16 日本とタイの友好・・・釈迦真骨、日泰寺奉安殿、チュラーロンコーン大王の銅像、加藤商会ビル
@ 日泰寺 釈迦のご真骨
日泰寺は、日本とタイの友好の寺だから日−タイ寺である。もとは、日本と暹羅(シャム)の友好の寺として日暹寺(にっせんじ)といった。釈迦の御真骨(仏舎利)が日本でただ1ヵ所奉られている寺である。また、日本で唯一の全宗派の共同運営になる仏教寺院でもある。
1898年、英国人考古学者ウィリアム・ペッペが、ネパールに程近いインド北部ピプラーワーの古墳発掘作業中に、西暦紀元前3世紀頃の古代文字が刻み込まれた骨壷を発見した。その壷を採取、文字を解読したところ、中に納められた人骨は釈迦の骨(仏舎利)であることが判明した。そこには、「この世尊なる仏陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置し奉るものである」ということが記されており、つまりは釈迦の実在が立証され、この発見はアジアにおける一大発見となった。
当時インドを治めていた英国政府は、シャム王国(今日のタイ王国)が唯一の独立国家としての仏教国であったため、シャム国王が当時世界で唯一仏教を守る人物であると判断し、この仏舎利をチュラーロンコーン国王に寄贈した。シャム国王はバンコクのワットサケート寺のプーカオ・トーン(黄金の丘)の仏塔に安置した。ご遺骨がシャム国王からビルマ(ミャンマー)やセイロン(スリランカ)に分与されたとき、日本の稲垣満次郎シャム公使が、日本の仏教徒に対してもその一部を頒与せられんことをシャム国王に懇願した結果、「シャム国王より日本国民への贈り物」とする決定がなされた。
これに対し日本の仏教13宗56派の管長は協議の上、使節団を派遣することにした。明治33年(1900)バンコク王宮にて国王から御真骨を拝受し、帰国後仏骨奉安の寺院を超宗派で建立する約束をしたところ、完成時のご本尊にとシャム国宝の1000年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。その後日本国内では、候補地を巡り意見が分かれ、調整に難渋したが、名古屋の官民一致の誘致運動が功を奏し、名古屋に新寺院の建立が決まった。全市上げての協力により10万坪の土地を用意し、明治37年(1904)釈尊を表す「覚王」を山号とし、日本と暹羅(シャム)の友好を象徴するに日暹寺の寺号をもった覚王山日暹寺が誕生した。昭和7年(1932)シャムからタイへと国名が変更されるにともない、昭和16年(1941)「日暹寺」も「日泰寺」へと改称された。
釈尊御真骨を安置する奉安塔は、アジア建築に詳しい東京大学伊東忠太教授の設計により大正7年(1918)に完成した。三段の基壇の上に鐘を伏せた形の塔身がのる奉安塔は、伊東教授の代表作となり、後々日本国内で壮麗な仏教建築と賛辞を受けることになる。この寺院は成立の性格上日本仏教徒全体の寺院であり、いずれの宗派にも属しない寺院であって、その運営は現在19宗派の管長が3年交代で住職をつとめている。日本で唯一の全仏教寺院として特異な存在である。
昭和62年(1987)、本堂前にチュラーロンコーン大王の銅像が建立された。10月23日は、チュラーロンコーン大王記念日であり、毎年、タイ大使館職員と在日タイ人が献花をする。

日泰寺奉安殿入口

日泰寺奉安殿

日泰寺

チュラーロンコーン大王像