鞆の常夜灯の北にある太田家住宅は、薬酒である保命酒醸造で繁栄した商家で瀬戸内海を代表する建造物群である。太田家住宅は、歴史的遺産「鞆七卿落遺跡」として、昭和15年(1940)に広島県の史跡指定を受け、平成3年(1991)には、屋敷地約416坪とともに主屋ほか建物9棟が国の重要文化財に指定された。
建物の建築年代は、主屋が18世紀中期、炊事場・南保命酒蔵が18世紀後期、北保命酒蔵が天明8年(1788)、西蔵が寛政元年(1789)、東保命酒蔵が寛政7年(1795)、釜屋・新蔵・北土蔵が19世紀前期。これら一連の建物は、江戸時代中期から後期にかけて、保命酒屋中村家により拡張・増築されてほぼ現在の規模になり、明治期に太田家が受け継ぎ今日に至った。
中村家に残された日記によれば、明暦元年(1655)に大阪から移り住んだ当主が、万治2年(1659)に保命酒の販売を行う。当主がこの年に福山藩主水野家の鞆町奉行に願い出て、家伝の薬法を以て焼酎製銘酒をつくり、「十六味地黄保命酒」と名付けて、製造販売したことが始まりという。保命酒は、餅米を主原料とし焼酎を用いて製造した漢方薬酒である。貞享2年(1675)には藩の御用名酒屋となり、薬酒の独占製造権を得て、鞆の名産保命酒をはじめとする各種の酒造を行い繁栄した。
幕末維新の際には、文久3年(1863)八月十八日の政変で、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって都を追放され長州に下った。七卿は、その途中に鞆港に入り、保命酒屋に立ち寄っている。翌元治元年(1864)に長州より再び上京した際にも、保命酒屋に立ち寄り、主屋と別宅の朝宗亭を宿泊所として利用したという。この由来から、太田家住宅は「鞆七卿落遺跡」の名でも知られている。

重要文化財太田家住宅外観。

入口。

店の間に、保命酒の薬種が並べられている。

主屋と神棚。

土間の上の天井は、網代になっていた。茶室をイメージしているという。

上の間。奥は大広間。

土間の中に井戸がり、備前焼の水瓶が据えられている。

西蔵。

掘込み式焚口。

釜屋の竈(かまど)。

保命酒貯蔵用の古備前の甕と酒造りの道具類。

「酒槽」(ふね)と「はね棒」「はね棒」には重石がぶら下がっている。

「鞆七卿落遺跡」の案内表示。

たくさんの部屋が連なっている。

茶室。

東保命酒蔵(18世紀後半の建築)と美しい姿の新蔵(19世紀初めの建築)。
