徳源寺の東側にある「覚音寺」は、「今親鸞」と呼ばれた明治の宗教哲学者である清澤満之が16歳で得度した浄土真宗の寺である。
満之は、真宗大谷派(東本願寺)の改革運動に力を尽した。肺結核発病後、宗教的信念に目覚め、『歎異抄』の精神(絶対他力の教え)を近代において新しく蘇らせたとされる。東京本郷に門弟たちと学舎「浩々洞」を開き、雑誌『精神界』を刊行し「精神主義」を唱えた。真宗大学(現在の大谷大学)の東京移転に従事し、初代の学監となる。近代日本において、西洋哲学の方法を用いながら、宗教的真理の探求に努め、人類が救済される道を「精神主義」として示した。
清澤満之の前半生の略歴を記述する。
文久3年(1863) 名古屋黒門町に生まれる。父徳永永則、母タキ。幼名満之助。
明治5年(1872) 愛知県第5義校が開校し義校生となる。義校の廃止により第23番小学遷喬学校に転入学する。
明治7年(1874)愛知県外国語学校(愛知英語学校)に入学する。
明治10年(1877)愛知英語学校廃校により愛知県医学校に入学するが退校する。
明治11年(1878)「覚音寺」衆徒として得度を受ける。法名釈賢亮。東本願寺育英教校に入学する。
明治14年(1881)本願寺(宗門)から東京留学を命じられる。
明治16年(1883)予備門を卒業、東京大学文学部哲学科に入学する。学内騒動に関係し、退学させられる。翌年再入学する。
明治20年(1887)文学部哲学科を卒業し大学院に入り、宗教哲学を専攻する。哲学館(現東洋大学)創設に参加する。
明治21年(1888)宗門の要請で京都府立尋常中学校長となる。真宗大学寮で哲学を講じた。清澤やすと結婚し、愛知県三河大浜西方寺に入る。

覚音寺山門。

本堂内陣。

空襲の難を避け、本堂は建立当時のままである。