児玉白山社の南に丹羽長秀邸跡の石碑が建てられている。このあたりは、戦災にあっていないようで蔵のある家や古い長屋も多く見られる。
さて、丹羽長秀(1535-1585)は、このあたりの児玉村の生まれである。丹羽氏はもともと斯波氏の家臣であったが、長秀は、天文19年(1550)15歳で信長に仕え、のちのち織田信長の宿老の一人となった。桶狭間を始めに数々の戦いに参戦した。
織田家中では、信長が、天正8年(1580)佐久間信盛、林通勝の両宿老を追放した後、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉の五武将を重用するが、その中でNo.2に位置していた。またちなみに羽柴秀吉の姓は、柴田勝家の「柴」と丹羽長秀の「羽」を両者にあやかりたいとして付けた名前である。長秀は、軍事面での活躍はさほどではないが、安土城普請の総奉行を勤めるなど信長を支え、信任を得ていた。
本能寺の変の後、明智光秀を討伐した山崎の合戦を経て、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した際、丹羽長秀は秀吉の側に立ち、秀吉による織田家の事業継続を諸将に認めさせる後押しをした。賤ケ岳の戦いで秀吉が勝利を収めると、柴田勝家の旧領である越前一国と加賀能美・江沼二郡を与えられる。123万石という大幅な加増であった。
丹羽長秀は、賤ケ岳の戦いの2年後に没し、後を継いだ丹羽長重は軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられている。これは秀吉による丹羽氏の勢力削減政策であったと言われている。その長重は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが、後に常陸古渡藩主→常陸江戸崎藩主→陸奥棚倉藩主→陸奥白河藩主となって復活を遂げた。長重の子光重は、後に陸奥二本松藩に転封となり、以降、丹羽家は二本松藩に定着した。

白山社の参道前。大きな楠の木の下に碑が2基建てられている。

手前の碑の碑文は判読できない。

丹羽長秀邸跡の碑。