山田天満宮の西の道を100mぐらい北へ行くと山田幼稚園がある。黄檗宗の「大應山廣福禅寺」という寺が経営している。この正門の前に“山田重忠旧里”の碑が建てられている。最近は、物騒なので幼稚園の門は閉じられ、私のような変なおじさんは警戒されるのだが、幸い園児を遊ばせていた保育士の若いおねえさんに声をかけたら中に入れてくれた。園内の運動場の片隅にもう一つ立派な石碑が建てられており、写真を撮らせてもらった。事情を説明すると年輩の職員の方が、親切に石碑の由緒書(『承久記』の山田重忠関連の記事)のコピーをくださった。
元来、この山田幼稚園の東側の一角に「金(おがね)神社」があり、その境内に山田重忠の碑もあったのだが、祀る人がいなくなり、「金神社」は山田天満宮に移されている。
このあたりは、古代の律令時代には、尾張八郡のうち山田郡が置かれたところである。山田八幡宮や山田町はこの古代の地名からきている。山田郡の範囲は、現在の名古屋市の北区・守山区・千種区・名東区辺り一帯から尾張旭市・瀬戸市・長久手町まで含むかなり広い範囲であった。庄内川左岸及び矢田川流域一帯を指すものと思われる。
山田氏は、源満政(父源経基)の流れの源氏で、元来、美濃に拠点があり、山田重忠の祖父重直の代に山田荘に拠点を移し、山田氏を名のったものと思われる。
建久3年(1192)源頼朝は鎌倉に幕府をひらいた。それ以前の文治元年(1185)義経追討に際し、諸国に守護・地頭の設置を朝廷(後白河院政)に認めさせた。この時に山田重忠は山田荘の地頭に任命されている。また、山田重忠は信心が厚く、母の菩提を弔うために長母寺(東区矢田)を建て、そのほかにも大永寺(守山区大永寺)、長慶寺(守山区小幡)、成願寺(北区成願寺)など数多くの寺を建立している。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇は、朝廷の権力を鎌倉幕府から取り戻すために、時の執権北条義時追討の院宣を全国に出した。この命令に大和・美濃・尾張など14か国の武士たちが応じて立ちあがった。一方、鎌倉幕府は、北条政子(尼将軍)の呼びかけに御家人たちが呼応し、14万の大軍で京都に向かった。これが、いわゆる承久の乱である。この時、山田重忠は朝廷方につき、一族郎党を率いて木曽川の墨股を守ったが敗れた。
『承久記』には、「京方に尾張の源氏山田の次郎は、味方一人も残らず落行くを見て、“あな心憂や。重忠は矢一つ射てこそ落ちんずれ”とて、杭瀬川(揖斐川)の西の端(はた)に、九十余騎にて控へたり」と記されている。
さらに瀬田川において比叡山の僧兵三百騎を率い、北条義時の弟時房率いる幕府軍と交戦したが敗北し、京都の宇治川まで敗走したが、ここでも敗れ、結局、重忠は自害し、子の重継は捕らえられて殺された。
山田次郎重忠は、戦前には忠臣として、後醍醐天皇に奉じた楠正成と並び称され、顕彰碑が建てられるにいたるのである。

山田幼稚園正門前。「大應山廣福禅寺」の碑と「山田重忠旧里」の碑。

「山田重忠旧里」の碑

園内にある「山田重忠顕彰碑」