小田切春江は、文化7年(1810)尾張藩士小田切松三郎の長男として生まれた。幼名は忠通、通称は伝之丞。春江は号である。別号としては歌月庵喜笑を使用している。
小田切家は代々禄百石を受けていたが、春江は天保9年(1838)に父の代を継ぎ、藩の馬廻り役を命ぜられている。さらに天保12年(1841)には大番組となり、元治元年(1864)には書院番となっている。慶応元年(1865)には藩の命によって『尾張志』附属の絵図の複本と、『美濃志絵図』の製作に当たった。
維新後の明治2年(1869)、明治新政府の六等官に任ぜられ、絵図の製作に携わる。小田切家の家督を子の春陵に譲ったあとは、神職としての業に転じた。明治13年(1880)には名古屋博物館の附属職員に任ぜられ、明治15年(1882)に東京で開催された「内国絵画共進会」に出品した『尾張名所図会』(後編は、春江の尽力でこの年に完成している)と『名区小景』に対し、「絵事著述褒状」を授与されている。殊に同共進会に出品した「婦人遊技の図}は好評であり、宮内省への献納を命ぜられている。
春江は幼少の頃から絵事と文才に長じ、画法については、高力種信(猿猴庵)を師としてその技を習得、後には森高雅の門に入り、独自の境地を開拓している。現在知られている最も古い作品は、文政13年(1830)(21歳の時)、歌月庵喜笑の名で書かれた『大新板 即席手づま後篇』がある(名古屋市博物館蔵)。この本は、お座敷の余興の手づま(手品)について解説したものである。紙の亀を歩かせる方法、紙を燃やして雀を出す方法など全部で12種の手品が紹介されている。また、天保4(1833)年に熱田新田で起こった海獺(かいだつ)騒動を記した『天保四巳日記海獺談話図会(写し)』(西尾市岩瀬文庫蔵)も面白い。若い頃の春江の好奇心旺盛の様子がよくわかる。
その後ライフワークとなる『尾張名所図会』の作成に参加し、天保15年(1845)に前編が出版された。総計286枚の挿絵の内、その7割の201枚が春江の手になっている。明治13年(1880)ほぼ独力でに完成させた後編では177枚中154枚を描いている。『尾張名所図会』は、当時の尾張の民俗・名勝風景を克明に描いて、後世の郷土史研究の先達ともいえる記念碑的作品となる。
その他では、尾張藩や維新後の愛知県の要請で各地の地図を作製したり、七宝焼きのデザイン制作などにも関与し、変わったところでは享保・天明・天保の各時期に各地で起きた飢饉の実態を絵入りで紹介した『凶荒図録』(明治18年愛知同好社)という想像図集の監修なども行っている。現在、名古屋市鶴舞図書館には、『名陽見聞図会』『熱田御鍬祭』『春日井郡小田井之図』など多くの春江の作品が所蔵されている。なお、春江は明治21年(1888)78歳で没し、高岳院に葬られた。


左 『大新板 即席手づま後篇』(名古屋市博物館蔵)
たとえば、風呂敷の中で蛙を鳴かす方法は、以下のように記述されている。
「茶碗を両手に持ち、その上へ風呂敷をかけ、座敷に出て、茶碗の糸底をすり合わすれば蛙の 鳴くが如し」
右 『春日井郡小田井村絵図』(愛知県図書館蔵)


『天保四巳日記海獺談話図会(写し)』(西尾市岩瀬文庫コレクション)
天保4(1833)年7月、尾張国熱田起こった騒動。新田の堤が切れて海水が流入したところに、一頭の海獺(かいだつ)が迷い込んだ。海獺はウミウソとも読み、アシカやオットセイなどの海獣の、本草学的な名前。珍獣の出現に、堤防は見物人で押すな押すなの大騒ぎとなり、一人数十文のお金を取って海獺のそばまで漕ぎ出す小船商売まで現れた。また数日後には早くも名古屋の繁華街で海獺の土人形(フィギュア)が売り出されたり、ぬいぐるみや張り子の海獺を用いた大道芸人が現れたりと、大フィーバーとなる。果ては漁師に捕獲されて、木瀬取(きせどり)(喫水の浅い小舟)で飼育され見世物となったこの海獺、本書の絵を見た限りではアゴヒゲアザラシのように見える。そう、江戸時代の名古屋でも「タマちゃん騒動」があった。時代は変わっても人の好奇心は変わらないし、便乗で儲けようという輩がいるのも一緒だ。

“海獺見物の人々の狂騒”『天保四巳日記海獺談話図会(写し)』(西尾市岩瀬文庫コレクション)

“繁華街での“海獺”便乗商戦”『天保四巳日記海獺談話図会(写し)』(西尾市岩瀬文庫コレクション)

『凶荒図禄』教科書によく載っている図である。

西尾八景の内「蟲送之図」(錦絵)江戸時代の末頃に須田町の辻書店から土産物の団扇(うちわ)絵として出版された。(西尾市岩瀬文庫コレクション)

「尾張徳川家参勤交代図(参府行列図)」これも教科書や図説によく出てくる。おおよそ900人ほどの人物が描かれた長さ26メートルにおよぶ図巻。江戸時代に描かれた行列図は少なく貴重である。(徳川美術館蔵)