長久手町の史跡を巡ってきた。まだ取り上げたい場所はあるが、ひとまず区切りをつけようと思う。毎週、母の様子を見に刈谷まで通っているが、そのルート上に史跡が点在しているのでいくつかをレポートしてみる。
まずは、日進市の岩崎城址。長久手町の南端の愛知学院大学から名古屋外国語大学・学芸大学の前を通過して日進市の岩崎に至る。岩崎城址のふもとの駐車場に車を停め、整備された城址公園を歩く。気持ちの良い公園である。土塁や堀跡も残り、歴史の息吹を感じ取ることが出来る。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方は、家康の本拠でもある岡崎を攻める中入作戦が決行された。この岡崎へ向かう作戦ルート上に岩崎城があった。当時、岩崎城は、丹羽氏次(勘助)が守っていたが、留守を弟の氏重と長久手城主加藤景常に任せ徳川家康の軍に自ら加わっていた。
岩崎城代となった氏重は、天正12年4月9日午前4時ごろ岩崎城付近を通過する池田軍に気づきこれに攻撃を加えた。本来ならばいち早く岡崎城へ向かわなければならないところであったが、池田軍は岩崎城の攻撃を決めこれを落城させた。この時、岩崎城には200余名の城兵がいたが、数十倍にも及ぶ池田軍の猛攻撃にあい全滅する。
その頃、小牧から丹羽氏次を先導役に追撃してきた徳川勢が、羽柴勢の最後尾を行く三好隊に追いつき白山林の戦いを始めた。岩崎で戦った池田隊が長久手に引き返し、徳川本隊と衝突したのが長久手である。この戦いで池田恒興・元助親子、森長可といった羽柴方の有力な武将が戦死し、徳川方の勝利に終わった。
家康は後に「一番の戦功者は池田勢を足止めさせた、岩崎城代丹羽氏重である」と言って名誉の戦死をした氏重の兄氏次に三千石加増したといわれている。

岩崎城址公園入口の石碑。

案内図。

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「城の概要」表示板。

西側の土塁の間の登り道。

内郭へ通ずる橋。

橋から見た空堀の跡。

土橋跡の案内表示。