昨日は、丸一日、名古屋短歌会館で行われた野外活動研究会の「夏のお座敷発表会&ミニ展示会」に参加した。いろいろ刺激を受け、目から鱗の発見がいくつかあった。この報告は後日する予定。
さて、柳原橋から運河沿いに歩いて行くと中川運河本流との合流地点に小栗橋が架かっている。この橋の東袂の広川町に有名な鈴木バイオリンの工場がある。
その創業者である鈴木政吉は、安政6年(1859)尾張藩士鈴木正春の子として名古屋宮出町(現中区栄)で生まれた。明治6年(1873)東京の親戚の家に奉公に出されるが、明治9年(1876)名古屋へ戻り、父正春が家業とした三味線の製作に従事するようになる。
明治17年(1884)小学校の唱歌の教師を志し修行するうちにバイオリンに出会った。独力で模写製作し賞賛されたことがきっかけとなり、明治20年(1887)バイオリンの製造を開始するにいたる。
その後、第3回内国勧業博の有功賞(明治23年)を皮切りに、北米コロンブス世界博の賞牌(明治26年)や第4回内国勧業博の進歩賞(明治28年)を受賞し、成果を残していった。明治33年(1900)には、特殊専用機械を発明し、バイオリン製造の機械化に成功している。さらにパリ万国博にバイオリンを出品して銅賞を受賞しいっそう評価を高めた。
第一次世界大戦の勃発は、それまでバイオリン生産を独占してきたドイツ製品の輸入途絶をもたらし、その結果、世界各地から日本の鈴木バイオリンにバイオリンの発注が来るようになった。工場の規模は拡大し、当時、従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリン、1000本以上の弓が量産され、輸出のみで年間に10万本のバイオリン、50万本の弓を記録したという。また4系列27品種のバイオリンを筆頭にビオラ以下の新器種は全て数品種を揃え、さらにマンドリン、ギターも製造して、弦楽器53種、弓23種、ケース13種の多岐にわたるようになった。
現在の鈴木バイオリンは、従業員数28名。売上高5億円(2006年5月期)。バイオリンの国内シェアは約40%(シェア順位1位)である。
*ネット上で鈴木バイオリンの工場内部を紹介するものがあったので参考までに。
http://three-s-web.hp.infoseek.co.jp/in_the_factory.htm

鈴木政吉の像。

鈴木政吉制作のバイオリン

鈴木バイオリン本社。車の奥に鈴木政吉の像がある。
