伊藤圭介の本草学の先生は、水谷豊文(ほうぶん)である。
豊文の父は尾張藩士水谷友之右衛門。その長男として安永8年(1789)に名古屋で生まれ、享和2年(1802)禄二百石、馬廻組の家督を継いだ。同3年(1803)大番組、文政6年(1823)広敷詰となる。松平君山門下の本草家であった父の影響を受けて本草に志し、浅野春道次いで小野蘭山に師事、さらに尾張初の蘭方医といわれる野村立栄から蘭学をも修める。
のちに藩の薬園の監督を命ぜられ、御園町の自邸内にも植物園を作り、その種類は二千余に及んだといわれる。
一方、伊勢・近江・美濃・木曾などに採集旅行も行っている。門人に大河内存真・伊藤圭介兄弟をはじめ、吉雄常三・石黒済庵・大窪昌章・舎人重巨など多くの俊秀があり、江戸・京都・美濃などの諸大家とも交友が広く、尾張本草界の中心人物となった。
文政9年(1826)、江戸へ向かうシーボルトを熱田宮に迎え、自製の植物標本類を示した。これを機会に両者の間に交渉が始まり、シーボルトは豊文に対して高い評価を与えている。また、同志を集めて本草会を開き、相互の研究の場とした。「嘗百社」(しょうひゃくしゃ)と名付けられ、毎月例会を開き薬品会も開催した。(“嘗百”とは、古代中国の炎帝神農が百草を嘗めて薬効の能毒を知ったとの故事から名付けられたものである)「嘗百社」は、豊文の没後も伊藤圭介らにより続けられた。豊文は、天保4年(1833)に病死している。
著書は代表作の『物品識名』『物品識名拾遺』をはじめ『本草綱目記聞』『木曾採薬記』『山草譜』などがある。天保6年(1835)、豊文三回忌追善のため同志・門人らが南寺町一行院において本草会を開催、その時の出品目録が『乙未 本草会物品目録』として出版されている。

水谷豊文著 文化6年(1809)刊 名古屋永楽屋東四郎

国会図書館が所蔵する「水谷禽譜(キンプ)」

「水谷禽譜」には、このオウムに始まり様々な鳥類の図が納められている。

「仏法僧」の図。

国会図書館蔵「虫豸(チュウチ)写真」。

こちらは、昆虫の図鑑。クワガタムシ。

アゲハチョウ。
*国会図書館の「貴重書画像データベース」は、一見の価値があります。
http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_com_menu.jsp