鍋屋町商店街を東進し、19号線の代官町交差点を渡ると南側に中京銀行代官町支店がある。その職員通用口の前に、鉄柵に囲まれた石碑が建っている。これが昭和9年に建てられた「子爵田中不二麿生誕地」の碑である。
田中不二麿は、弘化2年(1845)に、この地に尾張藩士の子として生まれ、長じて田宮如雲・丹羽賢らと共に尾張藩の金鉄組に加わって勤王を唱え、藩内の佐幕派を抑えて藩論を討幕の方向に進めた一人であった。
慶応3年(1867)の王政復古の際には、大久保利通らとともに参与に選ばれ、明治元年(1868)には徴士、明治4年(1871)に文部大丞となり、明治維新の新政府の一角を担った。
明治4年(1871)から明治6年(1873)にかけて岩倉具視特命全権大使一行に加わって、欧米の教育事情を調査した。その報告書が『理事功程』15巻である。
明治7年(1874)には文部大輔に任ぜられ、明治10年(1877)、アメリカの教育制度を実地調査し、『米国学校法』を文部省から刊行した。文部省の教育顧問・学監であったアメリカ人マレーは、『学監考案日本教育法』を田中に提出した。これが明治12年(1879)の「教育令」の重要資料となった。同年、それまでのフランスに範をとった「学制」に代わり、田中が中心となってまとめた「教育令」が公布された。
しかし、その内容が、アメリカの地方主体の自由主義教育を基調としたものであったため、元田永孚らの非難をうけた。元田永孚は、後年「教育勅語」を起草する人物である。
翌、明治13年(1880)には、教育の国家統制を強調した「改正教育令」が出され、方針が転換された。教育制度は、その後、明治19年(1886)、ドイツにならった「学校令」が出され、国家主義的方向を明確にする。
田中は、文部大輔から司法卿に転じ、明治17年(1884)には、イタリア公使、明治23年(1890)にフランス公使を経て枢密顧問官となる。翌、明治24年(1891)には司法大臣として第一次松方内閣に参画するなど、教育・司法界に多くの実績を残した。明治42年(1909)、65歳で没している。
ちなみに不二麿の孫で経済地理学者田中薫の妻、千代は、「田中千代服装学院」の創立者である。千代は、第一次世界大戦のパリ講和会議全権で清浦奎吾内閣の外務大臣を勤めた外交官松井慶四郎の長女である。

中京銀行代官町支店前の「子爵田中不二麿生誕地」の石碑。

田中不二麿の肖像写真。