呼続公園の曽池をぐるりとまわり、林に沿って南に行くと富部神社に抜ける小道がある。山車か神輿を収めている思われる倉庫が並んでいるところを東に廻り込むと富部神社の境内にでる。
富部神社の起源は、清洲城主であった松平忠吉(徳川家康の四男)が、素盞鳴尊を主神として祭った祠をこの地に移したとも、津島神社より牛頭天王を勧請したともいわれる。慶長8年(1603)のことである。病気平癒を祈願した忠吉の病気が治りそのお礼として、慶長11年(1606)に社領百石を富部神社に寄進し、本殿・祭文殿・廻廊・拝殿を建てたという。
そのうち本殿は、一間社流造檜皮葺きで、慶長当時の形態を伝えており、特に正面の蟇股(かえるまた)・屋根の懸魚(げぎょ)・桁隠(けたかくし)などの細部は桃山時代の特徴を残しているという。現在、国の重要文化財に指定されている。
境内の山車蔵にある享保12年(1727)に作られた「高砂車」は、名古屋市の指定有形民俗文化財で、毎年10月の大祭で一般公開されている。
*蟇股−梁や桁(けた)の上に置かれる、輪郭が山形をした部材。
*懸魚−屋根の破風の中央および左右に下げて、棟木や桁の先端を隠す装飾板。

富部神社本殿

祭文殿と廻廊

正面鳥居と参道

案内表示

鳥居の東に○金の神社がある。金比羅様だろうか。案内表示はない。

覆屋で保護された中の社殿は相当古そうである。

富部神社の西側に並んでいる山車か神輿を収めている思われる倉庫。