開国前後にコレラなど、諸外国からもたらされたと思われる伝染病が頻繁に発生し、その対策医療が明治新政府の重要な政策課題のひとつとなっていた。
名古屋でも、明治維新直後、先に取り上げた伊藤圭介、石井隆庵、中島三伯の元奥医師3名が連署して、洋医学校を設立すべきことを名古屋藩に建議した。その結果、廃藩置県後の明治4年(1871)8月、名古屋県「仮医学校」・「仮病院」が開設された。「仮医学校」は、名古屋城の南外堀のほぼ中央に架かる本町橋の南東にあった旧名古屋藩の評定所跡地に、「仮病院」もその西側、本町通りを挟んで向かい側にあった同じく旧名古屋藩の名古屋町奉行所跡地に設けられた。現在、「仮医学校」跡地が愛知県産業貿易館本館、「仮病院」跡地が同会館西館になっている。
「仮病院」は半年後の翌年2月にいったん廃止され、「仮医学校」の方も同年8月の学制変革により廃校に及んだ。しかし、同年8月には「仮医学校」職員らの有志により「義病院」の名称で同じ場所で再開された。ただこの「義病院」は財政難から、明治6年(1873)2月にはまたもや閉院になった。
「義病院」の閉院3ヵ月後に、愛知県は名古屋市中区門前町の西本願寺掛所(別院)に「仮病院」(明治8年(1875)1月以降、「愛知県病院」となる)を復興した。「義病院」が財政難から閉院に至った教訓を活かし、この時の病院復興に際しては財源面・人事面ともに全面的な民間依存策が採られた。その結果、本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)・高田派のいわゆる真宗三派が、信徒からの喜捨を募って5万円もの巨額を拠出した。
当時、「仮病院」には、ドイツ系アメリカ人医師
ヨングハンスが雇われ西洋医学の普及に尽力した。当時、愛知県下では医師の約8割が漢方医であった状況において、彼は県下の医師に対して、自らの診療公開や死体解剖の実演等を行って西洋医学の啓蒙・普及に貢献した。また彼は、明治7年(1874)に日本初といわれる皮膚移植手術も行っている。11月には病院内に「医学講習場」も設けられ、
ヨングハンスが英語による医学教育を行っている。彼の生理学の講義録(口語訳)『原生要論』(1876年刊)が、現在、名古屋大学附属図書館医学部分館に残されてる。
この「仮病院」(「愛知県病院」)・「医学講習場」は、当時の西洋医学受容の尖端的拠点ともいえる場所であり、その後、幾多の変遷を経て今日の「名古屋大学医学部」に受け継がれて来るのである。
その後の流れは
明治10年(1877) 中区天王崎(現在の栄一丁目)に移転。
明治11年(1878) 「公立医学校」となる。
明治14年(1881) 「愛知医学校」となる。
明治34年(1901) 「愛知県立医学校」となる。
明治36年(1903) 「愛知県立医学専門学校」となる。
大正03年(1914) 中区(現昭和区)鶴舞町に校舎を新築、移転。
大正09年(1920) 大学令による「愛知医科大学」となる。
昭和06年(1931) 官立移管され「名古屋医科大学」と改称。
昭和14年(1939) 名古屋医科大学を基に、「名古屋帝国大学医学部」となる。
昭和22年(1947) 「名古屋大学」と改称。

「仮医学校」跡の案内表示。

愛知県産業貿易会館西館前にある「仮医学校」跡の案内表示。

江戸時代の絵図に描かれた「評定所」と「町奉行所」

本町橋

「仮病院」(「愛知県病院」)・「医学講習場」跡

西本願寺別院に建てられた「愛知医学校址」の案内表示。

「医学講習場」の学生たち

中央に医師
ヨングハンス

「愛知県立医学専門学校」校舎。中区天王崎。

「名古屋医科大学」校舎(1927撮影)。中区(現昭和区)鶴舞。