「川越え名号」の北側、五色園大安寺本堂下駐車場の東側に「鹿ヶ谷鈴虫松虫の剃髪得度」の場面がある。
京都鹿ヶ谷(ししがたに)は、学生時代の後半、北白川に下宿していた私の散策コースであった。鹿ヶ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された俊寛の別荘跡なども何度も訪れたし、哲学の道や真如堂から黒谷にかけてはもっとも好きな散策コースであった。
哲学の道東側の山沿いの道に「法然院」があり、その南、鹿ヶ谷御所ノ段町に「安楽寺」がある。通称「松虫鈴虫寺」という。松虫・鈴虫というのは、後鳥羽上皇に仕えた院の女官の名前である。
当時、勢力を拡大していた吉水草庵(現東山区円山町)の法然上人門下の専修念仏教団に対し、危機感をもった他宗派は、興福寺を代表として朝廷に対し吉水教団の撲滅を朝廷に願い出た。そのため御所では念仏停止の是非を論ずる評議が行われることになった。
そのころ、法然の弟子住蓮房と安楽房は、鹿ケ谷の草庵において六時礼讃念仏会を営み、御仏の功徳を人々に説いていた。ことに、二人の声は先を急ぐ人も思わず足を止め聞き入ってしまうほどであり、そこを通りかかった院御所女官の鈴虫と松虫も深い感動を覚えたのであった。
以後、機会を見つけては聞法に通うようになった鈴虫と松虫は、後鳥羽上皇が留守のある晩、ひそかに御所を抜け出し鹿ケ谷の声明念仏に結縁した。安楽房らの説法と声明に心を揺さぶられた二人は憂き身をやつす我が身を思い、弥陀の本願に救われるという事実にふれ、発心して尼となった。松虫19歳、鈴虫17歳の時である。
このことを知った後鳥羽上皇は、烈火のごとく怒り、興福寺の訴えを取り上げ、念仏停止の裁断を下した。松虫を剃髪した住蓮房は、佐々木義実に曳かれて、近江国馬渕縄手(滋賀県近江八幡市)において、また鈴虫を剃髪した安楽房は、京都六条河原で斬首された。また、師の法然は、讃岐国(香川県高松市)へ流罪となり、弟子の親鸞は、越後国(現在の新潟県直江津市)に流された。
4年後に罪を赦されて京都へ召還された法然は、二人の弟子の菩提を弔うために一宇を建立し「住蓮山安楽寺」と名付けた。時代が下った延宝8年(1680)現在地に再建されて今日に至っている。境内には、住蓮房と安楽房、松虫と鈴虫の墓といわれる石塔が残り悲劇を伝える。

尼となった松虫と鈴虫。

この場面がよくわからない。後の僧は刀に手をかけている。手前の僧はそれを押しとどめているように見えるが、手に何か持っていたようにも見える。顔の険しさから法然の門徒ではなく、院の御所から派遣された僧だろうか。

離れたところに僧の一団がいる。中央の僧は、法然上人だろうか?

このわらじのひもを結んでいる僧は誰なのか?
この松虫・鈴虫の場面は、状況を推測するのがむずかしい。