名古屋城三の丸から本町橋を渡った本町通りの両角に尾張藩の評定所と町方役所があった。現在の産業貿易会館である。その西館を外堀通りに沿って少し西に行くと「那古野神社」の社殿と杜が見えてくる。“ナゴヤジンジャ”と発音しているが、江戸時代以前は「那古野荘」を“ナゴノショウ”と発音しているので、地名としては“ナゴノ”の方が古い。
江戸時代には「三之丸天王社」と呼ばれ、名古屋城内三之丸に「東照宮」とともに祀られていた。「亀尾天王社」とも呼ばれたこの「三之丸天王社」は、名古屋城築城の慶長15年(1610)以前から鎮座しており、その創建は醍醐天皇の延喜11年(911)に遡ると伝えられる。隣には「若宮社」があったが、名古屋築城とともに現在の若宮の地に移転した。
「三之丸天王社」は、明治維新の際に「須佐之男神社」と改称され、同9年(1876)城内に名古屋鎮台が設置されため、藩校の明倫堂があった現在地に移転した。明治32年(1899)に現在の名前の「那古野神社」に改称された。
御祭神は、「須佐之男神」(スサノオノミコト)と「櫛稲田姫神」(クシイナダヒメノミコト)である。京都の八坂神社や津島神社と同じく、疫病退散を祈願する神社として盛んに信仰されてきた。
太平洋戦争中には空襲により社殿を全焼し、昭和29年(1954)から復興にとりかかり、同34年(1959)に現在の社殿が完成した。
例祭は7月15日・16日の両日。この例祭は「三之丸天王祭」と呼ばれ、江戸時代には、二輛の「車楽」(だんじり)が出て大いに賑わったという。一輛は名古屋村と広井村、もう一輛は車ノ町と益屋町が交替で当番に当たった。宵祭りには提灯を飾り、翌日の朝祭では屋形を組み、能人形を乗せたという。「車楽」は、名古屋城外堀に面した片端に据え置かれたので「片端檀尻車朝祭」という題名の団扇絵にもなっている。(参照 尾崎久弥著「名古屋名所団扇繪集」)
高力猿猴庵の『尾張年中行事絵抄』によると、『御郭内天王、片端車楽朝祭。此日早朝、二輛の車を飾り、上の段には山形に屋台有りて、人形を置く。能人形にして、先車は高砂、跡車は室君なり。山の頂上には松を立、屋台の軒には桃の造花を飾る。....』とある。
かつての「車楽」は戦災で焼失し、残念ながら残っていない。現在の祭礼では、消失を免れた旧茶屋町の「車楽」を組み立て境内に飾っている。
江戸時代には、この「車楽」に対するお見舞い、献灯車として多くの山車が造られた。7代尾張藩主徳川宗春とともに、祭り好きな殿様として有名な10代藩主斎朝が、車之町に胡蝶の舞の人形を据えた小車を与えたのが「見舞車」の起源とされている。最盛期には天王社氏子の車之町、益屋町、名古屋村、広井村、戸田道から16輛もの「見舞車」が曳き出されたといわれる。この「見舞車」も、明治維新で氏子区域の変更や祭礼形態の変更があったため、よそへ売られたり自町の祭りに曳かれるようになり、那古野神社の祭礼に参加することはなくなった。
現在、名古屋市内に残る「見舞車」は中村区の「紅葉狩車」・「二福神車」・「唐子車」と東区の「神皇車」の4台であるが,常滑市西之口と美濃市にも譲渡された「見舞車」が現存している。
天王社の祭礼は、江戸時代には「東照宮祭」・「若宮祭」とともに名古屋三大祭りに数えられ名古屋城下を代表する祭りであった。また若宮八幡社の「若宮祭」と同一日の祭礼であったため総称して「祇園祭」とも呼ばれていた。

那古野神社

那古野神社境内

尾張名所図絵 亀尾天王社

天王社 棟札 享保二十年(1735)銘 表裏 宗春の名が見える

張州雑誌草稿

「片端檀尻車朝祭」の団扇絵

朝祭に車楽に載せられた能人形(朝祭人形)。
左が『婆』、右が『尉』。この能人形は「楊貴妃」と「玄宗皇帝」といわれている。

境内に組み立てられた旧茶屋町の「車楽」。

現在は、神輿が出て若宮社まで練り歩く。担ぎ手の男たちの赤褌が勇ましい。