12 名古屋における近代建築家二人・・・武田五一と鈴木禎次、春田鉄二郎邸、藤山雷太邸、鶴舞公園の奏楽堂・噴水塔、揚輝荘伴華楼など
@ 武田五一 その1
大正7年(1918)「名古屋高等工業学校長」に就任した武田五一について記す。
武田五一は、明治5年(1872)旧福山藩(現・広島県福山市)の藩士の家に出生した。明治30年(1897)東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治33年(1900)東京帝国大学助教授に就任するが、翌年図案研究のためヨーロッパに留学した。明治36年(1903)帰国後、「京都高等工芸学校」(現京都工芸繊維大学)図案科教授に就任。明治41年(1908)には、大蔵省臨時建築部技師を兼任。議院建築のため欧米を視察する(後に国会議事堂の設計に関与する)。大正5年(1916)法隆寺壁画保存会委員となる。大正7年(1918)「名古屋高等工業学校長」に就任。大正8年(1919)「京都大学工学部建築学科」創設委員となり、翌年、学科開設とともに教授に就任した。昭和7年(1932)退官するまで京都で活躍した。
教育のかたわら旺盛な設計活動を行い、関西の建築界に重きをなした。古今東西の建築意匠に通暁し、オフィスビルから社寺建築、橋梁、街路施設、工芸デザインの分野でも活躍した。なかでも明治33年(1900)〜明治35年(1903)年の欧州留学で触れたセセションなど世紀末芸術の造形を、実作によって日本に紹介した功績は大きい。昭和13年(1938)に逝去した。*セセション式意匠は、大正建築の特色とされている。
竹田五一の名古屋における作品はわずかである。主税町の豊田佐助邸の西隣の「春田鉄次郎邸」、さらにその西にある「春田文化住宅」の2件と昭和区荒畑の地下鉄駅の南にある「龍興寺」である。「春田鉄次郎邸」と「龍興寺」については次稿にまとめようと思う。生涯に150件もの作品を残したが、その多くは関西に残されている。代表的なものだけ列記すると
京都府立図書館(1909年、京都市)
同志社女子大学ジェームス館(1913年、京都市)
瀧安寺鳳凰閣(1917年、京都市)
京都大学建築学教室本館(1922年、京都市)
春陽堂本社屋(1924年、京都市)
京都市役所(東半分1927年、西半分1931年)中野進一と共同
毎日新聞社京都支局(1928年、京都市)
京大人文科学研究所東洋学文献センター(旧東方文化学院京都研究所)(1930年、京都市)
同志社女子大学栄光館(1932年、京都市)
藤山雷太邸(1932年、東京都)【これが戦後、名古屋龍興寺に移築される】
などがある。
A 武田五一 その2
武田五一の作品として名古屋に残されているのは、次の3点である。
1 故春田鉄次郎邸 大正14年(1925)竣工。主税町3
春田鉄次郎は明治初年(1868)多治見に生まれ、陶磁器貿易商として成功した。明治26年(1893)に は中国、明治36年(1903)にはアメリカに渡り販路を拡大し、太洋商工株式会社を設立した。この屋敷 は、春田鉄次郎が武田五一に依頼して造った住宅と言われている(武田五一の設計ではないとする説も ある)。手前に洋館、中庭をはさんだ奥に和館を配した構成。戦後、昭和22年(1947)から昭和26年 (1951)まで米軍第五航空隊司令部により一時接収されていた。現在は、邸内の洋館部分は、フランス 料理レストラン「デュポネ」として利用され、和館の方は一般公開されている。
2 春田文化集合住宅 昭和3年(1928)及び昭和7年(1932)の竣工。主税町3
共用の広場を中心にコの字形に建てられた2階建ての連戸建集合住宅。都市住宅の元祖とも言える。現 在も入居者がいて生活しているため部外者の立入は禁止されている。
3 旧藤山雷太邸(龍興寺)昭和区御器所町 昭和7年(1932)竣工。
当時の日本製糖(株)社長藤山雷太が、東京都港区白金台に自邸として建てた2棟の内の和風別館。 昭和51年(1976)子息の藤山愛一郎が自民党総裁選出馬のための軍資金を得るために売却した。ホテ ル建設のために取り壊されるところを名古屋龍興寺の住職渡辺英信師が聞きつけ、購入し移築した。内 部は総欅造り、吊り天井などもある豪華なもの。建物は南西部に観月台を張り出し、周囲に縁側を廻し ているところなど、京都の醍醐寺三宝院書院を模しているといわれる。西には三層の楼閣があり、宝庫 として設計されたため、1・2層は鉄筋コンクリート造で耐火構造となっている。細部に至るまで意匠 が凝らしてあり、日本建築の技術の最高水準を示しているという。(県指定文化財)
旧藤山雷太邸の敷地は現在、都ホテル東京になっている。洋館のインテリアは、ホテルのバーに一部 移設されている。
なお、2年前明治村に芝川又右衛門邸が移築・公開されている。芝川邸は、明治44年(1911)西宮市甲東園に武田五一の設計により建築された和洋折衷の洋館である。芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などと並び称せられた豪商の一人である。又右衛門は明治29年(1896)に果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場とした。現在、甲東園近くを通る阪急今津線(当時は阪神急行電鉄西宝線)は大正10年(1921)に開通していたが、当時甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供した。この土地一万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといえる。

武田五一

故春田鉄次郎邸

春田文化住宅

旧藤山雷太邸(龍興寺)

京都市役所

同志社女子大学栄光館

明治村 芝川又右衛門邸

明治村 芝川又右衛門邸