昨日は、図書館の当番で一日クーラーの効いた部屋で読書に専念することができた。一昨日、書店で購入した内田康夫の新作「幻香」を読み終え、図書館の新刊本で万城目学「鹿男あおによし」を読み始めたところで閉館時間となった。
さて、大垣レポートの続きである。炎天下、ガイドさんと別れた舟町から、生徒の予約していた大垣中心部からずいぶん離れたそば屋まで30分以上歩いて到達した。やっと冷房に効いた部屋で昼食を取ることができ一息ついた。その後は、さすがに歩く気にはならず、タクシーを呼んで分乗して大垣の街の中心にある大垣城に向かった。
大垣城の築城については、明応9年(1500)竹腰尚綱によるという説と天文4年(1535)宮川安定によるという説との二つがある。戦国時代末に斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、天正11年(1583)に豊臣秀吉の家臣・池田恒興が城主となる。その後慶長元年(1596)に伊藤祐盛が天守を造営したという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には石田三成が入城し合戦に備えた。関ヶ原の戦いの後、東軍により落城した。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。
江戸時代に入り、寛永12年(1635)に戸田氏鉄(うじかね)が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。最盛期には4重4階の天守と四重の堀を持つ堅牢な構造を持つ城であった。明治に入っても破却を免れ、昭和11年(1936)に天守等が国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月29日の空襲により天守が焼失した。
現在の天守は昭和34年(1959)に昔のままの姿で再建されたものである

郭通りから入った現在の大手門

皆で記念写真

大垣城天守 東側から見た姿

大垣城天守 西側から見た姿

郷土館

郷土館の中に展示されている大垣条下のジオラマ。