豊竹呂昇の出生地から少し南に行き、交差点の西側角のビルが離屋会館である。国学者鈴木朖(すずきあきら)の終焉の地である。
鈴木朖は、明和元年(1764)名古屋西枇杷島の医者・山田重蔵の3男として生まれた。通称、常助。字、叔清。兄梁山・弟良順と共に医学を学んだが、12歳で古文辞学派の市川鶴鳴の門に学び、儒学をもって身をたてる志をもった。18歳で町儒医であった祖父の家督を継ぎ鈴木氏を名乗る。母屋から離れたところで暮らしたので「離屋(はなれや)」と号した。
朖は、本居宣長の著書を読んで感動し、寛政4年(1792)29歳のとき、名古屋を訪れた本居宣長に許しを乞い、その門下となった。同6年(1794)には松坂を訪れている。尾張藩での朖は、同7年(1795)近習組同心(のち手筒組同心)となり6石2人扶持を得た。文化元年(1804)記録所書役並となって8石3人扶持を加増され、同3年(1806)には本役に起用され2石を加増された。しかし、同年の倹約令のため記録所が廃止になるなど恵まれず、薄給に甘んじた。
文政4年(1821)儒者として藩に認められ、天保4年(1833)明倫堂に国学の科が設けられると、教授並に抜擢され、20石4人扶持を給与された。このとき朖はすでに70歳の老齢に達していたが、『日本書紀』『古今和歌集』を講義した。天明5年(1785)には、『てにをは紐鏡』を書写、また『詞の玉緒』の抄を作り、国学特に国語学の研究に努めた。特に品詞・活用・語源などの研究で実績を残している。著書のうち、特に三部作『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』は高く評価されている。
朖が、70歳の時に江川端に移り住み、天保8年(1837)74歳で死去した。その子孫が運営する離屋会館では「朖学会」が開催され、講演と研究発表が行われる。また、『文莫』という会誌や基礎文献の刊行も行われている。

離屋会館

鈴木朖宅の案内標示

鈴木朖終焉地の案内標示