名古屋地域に稲作文化が伝わって来るのは、弥生時代前期である。当時の海岸線は津島ー朝日ー西志賀を結ぶ内陸部まで入り込んでいた。紀元前1世紀頃には、かなり多くの集落が形成されている。
ところで「志賀」という地名は、九州福岡県の博多湾の「志賀島」に由来する。「志賀島」は、AD57年に、後漢の光武帝が奴国(なこく)の王に下賜した金印(『後漢書東夷伝』に記述されている)が発見された場所である。博多湾の“海の中道”の先端、玄界灘を見下ろす岡の上の甕棺墓の中に金印は納められ、江戸時代になって農夫によって偶然発見された。その金印に刻印された「漢委奴国王」をどう読むかは異説があるが、通常「漢ノ委(倭)ノ奴ノ国王」 と読んでいる。
さて、その「志賀」の地は、海人族(安曇氏)の根拠地であり、その一族が全国の各地に移住し「志賀」の地名を残したといわれる。名古屋の「志賀」も同様と考えられている。
綿神社の由緒(下の写真)の一部を書き写すと次のとおりである。
【式内 綿神社由緒】
主祭神 玉依比売命(神武天皇の御母) 応神天皇(八幡様)
(一)綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に、九州の弥生人が此の地に定住し、稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。
其の中核は、九州志賀の阿曇部族であろう。即ち故郷九州「志賀」には、祖神海神の裔玉依比売命を祀り海神社と称し、此の新天地も亦志賀を偲び名し、同じく玉依比売命を祀って海神社と称した。
既に、延喜式にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志賀の海神社と同例の社なり」と記され、本国帳にも従三位綿天神(略)綿は海の仮字にて(略)昔は此のあたりまで入海にて・・(略)
とある。
祭神の「玉依比売命」は、タマヨリヒメと読む。霊魂の依りつく女神という意である。いわば神を祭る巫女そのものである。日向神話では、「玉依比売命」は、海神(ワダツミノカミ)の娘であり、ウガヤフキアヘズノミコトとの間に初代天皇の神武(カムヤマトイワレヒコ)を産む女神である。いずれにしてもワダツミの信仰と密接に結びついている神である。古代海人族が信仰した主神である。
また、「綿神社」の「綿」は「海」の仮字で「海」のことである。「綿神社」は「海神社」である。博多湾の志賀島には「海神社」があり、その点でもこの志賀の地が、弥生時代の稲作の伝播とともに海人族によって開かれた地域であることがわかる。
綿神社から西に行ったところに名古屋における弥生時代の代表的な遺跡である西志賀遺跡がある。最近はその北東部の平手町遺跡で発掘が進められ、西志賀遺跡の居住域を囲む環濠が見つかっている。

弥生時代前期の尾張の海岸線。(新修名古屋市史第1巻)

綿神社入口鳥居。

戦後再建された本殿。

綿神社由書。