闇の森八幡宮から再び金山に戻り、今度は名古屋港に向かった。ドニチエコの本に使用する写真を撮り直すためだ。以前に名古屋港について載せた記事を再録したい。
名古屋港は、明治40年(1907)に開港した。開港にいたるまでに、並々ならぬ尽力をした人物がいる。明治6年(1873)京都に生まれ、京都帝国大学を卒業して、明治33年(1900)愛知県技師となった奥田助七郎である。
遡ること4年前、明治29年(1896))熱田湾築港工事が開始された。当時は「熱田の浜」が船着き場としてにぎわっている程度であり、この頃の熱田湾は水深が−1m程度で、一面を葦が覆う沼地のようだったという。 こうした悪条件下での築港は巨額の税金を投入する必要があることから、世論は工事反対の声が圧倒的だった。この状況を一変させたのが弱冠30代半ばの奥田助七郎であった。
明治39年(1906)報知新聞社が3,876トンの大型貨客船「ろせった丸」を使い、全国の主要港湾で巡航博覧会を計画した。この地方では、武豊港と四日市港に入港させる計画であった。奥田はこの豪華客船を名古屋港に寄港させ、築港の重要性を訴えようと考えた。
当然、主催者は建設中の港への寄港に難色を示すが、奥田は並々ならぬ熱意を持って船長に直談判した。何かあれば全責任を負うという奥田の情熱に船長が応え、同年9月「ろせった丸」は名古屋港に入港した。
入港当日は干潮で、船の吃水が5,1m、航路の水深は−5,4mで、船底から海底面までがわずか30cm程度という危険な入港だった。1時間近くかけて船が桟橋に接岸すると港を埋め尽くした観衆は万歳を三唱し、歓声を上げたという。
博覧会は十数万人の来場者を記録し大成功を収めた。これを契機に港湾整備の重要性が市民に認識されるようになり、明治40年(1907)11月、熱田港を名古屋港に改称し、名古屋港は、開港場の指定を受け、国際貿易港の仲間入りを果たした。
奥田助七郎は、その後大正11年(1922)初代名古屋港務所長となり、昭和15年(1940)職を辞した。昭和29年(1954)81歳で亡くなった。
名古屋港管理組合の南に「奥田助七郎胸像」が建てられている。また、名古屋港ポートビルには、「名古屋海洋博物館」が設けられ、名古屋港の歴史や現状が紹介されている。

奥田助七郎胸像

「この人を見よ」に始まる頌徳碑文。