佐屋路岩塚宿の街道すぐ南に茅葺きの屋根が見える。八幡社の本殿を覆っている覆屋である。前にあるのは神楽殿だろうか拝殿だろうか。西隣には光明寺があるが、現在、本殿を改築中であった。街道の側に山門があり、上部は鐘楼になっていた。八幡社の東隣には、岩塚宿本陣があったそうだが、今は何も痕跡がない。
佐屋路を津島街道というように、古くから津島神社への名古屋方面からの参詣道として使われていたようだ。慶長20年(1615)の大阪夏の陣の際には、徳川家康もこの道を利用したというし、三代将軍徳川家光は、寛永3年(1626)の2度目の上洛の折に復路でこの道を使っている。しかし、正式な形で佐屋路が開かれたのは寛永11年(1634)家光が3度目の上洛を果たした時のことである。この時、道は大々的に整備され、佐屋宿には御馳走所として佐屋御殿が設けられたという。当初は万場宿と佐屋宿の2宿だけであり、2年後に岩塚、正保4年(1647)に神守が宿駅となり4宿となった。その後、寛文6年(1666)からは佐屋路は幕府の道中奉行の管轄下に置かれている。ただ庄内川を挟んだ岩塚と万場は一宿の役割となっていて、月の前半は万場宿、後半は岩塚宿が営業し、東海道七里の渡しの脇往還として利用されたのである。

岩塚宿の八幡社

神楽殿?の向こうに本殿

茅葺きの本殿の覆屋

格子戸の中に本殿が垣間見える。

光明寺の山門。本堂は改築中。