名古屋東照宮の西側の通り(長島町通り)の東照宮ビルの一角に案内表示と石碑が並んでいる。表示板には、名古屋築城以前からあった樹齢400年の「ムクノキ」と「横井也有出生地」の案内が記されている。石碑には横井也有の俳句が刻まれ、その横には、明治5年(1872)開校の明倫尋常小学校跡(昭和20年3月焼失)の碑がある。
さて、横井也有の生家は、代々横井孫右衛門を称し、尾張藩の重臣として仕え、明倫堂の西側の地に屋敷を構えていた。横井也有(本名時般“ときつら”)は、元禄15年(1702)にこの地に生れた。也有は、武士として武術に優れ、また儒学を中心とした学問も究め、大番頭や寺社奉行などの要職を務めた。その一方、也有は若い頃から俳人としても名をなし、俳文家でもあった。『鶉衣』(うずらごろも)は、彼の最も名高い俳文集である。
也有の死後(天明3年(1783)82歳で亡くなる)、天明の狂歌師大田蜀山人が、たまたまその写本の一部を読んで感激し、『鶉衣』として世に出ることとなった。
後に、永井荷風は「日本の文明滅びざるかぎり、日本の言語に漢字の用あるかぎり、千年の後と雖も必ず日本文の模範となるべきもの」と『鶉衣』を絶賛している。
東別院の北にある長栄寺という寺の本堂前に、「蘿塚」(らづか)と呼ばれる石碑がある。横井也有の従僕であり門人でもあった石原文樵が、その恩義に報いるため也有の髪と爪を乞い、建立したものである。也有が好んだツタがからませてあったのでそう呼ばれるようになったという。現在のものは昭和初期に修復されたものである。
蝶々や花盗人をつけてゆく
しからるる子の手に光る蛍かな
柿一つ落ちてつぶれて秋の暮
など人間味あふれる温かいユーモラスな句を詠んでいる。
化物の正体見たり枯尾花
というのも也有の句である。
也有は、53歳で役職を辞し、前津にて隠棲生活に入る。『鶉衣』に記された、物事にとらわれない也有の自由な精神に驚嘆するとともに、也有のように生きたいものだとつくづく感じ入る。
数年前に出版された本に、
【岡田芳郎著
『楽隠居のすすめ』−
『鶉衣』のこころ−】
という本がある。『鶉衣』の解説書であるが、非常に示唆に富んだ本であり、ぜひ皆さんも一読されるとよい。最近話題になっている『下流階級』(三浦展著)という上昇志向一辺倒のくだらない論考の対局にある、自然でとらわれのない精神世界が『鶉衣』の中にはびっしり詰まっている。
また、名古屋市の東山植物園には、也有の遺徳をしのび、也有にゆかりの深いたくさんの 植物を植え、それぞれにちなんだ也有の俳句を添えて、散策を楽しめる「
也有園」が作られている。
ついでであるが、『楽隠居のすすめ』の中に、哲学者で精神分析家のユングによる「幸福の五つの条件」という項目が引用されていてその通りかな!と納得した。
@ 心身が健康であること。
A
朝起きて今日やることがあること。
B 美しいものを見て美しいと思えること。
C 楽しい対人関係が保てること。
D ほどほどにお金があること。
特にAは大切だなと思う。Dも切実かな。BとCは何とかなる。@は私にとっては大変苦しい条件だ。

「東照宮」西のビルの合間にある案内表示と石碑。

ムクノキ・横井也有出生地の表示板。

ビルに取り囲まれた広場に残ったムクノキ。

東別院の北の長栄寺にある「羅塚」。

横井也有像。内藤東甫画。 代表作『鶉衣』

岡田芳郎著『楽隠居のすすめ』−「「鶉衣」のこころ−

東山植物園「也有園」入口の旧兼松家武家屋敷門。