『伊勢神宮 魅惑の日本建築』
井上章一 講談社 2009年5月
『ノースライト』に登場するブルーノ・タウトのエピソードで、半年前に読んだこの本を思い出した。本文が500頁を超え、(注)だけでも30頁に引用文献がびっしりと書かれた悩ましい本だが、結果面白い本であった。
「伊勢神宮」という本体には触らずに、その周りをぐるぐると回っていて、なかなか核心には到達しない。江戸時代の千木、勝男木論に始まり、明治以後の伊東忠太ら建築史の大御所たちの論考の虚構性を暴いていく。
井上は言う。
「学者や文人が神宮に立ち向かい、何かを語ろうとしたが、その語り口は時代の流れにけっこう左右されてきた。神宮へ肉薄しようと思っても、自分の生きている時代があてがう色眼鏡で、なかなかそれが果たせない。こういう時代の縛りからときはなたれる手立ては、どこかにないものか。結局、出来ることは一つしかない。時代が論じ手を躍らせてしまう、そのからくりを突き止める。われわれは、何によってどう目を曇らされてきたのかを見極める。そこにしか時代が拵える枠組みから抜け出すきっかけはつかめない」と。
伊勢神宮は社殿を20年ごとに建て替えてきた。そんな営みを1000年以上も続けてきた。神宮の社殿は、棟持柱を伴う高床建築となっている。この形式の造りは神宮と神宮を手本とした神社だけである。従ってこれを唯一神明造と呼んでいる。その歴史があるために、神宮は日本的な建築様式をとどめていると言われてきた。
しかし、海外へ目を向ければこの形式の建物はたくさんあり、インドネシアでは、ごくありふれた民族建築の一形式であり、神宮の形式が日本的だというのは、けっこう疑わしいという考古学や民族学の成果が明らかになっている。伊勢神宮の本殿形式の起源は、謎のままである。
神宮で式年遷宮の決まりができたのは7世紀後半、つまり8世紀以前の神宮像が探れる決定的な資料は一つもない、と井上は断言する。
圧巻はやはり最終章の「池上曽根の光と影」であろう。和泉市の池上町から泉大津市の曽根町におよぶ「池上曽根遺跡」から、弥生時代に営まれた巨大な神殿の跡が発見された。ここに列をなす柱の跡が発見され、2通りの「復元案」が提案される。この復元案を巡って、一つは宮本長次郎の案、もう一つは浅川滋男の案である。復元されたのはインドネシアで見かける船形屋根の民族建築をほうふつさせる浅川案であった。
丁々発止のこのバトルは面白い。「いずれにせよ、池上曽根の建物は、もうすこしこぢんまりしていたようである。案外、浅川が最初に言っていた、四面開放の平屋だったのかもしれない」と、井上は言う。
復元された池上曽根の大型建物
