葉事件である。
青松葉というのは、渡辺新左衛門家のことで、藩内に多数ある同族一門と区別するために青松葉家と称していたのである。なお、渡辺家は片端筋、堅杉町東南角にあった。
当時、前藩主の徳川慶勝は、新政府の「議定」に任命されており、藩士の田宮如雲、田中不二麿、丹羽賢の3名も「参与」として新政府に参画し京都にいた。
国許から、佐幕派が幼主義宜を奉じて幕府軍に投ずる計画があるという注進を受けた慶勝はただちに許しを得て、京都から名古屋に帰る。そして、三重臣を拘束し「朝命によって死を賜るものなり」と告げただけでその理由を言うことも無く、また何の抗弁の機会を与えることなく、斬首に処したのである。
その後、尾張藩は官軍の主力として中仙道から東北で転戦した。藩論を短期間に勤王に統一するために、更には新政府での保身のためにも藩内の佐幕派勢力を一掃しておく必要があった故の粛清であったと考えられる。
この事件については、箝口令が布かれ、関連した資料や日記は抹消された。長い間、その真相はまったく不詳で、幻の事件とされてきた。

名古屋城二の丸 「青松葉事件之遺跡」の碑

高須4兄弟 向かって右から
尾張徳川慶勝(55歳) 一橋茂栄(48歳)
会津松平容保(44歳) 桑名松平定敬(33歳)
明治11年9月撮影
(高須藩は尾張藩の支藩。この4兄弟の祖父は水戸藩から高須藩に養子に入った義和。母は水戸斉昭の実姉。4兄弟はそれぞれ尾張、一橋、会津、桑名の藩主として養子に入る。)