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伊藤圭介の弟子 柳河春三(やながわしゅんさん)
名古屋東照宮の一筋南、旧茶屋町のビルの側壁前に「柳河春三出生地」の案内表示が建てられている。
柳河春三(やながわしゅんさん)は、慶応3年(1867)わが国最初の雑誌である『西洋雑誌』を発刊し、翌慶応4年(1868)日本人による最初の新聞である『中外新聞』を発行したことで知られている。
春三は、天保3年(1832)名古屋茶屋町に生まれた。幼名は、栗木辰助(しんすけ)。西村家に入り、西村良三と改名。『金鱗九十九之塵』の御園片町の条に「書 天保五年、三歳ノ児童 知多屋武兵衛ノ倅 栗木辰助。 此ノ小児ハ、学バズシテ能ク書キ、習ズシテ能ク書ヲ読ム。奇異ノ童児ナリ」と記され、わずか3歳で書を能くし、藩主の面前で揮毫したというような数々の言い伝えが生みだされた。
やがて、隣町の呉服町に住む伊藤圭介宅に寄寓するようになり、蘭学を学ぶことになる。わずか10歳で蘭語を習得し、伊藤圭介の『洋学篇』を校訂している。12歳の時には西洋砲術の書を著し、19歳の時には、伊藤圭介の弟子で尾張藩の銃陣師範役であった藩士上田仲敏のために『西洋砲術便覧』を著し、すでに一家をなした仲敏に洋砲の必要を解いて開眼せしめたという。
安政3年(1856)禁止されていた蘭書所持の疑いで江戸に召喚されたのち、長崎へ遊学した。1年あまりで江戸に帰り、江戸での生活を始める。名も「柳河春三」と改め、洋学での異才を発揮し始める。『洋学指針蘭学部』や『英和対訳袖珍辞書』などの語学に関するものや、『洋算用法』という初めての西洋式数学の入門書などを著した。
その才能を認められ、紀州藩に医師及び翻訳方として招聘されるが、元治元年(1864)には、幕府に招聘され「開成所教授職」となり、慶応4年(1868)には頭取(代表)に就任している。
明治政府においては、「開成学校翻訳校正係」、「学校制度取調係」、「大学少博士」、「大学校出仕翻訳督務」と次々と職務を与えられるが、明治3年(1870)わずか39歳の若さで肺結核で急死した。
西洋文化の紹介は、福沢諭吉の『明六雑誌』に始まるという通念を抱いていたが、それ以前に柳河春三が猛烈な勢いで西洋文化の紹介を行っていたことがわかった。
春三の異才ぶりは飛び抜けている。漢学・蘭学・英語・仏語に通じ、国学・和歌にも造詣が深く、分野も医学から兵学・数学・博物学等々、ありとあらゆる分野に及んでいる。膨大な著作・訳著の中には、たとえば『写真鏡図説』のようにカメラの原理を説いたものや、『西洋将棋指南』のようにチェスのルールを説いたものもある。『西洋時計便覧』などという書も著している。いずれも日本で初めての紹介がなされた分野である。

旧茶屋町の出生地跡

案内表示

柳河春三 肖像写真

中外新聞