昨日、夏休み前の授業が終了した。明和高校は2期制を採っているので、終業式はない。午前中は授業を行い、午後、HRや全体集会を実施している。夏休みも8月27日までで、28日には、宿題考査や実力考査が実施され、それが終わると学校祭に向けて動き始める。
昨年から教室にクーラーが入り、夏の補習授業は快適な条件で実施できるようになった。今年は、武道場の耐震工事が夏休みそうそうに始まるため、顧問をしている柔道部は、出稽古に出なければならず大変である。露橋スポーツセンターでの合同練習、向陽高校や旭丘高校に出向いての練習が続く。図書部の研修旅行もあり、当分忙しい日々が続く。
さて、久々の明治村の記事である。
三重県庁舎 《重要文化財》
【旧所在地】三重県津市栄町
【建設年代】明治12年(1879)
明治新政府の急激な改革は、なぜ成功したのであろうか。明治2年(1869)の薩長土肥四藩主による版籍奉還は、旧藩主に知藩事という役職が与えられ、旧藩の石高の十分の一が家禄として保証された。旧藩の負債も新政府が肩代わりするということであったので、旧藩主たちは、薩長土肥の藩主に習い次々と版籍奉還に応じた。
明治4年(1871)の廃藩置県では、薩長土の御親兵1万名を東京に集めその武力を背景に、知藩事(旧藩主)を罷免し、東京に移住を命じて旧国元との隔離を図った。代わって、中央政府によって任命された府知事・県令が各府県に派遣され、統一政策の実施が図られた。さらに明治6年(1873)には地方行政と勧業のための中央官庁として内務省が設置され、地方行政は急速にその整備が進められていった。
府知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていたが、開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになった。三重県庁舎も明治9年(1876)、県令岩村定高によって計画され、3年後の同12年(1879)に完成したものである。
間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻らされている。この構成は当時の官庁建築の典型的なもので、明治9年(1876)に、東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったものである。
構造は木造で、内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根には桟瓦を葺いている。正面に突き出した車寄の屋根には手摺をあげ、入母屋屋根の破風には菊花紋章を飾るなどして建物の正面を引き立たせる一方、両翼の正面側の壁面角には黒漆喰で太い柱型を塗り出し、全体を引き締める役割を持たせている。尚、窓は全て上ゲ下ゲ硝子窓であるが、妻面の窓は他の部分と異なり、外に鎧戸が付けられている。
この建物の設計は地元三重県の大工清水義八を中心に進められたが、清水義八は他にも県内の建物を手がけており、同じく明治村に移築されている三重県尋常師範学校も彼の手になったものである。
