愛知県庁の歩み
「三の丸旧竹腰邸」時代
(現在の愛知県警察本部の建つ敷地の北半分)1869〜1874
明治維新後、明治2年(1869)6月、尾張藩は、付家老の竹腰氏の旧上屋敷に「政事堂」を設置し執務を行った。すでに竹腰氏は新政府により独立の藩として美濃今尾藩を与えられ、尾張藩から分離独立し、名古屋から今尾に移転していた。
明治4年(1871)7月、廃藩置県により、尾張は、「名古屋県」と「犬山県」の2県、三河は、豊橋、田原、半原、西大平、岡崎、西尾、挙母、重原、刈谷、西端の10県が設置された。11月には尾張の2県を廃止して「名古屋県」に統合、三河の10県を廃止して「額田県」が設置された。
名古屋県庁は、旧竹腰邸を引き継いで使用した。
明治5年(1872)4月2日に「名古屋県」は「愛知県」と改称し、同年11月27日「額田県」と合併して現在の「愛知県」が誕生する。 この時も県庁は、三の丸の旧竹腰邸である。この場所がかっての尾張国愛知郡の領域にあるので「愛知」の呼称が用いられたのである。(そもそもの「愛知」の呼称の由来は別稿で記すことにする。)
「東本願寺別院掛所の仮庁舎」時代
(現在の東別院内) 1874〜1878
愛知県庁の設置されていた三の丸区域は、明治7年(1874)、徴兵制による入営兵を加えた二個大隊編成をもって「歩兵第六聯隊」が創設されたため、急遽、陸軍省に引き渡しとなり、移転を余儀なくされた。かって「名古屋県」の事務所がおかれていた東本願寺別院掛所に仮の庁舎として設置された。その後、旧竹腰邸を含む区域は、「野砲兵第3連隊」が置かれた。
「南久屋町の県庁舎」時代
(現在の名古屋市中区役所の周辺)1878〜1899
明治7年(1874)8月から内務省に対して新築移転を要望した結果、名古屋駅から東に伸びる広小路通の終点(栄町筋の突き当たり)に西向きの庁舎が建設され、明治10年(1878)に開庁した。左に県会議事堂、右には警察部の建物が置かれた。これが南久屋町の県庁舎である。
「南武平町の県庁舎」時代
(現在の愛知芸術文化センターの周辺)1899 〜1938
政府による官営中央縦貫鉄道の中央線建設計画により名古屋東部に千種停車場を設置することになった。それに伴って、名古屋停車場と千種停車場を市内電車によって結ぶために、広小路通を更に東に延伸することが計画されたが、広小路通の突き当たりには県庁舎が位置していたので、道路改修を実施するためには県庁舎を移転させる必要に迫られた。これによって、南武平町の新庁舎は、明治33年(1899)に南久屋町の前庁舎の位置から北東方向、七曲町旧第一師範学校跡地に移転した。県庁舎の西隣には議事堂が置かれた。建物は、木造2階建てであり、建坪1815坪余、敷地9045坪余であった。
「三の丸の愛知県庁舎」時代
1938〜現在
昭和天皇御大典の記念事業の一つとして、昭和13年(1938)に建てられた。空襲を免れ、現在まで愛知県庁本庁舎として使用されている。
(詳細は別稿にて)

竹腰上屋敷

南久屋町の県庁舎

南武平町にあった県庁舎

明治43年(1909)の地図