愛知県出身の首相は、史上2人しかいない。
加藤高明と海部俊樹である。戦前に大臣にまで上り詰めたのは、あと一人、司法大臣となった田中不二麿だけである。尾張藩出身者は冷遇されていた。
加藤高明は、元の名を服部総吉といい、万延元年(1860)尾張藩の下級藩士服部重文の次男として、佐屋で生まれた。7歳の時に佐屋から名古屋へ移り、廃校になる直前の明倫堂で学んだ。明治5年(1872)祖母の姉の加藤家に養子に入り、高明と改名する。同年8月、名古屋洋学校へ入学。その後、愛知英語学校を経て、東京大学へと進んだ。
明治14年(1881)東京大学法学科を首席で卒業後、三菱に入社しイギリスに派遣された。帰国後は三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の女婿となる。明治20年(1887)外務省へ入省、官界入りした。大隈重信外相の秘書官や駐英公使を歴任し、明治33年(1900)には第4次伊藤博文内閣の外相に就任した。その後東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺公望内閣の外相、駐英大使、第3次桂太郎内閣の外相を歴任する。
大正2年(1913年)第1次護憲運動に際して、弾劾を受けた桂首相の主導による立憲同志会の結成に参画し、桂の死後に総裁となった。翌年第2次大隈重信内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。
大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した【憲政会】の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で犬養毅や尾崎行雄と対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った。
大正13年(1924)第二次護憲運動で清浦奎吾内閣が倒れ、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部のいわゆる【護憲三派】が新しく組閣することになった。総選挙の結果、第一党となった
憲政党の加藤高明が内閣総理大臣に指名された。翌大正14年(1925)、選挙公約であった【
普通選挙法】を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では社会主義運動への対策から【
治安維持法】を同時に成立させた。この法は後に、思想・言論の弾圧法規として猛威をふるうことになる。
憲政会と政友会の内紛から護憲三派の連立は崩れ、加藤の憲政会単独内閣となるが、翌大正15年(1926)1月、加藤は病死した。
また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する【
憲政の常道】が確立され、【
大正デモクラシー】の成果が実った内閣でもあった。

昭和3年(1928)に鶴舞公園竜ガ池の北側に建立された加藤高明の銅像。

銅像は昭和19年(1944)供出された。現在は台座のみが残っている。

鶴舞公園噴水塔の東南にある、
普選壇。
昭和3年(1928)中日新聞の前身名古屋新聞社が【普通選挙法】制定を記念して作った野外劇壇である。裏の石には、「顧問坪内雄蔵、設計佐藤功一」と刻まれている。坪内雄蔵は坪内逍遙。佐藤功一は日比谷公会堂の設計者でもある。正面の青銅板には普通選挙の基本精神である【五箇条の御誓文】とその英訳および建設の趣旨が掲げられている。この青銅板も戦時中供出されたが、昭和42年復元された。