これはもうトトロであるな/2008年撮影/
超高速化したグローバル社会では人が働いて世間の役に立っている、なんてことが実感できたり、自分の腕に誇りをもったりできなくなっている(たぶん)。
人はあくまで経済の中の一つの歯車であり、替わりの人はいくらでもいる。
しかし、少し前はだいぶ違っていた。たとえば昔の大工さんの仕事など、どれをとっても子供には驚くような技術ばかりで、目を丸くしてずっとながめていられたもの。一軒の家の土台ができ、柱が立って梁が入りと、たんだん完成していくのを見るのが楽しみだった。
ところがいまはパソコンで設計し、その材料を機械が設計図通りに切り刻み、現場でパンパンと組み立てるだけ。大げさに言えばそうなる。
カンナやノミを使いこなせるようになるには10年も20年も修行が必要だが、いまはそんなものを使う場面もほとんどないのだろう。
また、建材はみな細く直線で、太く曲がって切り出した元の木が想像できるような梁などもうどこにもない。
合板が多いし、ひょっとして木材が山の木を切り出して作られているのさえ知らない子供がいるかもしれない。
こんな構図が隅々まで行き渡っているのがいまの社会だ。
昔の年寄りはどんな仕事にも長年積み上げた芸のような技を持っている人が居たが、それがどんどん減ってゆき、平坦でのっぺらぼうな世の中になっている。
年寄りはただ老人と呼ばれる存在に成り下がったか。
しかし人は本来唯一無二の存在。子供の頃より誰にも何かしら取り柄があり、そこを伸ばしていけば誰だってそのうち他人に真似できない手品のような技術が身につく、はずだった。たとえ技術がなくともあらゆるものに習熟することができたのだ。
それが、機械が故障すれば直すより新しく買った方が安いし、電子機器などすぐ新しい商品が出て古くなり、愛着すらもてないようなことになってきた。
10年ためた技術や知恵が活きなくなってしまったのだ。
こんな世界がいつまでも続くはずないと思いたいが、生きる自信をなくす人もどんどん増えてきそう。
だけど先日、宮崎駿監督が引退会見で「この世は生きるに値すると」と子供達に伝えたくて長編アニメを描いてきた、というようなことを語っていた。
この世は果たして生きるに値するだろうか。
私は宮崎作品をほとんど見ているが、その自然描写の確かさに驚かされる。
「となりのトトロ」主人公の5歳少女メイ家族が田舎の一軒家へクルマで引っ越してきたあたりの気持ちよい風や自然とふれあう場面、すばらしかった。
自分の体験とすべて重なり、細部にも違和感がまったくなかった。自然の中でそこかしこに命の輝きを感じながら頬に当たる気持ちよい風がある。それだけでも生きていたいと私には思える。
それに、トトロである。
私はニホンリスが初めて間近で、10分、20分と自由にクワの実を食べるのを見たとき、「あ〜、これはトトロの世界だ〜、ホントにあるんだ」としみじみ思った。
常に忙しく、何をするにも目的をもって動く大人にトトロは見えないが、無心でいつもキョロキョロ面白いものを探す子供や、桑の木の下に簡易ベッドを広げて、昼寝するような大人には見えるのだ。
樹洞の前に立ったとき、にょきっと大きな顔を出したフクロウもそうだった。
あれも面白い顔しているしトトロだな〜。
これら野生動物を自然の中で見たときの感動は人間社会で決して味わえない特別なもの。その一瞬で人の野生を呼び覚まし、その存在、とりまく宇宙を了解させるもの。そこにはトトロが生きていかれるだけの豊かな自然があり、人も野生の一部だと強く実感できるのだ。
この野生、宇宙の感動を子供の頃にたくさん味わうと、大人になり心がくじけそうなときでもどこかしらからトトロの声が聞こえてきたりするのかも。
まあ少なくとも、そんな人は川をコンクリート3面張りにしたり、原発を造ったり、370キロの防潮堤に賛成したりはしないだろう。
私はこの子供の足で遊べる範囲、遊んだ場所が人々の故郷であり、風土だろうと考えている。
そんで、このグローバルの嵐で痛んでしまった風土を少しずつでも再生、再構築することで、世の中もう少し生きるに値するようになるだろうと思っている。
370キロの防潮堤がグローバルの嵐で、防潮堤を一部を中止させた「森は海の恋人運動」が風土の再生、ってところだろう。
つづく
今日はこれから林道へ行ってみよう。
★船情報
昨日船は無事ホーム港へ戻ってきた。そんで、気になっていた発電力が弱いダイナモの一つを修理へ出しているところ。
バッテリーは4つあり、2つ一組で24Vを出していて、一組がエンジン専用で、もう一組が他すべての電源。ダイナモ2つでそれぞれ充電するようにしている。

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